かつて、グウェンダルは士官学校の教官にこのような指導を受けた。

 

『背中に傷を受けるは武人の恥、怯懦(きょうだ)の印だ』

 

 当時、まだ幼かったグウェンダルはその言葉を額面通り信じ、教官の語る武人像に熱く血を沸かせたものであった。

 

 しかし…後日成長して《戦(いくさ)》ではなく、《戦争》の現実をまざまざと見せつけられたのは、戦場から帰還してきた弟の姿だった。

 

 全身に惨(むご)い傷を刻まれた身体が看護兵の手で露わになると、ろくな治癒者も…消毒薬にさえ事欠く状況であったことを伺わせるように、包帯と癒着した傷口は膿み、湯に浸して包帯をほどいていけば…傷口からは膿混じりのどろりとしたリンパ液が零れていった。

 

 そんな身体の中で無論、背中だけ無傷でいられるはずもなく…大きな刀傷が斜めに走り、斬られたというより切れ味の鈍い大剣で抉られたと思しき脇腹の傷からは、腸の一部がまだ覗いていた。戦場でも一度縫ったらしいのだが、あり合わせの裁縫道具で縫ったせいで綿糸が腐食してしまったらしい。

 

 だが、誰がこの男を《怯懦》と責めることが出来るだろうか?

 

 この男は…まごうことなき《英雄》だ。

 

 士官学校出の指揮官が殆どいない…混血魔族と敗残兵の集合体であるルッテンベルク師団を率い、己の才覚とカリスマ性によって最後まで兵の統率を失わず、糸のように頼りない戦線の瓦解を防いでシマロンの大軍を打ち破ったのだ。

 

 また、個人としての勲(いさおし)も…この国の続く限り吟遊詩人の喉を震わせ、少年達の頬を紅潮させるものであるだろう。

 折れた愛剣と、脇差しの短剣のみで敵軍の大将に挑み、一騎打ちでその首を落としたのだから…。

 普段は静かに闘志を秘めていたこの男が、ここを最期と定めて己の戒めを解いたとき…一頭の獣と変じたかのような気迫で敵陣に突っ込んでいったのだと…周囲全てを敵兵に包まれながら的確に急所を狙って剣を振るう男に、敵味方の区別なく驚嘆の思いに気押されたと聞いた…。

 

 だが、グウェンダルの胸には悔恨の念ばかりが噴き上がっては呼吸器を締め付けるのだった。

 

 寡兵を率いて大軍を打ち払う…聞こえは良いが、要するにそれは…その程度の兵しか揃えてやらなかった眞魔国本営の残酷な仕打ちと、ルッテンベルク師団の血と肉とが贖って産んだ、歪(いびつ)な戦華なのだ。

 

 そして獅子と呼ばれた男は、《勝利》という果実と引き換えに多くのものを失った。

 

 戦場に散った混血の同胞と…そして、唯一無二の親友であった女性…スザナ・ジュリアの存在である。

 

 静謐(しず)かな病室の中で昏々と眠る弟は、まだ後者の事実を知らない。

 

 彼が目覚めたとき…その事実をどのように受け止めるのか。

 グウェンダルは想像することも出来なかった。

 

 あの日感じた口内の血の味を…グウェンダルは決して忘れることはないだろう。

 

 

第4話 突入



 

 

 グウェンダルは不意に物思いから醒めると、頭を振るって現実に立ち返った。

 視界の中で昔の記憶と重複して見えるのは、彼の弟…コンラート・ウェラーであった。

 主を目の前で奪われ深く傷ついたであろう彼は、顔から感情というものを消し去り静かな瞳で目の前の森を見つめていた。

 一見、ごく普通の森に見えるのだが…魔力をもつグウェンダルにはその境目が歪んでいることが分かる。

 ここが…有利の連れ去られた《天羽國》へと繋がる境界なのだ。

 

 

 エルンストの生み出した幻影の中で、捕虜の有翼人は発狂寸前まで追い込まれながら漸くこの場所のことを自供した。

 だが予想通りと言うべきか…世界の境目には強い結界が張られ、コンラート達は勿論のこと、襲撃してきた男までもを拒絶していた。

 だが、こんな所で足止めを喰らっている場合ではないのだ。

 断片的に語られる有翼人の供述に、風の要素である高柳鋼が顔色を変えたのである。

 

『この連中の噂は聞いたことがある…時折、力のある妖怪や人間を浚っちゃあ国元に拉致するんだとさ。たまに返り討ちにされることもあるんだが、詳しい事情を聞き出される前に自決しちまうんで、詳しい事情を知る奴はいない。だが…これだけは言える』

『この連中に浚われて国元に連れ去られた奴は、遺骸であれ二度と天羽國から出ることはないんだと…』

 

 天羽國…そこで一体何が行われているのか、それについては捕虜の男は知らされていないらしく、どれ程強い呪縛を掛けてもそれ以上情報を得ることは出来なかった。

 

 

「もう、この男が僕たちの手に落ちたことは把握されていると考えるべきだろうね。…となれば、強行突破するほかないわけだけど。突破…出来そうかい?」

「突破します。…するしか、ないでしょう?」 

 村田の問いかけに、有利の配下である四大要素の持ち主達は一様に頷いて陣形を組み始めた。胡蝶も己の力でヨザックを傷つけぬよう、彼の手首から離れ蝶の集合体として術を展開している。

 大地に刻まれるのは、梵字…ラテン語…漢字と種々様々な魔法陣で、彼らの基本要素が全く異質なものであることを伺わせている。

 それを統一して一つの力に融合させ得る者はこの場にはいない。

 よって…彼らは効率が悪いとは知りながらも、互いの要素とぶつかり合いながら強い剪断力を作り出し、この結界を解くほかないのだ。

 コンラートは結界が解かれるその瞬間まで…ここでただ待つほかない。

 

 無力感によって自滅することがないように。

 焦燥により暴走することがないように…。

 

  コンラートは静かに佇んで時を待つ。

 

『ああ…そうか。この横顔が…あの日のコンラートと重なって見えるのだ…』

 

 グウェンダルには…忘れることの出来ない光景がある。

 コンラートが、アルノルドに向けて出立した日に見せた姿だ。

 

*  *  *

 

 かつて眞魔国が陥った…いや、自ら飛び込むようにして始めた戦争の終局図は悲惨なものだった。

 日に日に悪化していく戦況から目を逸らし、如何にして得た情報をねじ曲げるかに腐心するのみの大本営に、グウェンダルは心から絶望していた。

『もうこの国を救うすべはないのか…っ!』

 眞王を除けばこの国の最高権力に座すはずの母は漠然とした不安に震えるだけで、もはや戦争に関する情報を耳に入れることすら拒否していたし、その兄で実質的に権力を掌握していたシュトッフェルは大言造語するのみ…しかも、目を逸らしようのない苦境についてはよりにもよってな言い訳すらしたのだ。

『密告によって作戦が漏れたのだ。誇り高い純血魔族には考えられないことだが…残念ながら我が国は一枚岩というわけではないのでな…』

 作戦本部の…緒将が肩を並べるその場で如何にも残念そうに…美麗な容貌を歪めて語る宰相に対し、やはりコンラートは静謐な表情を崩すことはなかった。

 薄く微笑みすら浮かべて、彼は言った。

『その報告は、どの部隊から為されたものでしょうか?』

『…何?』

 言われた意味を理解し損ねたのだろう…シュトッフェルは呆けたような表情で言葉に詰まってしまった。

『アリアナ高原における包囲網は、5月7日正午づけで配置されたフォンビーレフェルト領第11連隊よって行われていたはずですが…作戦が漏れたという事実は具体的に第11連隊のどの部署で確認されたものでしょうか?また、その記録はこの場にございますか?』

『いや…それは……ランドロール大将が先日の舞踏会の際にそう言っておられたので…。具体的にどの部隊がどうこうというのは…』

『それでは、今この場には報告書はないのですね?』

『まぁ…そう言うことになるが…』

『密告は戦略レベルの設定を全て覆させかねない毒です。その事実があるのならば関わった者達を捕らえるべきですし、解明出来ていないのであれば諜報部が全力を挙げて密告ルートを特定すべきです。少なくとも、調査の進捗状況は逐一大本営で掌握すべきかと思われますが、宰相殿の御意見は如何でしょうか?』

 決して相手を馬鹿にするような響きはないが…淡々と語られる発言の説得力と、対照的に浮き彫りになるシュトッフェルの無能ぶりは見るも明らかであった。

 また…これほど饒舌になったコンラートを、グウェンダルは初めて見たと思う。

 それだけ腹に据えかねたと言うことなのだろうが、この発言によってシュトッフェルの受けた屈辱感は計り知れないものであったらしい。

  その日の内に、コンラートには指令が下された。

 

『ルッテンベルク師団を率いてアルノルドへ立ち、シマロンの攻勢を防げ』

 

 それは…戦況を正確に把握している者にとっては《死ね》と言っているのと同意の指令だと、グウェンダルは臓腑が煮え立つような怒りと共に罵声をあげ掛けた。

 しかし…コンラートは応えたのだ。

 

『拝命、仕(つかまつ)る』

 

 その時、グウェンダルはとうとうコンラートが自暴自棄に陥ったのだと確信して愕然としたものだった。

 

  だが…出立するその日、混血の魔族で構成されたルッテンベルク師団の戦意は決して低くはなく、整然と旅装を固めていた。

 そこに、自暴自棄だの暴走だのといった雰囲気を見いだすことは出来なかった。

 勿論、アルノルド行きを受諾した隊長への恨みなど微塵も存在しない。

 彼らのなかには歴戦の勇者と呼べる者も幾人かはいたが、その殆どがつい先日までただの農夫であった者…やくざ崩れの日当暮らしの者など、決して戦慣れした男だけではなかった。

 

 だが…彼らがコンラートに向ける眼差しのなんと真っ直だったことか…!

 

 彼の選択によって何が自分に待ち受けているのか十分に分かっているにも関わらず、その瞳は決して絶望などしていなかった。

 数日の後に死ぬことになるのだとしても…その死は決して無駄にならないことを知っている目だった。

 この戦況の中で、どれだけの兵がこれほどの戦意を維持していることだろうか?

 驚嘆の思いで見つめるグウェンダルの前に、簡素な武装に身を包んだコンラートが現れたとき…彼らの瞳の意味を理解したのだ。

 静謐な佇まいと、毅然と前を見据える力強い瞳…。

 コンラート・ウェラーは、決して諦めてなどいなかった。

 混血と蔑まれ、侮蔑を受け続けた男は決して誇りを枉(ま)げることなく…玉砕という死の賛美に取り込まれることもなく…勝算をもって、戦いの地に赴くのだ。

 

『ああ、お前だから…お前が、《行く》と言ったから…彼らはついて行くんだな』

 

 そうとしか表現の出来ない思いが、すとん…と胸に落ちてくる。

『行ってくるよ』

 《近所の森にピクニックに行くんだ》と言われても納得してしまいそうなほど、その声にも態度にも…気負いはなく、流れるような自然体でコンラートは戦場に向かった。 

 

*  *  *

 

 しかし…アルノルドでの奇蹟の大勝によって息を吹き返した眞魔国がなんとか戦況を安定させた時、コンラートは全ての希望を打ち砕かれたかのように見えた。

 

『隊長は、アルノルドで死んでた方が幸せだったのかも知れませんや…』

 勧められた酒杯を水のように煽りながら、ヨザックは伸びきってくすんだ髪を掻き上げた。

 奇跡的に致命傷を逃れた彼は、戦場から半ば死体になりかけていたコンラートを救った《張本人》であった。

 だが…死の淵から蘇り、スザナ・ジュリアの死を知ったコンラートは眞王廟に呼ばれ、そこで何を聞いたのだろうか?その日以降…彼は全ての事象に絶望していた。

 コンラートの心が闇に取り込まれてしまったのだと認識した時、ヨザックは深い悔恨に責められた。

『あれじゃ…生きたまま死んでるようなもんだ。全く…あんな大苦労して助けてやったってのにさ…』

 笑おうとした口端が歪んだまま…次の言葉を紡げずに酒杯に寄せられると、勢いよく喉が逸らされた。

 そして吐露されたのは、絞り出すような苦鳴だった。

『あんな目をした隊長なんて…俺ぁ…絶対に見たくなんかなかった…っ!』

 飄々とした生き方を旨とする男の、はじめてみせる涙混じりの述懐に…グウェンダルは言葉を返すことが出来なかった。

 あんな荒んだ目をした男が、新たな喜びを見いだす日など決してこないと思われたからだ。

『だがよ…なんだってあいつはあんなに傷ついちまったんだ?俺達が殆ど生きて帰れない事なんて、あいつにゃ最初から分かってたはずだ。それが何で…』

『やはり…スザナ・ジュリアの死が…』

『いや、閣下…みんなそう言ってるがね、俺は知ってるんだよ。あいつは確かにスザナ・ジュリアの死を知った時、酷い衝撃を受けて放心状態になった。だがね…だが、戦地でのあいつはその死を受け止めていた筈なんだよ。あいつがおかしくなったのは、眞王廟に呼ばれてからさ。あいつは…何か、知っちゃいけないことを知っちまったんじゃないのか?』

 問われても、グウェンダルには答えることが出来なかった。

 確かにある程度傷が癒えた段階で、コンラートが眞王廟に呼ばれたことは知っている。

 だが、情勢の変化に合わせて激務の中にあったグウェンダルが弟の様子を見ることが出来たのは、彼が意識を失って病床にあったときと、眞王廟に行った後…虚ろな眼差しで生気を失った状態の時であり、その間には言葉を交わすことが出来なかった。

 その間に一体何があったのか…今になっても彼ら兄弟がそのことについて語り合ったことはない。

 コンラートはただ曖昧に微笑むだけで、いつもグウェンダルをはぐらかしていたのだ。

 だから、グウェンダルが知っていることはただ一つだけ…。

 彼が、何らかの理由でひとたび人生を棄てたものの…やはり、何らかの理由によって、再び生きる意欲を取り戻した…という事実のみである。  

 

*  *  *

 

 二つの表情が…二対の瞳が、グウェンダルの脳裏に浮かび上がる。

 そして今…結界に向けられるコンラートの瞳は…。

 アルノルドに向かった時と、同じ瞳だった。

 勝算を持つ、瞳だ。

 魔力を持たぬ身でありながら、コンラートは魔力のもつ特性やその限界、活用の方法などを把握する術(すべ)に長けている。卓越した観察力と、理解力のなせる技であろう。

 おそらく…今こうして佇んでいる間にも四大要素の力がどのように作用するのかを見極め、突破口を開くべく思索しているに違いない。

 

 ウェラー卿コンラートとは…そういう男なのだ。

 

 その認識が肉親の贔屓目などではないというこは、間もなく明らかになった。

「あの榎の南側の大枝と、楠の幹が重なる辺り…あの辺を掠めたときに反応があった。特に、火の要素に対する反応が強かった。四つの要素総当たりではなく、火と風で…なるべくこの二つの要素を一点に集中して、可能な限り持続して攻撃してくれ。それから…タカヤナギとシラヌイ、君達は俺とヨザックの脇に待機して、結界が解けると同時に俺達を乗せて突入してくれ」

「おうさっ!!」

「了解しました!」

 本来は個性が強く、誓いを立てた相手である有利以外の命令は聞かないはずの妖怪達が、極々当然のようにコンラートの指示に従っていることに、おそらく当人も気が付いてはいないだろう。

 この男は、自然体でこういう癖のある戦力を使いこなしてしまうのだ。

「ぉぉぉぉおっっっっっっっ!!」

「はぁぁぁぁぁっっっっっっ!!」

 凄まじい突風が木々を折らんばかりに拉(ひし)ぐが、その動きは先程までの旋回するようなものではなく、指示されたとおりに制御されて一点に向かって集中線の形で吹き付け…鮮やかな火焔は風によって勢いを更に増しつつ、その一点に叩きつけられる。

「く……ぅ………っ!!」

 二つの要素の力が絡み合い…坩堝(るつぼ)の中で溶ける鉄のような眩い光を放ったかと思うと、中空に微かな裂隙が生じた。

「行こう」

 コンラートはぽんっと高柳の背を叩くと、膝をつく形で背に乗る。完全に跨ってしまわないのは、情報を持たない結界の向こう側で何があっても咄嗟に対応出来るようにしているのだろう。

 いざとなったら、恨みつらみのあるこの狼を足蹴にして別の足場に飛ぶつもりかも知れないが…。

「行ってくるよ、グウェン。後のことを…頼む」

 振り向きもせず、聞きようによっては遺言のような発言を残して旅立とうとする弟に、グウェンダルは眉根を寄せた。

 見る間に収斂していく裂隙に向けて跳躍する高柳と不知火にはコンラートとヨザックが乗り、何が起こるか分からない敵陣へとその身を投じていき、活火山の噴火口から溢れるような光が彼らの姿を飲み込んでいく…。

 その様が哀しくなるくらい過去の情景と酷似していて…グウェンダルは強く唇を噛むと、若い白狼族の首根っこにしがみついた。

「…くそっ!…おい、奴らを追いかけてくれっ!」

「へい!?」

 白狼族の銀は多少動揺したものの、若頭である高柳を信奉しているせいもあり、こっくりと頷くとグウェンダルを背に乗せて勢いよく飛び上がった。

 そして、もう閉じかけている裂け目に身体をねじ込むようにして突入していったのだった。

『私は…もう、二度とあんな想いをするのは御免被るっ!』

 グウェンダルの体腔内では嵐の如き衝動が渦巻いていた。

 死地に向かう弟に何の助力も出来ず、傷つき…絶望した弟を励ますことも出来ず、ただ傍観するだけの時間を、二度と味わいたくはないのだ。

 その想いは、国政を担う宰相としての立場を一時忘れさせた。

「フォンヴォルテール卿!?」

 流石の村田も、この事態は予測していなかったらしい。

 見てくれほどには冷静でない、実は激情家の血を持つ男だとは思っていたが…グウェンダルは常にその性質に戒めを掛け、決して暴走しないように心がけていた。そうしなければ、フォンヴォルテール卿グウェンダルというアイデンティティーを保てないからだ。

 だが…どうしたものか、この度の彼はその一線を踏み越えるつもりでいるらしい。

 それは、多分に彼の主の影響によるものが多分にあるであろう。

「ふぅん…さてはて、これが吉と出るか凶と出るか…」

 村田は茶化すように喉奥で笑おうとして失敗した。

 さしもの腹黒大賢者も、この状況を笑い飛ばすほどには一個体としての熟成が完了していないのである。 

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