第3話 囚われの王 鼻腔を刺激する異臭と…ごつごつと肌を刺す土塊の感触。 有利に起床を余儀なくさせたのは、無骨で不愉快な感覚であった。 「ん…ぅ……」 身体の節々が強張り、身じろいだ身体は何かぬめっとしたもので接触した人物と擦れ合う。 『嫌だな…臭い……』 濡れた獣のような匂いが気になり出すと、身体は怠いのだが…とても眠り続けることなど出来なかった。 重い瞼をこじ開けるようにして視界を拡げれば、ぼんやりと…横たわる人の影が見えた。 『なんだ…こりゃ……?』 暮れきった屋外にいるらしく、月明かり以外に光源のない状況では隅々まで見て取ることは出来ないものの…次第に目が慣れてくると大体の概要は掴めた。 倒れているのは見知らぬ男…それも、背中から翼を生やした男だ。 身に纏っているのは硬い素材の薄墨色の衣服で、随分と着古した物らしく摩耗し…疵が幾つも付いている。 そして嫌でも目に入ってくるのは…真新しい刀傷であった。 『あ……っ!』 どう…っと、有利の記憶が蘇ってくる。 この男は…コンラートに斬られた男。 そして…コンラートを……… …斬った男だ。 目の奥が炸裂するような熱を持ち、全身がわなわなと震え出す。 込み上げる憤りと恐怖に、有利の指は知らず大地を掻きむしり…爪の先に小さな砂粒が食い込んできた。 コンラートは有利を取り戻そうと、空を駆けるように助けに来てくれたのに…この男に手首を傷つけられ、そして連れの男を斬り伏せた反動によって…不自然な形で落下した。 『コンラッド…コンラッド……っ!!』 結膜が引きつるように乾いて、切迫した有利の想いを反映する。 しかし…涙は出ない。 コンラートの無事が確認出来るまでは…有利は泣くことも出来ないのだろう。 素直すぎる有利の身体は、もう…コンラート無しでは正常な生体反応を保つことも出来ないのだ。 『こいつが…こいつがコンラッドを…っ!!』 右の翼の付け根から背中にかけてをざっくりと斬られた男は、血糊にまみれて苦悶の表情を浮かべたままぴくりともしない。 その様子を見て最初に頭に浮かんだのは、 《憎い》 という言葉だった。 憎い…憎い…憎い…… ぐらぐらと腹の底から…頭の芯から…煮え立つように明確な憎悪が噴き上がって、目の前の男に叩きつけられる。 無意識のうちに、有利の手は枯れ枝を掴み…そのささくれ立って鋭い断端を男に向けていた。 形のないぐちゃぐちゃな肉片に変じるまで、この男を叩きのめしてやりたい。 随分と腕が立つようだったが、有利が動いても反応がないところから見ると今のところ完全に意識を手放しているようだ。 今なら…有利の細腕でも相当なダメージを与えることが出来るだろう。 枝を握る掌に力が籠もり、沸き上がる怒りによって顔面が蒼白になり…ついで、反射的に紅潮する。 震える腕を振り上げ…勢いよく、振り下ろす。 しかし…ダンッ!と激しい打撃音を立てて打ち付けた先は、男の脇の大地だった。 し損じたわけではない。 男に当たる直前、有利は意識的に軌道を変えてしまったのだ。 「くそ…くそぉ…っ……なんでだよ……っ」 憎くて堪らないはずの…憎んで然るべき男だというのに、有利には意識のない男を撲(ぶ)つことが出来なかった。 眉間に穿(うが)たれた苦悶を示す皺や、傷口から溢れ出して大地を汚す体液を何とかしてやらなくてはいけないなんて…何故思わなくてはならないのか。 「馬鹿だ…俺は……大馬鹿だ…っ!」 こんな男の傷を治したりしたら、そのまま連れ去られてしまう。 大きな傷を受けて尚、有利を連れて飛んだ男だ。きっと、凄まじい精神力と体力の持ち主であるに違いない。 鬩(せめ)ぎ合う葛藤に心身を引き裂かれながらどれ程の時間をそうしていただろう…疲れ切った有利の口から、ほろりと言葉が零れた。 「………せめて…逃げよう」 溜息と共に吐き出された選択枝は、折衷案として何とか首肯できるものであった。 とどめを刺すことが出来ないのなら、せめてそうすべきだ。 「でも…ここ、どこだろ?」 辺りを見回しても一体ここが何処なのか推し量ることは出来なかったが、風にざわめく木々はうっそうと生い茂り、かなり深い森…それも、高い山の中なのではないかと思われる。 腕時計の指し示す時刻は夜9時12分。 とっぷりと暮れたこの頃合いに山間部を歩いている者など居るはずもないが、自然の多いこの地であれば、呼びかければどの要素でも有利に応えてくれるだろう。 迎えを呼んで、助けて貰うことも出来る。 どう見ても人間ではない…何らかの妖怪のようなこの男も、この身体で飛んで有利を運ぶくらいだから、不思議な妖術によって瞬間的に時空を越えるような芸当は出来ないようだ。 「…あんたはこのまま転がってろよ?…せめて、これ掛けといてやるから」 ぶつぶつ言いながら袖無しダウンジャケットを脱ぎ、横たわる男に掛けてやると…指先に、男の肌が触れた。 その肌は冷たく…生きている徴候を感じさせないほど動きが無かった。 どき…っと胸の中で鼓動が跳ね、無意識のうちに頚動脈の拍動を確認すれば、それはあまりにも弱々しい感触で…唇も爪も紫色に変じている。 明らかに、失血によるショック状態に陥っているようだった。 このまま11月の山中に放置することは、この男に死を促すということと同意であった。 「別に…良いじゃないか……」 懸命に…有利は笑顔を作ろうとし、笑い声を上げようとした。 だって、この男はコンラートを傷つけたのだ。 そもそも、暴力的な手段でもって有利を拉致した犯罪者なのだ。 同情の余地など、欠片ほども存在するはずがなかった。 なのに…どうして有利の脚は動けないのか…。 震える手は、どうして男の肌に触れてしまうのか…。 どうして…目の前で生在る者がその命の灯を消してしまうことが…こんなにも怖いのか。 こんな男を救うなど…コンラートに対する裏切り行為に他ならないではないか。 こんなことだから…グウェンダルにも王として認めて貰えないのだ。 お人好しで可愛い…あくまで《面倒を見てやらなければならない》お人形として、王座に据えていて貰うことしかできないのだ。 きっと今、無様に懊悩する姿を見たりすれば、 『これだから俺がいないと…』 …とでも、嘆息されるに違いない。
血を吐くような叫びをあげて…それでも有利は、男に治癒を施してしまった。 「…畜生っ!血だけ止めたら…絶対もう放っておくんだからなっ!!」 眉間に精神を集中させ、罵声のような呼びかけを行いながら男の手を取り…回復を促した。 血小板などの凝集素を活性化させ、断ち切れた末梢神経の軸索を繋ぎ、毛細血管を張り巡らせていくと、次第に男の傷口にはピンク色の肉芽組織がもこもこと浮き立ち、完全な組織まで再生したわけではないようだが、少なくとも出血は止まった。 ほ…と、ついつい本気で安堵して…有利は男の手を離した。 しかし…その手は荒々しく引き寄せられ、有利は勢いよく大地に叩きつけられると後ろ手に拘束されてしまった。 「痛…っ」 「大人しくしていろ…っ!」 何処か癖のあるトーンではあるが、一応は日本語の体裁を持つ言葉が男の口から吐かれる。 『やっぱ…俺って……アホだ……っ』 悔しくて悔しくて…精一杯の力で暴れれば、後ろ手に捕まった肩が悲鳴を上げる。 「止めろ…」 「ぁ……く……っ」 ぎりりと肩関節を締め上げられれば、完全に動きはロックされ…物理的に動くこと自体が不可能になってしまう。 「畜生…っ」 悔しくて堪らないのに…涙は出ない。 だが、いまはそのことに感謝さえしていた。 こんな男になど、決して涙なんか見せたくはない。 観念したように抵抗を止めると、やっと男の拘束が解ける。 男は何故か困惑したような表情を浮かべて、項垂れた有利の肩を乱暴に掴んだ。 「…っ」 「痛む…か?」 当たり前だ。 あれだけ暴力的に技を掛けておいて、どの口がそれを言うか。 「痛いよっ!肩はずれたらどーしてくれんだよっ!大体、あんた何者なわけ?なんで俺を浚うんだよっ!」 「それは…俺が説明することではない。俺は、陛下のご命令に従うまでだ」 「陛下って誰だよ!何処の王様だコンチクショー!!」 威勢良く罵声をあげる有利の様子に、男は困惑したように呟いた。 「………顔に似合わず、随分とガラの悪い乙女だな」 「………………誰が……なんだって?」 「お前だ。《迦陵頻伽の乙女》よ」 「はぁ?かりょーびんが?オトメ?へぁ??……俺が、女に見えるってのか!?」 無理に身体を捻って後背を向き、状況も忘れて激高すると…男はえらく狼狽えたような表情を浮かべた。 顔色が幾らか回復したその表は、荒削りだが…造作の整った精悍な顔立ちをしている。 乱雑に刈った鳶色の頭髪は猛禽類の鶏冠のようにも見え、高い鼻梁もその印象を際だたせる。身長はコンラートよりも低いだろうが、隆とした筋肉の盛り上がりはヨザックと良い勝負か。 浅黒い肌に映える炯々(けいけい)とした眼差しが今は何処か困惑して、つぃ…と細められる。 「………………男は男だろうな……辛うじて」 「辛うじてってなんだっ!なんでそんなギリギリラインなんだよっ!?全然セーフだろ?目一杯安全圏だろっ!!」 有利がじたばたと藻掻きながら怒りを露わにすると、男は益々目を見開いて…驚きに動揺しているようだった。 「……乙女というのは役割の呼称なのだ…麗しければ必ずしも女である必要はない。…が、いつもはもっと大人しくて…楚々とした者が選ばれるのだが……。その点はまぁ、少々不思議な感があるな…………」 「じゃあ人選ミスだって!俺なんて全然綺麗じゃないし、色気もへったくれもない野球小僧だもん。間違いだからとっとと帰れっ!!」 「間違うはずはない。お前の姿は《神託の鏡》に確かに映っていた。それに、お前は美しさで言えば十分乙女としての資格はある」 「もーっ!お前らの感覚は眞魔国人並かよっ!!嫌だよそんなもんっ!資格なんていらないから帰してくれよっ!!」 以前は眞王によって掛けられた《フィルター》のせいで十人並みに見られていただけで、ありのままの姿は、は…っと目は奪われるほどに美しいというのに…相変わらずその事については執拗なまでに否定する有利であった…。 「まあ、そう言うな。我らの崇める迦陵頻伽様に捧げられるという、栄誉在るお役目だぞ?謹んで承るように」 「誰がササゲられるかコンチクショーっ!!お供え物になんかされて堪るかっ!俺は葬式饅頭じゃねぇっ!!」 脱兎の勢いで逃げようとするが、当然逃げられる筈など無く…首筋に手刀の強打を受けて、有利はころりと気絶してしまった。 「なんとも…凄まじい乙女も居たものだ……」 男は暫く呆然としていたが、我に返ると様々な《不思議》に気付いた。 「これは…」 凄腕の剣士に斬られた疵が…塞がっている。 そして自分の肩から落ちた服が、この《乙女》が身につけていた物なのだということに気付いたとき…。 男は、困惑して顔を掌で覆った。 『なんなのだ…この乙女は……』 男は…今まで同胞と共に指示された《乙女》を浚っては国元に届けていた。 《乙女》達は涙に暮れて我が身の不幸を嘆き、男を罵りはしたが…こんなに激しく暴れて逃げようとする者は居なかったし…なにより、こんな風に傷ついた男に手当をしてくれる者がいるなど…想像の範疇にもなかった。 《乙女》の守護者に返り討ちに遭い、命を落としたり捕らえられた同胞もいたが、彼らが八つ裂きにされようとも、その身を救いに出ることは男には許されていなかった。また、仲間達にしても…捕らえられた場で生き続けることなど許されてはおらず、その場で自害するよう命じられている。 彼らの役目はあくまで《乙女》の拉致であり、彼らの存在はその為の捨て駒に過ぎない。 彼らは生まれつき、そのように定められているのだ。 絶対的な…身分制度によって。 『お前達はただ忠実に役割をこなしていれば良い。余計なことは考えるな』 指示を出す僧侶達にも常にそう言い含められていたし、彼ら自身、そういうものなのだと受け止めていたから…たとえ同胞同士でも役目に支障をきたすような形でなれ合ったことはない。 そんな…身内にすら労られることのない自分が何故…拉致されようとしている少年に治癒を施されたのか。 『…分からん……』 この少年が、《多くの妖怪を味方につけた、力在る乙女だ》という情報は得ていた。治癒の力を持っていることも知っている。 だが…それを拉致しようとした下手人に施そうとは…。 『一体…何を考えているのだ?』 有利が起きていたとしても、この問いかけに応えることは出来なかったろう。 『俺が一番聞きてぇよ!!』 …とでも叫んだかも知れない。 * * * 有利を連れ去られた後のコンラート達は、供える饅頭も凍り付きそうな…悲惨な最期を遂げた人物の葬式を思わせる悲壮感に包まれていた。 血まみれのコンラートはグウェンダルに治癒されたが…その間、二人の間にはひとことも言葉は交わされなかった。 本来、治癒対象者の自然治癒力を高める目的で声掛けを絶えず送ることがこの技の原則なのだが…互いに口を噤(つぐ)んだまま黙々と行われる治癒は陰惨な雰囲気で、傷は治っていくのに周囲の空気は加速的に凍てついていくようだった。 『まぁ…な……閣下の間の悪さには俺だって驚いたけどさぁ……』 グウェンダルとて、有利を傷つけたかったわけではあるまい。 特にヨザックは当初、有利という少年王に対して極めて懐疑的な立場にいたし、グウェンダルもまたそうであったことを知っている。 だからこそ…有利を見守るグウェンダルの思いが、少しずつ変わっていく変遷を目の当たりにしているのだ。 『閣下は…坊ちゃん…いや、陛下を唯一無二の主と定めてらっしゃる…』 そうでなければ…この自尊心の高い男が、眞王の権勢が失われた後まで有利の政策ラインを踏襲するはずがないではないか。 『閣下があのとき口にしてたのは、あくまで坊ちゃんが眞魔国に来て間もない時分の話だ…その辺の話をしているときに、よりにもよってあんな訳の分からない奴に浚われちまうなんてさ…』 ヨザックは鑢(やすり)で綺麗に整えた爪が歪むのも構わず、強く指先を噛んだ。 目の前で有利を浚われた…その事に憤っているのは何も、コンラートだけではないのだ。 今現在、彼ら三人はまだ遊園地の敷地内にいる。 不法侵入を防ぐ意味で堅固な防備を敷いているこの遊園地から出るには、ある程度コンラートの姿を問題ない範囲まで取り繕っておかなくてはならないし、そもそも…緊縛した敵の片割れがここにいるのだ。そうそう動けるものではない。 尚、男は先程からヨザックの監視下にあり、出血も止められて意識も清明である。 『あんだけ激怒してたくせに、こーゆートコだけは手抜かり無いのが流石《ルッテンベルクの獅子》というべきか…』 コンラートは怒りの中にあっても感情で敵を斬ることはなく、その刀筋は正確に男の動きを止め、拘束しやすいように配慮していた。 ヨザックの方も心得たもので、男が大地に叩きつけられるやいなや元上官の治療よりも男の拘束を優先させると、逃走や自害を防ぐ目的で後ろ手に足と手の親指を交互に紐で繋ぎ、口には枝を銜えさせた上で紐で固定している。 「……これで、血は止まった。動脈が傷ついていたので出血は激しかったようだが、幸い腱は無事なようだ」 「ああ…ありがとう………」 やっとグウェンダルの方が口をきいたが、コンラートの返答は墓場を渡る風のように幽涼としていた。 「景気の悪い雁首を並べているね…。王を護れなかった番犬たちは、意気消沈中と見える」 取り繕う余裕もなく、掠れた声で兄弟は呟く。 「申し訳…ありません……」 臓腑を抉られながら紡がれる言葉は、響きの端々から血飛沫が飛びそうなほど陰惨な気配を漂わせている。 村田は怜悧な顔立ちを11月の寒風に晒しながら、もう兄弟に対しては興味を失ったとでも言いたげに、ふぃ…と表を逸らす。 村田は、一人ではなかった。 その背後には4人の男女…有利の配下にある四大要素を体現する者達…が、真っ青な顔色で佇んでいた。 水を司る水蛇(みずち)。 風を司る高柳鋼。 火を司る紅の蝶の集合体…胡蝶。 土を司るエルンスト・フォーゲル。 全員が鬱蒼とした表情で村田の後に続いている。 そんな彼らに、コンラートは怪訝な表情を浮かべた。 「君達は…何故、ユーリが襲われた時に来てくれなかったんだ!?」 それは小さな声ではあったが…4人は一様に肩を震わせ、唇を噛みしめていた。 先程…要素のうち風と火は有利の召還に応えて出現はしたが、統制出来ないまま有利が使ってしまったこともあり…かえって場を混乱させてしまった。 しかし、彼ら自体が応えて出現してくれたならば幾ら有利が集中出来ない状況にあったとしても、各自の要素を統率して男達を捉えることなど容易かったはずだ。 「…言い訳と捉えてくれるな…。だが…俺には分からなかった……。あの子が…呼んでいたというのに……っ」 白拍子の衣装に身を包んだ水蛇がぎりりと唇を噛みしめると、既に何度も噛んでしまったらしいそこから、真新しい血が筋をなして口角を伝う。 「だから…俺を《中》に入れておけと何度も言ったのに……っ」 幼い有利に命を救われて忠誠を誓った水蛇は、長い間有利の身体の奥に在って、その身体と心とを護り続けてきた(…と、水蛇は主張する)。 だが、ひとたびその存在を有利に認識されてしまうと、 『プライバシーの侵害だ!』 と、主張されてしまい…有利の体内からはじき出されて、いまではすっかり渋谷家(実家)における飼い猫ライフをエンジョイしている。 …とはいえ、もともと有利と癒合していた時間が長かったぶん他の要素よりも有利の呼びかけに反応しやすく、召還があればいの一番に駆けつけるのがこの水蛇なのだが…その彼が《分からなかった》と言う。 それが事実なのだとすれば、事態は更に複雑なものになるのではないか…。 コンラートはぞっと身を震わせて他の要素達を見やった。 「…私にも、分からなかった。ここに来たのも…猊下に携帯電話で呼ばれて来たんだ」 エルンストが銀縁眼鏡を指先で引き上げながら、凍てつくような声を出した。 「だが…高柳、胡蝶…風と火の要素はユーリの呼びかけで動いたんだぞ!?」 「はい…この場に残る要素達に聞きました。《呼ばれて動いた》…と。けれど…私には聞こえなかったのです…主の呼ぶ声が……っ!」 悲痛に喉元を押さえながら、胡蝶は引き絞るように叫んだ。答えが知りたいのはこちらの方だと言わんばかりに…。 「風の要素もそうだ。この辺の小さな要素の粒達が応えて動いたようだが…俺の所までは届かなかった」 高柳が鋭い犬歯を噛み合わせながら喉を反らすと、奇妙な波長が大気を震わせる。 「……やっぱりそうだ…。この場所を中心とした四方10m程度の円から外の要素は《聞いていない》って言ってる。多分…この襲撃者の男が何か仕掛けを持っていやがったんだっ!」 「なんですって…!?」 胡蝶が跳ねるように身を反らすと、顔を両手で覆って打ち震えた。 胡蝶は、以前力ある妖怪…煌姫(あきひ)の配下であった頃には、本体である剣を封印されていたせいで複数の蝶の形に分散して存在していた。 剣が戻り、独立した妖怪として成り立てるようになってからも暫くは綾紐の中に我が身を封じてヨザックと共に在ったのだが、 『折角綺麗な女の人として動けるようになったなら、今まで不自由したぶん外の暮らしを満喫したら?』 と有利に勧められ、召還があるまでは…と、自由に過ごしていたのだ。 コンラートに使役される凍鬼との扱いの差に、主の優しさを感じて優越感を覚えたりしていたのだが…それが、今回は仇となった。 「有利様の傍におらずして、こんな身体が在っても仕方がないのに…っ」 血を吐くような叫びが喉から迸り、胡蝶は我が身を大地に投げ出して懇願した。 「ヨザック様…どうか私をまた、帯剣として使って下さいましっ!…どうか…どうか…有利様をお救いする手助けをさせて下さいまし…っ!」 「ああ…分かったよ」 胡蝶は深々と礼をすると一本の美しい綾紐となり、再びヨザックの手首を飾ることとなった。 呼ばれればいつでも一振りの剣となり、敵を斬り裂く所存である。 一方…コンラートは高柳の言葉に一層顔色を悪化させていた。 有利を浚った方の男もその仕掛けとやらを所持し続けているのならば…有利の気配を追うことは出来ないのではないか。 『いざとなったら要素のみんなを呼ぶから…』 有利がそう言うから、村田が有利に取り付けていた発信器を外していたのだ。 「それでは…今、ユーリが何処にいるのか分からないのか!?」 「…分からねぇ…よ……」 嫌な方向に予想通りの言葉を吐くと、高柳はごつい素材のレザーブーツで激しく土を蹴った。 巻き上がる風が八つ当たりの様に土塊を噴き上げ、鋭く襲撃者の頬を掠める。 「…」 臆した風もなく、襲撃者の片割れの男は胡座をかいた状態で土の上に座っている。 浅黒い肌をした男は背中から鳶色の翼を生やしている以外は常の人間と変わりなく…強いて言えば、日本人と言うよりは東南アジア系を思わせる顔立ちをしている程度である。 翼と同色の瞳は静かに落ち着き、淡々と現状を受け入れているようだった。 「…この男に、事情は聞けたのかい?」 村田の問いかけにヨザックが応える。 「いいえ…こいつ、奥歯に毒を仕込んでるようです。迂闊に口を開けさせられなかったんですよ」 「ふぅん…自害覚悟か。じゃあ、この落ち着きも仲間が役目を果たしたことへの安心感ってわけだ。なかなか大した覚悟じゃないか。ところで…どの歯か分かる?ヨザック」 「…右…の、一番奥の下の歯です」 冷ややかな村田の声に、幾度も死線をくぐり抜けてきたはずのヨザックが、一瞬ひやりと臓腑を凍らせた。彼が…何をしようとしているのか察したのだ。 村田はエルンストを促すと、男の前に座らせた。 「処置してくれる?」 「御意」 気負い無くエルンストが応え、ぱちりと指を鳴らすと…男に噛ませていた枝からしゅるりと蔓草が伸びた。 「…っ!?」 意志を持つかのように伸びてくる蔓草に、流石に男がぎょっとして身を捩るが…エルンストは無造作に男の頭部を掴んで目線を合わせる。 「剔(えぐ)れ…抜くだけでは駄目だ。薬が漏れては意味がない」 小さな呟きに合わせて、枝を噛まされて塞ぐことの出来ない口角から入り込んだ蔓草が例の奥歯周囲に絡み… ごりゅ…っ …と、蔓草は歯肉ごと歯を抜去すると、葉っぱで包み込むようにして口角から取り出した。 「……っ」 男は苦悶に顔を顰め…歯を抜かれた瞬間には叫びそうな形相を見せたものの、枝を口から外されるや…溢れてくる血と唾液とを含んで、ベッと勢いよくエルンストの顔に吹きかけた。 しかし…冷厳たる怒りを湛えた瞳の直前で血は逆巻き、吐きかけた本人の顔に打ち付けられる。 高柳が、風の要素を操作したのだ。 「良い根性だが…それだけではどうにもならないことが世の中にはあるのだと、教えてあげよう…」 エルンストの瞳が奥から光るような紅色に変じ…男の視界と思考とを染め上げた…。 * * *
ふんわりとした…肌触りの良い寝具と、対照的に刺激的すぎる花の香りに包まれ、有利は鼻を鳴らして身じろいだ。 「うー…クサい……何だよー…なんで香水なんか匂うんだよー……」 コンラートが用意してくれる寝具は全て清潔なコットンの香りで、梅雨の時期にどうしても長い間干すことが出来ず、布団乾燥機のお世話になるときだけ淡くラベンダーや柑橘系のリネンコロンを使う程度だ。 こんなに噎(む)せるような香りが鼻腔を苦しめることなど今まで無かったのに…。 どうにも耐えきれなくなって半身を起こすと、辺りは柔らかな薄明かりに包まれていた。 その明るさは起き抜けの目には優しいものの、辺りを確認するには心許なくて目をしぱしぱさせていると、有利の意図を汲んだかのように、ぽぅ…と傍らの複数の洋燈に明かりが灯った。 「…な…んだぁ?…ここ……」 有利がぽかんと口を開くのも無理はない。 新たな光源によって浮かび上がったのは、実に奇妙な部屋だった。 いや…部屋と呼ぶことさえ相応しいのかどうかよく分からない。 特に奇妙なのは壁と床で、半ば透けるような…緩やかな曲線を描く薄布のようなものが幾層も折り重なり、壁と床とが継ぎ目無く弧を為して繋がっている。そして、頭上を仰げば天にさざめく星々が明瞭に目に入る…ということは、この部屋には屋根がないということだ。 「へぁ…?野外球場……?天然芝…は、膝に優しいけど、露天の球場は雨天時に試合が出来ないね…」 我ながら訳が分からない感想を口にしつつ星空を眺めていると…ゆっくりと…星空はその大きさを増していった。 「…?」 いや、星空が膨大したわけではない。 幾層にも重なった壁が、外に向かって倒れていきつつあるのだ。 『まるで花弁(はなびら)みたいだ…。つか…それだと、俺って親指姫?うわー…やな想像…。せめて一寸法師とかさぁ…』 ぼんやりと苦笑していた有利だったが…壁が完全に開ききり、その部屋を為す全体像が露わになると…この部屋が《花弁みたい》なものではなく、まさに《華》そのものであることに気付いた。 そして更に…身じろいだ有利は、自分が何を身に纏っているのかにも漸く気が付いた。 「な…何じゃあ…こりゃああぁぁぁぁぁっっっ!?」 有利はジーパン刑事(デカ)の如く、指をかぎ爪状にして絶叫した。 巨大な蓮花の中心に鎮座する巨大な寝台…その上に横たえられていた有利は、淡い真珠色のドレスと繻子(しゅす)のような花々に彩られていたのだ。 慌てて辺りを見回せば、大きな姿見の鏡が星明かりを弾いている。 駆け寄るようにしてその前に立ち、自分の姿を見てまた叫びそうになった。 「ぐ…が……ふ……っ」 有利の身体はやはり見間違いなどではなく、女物のドレスを纏(まと)わされていた。 すらりとした細腰を生かしつつ、胸元には巧みな縫製によって泡立つようなギャザー寄せが施されて、少女めいた清楚な膨らみを模しており…ラインを為すように縫い込まれた大小様々な華と蕾とが、秋の深まりに合わせて白く透き通ってきた肌を一層艶やかに彩る。 裾野もまた何層もの薄布をスライドしながら縫い合わせているらしく、少し動いただけでしゃらりとドレープの靡(なび)く様が極めて優美である。 たとえ…纏っている本人が驚きのあまりガニ股になっていてさえ美しく見せてしまうのだから、凄まじい力業と言えよう。 更にご丁寧なことに…寝癖のつきやすい黒髪まで綺麗にブローされた上に、白い清楚な華で飾られていた。 姿だけ見ればこれはまことに…何処の宴の席にあがっても遜色ない姫君の装いであった。 「姫…」 「う…ひゃあっ!」 突然背後から声を掛けられて飛び上がってしまった有利は、慌てて振り返った先に佇む少女に驚愕した。 「え…?さっきまで…誰もいなかったのに……」 「失礼ながら、翼にて入室させて頂きました。姫のあまりの驚きように懸念を感じまして…。ここはあまり大きく動かれますと、危ない場所ですので」 少女は有利と同じくらいの年頃の様に見える。 癖のない長い髪は銀に近い金色で、踝まで続くその長さはウルリーケを彷彿とさせる。 心なしか、幼げな容姿の割に落ち着いた物腰などもよく似ているようだ。 翼…という言葉で改めて見ると、確かに背中から大きな翼が生えている。色は、髪の色と同色だ。 「危ない?」 言われて辺りを見やれば、周囲一帯に拡がるのは有利が寝かされていたのと同じような蓮の花で、蕾のまま固く閉ざされたもの…華麗に咲き誇って星明かりに照らされているもの…薄い紅色や紫色の花弁が果てもなく続いている。 しかし、その花々の下には霞が掛かるほどの空虚な闇が広がっており、底が見えない空漠にぎょっと足が竦む。 「驚かせてしまって申し訳ありません。私(わたくし)、本日より姫の身の回りのお世話を任されました、ニーと申します」 ニーと名乗った少女は端麗な容姿の持ち主で、微笑むと華が綻ぶように愛らしかった。 「それにしても…お美しい……」 ニーはほぅ…と溜息を漏らすと、有利の姿に陶然と見惚れた。 「私、神官長様のお言いつけで姫がお休みの間に身繕いをさせて頂いたのですけど…本当に遣り甲斐のあるお仕事でしたわ!以前から姫にはこのドレスがお似合いだと思って、寸法を合わせてましたのよ?」 「寸法を合わせるって…。え…?君、俺のサイズとか何で知って……」 「姫をお迎えすべく、城では沢山の者が準備をしておりましたのよ?情報は十分に仕入れておりますわ」 「いや…あの…ニーさん?さっきから俺、状況が上手く飲み込めないんだけど…」 「ああ…これは申し訳ありません。私、少し興奮しやすい性質なものですから…。あ、そうそう…私のことはニーと呼び捨てにして下さいましね」 はにかむように微笑むと、ニーは自分の知る限りの事情を説明してくれた。 * * * ニーの語るところによると…大体このような事情であるらしい。 ここは天羽國(あもうのくに)と呼ばれる有翼人の国。 力在る妖怪は個体で独立して生活している者が殆どなのだが、天羽國に住まう妖怪達のように単体では強い力を持たない者達は、寄り添って助け合いながら暮らしている。 この國は何百年か前から鎖国に近い状態になっており、殆ど他の妖怪との交流がない代わりに戦のない時代が長く続いており、国民は穏やかな暮らしぶりを保っている。 この栄華をもたらした者が、当代の王…チャスカ陛下。 チャスカ陛下は仁慈に溢れ、文武両道のその御技は国民の敬愛を幅広く得ており、特にこの國に《迦陵頻伽》なる神聖な存在を受け入れてからというもの、震災を予知し、天恵を國に降らせるともっぱらの評判なのだ。 『何だかねぇ…』 そんな《素晴らしい》とニーには大評判のチャスカ陛下なのだが…どうもこの人物に呼ばれたせいで、有利はここにいるらしい。 正確には、《迦陵頻伽》という神聖な存在とやらが有利を指名し、それを受けてチャスカ陛下が命令を下したようだ。 また、ニーは口をそやしてチャスカ陛下や《迦陵頻伽》を褒め称える一方、有利を浚った男に対しては辛辣そのものだった。 「全く…あのような不躾な男が姫の御身に触れていたなどぞっとしますわ…それに、浚われた際に姫の大切な方を傷つけたのですって!?まぁ…許せませんわっ!」 「……うん……」 コンラートのことを思えば有利の胸は歪(いびつ)に引き曲げられ、思わず両手で顔を覆ってしまう。 寄せられた華奢な肩に、すっかり同情しきったニーの手が添えられた。 「おかわいそうに、姫…」 慕わしげにな手つきや涙ぐむ声に邪心はなく、彼女はすっかり有利の事を気に入って…護ってあげなくてはならないと決意を固めているらしい。 『でも…なんでだろう?妙な違和感があるんだよな…』 彼女自体と言うよりも…彼女の言動に、微妙なズレを感じる。 新しい情報の群れにまだ混乱しているらしい有利の頭ではなかなか整合し辛いものがあるのだが…それでも、有利は自分のこの直感というやつが存外馬鹿に出来ないことを知っている。 耳を澄まし…彼女を含め、この國の人々が語る言葉を聞き逃さぬようにする必要があるだろう。 「姫…元気をお出しになって!きっとチャスカ陛下や迦陵頻伽様がよくして下さいますわ!だって、姫は神聖な《籠》にお入りになられる乙女なんですもの!賓客として蝶よ花よともてなされるのですわ…っ!」 夢見るようにニーが語る《籠》とは、《迦陵頻伽》に仕えるために乙女が入所する部屋のようなものらしい。 「なぁ…ニー。その乙女…ってやつ…どーゆー基準で選んでんのか分かる?」 「それはもう、綺麗で可愛らしいということだと思いますわ!」 「いや…だからさ、そもそも俺は男なわけで…」 「我らが民は性別には頓着しませんのよ。綺麗かどうかがとても重要な要素なんですもの!」 この辺りの話になると、噛み合わないこと甚だしい…。 有利が知りたいのは、その乙女の略奪がどのような意図で行われているか…ということだ。ニーはさも素晴らしそうに言っているが、何度聞いても迦陵頻伽とやらに捧げられた乙女がその後どうなったのかについては詳細を語らない。 ただ漠然と《迦陵頻伽様にお仕えしている》というのみである。 『どのくらいの周期でやってる儀式で、過去にどれだけの人数が捧げられたか知らないけどさ…この手慣れた手口からいって…結構な人数を浚ってるんじゃないのかな…』 大体、《乙女が捧げられる儀式》と聞いて暢気に構えていられる者など居るだろうか? そういったフレーズにありがちなのは、神様だか悪魔だかに食べられたり犯されたり、洗脳されたりといった話だろう。 小鳥が囀(さえず)るように心地よい声でお喋りをするニーも、話題がそういう展開を見せようとするとすぐにはぐらかすのである。 「そんなことより、喉が渇いてらっしゃいません?」 ニーの方も有利が辟易していることに気付いたのか、楚々と微笑んで手にした盆から急須を持ち、有利のカップに注いだ。 どういう仕組みになっているものなのか…ティーコゼーを被せているわけでもないのに、注がれた琥珀色のお茶からは如何にも熱そうに湯気が立っている。 籠の中にたっぷりと盛られた軽食の類も、軽くトーストとした薄焼きパンなどが香ばしいかおりを漂わせている。 「どうぞ熱いお茶を召しあがって下さいませ」 ニーは説明を始める前から寝台脇の卓上に所狭しと茶器を並べて、ことある事に有利に勧めていた。 今も、冷め切ったお茶をピッチャーのようなものの中に捨て、新たなお茶を注いでくれたのである。 しかし…先程も今も、有利はカップに口を付けようとはしない。 また、美味しそうな香りを放つ軽食類にも手を出そうとしない。 浚われてからどれくらいの時間が経ったのかは分からないが、少なくとも…この腹の減り具合から考えて一昼夜は軽く経過しているに違いない。 叫んだりしたせいで喉はからからだし、お腹と背中がぴったんこになりそうな勢いで空腹感に責められてもいる。 しかし…有利は申し訳なさそうに瞼を伏せると、ニーに勧められたカップを押し返した。 「ゴメンね…俺、食べられないよ」 「まぁ…何故ですの?」 「君が…いや、君達が…俺を浚った人達だからだよ」 きっぱりと言い切る有利に、ニーは訝しそうに目元を眇めた。 「…毒を盛られているとでもお疑いですの?」 「それは無いと思う…。わざわざ浚ってくるくらいだから、俺を死なせるようなことは無いだろうね…。だけど、俺を何かの儀式に使おうってんなら《言うことを聞かせよう》とは思うんじゃないかな?」 ニーは哀しそうに瞳を眇めると、如何にも心外だと言いたげに被りを振った。 「そんな…そんなこと、決して……っ!」 「ニーがしない…って言ってくれるとしても、俺はその可能性がある以上…この国で何かを口にすることは出来ないよ」 有利が恐れるのは、特に《洗脳される》ということだった。 万が一…考えたくはないけれど、有利が殺されるようなことがあったとしても、グウェンダルやギュンターがいてくれれば眞魔国は安定した治世を続けることが出来るだろう。 だが…有利が何者かの洗脳下に置かれるということは、その絶大な魔力が悪用されるということだ。 眞魔国で創主に乗っ取られかけた時…世界は破滅の危機を迎えそうになったくらいなのだ。四大要素と契約を取り結び、往年の眞王に匹敵する力を持つようになった有利を悪用されるような事態は断固として回避しなくてはならない。 「そんなことを仰らないで…何も口にしないだなんて!儀式までに飢えて死んでしまったらどうしようもありませんわよ!?」 「儀式まで待ったりしない。俺…もう帰るよ?」 有利は眉間に意識を集中させると、四大要素の力を呼び寄せ…コントロールしようとした。 『このまま餓死なんて冗談じゃない…っ!』 勿論、有利自身が死にたくないというのもある。 だが…それ以上に、有利は自分自身をコンラートの為に生かしておきたいのだ。 大切な友人達を…志を共にする同士を失い、残酷な苦しみに耐えて生き抜いてきた彼を…コンラートを…これ以上、決して傷つけたくなどない。 有利はコンラートの為にも…生きて帰らなくてはならないのだ。 『来い…来い…来い……』 しかし…幾ら意識を集中させても、要素が呼応することはなかった。 そよとも風は起こらず 火は吹き上がらず 水は流れを変えず 土は黙して語らない。 『な…んで……?』 村田の指導で修練したとおり、理想的な形で集中は出来ているはずだ。 なのに…要素の存在をその片鱗たりと感じとる事は出来なかった。 「思うようにいきません?」 ニーは有利の意図をくみ取り…そして、それが失敗したことを見て取ると…同情するような眼差しを送った。 「姫…申し遅れましたが、我ら天羽國の民にはとても得意な技があるのですよ」 「…な……に……?」 「空間を…ねじ曲げるのです。きゅ…とね。姫がとても大きな力をお持ちだということはよくよく調べておりますから、このお花畑には特に入念に術を掛けておりますのよ…。幾ら姫のお力が強大なものであっても、決して要素を引き入れることなど出来ませんわ。この國のなかにある要素は全て、陛下と迦陵頻伽様のものですわ…決して、姫に従うことはありますまい……」 くすくすと…鈴を転がすようにニーが笑う。 その微笑みはしかし…最初に笑いかけてきたときのような少女めいたものではなく、年ふりた娼館の主のように徒っぽい…《嘲笑》と呼ぶに相応しい嗤(わら)いであった。 「新しいお食事を用意して、またお邪魔しますわ…。何度でも、姫が《どうか食べさせて下さい》と懇願するまで…ね」 「…俺は……決して口にしない…っ!」 「どうかしら?お腹が空くって…想像以上に辛いものですのよ?」 冷めた瞳で語るニーは、どこか遠くを見るように呟くと…翼を羽ばたかせて飛び立った。
あとがき 予定通り、2007年中には助けられなかったのでした…。 それにしたって、こんな景気の悪いところで終わるんかい…てな感じですが、全体の流れの中ではどうしても入れておきたい下りなのでどうかお許し下さい。 2008年1月は長編強化月間として続きを頑張りたいな…と、思っております。出来れば桜が咲く頃までには決着をつけたいところです。 決して、二回目のハロウィンがやってくる頃に終わりを合わせているわけではありません…っ!(既にお忘れの方も多いかと思いますが、この話…文化祭がハロウィンなんです) それでも少々長い道のりにはなるかと思いますが、呆れずに読んで頂ければ幸いです。 |