迦陵頻伽の檻












プロローグ





 銀細工と紅玉・瑪瑙で縁取られた豪奢な鏡…広々とした室内の一角を占めるほどの大きさを持つその鏡が、一人の少年の姿を映している。

 

 全体としてほっそりして見えるものの、指先から髪の毛の先に至るまで元気に充ち満ちた様が、躍動感のある動作と共に鏡の向こうから伝わってくる。

 上下真っ黒な衣装に、真っ黒な髪、真っ黒な目…全てが黒いのに、何故か彼から受ける印象には暗さなど微塵もなくて…明るい光がさざめいているように見える。



 なんて暖かな波動なのだろう。

 なんて楽しそうに笑うのだろう。



 まろやかな頬は淡く上気し、澄んだ黒玉の瞳は長い睫に縁取られてきらきらと輝いている。

 しゃらりと風に靡く漆黒の髪を無造作に掻き上げれば、その指の間だから零れる一房に、くすぐったそうに微笑む少年…。



 隣に佇む長身の男に何か話しかけられて、ぷぅ…っと頬を膨らましたかと思うと、また弾けるように笑う。



 なんて豊かな感情の発露…。

 なんて鮮やかな表情の数々……。


 鏡の向こうから、芳しい涼風が吹いてくるような…そんな幻想すら感じられる。


「この子を、檻に入れるのだね?」



「そうです、陛下。そのように卦が出てございます」
「迦陵頻伽の檻に、招きませう」
「招きませう」


「そうか…」
 

 《陛下》は輪唱するように謳われる呪術師達の言葉に、微妙な表情を浮かべた。



 この子が自分の傍に来て、喋る様子を見てみたい…

 自分の前でも、あんな風に屈託無く笑うだろうか?
 あんなふうな、細かいことに頓着しなさそうな子だから…それは期待して良いような気がする。

 だが、あの子は《檻》に入れなくてはならない。
 《檻》に入れても尚、あの子は笑ってくれるだろうか?


 それは…どうだろう?


 《陛下》は眉根を寄せ…、強く瞼を閉じた……。

 

 

 


【第一話】 宴の夜










 第27代魔王シブヤ・ユーリ陛下の帰還祭及び聖誕祭は、街中に笑顔と楽しげな喧噪をもたらしていたが、時刻が夜半を過ぎ…日付が次の日に変わって暫くすると、特別に夜更かしを許されていた子ども達も、机や椅子にもたれ掛かったままの格好で眠りにつき…そして、苦笑した父親や母親の腕に抱えられて寝床についた。

 興奮のせいか目が冴えてしまって眠れない大人達も、流石にもう歓声を上げることはなく、親しい友人や家族と共に…しみじみとした感慨に耽りながら酒杯を交わすのだった。



 ここ、血盟城の大広間でも状況はよく似ており、磨き込まれた大理石(散々に踏み回されて、今はやや輝きを失っているが…)の上でくるくるとダンスに興じているのは極めて少数であり、楽団の奏でる調べも緩やかなものに変わっている。

 バルコニーへと通じる硝子扉は全て開け放たれ…宵闇を運ぶ涼やかな風が貴婦人の後れ毛を掠めていき…酔いが回ったのか、ご機嫌の表情のままソファで眠り込めている青年将校の頬を撫でていく。

 穏やかで優しい夜の帳は、人々を等しく包み込んでいった…。

 

 さて…その大広間から少し離れた一室…国政に携わる者が私的に利用する為の小部屋とはいえ、十分な広さと適度な調度品を配したその部屋で、魔王陛下は予想外の困難(?)に直面していた。

 お陰様で、普段ならとうに眠気に襲われ…瞼を閉じているだろう時間であるにもかかわらず、がっちりぱっちり目が覚めてしまった。

「ゆーちゃん、ここに座りなさい」

 目が据わりきった長身の男が、酔色の明確な顔貌で有利に促してくる。

 これが自分の実兄であれば断るのは簡単だ。

『この馬鹿兄貴!』

 この一言で事足りる。

 だが…いま有利を《ゆーちゃん》呼ばわりしている男は、残念ながら実兄ではなかった。 眞魔国、《似てねぇと思ってたけど予想外に共通項がある上に、最近見てくれまで似てきたような気がする三兄弟》の長兄、フォンヴォルテール卿グウェンダルなのである。

『一体どんだけ飲んだんだよ……』

 彼のこのような酔態を目にするのは初めてのことで、勿論、絡まれたのも初めてのことである。

 これまで…どんな宴席で、どれ程強い酒を勧められてもカパカパと杯を開け、酔色を示す指標は眦に幾ばくか紅が差す程度だったのに…。

『そういえば…いつも俺の酒まで飲んでくれたっけ…』

 眞魔国では16歳で成人と見なされるだけあって、宴席では有利も盛んに酒を勧められた。大抵は断ることが出来るのだが、時に害意…とまではいかないものの、若すぎる上に異世界から来た王を良く思わない貴族もいて(しかも位は無駄に高くて)、そんな連中が苦手と知っていながら杯を捧げてくることがあった。

 涙目でコンラートに目線を送っても、相手の位が高い場合には余計に事態が拗れるらしく…もどかしそうに愁眉を深め、直ぐにでも駆け出したいのに出来ない…そんな様子を見ればそれ以上困らせることなど出来なくて、嫌々手を差し出さなくてはならないこともあった。

 だが、そんなときには…いつの間にかグウェンダルが傍らに来て、殆ど口は挟まないくせに、いつの間にか相手を圧して杯を奪ってくれた。

 そして…くいっと喉を反らすと、見事な飲みっぷりで杯を空けるのだった。

 渋みを帯びた端麗な面差し…彫りの深い目元から伸びる隆とした鼻梁の下で、真一文字に結ばれた唇が豪奢な杯に寄せられる様は、それだけで一幅の絵画のように優美で…どんな貴族でもその姿に魅せられて、背後にちょこんと隠れた少年王にそれ以上絡んでくることはなかった。  

『そんなあんたが…今夜はどうしちゃったっての?』

 酔漢…とはいえ、魔族の中でも類い希な美形貴族のこと、酔った姿も妙に迫力があって…艶やかですらある。

 茅で切ったような切れ長の眦は紅を掃いたような朱に染まり、濡れた半眼の眼差しは眉間に寄せた皺と合わせて渋然とした様を見せる。

 身に纏う衣装は最上級礼装…厚みのある深緑色の綾織り生地には襟合わせに銀糸の刺繍が施され、光の加減によって流麗な影が降りてグウェンダルの体格の良さを際だたせる。

 広い肩幅を更に大きく見せる丸打金糸の肩装と、袖口を飾る同色の縫い取りによって彼が王に次ぐ権威の持ち主であることを示しており、胸には落ち着いた色彩の石を填め込んだ勲章が飾られている。

 ひとことで言うと、《立派な身なりをした偉そうな人物》である。

 そんな男がこれまた豪奢な長椅子に腰掛け、大股を開いてその場所へ来いと誘うのだ。

 有利も今日の宴の主役であるし、なにより一国の王なのだからと普段よりは凝った衣装を着ている。

 黒い学ラン基調なのは相変わらずだが、グウェンダルの礼服と同様、綾織り生地を漆黒に染め上げたものを使用し、デザインも幾ばくか袖口、裾を長めに採寸している。これがほっそりとした細腰を際だたせたラインと合わさって、所作の一つ一つを実に愛らしく見せてくれるのだ。

 まぁ…一層《愛らしく》見せている時点で、王としての権威づけとしては決定的に間違えている気もするが…。

 一応、詰め襟の合わせと袖口には艶消し加工を施した銀糸で蔓草(つるくさ)と流水の紋様を刺繍しており、豪奢なマントと合わせても遜色はない。…が、纏う気配はやはり《王》というよりは、せいぜい言って《王子様》級であり、グウェンダルと並べると相変わらずちんまりとした印象が拭えない。



『そこに座れ…ってことですよね?』
『俺…確かこの国の王様でしたよね?』 



 とほほ…と目線をコンラートに送れば、苦笑しつつも動いてくれた。

「グウェン…流石に飲みすぎだよ。良かったら部屋まで送ろうか?」

 グウェンダルはじっと自分の弟を見やると、今度はそちらに向かって《座れ》アピールを始めた。

「よし、コンラート…ここに座れ」
「……え?いや、それは……流石に絵図ら的に無理が………」

 さしものコンラートもぎょっとして尻込んでしまう。

「座ります!俺に座らせて下さいっっ!!」

 有利はだだっと駆け寄ると、勢いよくグウェンダルの膝に飛び乗った(有利自身、その絵図等だけは見たくなかったのである)。

『おやおや…』

 絵図等的には問題のない(問題ないあたりが問題と言えば問題だが…)組み合わせに、コンラートは苦笑を忍ばせる。






 長身、大柄なグウェンダルの膝にちんまりと有利が乗った姿は、なかなかに微笑ましいものがあった。

「よし、じゃあコンラート…お前はここに座れ」

 幾分機嫌良さそうになったグウェンダルは、長椅子の…自分の傍らをぱんぱんと片手で叩いた。

「はいはい…」

 十分に広い長椅子の上で、有利を抱っこしたまま身を寄せるグウェンダルの姿はまるっきり小さな子どもの親のようで…さしもの《焼き餅やきウェラー卿》もくすくすと忍び笑いを漏らしてしまう。

 コンラートには、グウェンダルのもつ有利への感情がここ最近頓(とみ)に理解しやすくなっている。

 一つは、純然たる王への敬慕の念…もう一つは、小さく愛らしい生き物への保護欲…。

 どちらにしても極めて健全な感情であるため、コンラートの逆鱗には抵触しないらしい。

 ただ…今夜は余程酔いが回っているせいかグウェンダルの手つきが些か危なっかしくて、有利を膝から取り落としそうになると無造作に腕で引き寄せるのだが…その接近具合が微妙にコンラートの逆鱗に触れたり触れなかったりのぎりぎりラインを掠めていくのが気がかりではある…。

『…う』

 コンラートは思わずぴくりと眉の端を上げた。

 グウェンダルが背後から有利の身体をすっぽりと抱き込み…その細い首筋に顔を埋めてしまったのだ。

「小さいな…」

 窘めようとしたコンラートの手が、ぴたりと止まった。

 しみじみと呟いたグウェンダルの声が…《雄》のそれではなくて、やっぱり《父親》めいたものだったからだ。

「ほっとけよ!」

 ぷくっと頬を膨らませて有利がはぶてる。

 長い腕に後ろから抱き竦められ、しみじみ言われると正直ヘコむが…実際問題、今日で18歳になったはずの有利は相も変わらず小柄で華奢であった。

『誕生日にまでそんなこと自覚させることないだろ!?』

 なんとか効果的な切り返しを…と考えていた有利だったが、ふわ…と頭に載せられた掌の感触に言葉を失ってしまう。

 暖かくて…大きな掌。

 心まですっぽりと包み込むようなその感触を更に強化するように…グウェンダルの声が続いた。

「こんな小さな身体で…お前はよく頑張ったな…」

「…え?」

 有利は耳朶に響く重低音の…意想外の言葉にきょとんと瞳を見開いた。

「大賢者から大体の話は聞いている。地球で…どのようにして要素を手に入れていったのか…。それに、眞魔国で創主を倒したことも含めて…な」
「グウェン…」
「お前は、よくやった」

 重々しい…そして、飾り気のない無骨なその褒め言葉に、思わず目頭が熱くなってしまう。

「な…なんだよ…っ!改まってさ…っ!!」

 笑おうとして開いた口が、鼻の奥がつんと熱いせいで涙声を奏でてしまう。

「いや…ゆーちゃんが弟になるのだと思うと、感慨深くてな」
「………へ?」
「結婚するのだろう?コンラートと…」
「あ……あっ!そっか!俺…コンラッドと結婚したらグウェンと兄弟になんのか!?」

 なんだか妙に心弾むものを感じて、うきうきしてしまう。

 今までも良い兄(…というより、父?)のように感じていたグウェンダルが義理の兄になるのだと思うと、今までよりも近しい立場になるような気がする。 

 有利はつい悪戯心を出すと、くりっと仰向いて…にぱりとグウェンダルに笑いかけた。

「えへへー…。グウェンダルお兄〜ちゃん!」
「ー…っ!」
「待ったーっっ!!」

 目を見開くグウェンダルと照れたように頬を染める有利の前に、元祖お兄ちゃん…渋谷勝利が姿を現した。

 なお、アニシナの発明品《ほくやくこんにゃく製いやんホーン》という、眞魔国語と日本語の同時変換が可能な装置を装着しているため、今回眞魔国に招待された地球組の面々も日常会話が可能になっている。

 ただ…その名の通りこんにゃく製なため、フィット感はともかくとして耳に装着したときに《いや〜ん》な感じがする点は否めない。

「酷いぞゆーちゃん!俺を差し置いて他所(よそ)の男をお兄ちゃんと呼ぶなんてっ!!」

 尤もと言えば尤もな言い分ではあるのだが、正直…こういう事は強要されるほど言いたくなくなるものである。

「大体なぁ…っ!ゆーちゃん、お前はこの連中にさんざっぱら迷惑かけられて、辛い思いをいっぱいしたって言うのになんだってそうフレンドリーでいられるんだよ!?」
「辛いことはそりゃ色々あったけど…そんなのグウェンやコンラッドのせいじゃないだろ?」
「いーや!俺は聞いたぞ!?そもそもの約束じゃあ、お前が魔王になるのは20歳になってからって約束だったそうじゃないか!それを派手に繰り上げられて15歳で引きずり込まれた原因は、この連中の母親が《もう王様業飽きちゃったー》って、期限前に仕事投げ出したからなんだろ!?なんだっていい歳したこの連中に止められないって事があるんだよ!!この大男なんて国の重鎮なんだろ!?」
「それは…」

 確かに…突然公衆便所から異世界に連れ込まれ(?)、《今日から貴方は魔王です》と言われたときには、物凄く大がかりな詐欺に巻き込まれているような心地がしたものだが…。

 何しろ、事情を知っている父親でさえそんな時期に呼ばれるという通知は貰っていなかったものだから…



 予備知識は全くない。  

 元王子様達の大半(2/3は大半と呼んで良いだろう)には嫌われる。

 ついでに殺されかける…。



 とにかく地球に帰りたくて堪らなかった。

 でも、この国に残りたいと…

 この国で魔王をやってやると…

 そう思ったのは…



 ちら…と横に視線を送れば、少しだけ眉根を寄せて…多分、内心はその表情以上に気にしているのだろうコンラートの姿が目にはいる。

 目が合うと、優しく微笑んでくれた。

『コンラッドが…いてくれたから……』

 少なくとも、最初からこの世界が大嫌いになると言うことはなかった。

 彼のことを殆ど何も知らないときから…彼が包み込むように自分を見ていてくれる事を感じていたから。

『コンラッドに会って…その繋がりでブランドン達に会ってなかったら、絶対何が何でも帰っただろうな』

 そして…ふと振り返った先でグウェンダルの顔を見ると、常以上に渋い表情に胸が痛んだ。

『今でこそこんなに歓待してくれるけどさ…最初はすっげぇ冷たかったもんな』

 ゴットファーザー愛のテーマを背後に流す美丈夫は、それはそれは冷ややかな口調と眼差しで、突き放すように言ったものだった。

『王たる自覚のない者には早急に立ち去って頂きたいものだな…民に希望を抱かせる前に』

 むっと来た…けど、真実でもあったので…言い返せなかった。

 だって、その時には実際、王様になる気などさらさら無かったのだから。

『半分…言われてもしょうがないって、思ったもんなぁ…』

 居心地悪そうに身じろいだのをどう思ったのか、グウェンダルは縫いぐるみのように有利を抱き込むと、大きな手でまた頭を撫でつけてくれた。

「…すまなかった」

 一言…ぽつりと漏らされる重低音の囁きに、全てを許したくなるから不思議だ。

 流石はツェリ様の血脈を受け継ぐ者と言うべきか…この三兄弟に殊勝な態度に出られると、一般庶民(…と、本人は硬く思っている)たる有利などは一も二もなく許容してしまう。

「そんなの…グウェンが謝ることじゃないよ。だってさ、グウェンは最初…俺が王様になるの反対してたじゃん。やる気がないなら帰れって…そう言ってたよな。そん時は俺…むっと来たけど、今考えてみるとあんたの言ってたこと…本当にそうだなって思うんだ。人間同士でさえ血を流し合って…魔族ってだけで無条件に憎む人間の姿や、そんなことに巻き込まれてるブランドン達を見るまで、俺は王様になる気なんて全然無かった…。だから、帰れって言ってくれたことは、実はグウェンの誠意だったのかなぁ…なんて思うことあるんだ」
「………お前は、純朴すぎるぞ。絶対いつか誰かに騙される…」

 呆れ半分、心配半分でグウェンダルが呟くが、有利はぷいっと唇を突き出して開き直った。

「いいもん!騙されたって…」
「よくないぞゆーちゃん!お前はそんなだから、こういう腹黒むっつりスケベの魔手に掛かるんだ!」

 激高する勝利の言葉に、コンラートが心配げに問いかける。

「ええ!?ユーリ…。何処の誰にスケベなことをされたんですか?」
「お・ま・え・の・こ・と・だ・ろ・う・がっ!」

 びしぃっと鼻面に突きつけられた勝利の指先を、くすりと苦笑を浮かべて掌でかわす。「やだなぁ…俺は身も心も蕩けるほどにユーリを愛しているだけで、決して腹黒だったりスケベだったりするわけではありませんよ?」 

「いーやっ!お前の腹黒さは天性のものだっ!!ゆーちゃんのお友達の眼鏡ッ子にも聞いたぞ!?相当なスケベプレイをゆーちゃんに強要しているそうじゃないか!」
「強要なんて…おねだりしているだけですよ?だってユーリはそのままでも可愛いですが、色んな服を着るとまた違った愛らしさがありますからね。メイド服・ナース服・猫耳&猫尻尾・巫女服・弓道着・セーラー服・チアガール・裸エプロン・ミニスカサンタ・俺の軍服の上だけ・貴婦人の下着……」
「ぎゃあああっ!!コンラッド、あんた酔ってるだろ!?」
「着たのかー!?文化祭のメイド服以外にも着たのかーっ!?」
「き…着てねぇよ!…全部は……」

 激高する勝利に反射的に言い返すが、語尾がごにょごにょと口に中に消えていく。

 体育祭に全校生徒の前でチア服は着た。

 軍服じゃないけど、長ランを羽織ったのは内緒だ。

 実は裸エプロンもしたが…その秘密は墓まで持って行くつもりだ………。

「ええ、まだお着せしたことがないものもありますよね…折角猊下に取り寄せて頂いたので、少しずつおねだりしようと思っているんですが……」  
「やだやだやだ!」
「ユーリ…とっても可愛いと思うんですけど…」
「や…やだ……っ!」

 じぃ…っとビクターの犬のような角度で見つめてくるコンラートのおねだりフェロモンに、思わず陥落しそうになって…慌ててぷるぷると首を震わせる有利であった。

『こ…この連中のフェロモンと来たら…っ!』  

 必死で目を瞑りコンラートを見ないようにしたのだが、今度は耳の傍で渋い重低音に囁かれてしまった。

「猫耳はいいな…。今度漆黒のやつを作ってやるから…付けてみないか?」

 そこに便乗して…甘く背筋に響く声が耳朶に直接注ぎ込まれる。

「尻尾もお願いします…グウェン……」
「ああ、勿論だ…」
「や…やめてぇぇ……っ!」

 頬を染め…ぴるぴると肩を震わせて叫ぶ姿はあまりにも愛らしく…この王様のフェロモンこそどうにかして欲しいと思う一同であった。

「どうしても嫌か?」
「い…嫌デス……」

 グウェンダルの言葉に必死で飛びつくと…次の瞬間、彼の口から意外な提案が為された。



「それでは……」

 

その提案に驚愕したのは有利と勝利で…何故かコンラートだけは一瞬の驚きの後…何かを思う風に目を細めたのだった。



*  *  *




「ふはー!」

 有利は自室に戻ると礼装のまま勢いよく寝台に飛び乗り、清潔なリネンの感触と心地よい香りにとろりと意識を浚われそうになった。

「良い匂い…これ、こないだ俺が好きだって言ってたハーブで香り付けしてくれたんだよね?」

 適度な弾力の枕…有利の頸椎弯曲度に合わせたそれに《ふこっ》と顔を埋めると、眠りを妨げない程度の淡い香りが、ひっそりとした微香を漂わせてくる。

 手入れの行き続いた室内にはそこかしこにメイド達の心配りが見られ、ベット脇には宴の後の主人を労るように、冷えた飲み物と軽く摘めるものがさりげなく置かれている。

「みんな…あなたのお誕生日を祝福しているのですよ」

 謳うような響きの…綺麗な声音が、それこそ祝福を降り注ぐように頭上から響いてくるものだから、有利はうっとりと瞳を閉じてその声に聞き惚れた。

「んー…コンラッド……良い声……」
「そうですか?あなたに褒めていただけるのなら…一晩中でも囁きますよ?」
「んんー…一晩中じゃなくても良いから…。なぁ…こっちこない?」

 ふくふくの枕からちろりと見上げてくるつぶらな瞳が、美しい黒曜石の輝きを湛えてコンラートを誘う。

「こっちきて…一緒に転がんない?…気持ちいいよ?」

 仄かに頬を染め、囁く声は少し甘えるようにあどけない。

「ユーリ……」

 この誘いを断ることの出来る魔族…いや、生物が居るだろうか?

 魚人姫でさえ酸欠覚悟で褥(しとね)に侍ることだろう…実に魚臭そうだが。

 魚臭くも烏賊臭くもないコンラートは侍る気満々で婉然と微笑むと、素早い所作で白い礼服を脱ごうとする。…

 …が、

「あっ…」

 ……と、思わずあげたであろう有利の声に手を止める。

「どうしました?」
「あの……その……………」

 恥ずかしそうにもにもにと唇を噛んでいる有利に、コンラートは思い至ったように微笑んだ。

「そういえばユーリはこの服が気に入っておられましたね」
「………うん。だってさ…その服、すんげぇコンラッド似合ってるもん。なんか…俳優さんみたいに格好良い……」
「そう?」

 きし…と軽い音を立てて寝台に腰掛けると、野生の獣のようにしなやかな動作で主の上に被さっていく。

「ユーリもその服、とても似合ってますよ。いつもの学生服タイプも良いですが、少し裾丈や袖が長くて…なんだか可愛い」
「………王様が可愛くてどうすんだよ……」

 ぷくっと頬を膨らませるが、それがまた可愛らしくてコンラートは苦笑を浮かべざるを得ない。

 この様子を可愛いと言わずして、どんな生命体を愛らしいと表現すればいいと言うのか。

 有利が《可愛くない》と形容されるような世界では、おそらく妖怪小豆研ぎ辺りが可愛いと形容されているに違いない。

「俺の王は、そういう王ですよ。可愛くて、元気いっぱいで、涙もろくて、正義感が強くて、転んでも傷ついても決して逃げずに前に向かっていく…しなやかな靱(つよ)さをもった男の子だ…」
「転ぶこと前提なんだ……」

 コンラートの腕にすっぽりと抱かれながらも、有利はちょっと拗ねモードに入ってしまった。

「転ぶのは嫌?」
「んー…本当に凄い王様なら、転んだりせずにもっとスマートにやっていけるんじゃねぇ?グウェンとか……」

 有利の眼差しがほんの少し翳り、暫く何か言おうと視線を中空に漂わせていたが…上手く纏まりきらなかったらしく、ぽすっとコンラートの胸に顔を埋めてしまう。

「……忘れて。変なこと言った」
「…ユーリは、グウェンが転ばない男だと思う?」
「少なくとも俺よりはさ…ちゃんと王様やってたわけじゃん?」

 有利の居ない十年の間…眞魔国を事実上治めていたフォンヴォルテール卿グウェンダルは、魔王が本格的に帰還してくる高校卒業時の段階で魔王代行を終え、宰相の椅子に座すことになる。

 この十年の間、平民の敬慕と貴族の信頼を集めながら国政を安定させ…他国との連携も滞りなく行っていたグウェンダルは家柄も能力も王として申し分なく、当然、魔王が帰還しても元の座にいるべきだと主張する貴族もいたらしい。

 実際、有利が目指そうとしてる《貴族も平民も共に国政に関わっていく》という方針はまだ眞魔国の全てに理念が浸透しているとは言い難い。

 また、帰還してなお地球と眞魔国とを行き来して王座に安住しない魔王を《無責任》と感じている者もいるだろう(スタツアの際に時間の流れをずらして行き来すればいいのかも知れないが、安定した時間軸・座標軸で移動するために二つの世界を結ぶワームホールを安定させてしまったため、現在それぞれの世界の時間は同じ流れを閲しているのだ)。

 それでも、そんな反対をもろともせずに…グウェンダルは有利への王政奉還を決定し、内外に周知させているのである。

「普通なら、王様業を十年もやってれば愛着とか執着とか沸いちゃって、もーちょっとやるとかごねたりするもんじゃん?でも…グウェンはそういう権力にも固執しないでサクッと宰相に退いちゃうしさ…なんか、格好良すぎて時々不安になるんだ。俺なんかが本当に王様やっていいのかなって…。ああいう、質実剛健で如何にも王様!って感じの奴がやってた方が、国民の皆サンも安心するんじゃないかって…」
「不安は当然ですよ。寧ろ…何の不安も懸念も抱かずに王としての生業を背負おうとする者の方が俺は怖い…。グウェンも…ユーリがそんなだからこそ、魔王として帰ってくることを求めているのだと思いますよ」
「…そーかなぁ?」
「そうですよ」

 先程までは褥の恋人に艶をもって対峙していたコンラートも、有利の不安を感じればたちどころに声音を変えて…柔らかい低音で、包み込むように囁いてくれる。

 父のように…兄のように……。

 どんな嵐が来ても揺るがない絶対的な存在として、有利の傍に佇んでくれる。

 彼が傍にいない時期があった等と言うことが信じられないくらい…。

「……」

 有利はコンラートの広い背中に腕を回すと、精一杯の力できゅうっと抱きしめた。

 …勿論、回した手と手が触れあうこともままならないほど広い背中を前にしては、胸郭を狭めることなんて出来ようはずもないのだが…。

「多分…ユーリが思っているほどグウェンは迷いのない男ではありませんよ。彼は彼なりに悩んで…そして答えを捜そうと模索している。今も、きっとそうなんだと思います」
「グウェンが?何に悩んでんの?」
「直接聞いたわけではないので何とも言えませんが、おそらく…その答えを求めて、グウェンはあのような申し出をしたのではないでしょうか?」
「ああ…地球に行きたいって話?」

 珍しく深酒の過ぎたグウェンダルが提示してきた願い…それは、《地球に行きたい》という望みであった。

 有利が高校生活を送っている現在、グウェンダルの責務はまだまだ大きい。よって、そうそう眞魔国から離れることは出来ないのだが…何故かグウェンダルは有利が高校を卒業し、魔王業を安定して行う時期までは待てないと言うのだ。

 今…有利が地球の高校生として生活している様子を見ておきたいと、そう主張していた。

「んー…。グウェン…何を知りたいんだろう?」
「それはグウェンと話して…一緒に捜していった方が良いと思いますよ。多分…グウェン一人では見つけることの出来ない答えなんだと思います。俺にも…上手く説明は出来ないのですが」
「何だか謎めいた言い方…」
「俺も結構な脳筋族ですからね、肌合いで察することは出来ても言葉にするのは難しいんですよ」
「本当にぃ〜?」

 いつもの口達者ぶりを知っている有利は、些か疑わしそうに眦を下げた。

「本当ですとも!例えば…そうですね。他の男があなたに触れたりしたら例えヨザックでも許せないのに、グウェンだとどうして許してあげる気になるかとか…その辺の機序なんかも口で説明出来ませんし」
「そういえばそうだよな!」

 有利はぷふっと吹き出すと、悪戯っぽい眼差しで…からかうようにコンラートを見上げた。

「普段はあんなに焼き餅焼きなのに、グウェンが相手だと凄く微妙な顔してたもんな」
「そうですとも…なんとも微妙な心持ちでしたよ…!」

 性的なものを一切感じない接触と、グウェンダルへの敬意とがミックスされて手が出せなかったのだが…それでは全く気にならないかというとそう言うわけでもない…。

 有利の肌に触れるもの…吐息を傍で感じられるものの全てに嫉妬してしまう心情もどこかにあるものだから、コンラートは密かに体腔内で結構な鬩ぎ合いを演じていたのである。

「ねぇ…ユーリ……そろそろ我が兄のことではなく、俺のためにこの唇を使っては下さいませんか?グウェンのことだけでなく…あなたという宝物が生まれてきた日を祝福するこの日は国民全てにとって大切な日だからと、今日一日…俺は結構な我慢を自分に強いてきましたよ?」
「……うん」

 拗ねたように…でも、どこか《安心出来るお兄ちゃん》から《恋人》としての艶を纏い始めたコンラートに、有利は小さく頷くと…そぅっと身を伸ばして唇を寄せた。

 いまだ羞恥のために震えてしまう唇を、ぷきゅっと不器用に恋人のそれへと押しつければ…コンラートの笑みは蠱惑的なものへと変貌し、艶やかな眼差しが有利を捕らえてしまう。

「ご褒美が…もっと欲しいな……」

 背筋が震えるほど魅力的で…野性味を帯びた声音が有利の耳朶を犯す。

 鼓動を早める心臓の拍動を感じながら、有利はこくりと頷いた。

「……良いよ。あげる……もっと、あげる……」

 かわされる唇が熱を持ち、含みきれない唾液が宵闇の中で水音を立てる頃には…口吻の主導権は完全に委譲されていた…。



*  *  *




 残暑が3階建て鉄筋コンクリート造りの校舎を焼き、グランドから沸き上がる蒸気が生徒達の思考力を失わせる9月初旬の午後。

 有利の所属する3年7組の生徒達は、いましがた決定した文化祭の演目について微妙な表情を浮かべていた。

「お化け屋敷かぁ…でも、準備とか大変じゃねぇ?」
「大丈夫。アテがあるから」

 眼鏡の蔓を気にしながら不安げに尋ねる学級委員長に、押しの強い女子…篠原楓は堂々と言い切った。



 文化祭の演目は幾つかの案の中から投票によって決定された。その結果一位に輝いたのがこの《お化け屋敷》だったわけだが…これは、篠原楓が力強く《あまり準備をせずに本格的なものが出来る》と主張したことが大きく関わっているものと考えられる。

 そうでなければ2位につけた《舞台劇》というのも、もう少し得票率が伸びた筈である。 実際…黒瀬謙吾、会澤といった顔ぶれはあからさまにしょんぼりと意気消沈しており、彼らが最後の文化祭に何を期待していたか見て取ることが出来る。

 黒瀬と会澤は、篠原や有利の家族と共に眞魔国へ国賓として招かれ、盛大な魔王聖誕祭と帰還祭とに参加した。その席で、有利が高校を卒業したら本格的に魔王業に専念することと共に、コンラートと結婚することを知らされたのである。

『結婚なんて決定打が卒業後に待ち受けているとしても、せめて学校の催事でくらいは夢を見たい…っ!』

 そんな男心の発露を思わせる《ロミオとジュリエット》だの、《白雪姫》といったベタな演目はそれなりの得票数を得ながらも敗れ去ってしまった。

 …と、いうのはやはり、卒業学年ということが大きく影響しているだろう。

 楽しい思い出作りはしたい。だが、放課後は受験に向けた準備に使いたいので文化祭だからと言ってそう時間的エネルギーを吸い取られるわけにはいかない。

 そんな心情が篠原楓の押しの強さにも流され、《お化け屋敷》という演目に繋がったわけだが…。

 しかし…お化け屋敷というのはそれなりに準備が必要なものではないだろうか?

「アテって…具体的にはどこら辺にあるんだよ?」
「ちょっー…と具体的には言いにくいのよ。でもさ、とりあえず週明けにはそれなりのものを見せてあげるから、こんだけの材料がいるって文化祭実行委員会に申請しといてよ」

 まだ懸念を残しているらしい粘質な委員長に調達材料のメモを押しつけると、篠原は小気味よい動きでくるりと踵を返した。 

「さぁさ、解散!良い思い出作りに協力してね?」
「はぁ…」

 なんとなく狐に抓まれたような表情のクラスメイトを残し、6限目のLHRを終了5分前で勝手に切り上げた篠原は有利の手を引いて教室を出た。



*  *  *




 昨年の文化祭は11月に行われたのだが、今年は他の行事との兼ね合いで時期が早められ、中間試験の2週間後…丁度10月末日のハロウィンに行われることになった。

 何かと行事の度に不思議な現象が起こるこの高校のこと…校長、教頭以下、全職員が《今度は何も起こりませんように…っ!》と祈っているとのことだが、それならこのおどろおどろしいイベント当日に学校行事を当ててくるのは如何なものかと思う。

 地獄の釜が開く日…実に何か起こりそうな予感がするのだが…。

 それはそうとして、目下有利の懸念事項は二つであった。

 一つは篠原の言う《アテ》のこと…もう一つは…こういった行事に付随しがちな《事柄》である。

「なぁ…もしかしてアテって…」
「そーよ、魔王陛下と愉快な仲間達よ。期待してるからよろしくね?時期も時期だから、お化け屋敷と言うよりハロウィンを意識したホラーハウスッぽいのが良いな」

 家庭科室で手際よく採寸をしながら、《当然》と言いたげに篠原は答える。

 確かに有利の手に入れた四大要素はそれぞれに特色ある華やかさをもっており、眞魔国での《魔王陛下聖誕祭》でも見事な芸を披露している。





 魔王陛下聖誕祭…その日、《魔王陛下が地球で手に入れた四大要素のお披露目》という演目があり、それぞれの要素を司る面々が観衆の前にずずいっと出て来ただけで大きな歓声が沸いた。

 上様は神官めいた衣装を纏い…艶やかな黒髪を優美に結い上げており、魔王と大賢者以外の双黒出現に人々は刮目した。

 白狼族を代表して参列した高柳鋼は、褐色の肌と銀色の髪…そして左右の色彩が異なる金銀妖眼(ヘテロクロミア)に映える大陸風の衣装を纏っていて、こちらは美しさの点で衆目を引いた。

 衆目を引く…ということであれば、土の要素を司るエルンスト・フォーゲルは最たるものであったろう。何しろ、彼は魔王の思い人であるウェラー卿コンラートと相似した容貌を持っている。この日はいつもの銀縁眼鏡を掛け、仕立ての良いスーツ姿で現れたのだが、これは見慣れぬ衣装と言うこともあり…別の意味でも注目を集めていた。

 そして文字通り《紅一点》を添えたのが紅色の蝶であった。

 蝶の本性は女性よりであったらしく、本体の剣を取り戻したことで人型をとれるようになると、鮮やかな紅色の髪と瞳とが印象的な女性体となり、同色の鮮やかなドレスを纏って参列していた。

 しかし…その紅い髪をきりりと天頂部で結い上げた姿はどこかこの国名物の紅い悪魔と似通っており、正面から見れば少し気の弱そうなタレ目で違うと分かるものの、後ろ姿だけを見た者のうち数名の《被害者》はぎくりと肩を震わせるのだった。

 そんなこんなで芸を始める前から注目されていた面々であったが、芸の方も又見事なものであった。

 上様は水蛇の大軍による蛇踊りを展開して、最後は千々に砕いた水滴を天空に舞わせて巨大な虹を作り上げた。

 白狼族の面々は疾風を巻き起こして花盛りの木々を揺らすと、花吹雪を人々の頭上に舞わせて文様を作り出し、有利の生誕を祝うメッセージを花で描いた。

 紅の蝶は人型の状態で纏っていたドレスを流麗な動作でふわりとひらめかせ、その残像が消えぬうちに無数の蝶となって散開すると、暖かな熱と光とを放って人々の間を行き来した。

 土の要素を司るエルンスト・フォーゲルは、幻影により硝子製の天馬を作り出して人々の間を疾駆させた…。





 思い出せば、次々に信じられないような映像が瞼に浮かんでくる。

 有利の治める国…眞魔国。

 剣と魔法…魔術と精霊…そういったものが身近な存在として息づいている神秘の国…。



 いや、《神秘》という言い方は語弊があるだろう。



 何故なら、そこは紛れもなく篠原の友人である有利が息をして…足をつけて生活していく国なのだから…。

『卒業したら…あの国こそが渋谷の生活圏になるんだわ…』

 豪奢な城内…広大で力在る眞魔国の領土を案内され、華麗な魔族の重鎮達に紹介して貰った時、最初は戸惑い…王である有利にどう向き合っていけばいいのか困惑もした。

 だが…篠原は黒瀬や会澤と話し合って決めたのだ。

 自分たちは、有利をありのままに受け止めよう…。

 魔族達の前での扱いは流石に一線を引いたものにするとしても(有利がその事で軽んじられては困るので)、それ以外ではいつも通りの付き合いをしていこうと…そう決めた。

 王様であることも、自分たちのクラスメイトであることも…どちらも彼にとって大切な要素に違いない筈だから…。

『だから…利用出来るものは遠慮せず、きっちり利用させて貰うわ』

 この辺がちゃっかりした主婦的思考回路というものだろうか?

「うーん…そりゃまぁ…イベント事は好きな連中だし、眞魔国で芸当を披露したときに味をしめたみたいだから頼めばやってくれると思うケド。なぁ…篠原、それはそうとして今年は俺、女装しなくて良いよな?」

 恐る恐ると言った風に聞いてみれば、存外あっさりと頷いて貰えた。

「良いわよ?今年はハロウィン風味のお化け屋敷だもの。ちょっと猫耳をつけるくらいでいいわ」
「猫耳はつけるんだ…」

 眞魔国での一件を思い出して有利の唇がうにゅりと歪む。

「何?不満があるなら魔女でも良いわよ?チラリズム萌男の股間を刺激するような素晴らしい衣装を作ってあげましょうか?」
「え…遠慮しときます!…つうか、何故股間を刺激する必要がある?それに、今年だけは絶対止めてっ!!」
「なぁに?えらく気にしてるのね…もうこれだけ女装してたらいい加減周りの連中も恒例行事として生暖かく見守ってくれるわよ?」
「いや…見守られたくないし、恒例行事にもされたくないんですけど…特に今年の文化祭は駄目なの!その…グウェンが来る時期と被るんだよ……っ!」
「グウェン…?ああ…あの迫力のある長身美形?フォンヴォルテール卿グウェンダルさんだっけ?あの人こっちに来るの?」
「ん…こないだ俺の誕生日会を盛大にやってくれたろ?あの夜に結構夜更かししてコンラッドやグウェンと喋ってたら、何かそう言う話になったんだよ。なんでも俺の地球での生活を見ときたいんだと」
「ふぅん…」

 篠原は眞魔国にいる間、彼と喋る機会がなかったので特に人(魔族?)となりを知っているわけではないが、有利の様子から行くと相当彼に思い入れがあると見える。

「あの人って、コンラートさんの種違いのお兄さんだよね?コンラートさんと結婚すれば渋谷のお兄ちゃんにもなる訳か」
「そーなんだよ。なんか照れちゃうなー」

 本当に照れ照れと頬を染めて笑顔になるものだから、きつい性格の篠原もついつい笑顔で見入ってしまう。

「分かったわよ。王様としてあんまり恥ずかしくない姿になるように衣装作ったげるわ」「ありがとうー!」

 にこにこ顔の有利を見守りつつ、篠原は少し小首を傾げて考えた。

『グウェンダルさん…か。どうして今の時期に渋谷の暮らしを見ておきたいのかしら?』

 有利は卒業と同時に魔王業に専念することになる。

 有利が帰ってくるまでの間、実質的な魔王としてその代行を勤めていたグウェンダルは、一線引く形で宰相の座に《降りる》ことになるのだろう。

 そのことをグウェンダルも歓迎していると聞くが…。

『普通だと…いい気はしないもんだと思うケド…』

 グウェンダルがどういう人柄なのか分からないので、あくまで一般的な感想にはなるが…普通だと、何年も王様業を破綻なく勤めてきた人物が、王様が帰ってくるからと言ってにこにこ顔でその座を明け渡すいうのはなかなか心情として理解しがたいものがある。

 よくある王朝モノだと、そこで魔王派と宰相派に別れて血みどろの権力闘争や陰湿な宮廷劇が展開されそうなのだが…。

 ちらりと目線を有利に送れば、頬を染めて俯いている様子が大変愛らしい。

『そんなに信頼出来る人なんだ…』

 だが…そんな信頼に足る人物が、何故今の時期に地球訪問を希望したのだろう?

 国の要人が数日間とはいえど執務を離れて異国に来ようとするその理由が、篠原には少し気に掛かった。

「ねぇ…グウェンダルさんって、権力に執着ないタイプ?」
「…うん。ないんだよ…これが」

 しみじみと頷く有利の眼差しが心なしか自嘲の念を含んでいるように見えて、篠原は小首を傾げた。

 彼が権力に執着を持たないことに、有利は何か引っかかりを持っているように感じたのだ。

「そうだね、フォンヴォルテール卿は無意味に権力に固執したりはしない」

 家庭科室の横開きの扉をがらりと開き、話に首を突っ込んできたのは村田健である。

「村田君、何か用?」
「いやいや、単に親友の渋谷がどうしてるかなー?って気になっただけだよ。君にあまり露出度の高い服をさせられたりすると、渋谷が迷惑を被るわけだしね」
「あたしの作る衣装は渋谷の愛らしさを存分に演出させる為の道具よ?今時のコスプレパブみたいなイロモノとは違うの」
「渋谷の愛らしさは厚手のセーター5重ねにしたところで色褪せるものではないよ。それより、害虫が寄ってこないようにする配慮の方が必要なんじゃないかな?僕は親友として渋谷が心配なんだよねー」
「あたしだって親友として、渋谷の魅力を存分に周囲にアピールしたいの」
「そういうアピールはそうそう多方面に垂れ流すものではないと思うな。何しろ彼は…僕にとって親友であると同時に、何物にも代え難い…王だからね」

 怜悧な微笑を浮かべる村田に、篠原はぐっと喉をつかえさせた。

 さしも弁の立つ少女と言えど所詮18歳の小娘に過ぎない。

 四千年の歴史の中で複雑怪奇な人格形成を成し遂げた《大賢者》に敵うべくもないのだ。

「……古狸の大賢者様に《王様》って太鼓判を押して貰えるのは良いけど…あんた、都合が悪くなったらグウェンダルさんとやらに乗り換えたりはしないんでしょうね」
「まさか!」

 嘲笑う意図を隠そうともせずに村田は失笑する。

「僕は、僕が認める者にしか仕えるつもりはない」
「…村田」

 彼には珍しい直球な言葉に、有利は心なしか感動めいた色を浮かべて友人を見やった。

「俺…王様として仕えたい感じがする?」

 小動物のようにつぶらな瞳をキラキラと輝かせて聞いてくる王に、村田は重々しく頷いた。

「ああ…君は実に良い素材だよ。突っ込み所が沢山あって、からかい甲斐がある。そう言った意味ではフォンヴォルテール卿も実は良い勝負なんだが…僕が仕えたいと思うのは、やはり君だよ、渋谷」
「グウェンダルに突っ込み所なんてある?可愛い物好きとかは国政に関係ないし…」
「そういう嗜好の問題だけじゃなく…彼は彼なりに国を治めると言うことに対して迷いを持ったり堂々巡りをしたりしているのさ。君にもそのうち分かるよ」
「うー…コンラッドと良い村田と良い…どうして俺の周りには、察しがついてるのに答えを教えてくれない連中ばっかり何だろ?」
「……………ウェラー卿と同列に扱われるのは釈然としないけど…取りあえず、この件に関して言えば他人が説明したところで納得出来るものではないだろうと言うことさ」
「そーなの?」
「ああ、そうさ。君は君らしく、自分が眞魔国をどうしていきたいかだけを、素直に…実直に考えておくことだ。そうすれば、フォンヴォルテール卿が何に迷い、何を知りたいかを理解し、互いに答えへと辿り着く道を指し示すことが出来るだろう」

 何処か予言者めいた言い回しで、村田が呟く。

 その眼差しが奥深く…深夜に深淵の湖を覗き込んでいるような心地にさせるものだから、有利と篠原は沈黙するしかなかった。

 より深く…多くを知る者の深すぎる思考に、自分たち若僧は時として沈黙するしかないことを知っているからだ。








 

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あとがき

  『虹を越えていこうよ』の続編、始めてしまいました。
 多分、現在考えている構成ですと、10話以内で終わると思います。
 ただ、このシリーズは色々と考えながら書いていきたいので、かなりノロノロ進行でアップしていくと思います。
 ですので、「一気読み派」の方々には申し訳ないコトになるかな…と思います。

 煮詰まるたびにうさぎ話やパラレルものを書き散らすことになると思いますが、連載ものを途中で投げ出したことだけはないので、最後の着地点まで気長にお付き合いいただければと思います。

 それでは感想などお聞かせ下さると、執筆パワーに繋がりますのでよろしくお願いします。