君を助けにいくよ
がらんとした空間には、有利がいたときと同様にパステルカラーのクッションや縫いぐるみが置かれ、馴染んだ生活用品が整然と並んでいる。 朝、出勤したときと何も変わらない空間。 当たり前の現実が…そこには無慈悲なほどの厳正さで存在した。 「は…はは……」 おかしくないのに、笑いが出た。 琥珀色の瞳は透明感を失い…空漠とした色調を呈して《自分の部屋》を見ていた。 ここは、コンラートの部屋だった。 だが…何時の間にか、ここは…コンラートだけの部屋ではなくなっていたようだ。 もう一人ここに居ないと…ここは、人の住む部屋として機能しなくなってしまうらしい。 『ユーリ…君がいないと、俺は…心が空っぽになってしまうみたいだ……』 弟に疎まれたときには哀しかった。 寂しかった…。 けれど、コンラートには代わりになるものが沢山あり、少なくとも…空っぽではなかった。 やりたいこと、楽しいことが他にもあった。 だが…あのちいさな鬼の子がいない現実はあまりにも味わいのない、虚無に近いむなしさをコンラートに突きつけるのだった。 「ヴォルフの代わりなんかじゃない…君だから…唯一人の君だから……俺は……」 こんなにも、空っぽなのだ。 有利は…コンラートの心の大きすぎる領域を占めるようになっていたのだ。 だから今、コンラートは…哀しみよりも無惨な空虚さに、涙を零すことも出来ないのだ。 「ユーリ…っ」 ずきん…ずきんと右の側頭部が疼く。 伯父の折檻による傷が…有利が居る間は感じたことのない痛みが、ぶりかえしてきた。 朗らかな父の愛を一心に受けて育ったコンラートが、初めて出会った凶暴な悪意…罵倒…暴力……その恐怖の記憶が身体を萎縮させ、猛烈な吐き気を呼ぶ。 『お前が家族と呼んで良い者は墓坑のなかに居る男だけだっ!!』 伯父の罵倒が殷々と頭蓋内に反響する。 後年…伯父のその悪意の源が、母ツェツィーリエの再婚相手にと彼が手配していた男との結婚直前に、母がダンヒーリーとの間にコンラートを身籠もり…その為に結婚…要は、伯父の政略に沿う段取りが流れてしまったことが大きな理由であったらしいと知った。 だが、少年だったコンラートにそんなことが解るはずもなく…遠く離れた母の真意を知る術もなく、伯父に痛罵されることは耐え難い苦痛だった。 自分が…本当に愛されるべき資格もない人間なのではないかと思ってしまいそうだったから。 『だから俺は…家族が恋しくて…そして、怖かった……』 愛おしいと思った者に背かれることが怖かった。 拒絶される苦しみを味わいたくなかった。 だから、どれほど魅力的な女性と付き合っていても、どこかに障壁を張り巡らせていたのかも知れない。 だが…有利には、その障壁を設けて接することが出来なかった。 あの子があまりにも素直に、純粋に…感情を露わにするから。 染みこむように優しく、やわらかく…心の大切な部分に彼という存在が流れ込んできたから。 「ユーリ……っ」 会いたい。 いま君に…たまらなく会いたい。 コンラートの背は、あの細い腕に抱きしめられることを求めて震えていた。 「ふぅん…君が、渋谷を誑し込んだ男かい?」 突然…氷のように凍てつく声が、ベランダから放たれた。 は…っと顔を上げたコンラートの見たものは…青白い焔を纏った一人の少年…。 有利とは異なる、鬼の子だった。 漆黒の髪は肩口程度で外側に跳ねさせ、甘く整った顔立ちに細縁の眼鏡を掛けた15、6歳程度と思しき少年…。 髪同様漆黒の深い色を湛えた瞳は冷然とコンラートを見据え、細い腕を胸元で組んでいる様子は、そういった年頃の少年が見せるふてぶてしさとは一線を画しており…何故だか見る者を畏怖させずにはおかぬ威圧感があった。 「君は…ユーリの友達かい?」 「ああ…そうさ。親友…だと、僕は自負していたんだけどね…」 鋭い語調の中に混じる苦々しさは、彼の思い通りにならない事柄が存在することを匂わせていた。そういえば以前にも、有利は《ともだち》と喧嘩をしたと言っていたことがある。 確か… 『俺が、ユーリを食べると思っているんだったっけ?』 だから初対面でこれ程の嫌悪感を放っているのだろうか? 「まぁ…僕については、名前と渋谷の関係者だって事だけ解っていればいいよ。僕は村田健。そして用件はひとつ、君に渋谷を救う気があるかないか尋ねたいだけだ」 「救う…?」 ざ…っと血の気が引く音が、耳元に響いたような気がした。 《救う》…つまり、有利はいま…《救う》べき立場に立たされていると言うことか? 有利は…幸せに家族の元で暮らしているのではなかったのか? 「どういう…ことなんだ!?ユーリは…ユーリはどうしているんだ?俺は…ユーリが家族の元に帰ることが幸せだと思ったから…っ!」 血を吐くような思いで手放したというのに…っ! 有利は…まさか、家族に愛されていないとでも言うのだろうか?かつてのコンラートが伯父から受けた仕打ちのように、惨い折檻を受けているとでも? ならば…決して許してはおけない。 ぎり…っと食いしばる歯列の軋みを冷淡に見やりながら、村田は簡潔に状況を説明した。 * * * 家族の元に戻った有利は叱られたり泣かれたりはしたものの、折檻を受けたりはしていないとのことだった。有利の家族…両親と兄とは有利を溺愛しており、有利の肉体に傷を負わせることなど考えられない者達なのだそうだ。 だが…長期間に渡って人間界に滞在し、それだけでなく…人間と深く睦み合った有利を許さなかった者が居た。 鬼族の長…《眞王》と呼ばれる金髪碧眼の青年王である。 『人間と睦みすぎた者は鬼族を裏切る事がある。渋谷有利は鬼族への忠心を示せ…!それが出来ないのなら、二度と人間界に降りることは許さぬ…!!』 古(いにしえ)の昔…王は親友と信じた男に裏切られたことがある。 人間と恋に落ちた鬼の手引きで地上にかつて存在した鬼の国は蹂躙を受け、眞王は怒りと共に人間もろとも国土を雷で吹き飛ばし、天上に国を拓いて民を住まわせるようになった。 それ以降…地上に降りる事自体は咎められないものの(地上への思慕が押さえきれない鬼は沢山いたので)、必要以上に人間と交わった者に対しては《試練》が与えられるようになったのである。 これに、勿論家族は猛反対した。 特に、蕩けるほど弟を溺愛している兄の勝利は《二度と…決してゆーちゃんを地上に降ろしたりしないから許してくれ!》と請うた。 だが…当の有利がその《試練》を受けると言い出したのだ。 『俺…みんなを裏切ろうなんて思ってない!でも、コンラッドのことも大好きなんだ《しれん》ってやつを受けて信じてもらえるなら、俺…やるよっ!』 誰が言ってもテコでも引かず、有利は《試練》に立ち向かうこととなった。 * * * 「僕があんなに必死で止めたのに…渋谷ったら、全然聞きやしないんだ。《だって俺、コンラッドに会いに行きたいんだ》の一点張りさ。君…一体どうやって渋谷を手懐けたのさ?美味しいお菓子?可愛い人形?蕩ける様な甘い言葉?全く…何が望みなんだい?」 「手懐けたなんて…言わないでくれないか?」 凛としたコンラートの言葉に、村田はぴくりと片眉をつり上げた。 「俺はあの子が好きだよ。ただ…それだけだ。あの子が幸せでいてくれる事以外に望みなど無い」 「嘘ばっかり…信じられるもんか。僕にはね、四千年の記憶があるんだよ?昔から何度も繰り返されてきた人間の裏切りにはもう飽き飽きしているんだ。下心なしに君達人間が動くことなどあり得ない」 「信じられないのなら…どうして俺にユーリを救う気があるかなどと聞くんだい?」 「……っ!」 ぎり…っと村田の下唇が歯列に噛みしめられ、淡く血を滲ませる。 「君に…渋谷が執着しているからさ…っ!君が渋谷の思い人だからさ…っ!!《試練》は鬼の思い人…つまり、人間にも科せられる。だが…やるかやらないかは人間側に選ばせるんだ。その人間が、鬼のために《試練》を受けることを拒絶すれば、いくら渋谷が華を摘むことが出来ても、試練は成就しない…渋谷は、永遠に亡者の群れの中を…《地獄谷》を彷徨うことになるんだ…っ!!」 「それを早く言ってくれ!そしてとっとと俺を連れて行ってくれ!」 血相を変えてコンラートは叫んだ。 「…はぁ?君…」 予想外の決断の早さに驚愕しているのだろうか…きょとんと目を開く村田は、初めて年相応の容貌になった。 毒気を抜かれれば、この少年は大層愛らしい容貌をしているようだった。 「御託は良いから早く連れて行ってくれ…っ!ユーリは痛い思いをしているのか?お腹をすかせているんじゃないのか!?」 「…渋谷は、裸足で険しい断崖を登っている。だから…脚も膝も手も…もう血まみれさ。お腹もすいてるだろう…だけど、渋谷は何度転げ落ちても絶壁に生える一輪の華を目指して歩いていくんだ。それを取ることが出来れば、君にまた会えると教えられているから…」 「俺は何をすればいい?」 「渋谷と同じことを、渋谷とは違う場所でやるんだ。君と渋谷とが、それぞれ絶壁に咲く華を摘めば《試練》は成就する。ただし…摘んだ華は決して散らしてはいけない。天に高々と掲げ、眞王が認めなければ《試練》は終わらない。それに、君も一度この試練を受ければもう、試練を成就しない限り地獄谷から抜けることは出来ない。さあ、どうす…」 「やる。連れて行ってくれ」 「……………君は…どうして、そんなに迷い無く決断するんだ?」 半ば呆れたように言うところからみると、余程今までの事例では引き受け手が居なかったのだろうか? だが、今のコンラートにはそんな事情を鑑みている暇はない。 一秒でも一瞬でも早く…その地獄から有利を救い出さねばならないのだ。 お腹がすいていて弱っているというのなら、きっと有利は少年の姿ですらないのだろう。ちいさな幼子の柔らかい肌に、岸壁の棘が如何ほど鋭く刺さることか…っ!自らの肌合いに感じるように、慄然とするような痛みがコンラートを襲う。 「ユーリを…少しでも早く救いたい。痛みから解放してやりたい…だからだよ」 願うのはただそれだけだった。 「……分かった」 まだコンラートを信じ切ったわけではないのだろうが…少なくとも、この場での本気度は認めてくれたらしい。村田はコンラートの目元に用意してきた黒布を掛けると手を引き…何かふわふわしたものの上に乗らせると、天高く浮上していった。
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