君のためにできること
囂々(ごうごう)と耳元で風が啼き、刺すような冷気が素肌を切り裂くように吹き抜けていく。コンラートは目隠しをされた状態で、両手で掴んだ村田の肩だけを頼りに、長い時間飛び続けていた。 そしてすっかり関節の節々が強張ってしまう頃…突然身体が突き飛ばされ、硬い大地に叩きつけられたのを感じた。 「…っ!」 視覚のない状態で放り出されたため、距離感が掴めずに肘や膝を擦り剥いてしまう。 「目隠し…もう取っていいよ」 言われて黒布を目元から取り払えば…眼前に広がっていたのは荒涼たる岩砂漠であった。大気はかさかさに乾ききり、細かな砂埃が目やら鼻やら…とにかく、粘膜で構成された箇所全てを刺激する。 そして…周囲をよろよろと歩いていくのは不気味な…乾ききったミイラのような生き物たちだった。これが亡者と呼ばれる者達だろうか? 「……これは…」 思わず息を呑んでしまう。 それほどに、彼らの様子は異様だった。 亡者は手足の先に三本のかぎ爪をつけ、腕や下肢は異様に細く…逆に、下腹だけがやけに突き出ており、毛髪と思(おぼ)しきものは一切生えていない。それぞれに醜く歪んだ形相をしており、目鼻口…といった構造は全て垂れ下がる襞の中に飲み込まれているようだった。 彼らは一様に同じ方向を目指し、よたよたと重い足取りで荒野を歩き続けていた。 彼らの向かう先を見れば…切り立った岩壁が連なっており、一際高い絶壁から蒼い花弁を持つ美しい華が一輪生えていた。おそらく…これが試練のお題たる華なのだろう。 どうやら周りにいる夥しい量の亡者もその華を目指しているらしく…華の周りまでくると、無気力に見えた亡者が突然凶暴性を増し、華を摘もうとする亡者に殴りかかり…蹴り倒し…隙を突いて奪ったかに見えた者が崖から突き落とされる。 それは…凄惨な光景であった。 『こんなところに…ユーリが?』 正確には、コンラートと同じ場所には居ないと言われた。だが…似たような争いが行われていることに違いは無いのだろう。 争い事を何よりも嫌うあのちいさな鬼の子が、どんな思いで華を目指しているのだろうか…? 「ここは地獄谷…真の地獄と鬼の世界の境界にある場所だ。この連中は、罪を犯してここに堕とされた鬼や人間のなれの果て…醜い姿に変えられ、低い知能の中に闘争心と、《華を摘むことが出来れば生まれ変わることが出来る》と…その事だけを刷り込まれた連中さ」 「彼らと競い、華を手に入れなければならないと?」 「そういうこと。…健闘を祈るよ。君のためではなく…僕の親友のためにね」 「ああ…」 村田は黒雲に乗り、後も振り返らずにくすんだ空の彼方へと飛んでいった。 残されたコンラートは荒野に足を踏み出す。靴下さえ奪われ…剥き出しになった足底に、ごつごつとした岩は容赦なく裂傷を刻んでいくのだった…。 * * * コンラートは、何度も何度も岸壁を這い上がって華を目指した。 だが…遠望したとおり、華の周囲での争いは凄絶な様子だった。 誰もが転生を願って華に手を伸ばし、やっと手に入れたと思っても横から奪われ…そうさせまいと争う内に華はもみくちゃにされてしまい、萎れた華を天に掲げても何の変化も訪れない。認めるには不十分…ということなのか。 だが…不思議なことに、華は摘まれても摘まれてもすぐに新たな蕾を膨らませ、亡者の争いを悠々と見下すように美しく咲き誇るのだった。 コンラートは何度目かの滑落に舌打ちした後…殆ど感覚のなくなった足を再び岸壁にかけた。 「…っ!」 新たな血潮が流れていくときだけ、流石に足底の感覚が蘇る。だが、コンラートは辛うじて身に纏うことを赦されたシャツなどで足をくるむことはなかった。これ自体が試練だというのなら、耐えて見せようと思ったのだ。 『耐えてやる…この程度のこと、俺は耐えることが出来る。だが…あの子に、こんな事をさせないでくれ…っ!』 滑った指先が棘に引っかかり、右手の人差し指の生爪が剥げかけ…喉奥に悲鳴が突きあげるのをぐっと耐える。叫べばそれだけ体力を消耗し、気力を失うからだ。 『ユーリ…君の柔らかい手や足は、もっと傷ついていることだろう…っ!』 こんな痛みを、何故あの有利が負わなくてはならないのか?あの子はただ…コンラートに会いたいと言っただけなのに…っ! 冷静になろうとする端から、思考は有利の事に傾き…苦しければ苦しいほど、コンラートは有利を思って気を焦らせた。 一度は蒼い華の間近まで来たのだが…狂おしい思いで伸ばした手はしかし…荒々しい亡者のかぎ爪で引き裂かれる。 「うわぁぁ…っ!」 ぐらりとバランスを崩して倒れ掛けたコンラートは、蒼い華の向こうにある…底知れない深淵を見た。 『これは…っ!』 断崖は亡者達が向かう側も切り立っているが、こちらはまだ登っていくことが出来、底も見える。だが…丁度蒼い華を越えた当たりから先は恐ろしい崖になっており、コンラートの横で華に手を出して突き飛ばされた亡者が絶叫をあげながら落ちていった。 そして…二度とその亡者が這い上がってくることはなかった。 あちらに落ちれば、やり直しはきかないらしい。 コンラートだけではなく、周りの亡者も流石にぞっとしているらしく、華の周りの闘争はほんの僅かな間だけ静けさをたもち、鼻白んだように闘争が薄れた。 その隙を狙って、すばしっこい亡者が果敢に華に飛びつこうとしたが、後少しと言うところで大柄な亡者に振り払われてしまう。 「…ぁっ!」 咄嗟に…コンラートは手を伸ばして小さな亡者を受け止めた。 特に考えあってのことではなかった。 ただ…その亡者がまわりの連中から見ると最も小柄であったことと、振り払われた先が例の崖になっていたことから、そのまま落ちていかせるのが忍びなかったのである。 「……」 ちいさな亡者はコンラートの手に怯えたように震えたが、鋭い爪で掻いたりはしなかった。ただ…真意を伺うよう…怪訝そうに小首を傾げてみせる。 その様子が…どうしてだか有利を思い起こさせた。 容姿はただ背丈が小さいと言うだけで、ひとつも似た所など無いというのに…。 それでも…コンラートは優しくちいさな亡者の手を撫でると、華の周りで再び起こり始めた激しい争いを横目で確認した。 『もしかしたら…今なら、とれるかも知れない』 亡者に比べて一際大柄なコンラートは目立った存在だから、余程良いタイミングを狙わないと華を取ることは出来ない。だが…このすばしっこい亡者なら、コンラートが庇ってやれば華を取ることが出来るのではないだろうか? 本当は、こんな事をしている場合ではないのかも知れない。 だが…そういうことをコンラートがしたと聞けば、あの子は怒るよりも喜んでくれると思うのだ。 『凄いねぇ、コンラッドはどんなときでも親切だよね。俺…コンラッドのそういうトコが大好きだよ』 お日様みたいな笑顔が瞼に浮かぶ。 『そうだね…そうだ。華は摘まれてもすぐに咲く。なら…今は、この子に取らせてあげよう…』 あの崖に落とされては堪らないが、それだけ気をつけておけば大丈夫。滑落したとしても、また登ってみせる。 「坊や…今なら取れる。行っておいで?」 コンラートの言葉は理解できなかったようだが、自分の背を優しく押す手と…そして、他の亡者達に掴みかかるコンラートの様子から意味を悟ったちいさな亡者は、恐る恐る華に手を伸ばそうとした。 『そうだ…後少し……』 だが、コンラートはこの時…ちいさな亡者に意識を奪われすぎた。 「うわ…っ!」 コンラートが掴んでいた亡者の鉤爪が一閃すると、瞼を引き裂き…溢れ出した血が右目の視覚を奪う。亡者達は血に酔うかのように、コンラートへと次々に飛びかかってきた。 「くぅ…っ!」 頭髪と肩…そして足首を別々の亡者に掴まれ、逃げることの叶わないコンラートに鉤爪が食い込もうとしたその瞬間…。 「キーーッッ!!」 意味の分からぬ…けれど、切羽詰まった高い声が響き…コンラートを襲おうとしていた亡者に飛びかかった影があった。 コンラートが庇った、あの…ちいさな亡者だった。 華の目前まで到達しながら…その子は、襲われるコンラートを救おうとして大柄な亡者達に飛びかかっていったのである。 だが…それは無謀すぎる行為だった。 簡単に跳ね飛ばされたその身体はぽぅん…と鞠のように弾み、底知れない崖の向こう…暗き深淵へと吸い込まれていったのである。 「な…ぜ……っ!」 掴もうとした手が宙を掻き…暗がりに消えていく姿を、コンラートは呆然と見送るしかなかった。 「何故…何故だ…っ!!あのまま華を掴んでいれば転生できたのに…っ!」 コンラートを庇おうとしたりしなければ、あの子は新しい命を得ることが出来たのに。 何故、あんなちいさな身体で亡者達に飛びかかっていったのか。 「ぁあああああぁぁぁぁぁ………………っっ!!」 喉を劈くような慟哭をあげたその時… ぽぅ…と、深淵の奥から暖かな光が浮上してきた。 ぽぅ… ぽぅ…… 蛍火のようにうつくしい…いや、蛍火のようなどこか寂しい光とは違う、暖かな光…。 ほわほわとした質感の光に包まれながら浮上してきたのは、赤ん坊のように丸まった、あのちいさな亡者だった。 「君…っ!」 コンラートの歓喜は、そこに留まらなかった。 ちいさな亡者はほわりふわりと舞い踊る光の粒にくるまれていき…その光がスライドして行くに連れて、薄皮を剥ぐように姿が変化していったのである。 折り重なっていた襞状の肌はすべらかな薔薇色のそれへと変わり、襞に隠されて判別も難しかった目は長い睫に覆われ、ちょこんと突き出たひよこのような唇は桜色に染まり、ちんまりと形良い鼻はひくひくと動く…。 一本の体毛も認められなかった頭部をふわりと黒髪が覆い…ちんまりと前頭部から伸びるのは小さな角。 見間違えようがない… それは、幼い姿の時の鬼っ子有利であった。
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