「君がいない日」
「コンラート課長…最近、体調が優れない様子ですけど…お風邪でも召しまして?」 「いや…そんなことはないんだけど……」 しばし物思いに沈んでいたせいだろう…コンラートは珍しく、女子社員に何度か声を掛けられるまで意識を飛ばしていたらしい。 は…っと気付き、申し訳なさそうに微笑む彼の…最近とみに《愁いを帯びた眼差しも素敵…》と、甘い吐息と共に女子社員一同から囁かれる容貌は、見惚れる者が呆然と佇んでしまうほどに美しい…。 やや沈み気味な琥珀色の瞳には長い睫の影が落ち…彫りの深い造作は痩せてしまったせいでその陰影をより濃いものにしており、長い指でダークブラウンの頭髪を掻き上げる様子などは見ていて切なくなるほどの哀愁を漂わせるのだった。 『もしかして、失恋…?』 『そんなまさか…!あの課長に限って…っ!!』 『でも…、お相手がどうしても課長とは添い遂げられない身の上だったら?既に結婚してるとか…』 『あたしなら亭主と別れたって課長との愛に身を投げるわよっ!!』 『一人で勝手に投げてなさいよ。課長が巻き込まれたら妄想とはいえ良い迷惑だわ』 自分の憂い顔をネタに女子社員が取っ組み合いの喧嘩をしている等とは知らず、コンラートはまた意識を飛ばしかけて目頭を押さえた。 『いけない…また、考えてしまっている……』 仕事に没頭している内は良いのだが、一段落してしまうとつい思い出してしまうのだ。 あの…ちっちゃな同居者のことを…。 コンラートが買って帰った、さわり心地の良いタオル地の縫いぐるみを渡せば、 『コンラッドーっ!これかぁいいねぇっ!!』 きゅううっと抱きしめて、ふこふこの感触を身体いっぱいで味わっていた。 そして、温かい飲み物を注ぐと絵柄が変わるカップを見せれば、 『おもしろーい!すごいねぇ!!』 まんまるなお目々をぱちくりと開き、ちいさな手で大切な宝物のように厳かにカップを捧げ持ち…あふれるような好奇心と感嘆の声を上げた。 そして…テレビで、迫害される民族や悲惨な事件に巻き込まれた人々のニュースを見れば… 『ふぇ…ぇえ………ぇっ……こ…こんなの……ひど…ひどい…よぉ……どうして?どうして…?』 ぽろぽろと…目が溶けてしまうのではないかと心配になるくらい大粒の涙を零して、まるで我が事であるかのように涙に暮れていた鬼の子ども……。 『ユーリ……』 その名を閃かせるだけで…コンラートの胸にはきゅうぅ…っと引き絞られるような痛みが走る。 目を閉じれば嫌でも蘇る。 あの…大きさを変転する無邪気な子鬼の姿が…目で、鼻で、肌合いで感じてきたあの子の記憶が…。 俊敏なのに、何でもないところに引っかかったり、思わぬ所で転んだりするおっちょこちょいなところ。 柔らかい肌から薫る子ども独特の甘い香りと、少年に成長したときの爽やかな香気。 コンラートの腕にすっぽりと収まるちいさな身体が、安心しきってすぅすうと立てていた健やかな寝息…。 どちらの大きさの時にも感じる、胸の奥の大切な部分にひたひたと沁み込んでくるような…まぶたが熱くなるような…暖かな想いの奔流…。 『ユーリ…ユーリ……』 可愛くて…愛おしくて……ずっと一緒にいて、すくすくと育ちゆく様子を見守っていたいと思っていた。 だが…あの子が可愛いからこそ、コンラートは《家》に帰らせたのだ。 あれほど愛らしい子どもを育てた家族が、彼の不在に心を痛めていないはずがないから。自分なら、あの子が何処に行ったのか知れず…何処かで哀しい目に遭っているのではないかなどと思ったらとても落ち着いて暮らしていることなど出来ない。 『ユーリ…君はいま、家族と幸せに過ごしているのかな?』 そうであれば良い。 便りがないのは元気な証拠…きっと、コンラートの事も忘れてしまうくらい、家での暮らしが楽しいのだと思えば良い…。 だが…理性的な表層意識の影でどろどろと蠢く想いが囁くのだ。 『何を綺麗事を…そんなことを言っているから、お前はいつだって何にも手に入れることが出来ないんだ』 そう囁く…蔑んだような眼差しを浮かべた子どもは…小さい頃のコンラートだった。 「…っ!」 軽い吐き気が込み上げてきて、コンラートは口元を覆った。 吹き出す感情は馴染みのあるものであったが、それはあくまで少年時代のことであり…ここ近年はついぞ無かったことだ。 自由な風のようだった父を事故で喪い、母に引き取られた少年時代…コンラートは、最初の内はドイツ郊外に建てられた館で、母と小さな弟のヴォルフラム、そして数人の使用人と共に楽しい日々を過ごしていた。だが、恋多き女性であった母が出来たばかりの恋人を追って長い旅に出ている間、館の管理を任されることになった伯父シュトッフェルは…随分と差別意識の強い男だった。 『何処の馬の骨とも知れん男の息子が、この館で大層な顔をするものではない!』 まだ身体の骨組みも十分に出来ていないコンラートを、あの男は火掻き棒で殴りつけたこともあった。その時の傷はまだ側頭部に残されており、湿気が酷い環境では渋るように痛むことがある。 しかし、そんな傷よりもコンラートを痛めつけたのは、ヴォルフラムが…自分を退けたことだった。 彼が伯父やその取り巻きの言う言葉を鵜呑みにしているとは信じたくないが…近頃は顔を見るだけで明確に嫌そうな顔を見せ、触れることも声を交わすことも厭うようになった。 『もしかしたら…俺は、ユーリとヴォルフを重ねて見ているのだろうか?』 初めて会った頃、弟のヴォルフラムはお人形のように可愛くて、何処に行くにもコンラートについてきては《ちっちゃいあにうえ》と呼んでくれた(ちなみに、コンラートと《おっきいあにうえ》であるグウェンダルという青年とは年に数回、宴席に同座したときに顔を合わせる程度であったので極めて疎遠な関係である)。 この小さな弟のために、コンラートは何でもしてやりたかった。 だから…その弟の代わりに有利を可愛がることで代償しようとしたのだろうか? だとしたら…有利は、やはり家に帰って正解だったのだろう。誰かの代わりに愛されるなど、喜ばしいことではないだろうから…。 『でもユーリ…時々は、会いに来てくれないかな?』 有利は別れの日、振り向かずにこう叫んだ。 『さよならなんか言わないよ!』 《帰ってくるから…必ず、帰ってくるから……》彼の言葉がそう囁いているようだったから、コンラートは…その約束が果たされる日を待ち侘びているのだ。 だが…あの日から既に1ヶ月の時が経過しても、有利は帰っては来なかった。 * * *
残業を終え、帰路に就くコンラートの頬に冷たい雫が降りかかってきた。 「…雨、か………」 ぽ… ぽぽ…ぽ…… 見る間にアスファルトには斑点が広がり、夜景に浮かぶ街並みがスライドしていく水の膜に覆われていく。 そして…遠くに響くのは、雷鳴の音。 漆黒の天を青白く劈(つんざ)く稲光に、通行人…特に若い女性達は甲高い悲鳴を上げるが、コンラートの心は対照的な勢いで浮き立ち始めた。 『雷鳴…雷雲……っ!』 もしかしたら… もしかしたら…… 有利が、帰ってくるかも知れない。 《遊びに来る》ではなく、《帰ってくる》…そう、無意識に言葉を選んだコンラートは、少年のように胸をときめかせて夜の街を疾走した。 早く…早く会いたい。 だが、会ったときに…もしかしたら有利はまたお腹をすかせているかも知れない。そういえば、ここのところ食欲が無くてろくな食事を作っていなかったからストックがないし、当然、お菓子なども用意していない。 コンラートはまだ開いているパティスリーに駆け込んで慌ただしく菓子籠を買い求め、そのまま隣の店舗に飾られていた可愛らしい花束まで買うと、法定速度の限界値で車を飛ばして帰路を急いだ。 ユーリ… ユーリ…… 弾む胸が、玄関の扉を開いたところで最高潮に達した。 勢いよく扉を開けて駆け込み、そして…… 暗い…誰もいない部屋に帰ってきた。
|