「さよならなんか言わないよ」








「よ、ケーキ持ってきてやったぜ」
「いちご乗ってるやつ?皮がさくさくのやつ?」
「おうよ!ぱりぱりの生地にたっぷりカスタードと生クリーム、特別契約農家から仕入れた《あまおう》がどっかり5つ入った苺カスタードパイだぜ?」

 グリエ・ヨザックの手みやげに、鬼っ子有利の瞳は輝いた。
 今日はヨザックの店であるパティスリー《ローゼンクロイツ》の定休日で、この日の夕方になると必ずヨザックが手製のケーキを焼いて持ってきてくれる。

 ことに、今日持ってきてくれたケーキは焼きたてのパイ生地がさくっとしている間が食感的に最高なので、夕食前ではあるのだが…特別に食べても良いことになっている。

「ヨザ…洋酒とかは入ってないだろうな?香りづけ程度でもユーリには影響が出るようなんだが…」

 コンラートが心配げに尋ねると、心配はないとヨザックが請け負った。
 普段は確かにシェリー酒を少し入れているのだが、これは特別に焼いたものなのでその心配はない。

 実は、以前ヨザックが持ってきたケーキに洋酒が含まれていたせいで、有利はやっとバレンタインチョコの酒気が抜けかけていたところを振り出しに戻されてしまったのである。

 だが…ヨザックは内心、コンラートがどう思っているのか考えてみたりする。

『内緒で入れといてやった方が親切かねぇ…』

 何事にもあまり執着することがないコンラートは、どれほど魅力的な女性相手であってもあまり長続きすることが無く、よく女性の方から

『あなたは優しいけど、私以外の誰に対しても同じくらい優しいのよね…』

 とか、

『二人きりで居るときの方が寂しい気持ちになるのよ』

 …等と言われて別れを告げられることしばしばであった。

 ところが、この小さな鬼っ子に対する愛情は見ていて微笑ましいほどなのだ。
 傍にいるときの可愛がりようもそうだし、有利が喜びそうなものを買い求めているときの表情なども、蕩けそうなほどの幸せオーラに充ち満ちているのだ。

 そんな有利の酒気が抜け、天空にあるという(ラピュタか?)鬼の世界に帰って行ったら…今生の別れではないとはいえ、酷く落ち込むのではないかと思案してしまう。
 ヨザックは斜に構えた態度の割に、一度入れ込むと情の深いタイプなので…先回りしてそんな心配をしてみるのだ。

「美味しいねぇ!」
「そうだね、ユーリ。あ…ほっぺにクリームが付いているよ?」
「え?どこ?」
 
 反対側のほっぺたを擦る有利に、微笑みながらコンラートが唇を寄せる。
 ぺろり…と、コンラートの舌がほっぺたのクリームを舐めとった。

「ゃんっ!」

 子猫のように愛らしい声を上げて有利が飛び上がると、コンラートは楽しげな笑い声を上げ…少々呆れ気味ながら、ヨザックの頬にも堪えきれない苦笑が浮かぶのだった。
 《こんな日常がいつまでも続くのではないか》、そんな錯覚を誰もが抱き始めた瞬間…皮肉にも、変化の時は訪れた。

「あ……っ」

 ふるりと身を震わせて、有利はすいすい…っと大きくなっていく自分の身体に呆然とした。
 酒気が…抜けたのだ。

「ぅわ…服、破けちゃう……っ」

 慌ててばさばさと衣服を脱ぎ始めたせいで、有利の伸びやかな肢体はコンラートとヨザックの目の前に晒されることとなった。

「ヨザ…横向け…っ!」
「へいへい……」

 突然目の前で展開されたメタモルフォーゼを興味深げに見守っていたヨザックは、コンラートのアイアンクローに鷲づかみされると、強制的に白い壁を凝視させられた。 
 ちいさい有利となら一緒に風呂に入らせてくれるコンラートも、大きくなった有利相手だとヨザックには見せたくないらしい。

『俺は別にゲイじゃないんだけどな…』

 それはまあ…コンラートに対しては友情以上の執着を見せているし、女装は大好きだが…決して肉体的に男の身体を欲しがるということはない。
 寧ろ、これほど警戒するコンラートの方が下地に何かあるのではないかと勘ぐってしまうヨザックだった。

「ふはー…久しぶりに元に戻れたなぁ…」

 すんなりとした上肢や下肢をぎゅーっとストレッチすると、薄付きの筋肉がしなやかに伸び…瑞々しい肢体が一糸纏わぬ姿でフローリングの上に仁王立ちになる。
 見ている方が何となく照れてしまう情景だ。

「…ユーリ、これを着て?」

 コンラートは小さな沈黙の後…引き出しから小さな布地を取り出した。
 それは…有利がこの家に来たときに身につけていた、虎縞の腰布であった。

「ん…ありがと」

 それを腰に巻きながら…有利はどこか寂しそうに唇を尖らせるのだった。

「…コンラッド?」
「なんだい、ユーリ?」
「………」

 もじもじと足先を摺り合わせ…有利は何か言いたげに、上目づかいでコンラートを見つめた。
 だが…コンラートは何処か硬い表情を浮かべたまま、有利の言葉をひたすらに待った。

「あの…ね?もうちょっとだけ、ここにいて良い?あと一日だけいたら…ちゃんと帰るから……」
「駄目だよ、ユーリ」

 声は優しかったが…答えは毅然としたものであった。

「…駄目?」

 うるりと有利の瞳が潤みかけるが、きゅっと一文字に唇を引き結び…懸命に堪えているのが分かった。
 コンラートはそんな有利を見つめながら、小さな子どもを諭すような口調で言うのだった。

「俺はね、ユーリ…。ユーリがここにいる間、ずっと考えていたことがあるんだ」
「………俺……邪魔っけだった?ご飯とかおやつ…食べ過ぎてた?それとも…バット振ったときに飾ってあったお皿割っちゃったの…本当は怒ってたの?」

 有利の声はか細く…切ないものに変わっていき、紅くなった眦が流涙の決壊を予告していた。

「…違うっ!」

 その声だけは堪えきれない感情支配されたように熱く…激しかった。
 だが…すぐにコンラートは声帯を調整すると、大きくなったとはいえやはり華奢な体躯の少年の前に跪いた。

「ユーリがここにいる間…楽しくて…とても幸せで…けど、そうであればあるほど、ユーリの家族のことを考えずにはいられなかった。ユーリも…時々、お父さんやお母さんや…友達のことを…夢で見て泣いていただろう?」
「それは……」
「ユーリとほんの数週間過ごしただけの俺が、こんなにもユーリのことを愛おしいと思うのなら、ユーリを生み、育んできた家族の不安や恐怖はどんなものだろうと…きっと、気も狂わんばかりに心配されているのではないかと、ずっと…心配していたんだ」
「コンラッド…」



 コンラートの喉は強張り、表情は張りつめたように硬いものだった。
 ずっとずっと恐れていた…そして、来なくてはならないものだろうとも思っていた…離別の時…。
 彼はずっと、こういう状況になったら…もし、有利が留まりたいと請うた時…思わず頷いてしまいそうな自分を律するために、幾度もシュミレーションをしていたに違いない。

「ユーリ…君は、帰れるようになったのなら、一分でも一秒でも早く…家に帰らなくてはいけない。お父さんやお母さんのために、そうしなくてはいけないよ?」
「………また…来て良い?」
「良いに決まってる!俺は…待ってるから…いつ君が来てくれても困らなくて済むように…ベランダの鍵はあのままにしておくよ。だから…鍵をなくさずに持っていてね?あれが…俺とユーリを繋ぐ約束の印だと思って…」

 自分の衝動を抑えるように、敢えて有利の肩を掴んでいたコンラートだったが…《待っている》と…そう告げた途端、堪えきれずに有利の細い肢体を抱き寄せた。
 腕の中にすっぽりと収まってしまうこの少年が…どれほどコンラートの生活に安らぎと喜びを与えてくれたことだろう…!
 だが…だからこそ、コンラートは誠意を示さねばならないのだ。
 こんな素敵な少年を育ててくれた、有利の家族や友人達に…。
        
「また…遊びに…いや………」

 ぐ…っと喉奥につかえる感情を爆発させないように…コンラートは言葉を紡いだ。

「……帰って、来てくれ……。ここを、君の…第2の《家》だと思っていてくれるのなら……」
「…うん…うん……っ!」

 こくこくと頷く有利の瞳からは涙が溢れ出し、コンラートの薄青いシャツを濡らしていた。

「俺…帰ってくる!親父やお袋に心配しなくて良いって…コンラッドとか、ヨザックとか…凄くいい人が優しくしてくれるから、遊びにいってても心配しないでって言ったら、また帰ってくるから…。待ってて…ね?」
「ああ、待ってる…待ってるよ……」

 帰ってこいと言いながら…
 …帰ってくると言いながら

 二人の間には尽きせぬ不安があった。

 本当に…そうなるのだろうか?

 有利はあまりにも長い間、所在を知らせずに人間の世界にいた。
 昔話の世界でしか接点のない人間と鬼…。
 ことに、人間から忌避すべき存在として認識される鬼の世界で、果たして有利の言い分が認められるのだろうか?
 だが…それでも、コンラートには有利をこのまま独占し、繋ぎ止めておくことは出来なかった。
 何故なら…コンラートには、子を思う親の気持ちというものを…痛いほどに感じた過去があるからだ。


 コンラートは父を早くに亡くした。
 それも…父の死は、コンラートを庇ってのものだったのだ…。
 冒険家の父が死んだのは皮肉にも大都会の真ん中で…相手は、無免許運転の少年だった。ダンヒーリー・ウェラーは暴走してきた車からコンラート庇って跳ねられ…上肢も下肢も奇妙な具合にねじ曲げられてアスファルトに叩きつけられた。
 夥しいほどの血潮にまみれながら霞む視線の中、息子の姿を映すと…
 …父は、笑ったのだった。

『コンラート…無事で、良かった……』

 それが父の…最後の言葉だった。
 

『俺は…ユーリを家族から引き離すような事は出来ない…っ!』

 それがどれほど苦しいことでも…寂しいことでも…そんな権利はコンラートにはないのだ。
 それに、帰ってくる可能性が無いというわけでもない。
 今は…手放すほかない。有利が家族や周囲の大人達を説得できると信じて…。

 ぴゅっ!

 有利がベランダの扉を開け、鋭く口笛を吹くと黒雲が慕わしげにすり寄ってきた。
 ひょいっと雲に飛び乗った有利は、もう振り返らなかった。
 ただ…一言叫ぶように告げると、天めがけて飛んでいった。

 彼が残した言葉は…

『さよならなんか言わないよ…!』

 ここも、自分の家だから…帰ってくる場所だから…。
 そう言い残して…彼は飛んでいった。
 凄まじい速度を上げて…一直線に、空へ…。  

 後に残されたコンラートは、いつまでもいつまでも…有利の消えていった空を見つめていた。
 ヨザックも声を掛けることが出来ないまま…ぽんっと肩を叩くと帰ってしまったから、結局彼がどれだけの時間そうしていたのか知る者はいない…。


* いっぺん帰ってから、しきり直しするまでの話です。ちょこっと続きます。 *

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