[コンラッドのお友達]

 



「おんやぁ?」

「へあぁ?」



 コンラートのマンションの玄関で、大柄な青年とちっちゃな鬼っ子は、抱き合ったまま互いに間抜けな声を出し合った。

 もっとも、鬼っ子の方は蒼いバンダナを頭に巻いていたから、青年の方は唯の子どもだと思っているようだが…。

「お兄さん…誰ぁれ?」

 鬼っ子は玄関の扉が開くなり、てっきりコンラートが帰ってきたものとばかり思って抱きついたのだが、いつもよりも弾力による打ち返しが激しい筋肉は、コンラートのものではなかった。

「んん?あいつもとうとう年貢の納め時か?いつの間にガキぃ作りやがったんだ?んー…しかし、お前さん…まるっきり日本人だな。父ちゃんの血は存外薄かったのか?…まぁいいや。なぁ、坊や…父ちゃんは留守かい?」

 オレンジ色の鮮やかな髪をした青年は、くしゃりと笑ってそう言った。

 口の端を引き上げるような独特の笑い方は、発達した犬歯の様子とも相まって狼めいた風合いを感じさせる。

 だが、明るい色をした蒼瞳が楽しそうに輝いているせいで、幾らか剽軽な可笑味も感じさせる。

 全体として、《怒らせると怖そうだけど、味方にすると面白そうな人》という印象だ。

 それに、こうして滅多に人の訪れないコンラートのマンションを勝手に開けられるということは、とても仲の良い友達であるに違いない。



 コンラートはいい人だ。

 だから、その友達もきっといい人だ。



 大変素直な関係図を引いた有利は、にっこり笑って友達の間違いを正してやった。

「あのね?コンラッドは俺の父ちゃんじゃないんだよ?コンラッドは俺の友達だよ?俺は渋谷有利、よろしくね」

 オレンジ髪の友達は吃驚仰天して目を見開いた。

「友達?」

「うん、そーなんだ。そんで、俺が行くとこなくて困ってたら、《ここにいても良いよ》って言ってくれたの。だから、こないだから一緒に住んでんだ!」

「ふぅん…。だが、そりゃあ一方的に《世話になってる》んであって、《友達》とは言わないんじゃねぇのか?」

「え?」

 オレンジ髪の友達は皮肉げに口元を歪め、少し軽蔑したような目で有利を見下してきた。

「こんな小さいガキをほいほい引き受けるあいつもあいつだが、お前はもっとタチが悪い。あいつの好意に胡座をかいておいて、《友達》だって?笑わせるんじゃねぇよ。お前、どうせここにいる間、漫画見たり菓子食って散らかしたりするばっかりで、あいつの役に立つ事なんざやってねぇんだろ?」



 図星だった。



 コンラートが居ない日中…《野球》というスポーツに心惹かれた有利は中継放送のテレビを見たり、買って貰ったおもちゃのバットを振って(しかも、先日そのせいでコップを割ってしまった)、コンラートの作り置きしてくれたご飯をレンジで温めて食べただけだった。

 以前はお手伝いをしようとしたこともあったのだが、いつもいつも…魔法のようにてきぱきと家事をこなすコンラートに追いつけなくて、洗濯物をたたんでもかえって皺になるし、皿を洗えば汚れが残っているしと失敗ばかりだったので、もう手伝おうともしなくなっていたのだ。

 コンラートは優しく言ってくれる。

『良いんだよ。家に帰ってきたとき、ユーリが笑顔でお出迎えしてくれたら、一日の疲れなんて吹き飛んでしまうからね』

だが…やって貰ってばかりで何も返せない自分を恥ずかしげもなく晒していたことに、有利は言いようのない羞恥を覚えた。

 そのように考えたのは、決してこの男が怖かったからではない。

 有利は、根拠のない恫喝には決して屈しない強い心を持っている。

 だが、この男の言ったことは痛いほどに正鵠を突いていたのである。



恥ずかしかった。

 泣いてしまいたかった。



 だが…ここで泣いたりしたら、自分は本当に情けない男になってしまう。

 だから、有利は歯を食いしばり…仁王立ちになって肩を怒らすと…



 …ぺこりと頭を下げた。



「俺に…おうちのお手伝いの仕方を…教えてくださいっ!」

 血の滲むような思いで吐き出された言葉に、オレンジ髪の男は呆れたような声を上げた。

「はぁ?何だって俺がそんなこと…」

「……お願いしますっ!俺…コンラッドの友達だって、ちゃんと言いたい!ちゃんと…コンラッドの役に立ちたいっ!!」

 オレンジ髪の男は暫く沈黙して、《じ…》っと有利を見下ろしていた。

 だが…その間、やはり《じ…》っと有利が返事を待っているのを見ると、おもむろに口を開いた。

 これは彼なりの《試験》で、頼み事をしてきた相手が、本当に《頼む》つもりなのか、《押しつけ》ようとしているのか見定めるためのものだ。

 今のところ、有利という子どもはまずまずの反応を見せている。

「……一回でも、出来ないだの何だの文句つけやがったら、一発こずいて帰るからな?」

「…言いませんっ!…ぜったいっ!!」

 《ふんぎぎぎ…》と、オトガイに梅干しのような皺を構築しながら、有利は精一杯オレンジ髪の男を見返した。

 気の強そうなその瞳と、あくまでも言い張る態度をどう思ったのだろう…男は瞳に浮かべていた軽蔑の色を霧散させると、初めて見たときと同じ楽しそうな笑みを浮かべた。

 ただ、その笑みは朗らか…というよりは、多少意地悪なものを含んでいたのだけど。

「ふふん…。その言葉通りにしてる限り、認めてやるよ?」



 オレンジ髪の男は、グリエ・ヨザックと名乗った。



*  *  *






「まずは最低限、てめえの世話が出来なくちゃならねぇ」



 ヨザックはそう言うと、有利に自分が出した食べ零しの始末や、散らかした玩具の整理を徹底させた。

 言われてみればごくごく当然のことで、こんなこともちゃんとしていなかったのかと、有利は頬が染まる思いだった。

「んで、ここからやっと《手伝い》と呼べる領域だわな。飯はあいつの裁量があるだろうから今日は余計なことはせず、無難なところで洗濯と掃除だ。特に、お前はちっこいから壁と床の境目に溜まった埃を丁寧に拭ったりしとくと感謝されるぞ?あと、シンクの縁についた水垢なんかを古歯ブラシで落としとけ」

「はい、先生!」

 蒼いペイズリー模様のバンダナをほっかむりのように被り、雑巾を握りしめた有利は、テレビででも覚えたのか…《びしぃっ!》と勇ましく敬礼をしてみせる。

 ついついヨザックは微苦笑を浮かべそうになり…意識的にきりりと口元を引き締めなくてはならなかった。

 滑稽ではあるが、この小さな子どもがやると、本人は大まじめなだけにやたらと可愛い。『こいつぁ、あいつが可愛がるだけあるな…』

 実際に可愛がっている現場を見たわけではないのだが、その辺りは部屋の雰囲気を見るだけで一目瞭然なのである。

『あんなに生活臭のない暮らしをしてやがったのに、部屋中すっかりこいつ色じゃないか?』

 これまで、モノトーンを基調とする落ち着いた色彩を好んでいたコンラートだが、部屋の中は壁紙から装飾に至るまで、すっかりパステルカラーを基調としたポップな色合いに変化し、所々に配された縫いぐるみとも相まって玩具箱のような様相を呈している。

 最初はぎょっとしたヨザックも、部屋の中を流れるほんわかとした空気に、気恥ずかしさだけではない温もりを感じるようになった。



 その雰囲気の中心となっているのは、この有利だ。



 ちょこまかと動いて不器用なりに掃除をして回り、集中しているせいか上唇がぴこっと三角形に飛び出している様がヒヨコじみていて微笑ましい…。

身に纏っているのはふかふかした質感で、水色をしたコーデュロイシャツと、ジーンズ素材の袖無しつなぎで、ちまちまとした体型によく似合っている。

 ぷりっとお尻を突き出して、こしこしと部屋の隅を拭いている様子も何ともいえず可愛らしかった。

『そういやぁ…こいつ、行くとこがないとか言ってたっけ?その割にはえらく素直に育ってやがるな…』





 ヨザック自身、かつて孤児であった過去がある。



 ドイツ、ザクセン州のバウツェン…国境沿いの工業地帯…過去の盛栄はなりを潜め、失業と貧困にあえぐ工場街で育った彼は、父親は誰だか分からず、飲んだくれの母親は乱交中に頓死してしまった。

 移民の母…それも身持ちの悪い女について回る関係者などタチの悪い男ばかりで、ヨザックは《家》だった場所に住み着いてしまった男達から逃げるようにして、街に飛び出した。

 しばらくは一人で何とか暮らしていたが…ストリートキッズの仲間に騙され、あやうく男娼館に売られそうになったところを救ってくれたのがコンラートだった。

 正確には、彼の父親であるダンヒーリーが手配はしてくれたのだが、僅か数日間一緒に遊んだだけの子どもの窮地を救おうとしてくれたのは、間違いなくコンラートだった。

 彼は世界中を旅して回っているという父に連れられ、たまたまこの都市に立ち寄っただけだったのだ。

『何でって?一緒に遊んだろ?』

 どうして助けてくれたのかと尋ねるヨザックに、コンラートは笑って言った。



『友達なら、助けたいって思うんじゃない?』



 こともなげにそう言った彼の言葉が、ヨザックには宝物になった。





 ダンヒーリーの友人に預けられたヨザックは、シュトゥットュガルトにある小学校(グルントシューレ)にも通い、更に6年制の中等実科学校にも通わせて貰った。このとき、近接したギムナジウムに編入してきたコンラートと再会したのだった。

 残念なことにダンヒーリーは事故死しており、コンラートは大層な貴族の家系(共和国であるドイツに法的な制度としての貴族制はないのだが、古くからの家系として保たれている場合、社会的な《肩書き》として爵位を名乗っている場合がある)にある母に引き取られ、9年制のギムナジウムに通っていた。

 ギムナジウムというのは卒業学年にアビトゥーアという試験を受け、その成績によって大学進学するという課程である。

 その名から想起される閉鎖的な印象は大抵の学校にはもうないが、コンラートが通っていた…いや、通わされていたギムナジウムは上流階級が集う名門意識に凝り固まった学校であった。

 その中では、親の社会的地位や派閥といったものにとらわれないコンラートは異質な存在として攻撃を受けることが多く、その一方で、その自由な性格と高い能力に憧れて慕ってくる者も多かった。

 正直、どちらの感情にしてもコンラートにとっては興味のないものであったらしく、学校ではそつなく振る舞いながらも、ヨザックと気楽に過ごす休暇の方を楽しんでいたようである。



 コンラートはギムナジウムの最終学年、ヨザックはパティスリーでの修行中に18歳を迎えた。

 ドイツには兵役があり、18歳〜25歳までのどこかで9ヶ月間実施するよう定められている。しかし、良心的兵役拒否が基本法で認められているので、兵役につきたくない者は同じ期間、社会福祉事業に励むことになる。

 コンラートは母に後者を選ぶよう勧められたそうだが、彼は前者の道を選んだ。



『強くなりたかったから』



 そう言った横顔は凛として、遠くを見るようだった。



 理由自体はヨザックにも漠然としか語ってはくれなかったが…それでも、理由めいた言葉を貰えたのは嬉しかった。

 なんとなく…父親がらみの感情なのかな、という察しもついていたし。

 それに、同じく兵役に就いたヨザックはコンラートと偶然同じ部隊に所属することになり、兵役中色々あったが…それでも…それ故に、共に居られたことは良かった。



 その後、パティスリーに戻ったヨザックはマイスターの国家資格も取得すると、パティシエとして頭角を現すようになった。

 そして、師匠の薦めで日本に店舗を構えるようになると、別段示し合わせたわけでもないのに同じ街にコンラートが転勤してきたりと…《腐れ縁》に近い繋がりは今もって続いている。

 合い鍵も、自信作のケーキが出来ると時間を問わず現れるヨザックのために《勝手に入って置いといてくれ》と、コンラートが渡してくれたものだ。

 これは、自分の生活空間に人を入れないことで知られている彼としてはかなりの特例であり、内心、ヨザックは随分とその事を嬉しく思っていた。

 それもあって…この部屋でくつろいでいる有利に嫉妬めいたものを覚えたのかもしれない。





『友達…か』

 性的な意味まではないのだが…コンラートに対して強い想いを抱いている自分というものを再確認してみる。



 《友達》というのはなるほど、広い意味合いを持った言葉だ。



「なぁ…お前」

「有利だよ!」

 ぷんっと肩を怒らせて拳を突き上げる有利に、ヨザックはくすくすと柔らかい笑みを浮かべた。

「行くとこないって…なんか事情があんのか?親はどうしてんだ?」



 口にしておいて、《しまった》…とほぞを噛む。



 この子どもが自分と同じような境遇にあったとして、今日会ったばかりの男にひょいひょいそんな事情を話すだろうか?

「親?父さんと母さんは空の上にいるよ。あと、兄ちゃんも」

 有利はさっくりぽんとひょいひょい話した。

「……っ!」



 《やっぱり》…と、ヨザックは目頭が熱くなった。



 勿論…有利が言っているのは《空の上の鬼の国で元気に暮らしている》という意味なのだが、普通人間がこう聞けば、全員死んだのだと思うだろう…。

 ヨザックはもともと人の良いところもある義理堅い男である。

 先ほど過剰に厳しい態度をとったこともあり…また、年に似合わず気にくわない相手にも教えを請うという、得難い《強さ》を持った有利を認め始めてもいたので、彼の事情を知るや(誤解なのだが…)、すっかり胸の中を熱いものが満たしてしまった。

「掃除…よくやったな。随分綺麗になったぜ?これであいつも喜ぶだろうよ」

 皮肉屋のヨザックとしてはめいっぱい素直な賞賛の言葉を贈ると、有利は目に見えて明るい表情を浮かべた。

「…本当?」

 にぱぁ…と微笑む顔はさしものヨザックも手放しに《可愛い》と賞賛できるもので…反射的に頭を撫でつけてしまう。

 バンダナ越しの小さな頭を撫でたヨザックは、奇妙な感触に頭をひねった。

「…?ユーリ、お前さん…どこかで頭をぶつけたのか?えらく硬い瘤があるが…」

「ううん?どこもぶつけてないよ?」

 有利はきょとりと小首を傾げる。

「見せてみな。確認してやるよ」

 子どもというのは夢中になると痛みを忘れて没頭する。それ故、存外酷い怪我をしていることがあるものだ。

 ヨザックは純粋な懸念からバンダナに手を伸ばしたのだが…有利の反応は鋭かった。

 

「やだっ!」



 有利はぱっとバンダナを押さえた。

 ヨザックはいい人だが、コンラートほど鬼に寛容ではないかもしれない。

 折角褒めてくれて…優しい言葉をかけてくれて嬉しかったのに、また最初の時のように蔑むような目で見られるのは怖かった。

「…見せてみろって!別にパンツの中覗こうってんじゃないんだっ!」

「やだやだやだ!」



 絶対に見せたくない。



 コンラートの大切な友達に鬼であることを知られたら、この部屋から叩き出されてしまうかもしれない。

 誰だって正体の知れない怪物を、友達の傍に置いておきたくはないだろう。



 見せるわけにはいかないのだ…!





 有利の中に、かつての記憶が蘇る…。



 昔々…十年くらい昔…この辺りはまだ開発の進んでいない田舎町だった。

 子どもたちはのんびりした気風のせいか、有利が虎革のパンツ一丁という不思議な格好でいても、頭に頭巾を被っていたせいか特に気にすることもなく一緒に遊んでくれた。



 夕暮れ時の河川敷…仲良く遊んでいた子どもたちが、有利の被っていた頭巾を落とした。 ふざけてそうしただけだったのだろうその子どもたちは…有利の角を見ても、最初は飾りなのだろうと思って、ふざけて触ってきた。

 だが…そのとき、小さかった有利は敏感な角を触られた驚きに、《ぱりり》…っと電気を放ってしまったのだ。



 その瞬間…子どもたちの一人が叫んだ。



『こいつ…鬼だっ!』



 恐怖は伝染し…拡大し…対象物を排除するというエネルギーに転換されていった。



 子どもたちは皆、恐怖と憎悪の入り交じった眼差しで…手に手に石を取って投げつけた。

 ランドセルの中に給食の残りの…個別包装の炒り豆を持っていた子どもたちは、凄い武器であるかのように神々しくそれを掴み、力一杯投げつけた。



『鬼だ…っ!』

『化け物だ…っ!!』



 幾つも幾つも石と豆は投げつけられ、庇ってくれる子どもは居なかった。



『やめて…やめて……っ!!』



 血を流しながら有利は走った。

 暮れていく大気の中を、独りぼっちで…。





「やだ…やだぁ……っ!」

 思い出したら、とても哀しくなってきた。

 先ほどは我慢できた涙も、今度はこらえきれずに…ほろりころりと頬を伝ってしまう。

「ぁあん?何だってこんなところ見られたくないんだよ!何だったら本当にパンツひん剥いちまうぞ!?」 

 子どもに泣かれるなどと言う体験は初めてのことで、親切心からの好意をあまりに激しく拒絶されたせいもあり、ヨザックは必要以上に意固地になってしまった。

 そのせいだろう。

 背後に佇む存在に、声をかけられるまで気づかなかったのは…。



「何を…ひん剥くって…?」



 ゴゴゴゴゴゴゴ……………



 そんな効果音と…禍々しい気配が背後に立ち籠めている。

 振り向きたくない。

 だが…そんなヨザックの頭をバスケットボールでも掴むかのように長い指が捕捉し、ゴギギギギギ…と錆びた撥条人形を思わせる動きで後ろに回旋させる。



青ざめ、脂汗を流すヨザックの前に…鬼神もかくやという形相をしたコンラートが佇んでいた。



「コン…ラッド……」



 胸が、きしりと痛む。

 ヨザックは…数十年ぶりかで自分の顔が泣きそうな形に歪むのが分かった。

 《コンラッド》…そうだ、この呼び方だって…ヨザックだけがそう呼んでいたのだ。

 コンラートが自己紹介をするとき、

『コンラート・ウェラーです。親しい友人はコンラッドと呼ぶこともあります』

 …という言葉が、どれほど自分にとって誇らしいものであったか、今更のように思い知る。



 今、彼はこの小さな子どもを《友達》と呼び、《コンラッド》と呼ばせている。

 ずっとずっとそれは、自分だけの特権だと信じていたのに…。



 泣いてしまいそう…けれど、こんなところで泣くにはヨザックは年をとりすぎていた。



 氷のように凍てついた…それでいて、坩堝のように炸裂する何かを孕んだ空気を砕いたのは…

 …有利だった。



「ヨザックはパンツなんかむかないよ!ヨザックが見たかったのはこれだよ…っ!」



 ぱぁっと翻る、蒼いバンダナ。

 その陰から現れたのはさらさらの黒髪と…黄色い、角だった。



「ヨザックは…俺がどこかぶつけたんじゃないかって心配してくれたんだ…っ!でも、俺…見せたくなかった…っ!コンラッドの大切な友達に…鬼だって分かったら…人間じゃないって分かったら…石や豆をぶつけられると思ったから…っ!!…ヨザックは…悪くないよ…っ!!」


 泣けないヨザックの代わりに…ぼろぼろと有利は泣いた。

  

 多分…彼には分かったのだ。

 ヨザックが…この、とても強く…靱やかに見える男が、コンラートに嫌われるというその事だけは…酷くおそれているだろう事に。



 何故って、有利もまた…一番それが恐ろしいからだ。



同じ思いを持つ《仲間》の為に、有利は全てを明かしたのだ。



「コン…ラッド……だから、怒っちゃ…やだ……ヨザックを…ぶったりしないで?と、友達に…ぶたれたら、凄く…凄く痛いの…」

 うっ…ずひっ…ぐし……ひくっと……と盛大に鼻を啜りながら、有利はくしゅくしゅにしたバンダナで垂れてくる洟を止めた。

 まだ、言っておきたいことがあるのだ…。

「俺、昔……友達になれたと思った子達に……鬼だって、分かったら……石とか、豆とか…ぶ、ぶつけられて…痛かった……。だから…と、友達が…友達をぶつのは…だめ……ぜったい、だめぇ……っ」

「ユーリ…」

 しゃくりあげる有利を、こちらも泣きそうな顔になってしまったコンラートが抱き寄せる。くしゃりと歪んだ顔はどうして良いのか分からない様子で、ただひたすら有利の黒髪や丸まった背を優しく撫でつけてやるのだった。 

「……っ!」

 雷に撃たれたように…ヨザックは膝をついた。

 ほんの小さな行き違いに腹を立て、意固地になったヨザック。

 その彼に、傷つけられた少年が…彼のために、泣いていた。

 背筋が震えるような罪悪感が、身の内を抉った。

「ごめん…ユーリ」

 震える手が有利の頭髪に伸びる。

 コンラートの手が塞いでくるのではないかと少し怖かったが…彼は、触らせてくれた。

 だからヨザックは恐る恐る…けれど、精一杯の想いを込めて柔らかな子どもの髪を撫でつけたのだった。

「ごめん…ごめんな……ユーリ………」

 どう謝って良いのかも分からなくて、ヨザックは細く掠れた声で同じ言葉と子どもの名前を呼び続けた。それでも…気持ちだけは通じたらしい。

 おずおずと顔を上げた有利が、まだ涙に濡れる瞳を開き…じいっとヨザックを見たのだった。

「鬼…いやじゃない?」

「嫌なんかじゃないよ…。だって、ユーリは良い子だろう?」

 この世界には罪もない子どもを陵辱して殺したり、小さな不満から親を虐殺するという残虐な《人間》がいる。

 そんな連中を《鬼》と呼ぶことは、決してもうないだろうとヨザックは思った。

「こんな…意地悪した奴を庇うような、優しすぎる子ども…嫌だんて思うわけないだろう?」

 嫌なのは自分だ。

 大切な人の、大切な立ち位置におかれた子どもに嫉妬して、きつい言い回しをした大人げない《人間》…。



 なんて浅ましい。

 なんて愚かな…。   



「じゃあ…俺…ここ、出て行かなくて良い?」

「ユーリが出て行く事なんてないさ。出るのは…俺だよ?」

 ヨザックはポケットにしまっていた鍵を手に取ったとき…少しだけ震えた。

 それはコンラートがくれた、この部屋の合い鍵だった。

 誰よりも彼の傍に立てると思っていたヨザックの…心の拠り所だった。

 だが…これを持つ資格はもう…ヨザックにはない。

 きっと…軽蔑されてしまったろうから……。

「コンラッド…これ、返すわ……部屋の、鍵……」



 声は震えていなかったろうか?

 ちゃんと笑えていたろうか…?



 心の片隅でそんな心配をしながら、ヨザックは鍵を差し出した。

 だが…



「何故?」

 

 コンラートは微笑を浮かべて…有利は、きょとりと小首を傾げて問いかけた。

「……なんでって……」

「そんなことよりヨザ…お前、手みやげは持ってきてるんだろうな?」

「…あ、ああ……いつものチーズケーキを持ってきた」

 ヨザックはテーブルの上に置いた菓子箱を指し示した。

 箱の中には、ヨザックの店である《ローゼンクロイツ》の目玉商品である《特選大阿津地鶏の鶏卵使用、こだわりのチーズケーキ、スフレタイプ》が入っている。

 毎朝開店前から列が出来、開店後1時間で完売するというこの商品は、甘いものをさほど好まないコンラートにも好評な一品であった。

「じゃあ…お茶にしよう。それで良い?ユーリ。こいつの態度や性格はともかく、菓子造りの腕前だけは確かだよ?」

「うんっ!」

「コンラッド…」

 返事も聞かずに有利を抱き上げ、さっさかと茶の準備を始めるコンラートに、先程の出来事に対する屈託は見られないようだった。

 残されたヨザックはそのことに安堵すると…自分の目元が何かで濡れているのを慌てて拭うのだった。  



*  *  *


「んまーい!」

 ヨザック特製のチーズケーキは本当に美味しかった。

 ふわっふわの生地は舌の上でとろけていくようなのに、しっかりとしたコクがあり…幾つでも口に投入していきたい美味しさだ。

 有利が《はふ》…と幸せそうに…けれど、空になった皿の上をちょっと寂しげにフォークでつついていると、左右から同時に食べかけのケーキが寄せられてきた。



「お食べ」

「食えよ」



 異口同音に、同じタイミングで勧められると、有利は食欲と羞恥の鬩ぎ合いを余儀なくされた。

「い…いいよ…っ!俺、自分のはもう食べたしっ!」

 食べたいのは山々なのだが、先ほど大泣きしてしまった気恥ずかしさもあり、子どもぽく施しを受けるのは如何なものかと思われたのだ。

「ユーリには食べる権利があるよ。だって、部屋のお掃除をしてくれたでしょう?」

「え?えへへ…ち、ちょこっとだけだけどね!…あのね?ヨザックが教えてくれたんだよ?」

「んで、お前さんはちゃんと教えたとおり掃除が出来た…。こりゃ、ご褒美があって当然じゃないか?」

「本当?」

 有利は確かめるように二人の男達を見やり、こっくりと頷いて貰うと…向日葵のようなにこにこ顔になってケーキを頬張りだした。

 

 口腔内に広がるケーキの味と胸に広がる達成感は、有利の身体一杯にしあわせをもたらすのであった…。   




おしまい




* だんだん、このシリーズの傾向が確立されてきたような…。とにかく、一作に一回は有利が泣く。それはもう、昔のホームドラマのように。そしてコンラッドは、他のシリーズならヨザックをフルボッコにしているだろう展開でも何とか持ちこたえる(うちの話のことなので、いつまで続くか分かりませんが…)。取りあえず、ヨザックがあまりにもコンラッドラブすぎて、ボコられるのが可哀想になったんです…。 *



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