鬼っ子シリーズ26「かけがえのないもの」@








 疲れたとか気を失ったとか…そういった動きではなかった。

 ぷつ…っと何かが切れてしまったように、まるで…命を持たぬ物体のように、その子は倒れた。

 

 その子とは誰だ。

 

 ああ…その子は…。

 ああ、その子こそ…コンラートにとってなにものにも代え難いたからもの…。

 

「ユーリぃぃ……っっ!!」

 

 迸る絶叫が大気を劈(つんざ)き、突き上げる焦燥感に駆られた脚が磨き抜かれたフロアを疾駆する。

 手の込んだ細工を施されたフロアは色彩の異なる木肌を組み合わせて模様を為しており、そこに横たわった有利は身につけた衣装とも相まって、放置されたお人形のような無機質さを見せていた。

「この馬鹿…馬鹿…っ!なんて事をするんだっ!」

 村田はもう取り繕ろおうという意識さえないようで、うさぎ人形のままで有利をばすばすと叩いている。

「ユーリ…っ!ユーリ…っ!!」

 駆けつけたコンラートが有利の身体を抱き上げると、ぷらん…と力無く腕が落ち、血の気を失った唇はもう…息をしていなかった。

「くそ…力を使いすぎたんだ!心臓も呼吸も停止してるっ!!」

「そんな…っ!」

 村田の言葉を信じたくなくて生命徴候を確認するが、コンラートの手にも冷厳な結果が否応なしに伝わってくる。

 喉仏の横に指先を添えても頚動脈の拍動は感知されず、当然意識などあろう筈もない。

 気道を確保しても自発呼吸の気配はない…。

「ユーリ…っ!」

 コンラートは再び有利の身体をフロアの床上に戻すと、ヨザックに指示して心臓マッサージをさせ、自身は有利の鼻を摘み、口元にかぽりと口を被せて慎重に息を吹き込む。

 子どもの身体にコンラートの肺活量一杯に息を吹き込んでしまうと肺胞が破裂する危険があるため、与える空気量を加減しなくてはならないのだ。

「駄目だ…戻らない…っ!」

「どけ…っ!」

 ふな…!

「……え!?」

 黒いうさぎ人形に手を叩かれ…一瞬びくりとしたものの、それが村田含有人形なのだということを改めて思い出す。

「何を……?」

「人間の手法で渋谷が生き返らないのなら、方法はもう一つしかない…。いいからどくんだ!!ベランダからここまでの直線コースから外れろっ!!」

 半信半疑ながら人々が離れたとみるや、村田は背中のチャックの狭間からしゅるしゅるとアンテナのようなものを伸ばし始めた。そして、有利の身体にとりつくと…大音声で呼ばわったのであった。

 

「来い…眞王!ここだ……っ!!」

 

 見ると…ベランダの向こうの空に黒々とした雲が巨大な渦を巻いていた。

 ぱりり…ぱりり…っ!と青白い稲光が光龍のように行きかい、雷嫌いのご婦人方がぞっとしたように身を震わせる。 

「おい…あの雷雲……」

「近づいてないか!?」

 どよめく人々の前で、殆どベランダの目前にまで詰め寄ってきた暗雲がしゅるうん…っ!と収斂したかと思うと……。

 どぅ…っ!と光の束が綱ほどの太さに寄り合わされて、黒いうさぎ人形のアンテナにぶちあたり、人形を介して有利の身体に流れ込んでいった。

「く…ぅ……っ!」

 有利の身体にどぅ…どぅっと勢いよく注ぎ込まれていく雷エネルギー…それを示すように、有利の身体はちいさな子どもの姿からしなやかな少年の肢体へと姿を変貌させていった。

 

 《ぷにぷに》から《すんなり》へと変わった伸びやかな四肢。

 《ぽっちゃり》から《きりり》へと変わり、仄かに筋肉のついた胸板。

 《あどけない》から《清廉》なものへと変わった容貌…。

 

 だが、その身体を包む服までは大きくできず、また、注ぎ込まれる尋常でない雷の衝撃に耐えきれなかったこともあり、ツェツィーリエのアンティーク人形用衣装は無惨に裂け崩れ、なんとも悩ましい姿になってしまう。   

 そして、その変化は有利だけのものではなかった。

 うさぎ人形の村田にとってもこの衝撃は大きすぎるものであったらしく、ばすばすと火花を散らしながら眼鏡が跳ね飛び、釦が火花を上げて砕け…とうとう黒い布地が発火を始めてしまった。

「くそぉ…っ!!」

 震える人形の手がもどかしく空を掻くが、もうこうなっては有利に触れ続けることは出来ない。村田は花瓶に体当たりして割り、溢れ出た水で何とか自分を燃やす火を止めた。

「うさぎさん…っ!」

 ヨザックが駆け寄り、抱き上げた村田はもう…ただの襤褸屑のように変わり果てた姿となっていた。

「なんてことを…!」

「泣きそうな顔をするもんじゃない。君だって知っているだろ?この身体は僕の本当の身体じゃあ…」

「でも、苦しかったのは本当だろう?」

 ヨザックは見ていたのだ。

 拠り代である身体が弾け飛び…燃えるなか、村田が悲鳴を噛み殺していたことを…。

「よく…頑張ったね…うさぎさん」

 労るように(辛うじてそうと知れる)顔部分を撫でられて、村田はくたりと力を抜いた。

「ふん…まあ、草臥れ果てるほどには頑張ったさ。あとは…さて……どうなる…か……」

「うさぎさん?」

「大…丈夫……。もう…この身体に……いられない…だけ……」

 ことり…と、唐突に襤褸屑人形から人の気配が失せた。

 完全に力を失ったうさぎ人形は、ただの物体に戻ってしまったようである。

『お疲れさん…』

 もう一度、ヨザックは抱きしめた襤褸屑に囁きかけた。

 

*  *  *

 

 村田が身体を張って電気エネルギーを供給したおかげだろうか?伸びやかな四肢をくたりとフロアの上に投げ出し、横たわった有利の唇がひくりと震えた。

「ユーリ…!」

 思わず駆け寄ったコンラートは、有利の身体を抱き上げようとして…腕を弾かれた。

「…ぅわっ!」

 バリ…ッと強烈な炸裂感を伴って、コンラートの体内を電気が駆け抜けていく。

『感電するか…?』

 先ほど触れたときには筋肉が硬直するほどではなかった。また、熱感もなかったことから、触れた途端に火傷を起こしたり死亡するほどの電圧ではないと思われる。

 ただし、触れ方によっては心臓を動かすリズム…刺激伝導系に影響を与えてしまい、心室細動(心筋が小刻みに収縮しすぎて拍出力を失う)を来して心停止を引き起こしかねない。

  ゴムなどの絶縁体シートがあれば一番良いのだが…そんなことを考える間にも、一度は血の気が戻ったかに見えた有利の顔色が、再び蒼白なものに変じていく。

 もう…それ以上待つことはできなかった。

「…っ!…ユーリっ!!」

 上体を引きあげるようにして胸の中に抱き込めば、身体中を何とも形容しがたい刺激感が駆け抜けていく…だが、そんな感触よりも何よりも…有利という存在を失う恐怖の方が強烈であった。 

「息をして…目を開いて、ユーリ…っ!」

 溢れてきた涙にぱりり…っと刺激感が増すが、もう止めることはできなかった。

 今度は弾かれないように…がっしりと抱き込み、頬を寄せていく。

 目元から零れた涙が電気を帯びながらコンラートと有利の肌の間を灌流し、その度にぱりり…ぴりり…と小さな火花を散らす…。

「きみを失って…俺は生きていく自信がないよ…っ!」

 諦めかけていた親も兄弟も取り戻してくれた、大切な子ども…。

 だが…その結果この子を喪うくらいなら、無くしても耐えられる程度の絆だったのに…っ!

 

 ああ、そうだ…。

 なにものにも代え難いほどに大切なものは、きみだったのだ。

 

 知っていたのに…分かっていたのに…どうして、目を離してしまったのだろう?

 きみは、俺などにために命を賭けてしまう子だと知っていたのに…っ!

 

「ユーリ…ユーリ…っ!…愛してるよっ!」   

 

 黒々とした睫の先にぽとりと落ちた涙のしずくが…ふる…っと揺れた。

 

 ふるる…っ

 ふる…っ!

 

 ゆらゆらと揺れ動くしずくが、振幅に耐えきれずにほろりと頬に落ちた瞬間…すぅ…っと鳴る吸気音と共に薄い胸が膨らみ、とくん…とくんと胸の鼓動が再開し始めた。

 青ざめていた頬は血流の回復に合わせて薔薇色に染まり、組織からの酸素要求に従ってか、速い呼吸がすぅすぅと繰り返される。

 

 生きている…。

 生きている…っ!

 

 力強い生命の息吹を感じながら、コンラートは滂沱の涙を流し続けた。   

「コンラート…この子は、一体?」

 コンラートの親兄弟が多少おそるおそる…といった感で近寄るが、そっと沿わした手に強い静電気に似たの衝撃を受けると、一様に手を引っ込めてしまう。

『コンラート…お前は、この衝撃に耐えているのか?』

 グウェンダルは瞳を開大して弟を見つめた。

 抱きしめた少年からは、今も夥しい量の電気が流れているに違いない。だが、大切なたからもののように…二度と離さないという決意を見せてコンラートの腕も身体も、有利の身をきつく抱きしめているのだった。

 グウェンダルは深くため息をついたが、それは暗い思念によるものではなかった。

 縁薄かった弟とやっと分かり合えるようになったと思った途端に、弟には自分たち親兄弟よりも大切なものが存在すると知ったことで…少し寂しくなってしまったのかもしれない。

 しんみりしているところに、どどっと宴客達が詰めかけてきた。

「フォン・ヴォルテール卿!これは一体どういうことですの?」

「この子はさっきまで七つか八つか位の子だったよな?」

「その子…角から電気が出てなかった?」

「うさぎの人形が動いたり燃えたり…一体どうなっているの!?」

「む…そ、それは……」

 《説明して欲しいのはこちらの方だ…》とは思いつつも、グウェンダルは何とか説明が付かないものかと頭を捻った。

 踊りも始まらぬ内から、理解不能な事物によって変な盛り上がりを展開してしまったのだ、客達の惑乱ぶりも当然と言えよう。嘘でも何でも、それなりに納得のいく説明を貰わないことには心理的な収まりがつくまい。

 ここで、思わぬ男が助け船を出してきた。

「はぁ〜い、皆さん。吃驚されましたかー?」

 張りのある陽気な声音で、宴客達の視線を集めたのはグリエ・ヨザックだった。

「実はぁ〜、この子達はぁ〜ニホン技術の結晶、《パケモン》なんですぅ〜っ!」

 どこかなじみのあるそのフレーズに、何人かの日本通(アニメ通?)が、《ポ○モン》と呟いたが、それを聞きつけてヨザックはふるるっと首を振るのだった。

「違いまぁ〜す!この子達はパケモンなんです!」

 物凄いぱちもん臭がするが、人々は調子の良いヨザックの語り口についつい引き込まれてしまう。

「パケモンは《ぱやーんと暮らすもん》って意味の日本語から名付けられました。人の強い思いを映像として汲み取ったり、辛くて泣いている奴にそっと寄り添う…そういう癒し系生命体なんですよ。でも、生産元が破産しちまった上に開発者が首をくくって死んじまったもんですからね?この子達はどこにも行くところが無くなっちゃったんですよ…。そこを拾ったのがこちらのコンラート・ウェラーです!」

 おおーっ!

 何故か一斉に上がる歓声。

「身寄りがなくて、寂しさに泣いているところを拾われた子どもとうさぎは、そりゃあ感謝をしました。なんとかご主人様の役に立ちたい…なんとかして彼のトラウマを解消し、親兄弟の縁を結び…ほんとうの幸せをあげたい。そう祈って、精一杯に頑張ってたんですよ。心臓が止まっちゃうくらいにね…」

 後半の文句が哀切に満ちたお涙頂戴口調に変わると、感じやすい老婦人などはうっすらと涙さえ浮かべて聞き入っていた。

 実際…コンラートのために声を上げ、直向きなまなざしを送った少年の姿は、人々の脳裏にも好意を込めた驚嘆を抱かせたものであった。

「ですから…どうか皆さん、お願いです。この子達を…静かに暮らさせてやってください…。好奇の目で見られたり、メディアに取り上げられたりすると、この子…特にさっき脈も呼吸も止まっていた子は、弱って死んでしまうこともあるんです」

「まぁ…っ!」

 悲鳴に近い叫び声が幾つも上がる。

 宴客の全てが今日の出来事を秘密にしてくれるとは思えないが…それでも、少なくともの瞬間には、殆どの者が決して口を開くまいと誓ったに違いない。

「さあ、皆さん…驚きは収まりますまいが…どうぞ宴を始めて下さい」

 グウェンダルが朗々とした声を掛けると、申し合わせたように楽の音が響きはじめ…宴客達は思い思いにパートナーの手を取り、踊り始めた。この流れで更に詰め寄り、物事を追求するのは如何にも無粋に思われたのである。 

 皆、今宵遭遇した不思議なできごとを消化しきれずに目を泳がせてはいたが…総じて、戸惑いはあっても嫌悪はなく、驚きはあっても、それは喜ばしい色彩を孕んだものであった。

『なんて不思議なできごとだったんだろう!』

『でも…なんだかとても胸が温かい……』

 落ち着ついてくれば、あの角を生やした子どもに動く人形、群雲の中から現れた雷などについて原因を追及したいと望む者も現れることだろうが…とにもかくにもこの夜は、殆どの宴客はすんなりと宴を楽しみ始めた。

 

 だが…唯一人ここに、収まりのつかない男が居た。

 

 ひとり、この場で完全な《悪役(ヒール)》を演じてしまった男…シュトッフェル・フォン・シュピッツヴァーグである。

「ツ…ツェリ……私は…」

 脂汗を流しながら、張り付いたような笑みを浮かべて妹に取り縋るシュトッフェルは、紳士然とした気配を一掃し…おろおろとした気弱な男になりはてていた。

「いま…お話しすることはありませんわ。それよりも、いま一度振り返ってみて…あなたがなさったことを反芻してみて下さいな。あたくしも、暫く考えてみます」

 ツェツィーリエの声はまだ固かったが、それでも…幾ばくかの理性を宿した瞳には、以前とは違う…格段に深い思慮の色があった。

 彼女は一方的に兄を責めている訳ではなかった。

 兄がそのような行動に走ってしまった原因の一つは、ツェツィーリエ自身が己の幸福や快楽だけを追い求め、母として子に為すべき事を為さなかったためであることを漸く理解したためであろう。

 《兄様が悪い》の一言で片づくような問題ではないのだ。

「さあ…行きましょう母上」

「ええ…」

 長子にエスコートされて、ツェツィーリエは優雅な裾捌きで歩み出した。

 その足取りには浮ついた彩は薄れ…その代わりに、日々を生きていく為の力強さが滲んでいるようだった。

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