鬼っ子シリーズ25「運命の舞踏会」






 笑いさざめく人々と、談笑を邪魔しない程度の音量で奏でられる心地よい音楽…。

 テーブル上にセンス良く配された美食の数々と、やはり艶やかに飾られた花々…調度品…。煌めくシャンデリアに照らされたそれらの背景と宴客達は、音楽が舞踏を促す時を待って会話に興じている。

 

 

 フォンヴォルテール家の屋敷は、当主が代替わりしてグウェンダルとなってからは、これまでには考えられなかったような華やぎを持つようになった。 

 これは当然、グウェンダル本人が華やかな人柄だから…というわけではない。

 グウェンダルの父と、母であるツェツィーリエは大喧嘩をして離縁した身であるから、父が当主である間は流石のツェツィーリエも出入りを遠慮しており、結婚当時を物語る名残は、階段部屋に置かれた人形群とその衣装くらいなものであった。

 だが、当主交代が為されるとこれはもう遠慮のえの字もなく(ちなみに、グウェンダルの父は数年前に不慮の事故で他界している)、人嫌いの卦がある長男を思いやってなのか単に自分の都合なのか…時折このような宴席を設けては、強制的に息子を参加させるのだった。

 なお、本来は重厚な佇まいをもつ大広間には、華や調度品の他に異彩を放つ装備が設けられている。それは、大広間の随所に配置された大型の薄型ディスプレイだ。

『だってぇ〜…あたくし全ての殿方に、一度に微笑みかけることは出来ないでしょ?だから、専属のカメラマンに追ってきて貰って、あたくしの表情をあますところなく映し出すのよ』

 接写に耐えうるだけの美貌を維持しているこの60歳近い美女を、止められる者は誰もいない…。

 

*  *  *

 

「まぁぁ…!なんて可愛らしいの!」

 コンラートに紹介されてぺこりと頭を下げた有利は、頬を真っ赤に染めて俯き加減になっていたが…それでも精一杯の笑顔を浮かべてツェツィーリエにお辞儀をした。

 いま身につけているものは約束通り、ヴォルフラムに着付けられたドレスである。

 傍にはヨザックも佇んでおり、うさぎ人形の村田は肩提げ紐を腹の中に仕舞って縫いぐるみのように有利が抱きかかえている。少年の姿であればおかしい恰好だが、いまや《美少女》と化している有利にはぴったりと似合いの装飾といえよう。

 例の貝も事情を説明してちゃんと持っている。ツェツィーリエにはお洒落で便利なアイテムだと思われたようで販売元をしきりに尋ねられたが、《開発中なので秘密です》と答えて誤魔化した。

「は…はじめましてっ!」

「うぅんっ!畏まらなくて結構よっ!!まぁまぁ…コンラートが日本で子育てをしてるって聞いたときにはどういう風の吹き回しかと思ったけど…。うふふ…、こんなに可愛らしい子なら、あたくしだって構い倒したいわぁ…!」

 くねくねと身を捩(よじ)らせて甘い声で叫ぶ女性は、とてもコンラートの母とは…ましてや、グウェンダルの母とは思えないような若さを持つ美女であった。

 腰よりも長い見事なブロンドは艶やかに光を弾き、上質な絹を思わせる白皙の肌はほのかに甘い香りを漂わせている。

 ぴたりと身体の線に合わせた黒いドレスが何とも悩ましいが、豊かな胸から括れた腰にかけての曲線は男を誘う色気を呈しつつも、媚びることよりも平伏せさせる事が当然…とでも言うような女王然とした風情を湛えている。

 長い睫がふっさりと覆う瞳は末の息子とよく似た麗しのエメラルドアイズで、違う点は眦に蕩けるような愛嬌を滲ませていることだ。

 なるほどこれは…大抵の男が彼女におねだりされれば断れるはずも無かろう、というような魅力に充ち満ちている。

「母上…程ほどになさってくださいね?ユーリはそういったお遊びに免疫がありませんから…」

 心なしかコンラートの注進も控えめなものになる。

「いいや、コンラート。この儒子…いや、子どもは僕に約束したのだ。僕が味わったのと同じ《こと》を味わうとな…」

 つかつかと靴音も高く歩み寄ってきたのはヴォルフラム・フォン・ビーレフェルト。

 その鋭い視線は有利を…次いで、コンラートを貫いた。

『ヴォルフ…まだ、俺のことを怒っているのか?』

 有利は二人の仲を取り持つために、羞恥を押さえ込んで女装をした。だが…それでもヴォルフラムの怒りは収まらない様子だった。

「母上、この子はあなたのお言いつけには決して逆らわないように言い含めてあります。どうぞお好きに遊んでやって下さい」  

「まあ、そうなの?」

 無邪気に微笑むツェツィーリエは少女のようにあどけなく微笑んでいる。

『ああ…この人は……』

 有利は、何かに気付いたように眉根を寄せた。

 この人は…気付いて何もしないような残忍さを持つ人ではない。

 きっと、コンラートからやりかけていた仕事を取り上げるような真似をしたときも、全く悪気など無かったのだろう。

 

 だが…この人は、気付かない…いや、気付けないのだ。

 

 彼女の《おねだり》のせいで息子がどんな苦痛を味わうことになったのか。

 有利はぐ…っと拳を強く握りしめると、覚悟を決めたように言葉を紡いだ。 

「そうです。俺…今日はあなたの言うことを何でも聞きます。だから、何でも言って下さい」

「ユーリ…っ!」

「大丈夫。コンラッド…俺、大丈夫だよ?」

 緊張を隠せない様子で眉の端を引き上げながらも、有利は精一杯の笑顔を浮かべてコンラートを安心させようとした。

「きっと、そうすることで色んな事が分かる。俺は、その為にこの国に来たんだよ?」

「……すまない。ユーリ…」

 コンラートは痛みに耐えるように胸元の布地を掴み、唇を噛みしめた。

「あらあらどうしたのコンラート、そんなに苦しそうな顔をして!気分が悪いのなら控え室で休む?」

「いえ…結構です。母上…このまま、お傍に居させていただけますか?」

「ええ、構わないけれど…気をつけてね?」

 息子の苦しみの原因にはちらりとも気付く風はなく、ツェツィーリエは華のように微笑むのだった。

 

*  *  *

 

「おやおや…今日は親子余すところなく揃っているのかね。珍しいこともあるものだ」

 ツェツィーリエを囲んで談笑しているところに高慢な響きを持つ渋い声が響いたとき…コンラートの顔が青ざめたことに有利は気付いた。

 硬直した手をそっと握った途端…有利の脳内に、明瞭な映像が飛び込んできた。

『わ…っ!』

 以前遊園地において、有利はコンラートとの間に角を介した《記憶交流》を行ったことがある。あの時は有利が見た映像を選択的にコンラートへと送り込んだのだが、この時はその逆だった。

 かつてコンラートが見たのだろう映像が…吐き気を催すほどの臨場感を持って有利の脳内に流れ込んでくる。

 

『お前が家族と呼んで良い者は墓坑のなかに居る男だけだっ!!』

 

 居丈だかな罵声。

 圧倒的優位にたつ立ち位置から繰り出される大きな拳。

 萎縮し、傷つけられた肉体と心…。

 庇うことの出来なかったことを泣きながら詫びる乳母と、コンラートの切ない会話…。

 

『コンラッド…!』

 あまりの苦痛と恐怖によって叫び出しそうになる有利に、ふなふなとした感触が寄り添ってきた。

『落ち着きなよ渋谷。全部…以前あったことだ。いま起こってる事じゃない。それより、早くその男から手を離すんだ』

『村田…!』

 小脇に抱えたうさぎ人形から、声帯を介さない《声》が伝わってくる。

『どうして?角も使わずに俺達通じあってんの?』

『おそらく、僕がいるせいだね。僕はあのクソ根性悪だが、能力だけは他の追随を許さない眞王の増幅調整器だ。君の能力も飛躍的に増幅してしまうのさ。しかも君はその男の心に、能動的に寄り添おうとしている。そのせいで、そいつが何かを強く感じれば君はそれをそのまま見ることになるんだ』

『へぇ〜…』

『だけどね、渋谷。これは限度知らずに増幅できるなんて便利なものじゃない。根っこはあくまで君の力なんだから、必ず消耗する。だから、早くその手を離すんだ』

『ん…』

 不承不承手を離せば、なるほどコンラートからの記憶流入はなくなった。

 だが、既に種々の事情を聞いている有利にとっては、先程の一瞬だけでも強烈な憎悪を抱くのに十分すぎるほどであった。

『こいつだ…こいつが、コンラッドを苦しめたオジさんなんだっ!』

 明確な敵意を込めて有利が睨みつければ、恰幅の良い初老の男性は鷹揚な態度で笑みを浮かべていた。

「おやおや…これが噂の養い子かい?」

「ええ、とっても可愛らしい子でしょう?ユーリちゃんと仰るのよ。本当に、7月の風のように爽やかで愛らしいの!」

「…はじめまして」

 ツェツィーリエの紹介を受けて挨拶をしながらも、見下ろしてくる瞳に真っ向から敵意をぶつければ…鼻白んだようにシュトッフェルと思しき男が眉を顰めていた。

「ふん…顔立ちは確かに、猿…いや、東洋人にしては整っていますな。だが…いかんせん愛嬌というものがない!」

「やだわ、兄様ったら…ユーリちゃんは緊張しているだけなのよ。きっと、他愛のないお喋りをして、美味しいものを食べれば兄様にも笑ってくれるわよ」

「どうだかな…コンラートの養い子なのだぞ?私のことも何と言っているのか知れたものではないわ」

「悪く言われる心当たりがあるってこと?」

「…なに?」

 有利の舌鋒に、シュトッフェルの眉が明瞭に歪んだ。

「コンラッドのお母さん、このオジさんは酷いんだぜ!コンラッドのことを苛めて、火掻き棒で殴ったりしてたんだ!」

「まぁ…兄様、そんなコトなさったの?」

「するわけがないだろう?ツェリ…私のことはお前が一番よく知っているはずじゃないか。私はずっと優しい兄だったろう?」

「ええ、そうですわね。じゃあ、ユーリちゃんはコンラートの話を大袈裟に聞いてしまっただけなのかしら?」

「違う…違うよ…っ!」

 有利は懸命にツェツィーリエに訴えるが、難しいことや、判断を求められるような事態に出くわすと、この女性はより大人で恰幅の良い男性の言うことを聞く傾向にあったので、このときも大して考えもせずに結論を下してしまったのだった。

「ユーリちゃんは本当にコンラートの事が好きなのねぇ。でも、兄様もこう言ってらっしゃるんだし、きっとちいさかったコンラートには、悪戯をしたときにお仕置きされたことなんかが強く思い出に残ってしまったのよ」

「そんな……っ!」

 有利は泣きそうな顔になってツェツィーリエのドレスの裾に取り縋ったが、その時…宴の始まりを告げる大時計の鐘音が広間に鳴り響いた。

「あら、もうこんな時間?じゃあ、あたくし挨拶があるからこれで失礼するわね」

「待って…っ!…あっ!!」

 後を追って駆け出そうとする有利だったが、慣れないヒールのある靴のせいで転びかけてしまう。

「ユーリ…っ!」

 慌てて有利を抱き留めるコンラートに、勝ち誇ったようなシュトッフェルの嘲笑が浴びせられた。

「ふふ…ツェリは本当に良い子だ。お前と違ってな…」

「伯父上…なぜ、そこまで俺のことを…」

「汚らわしい!私をお前の親族であるかのように呼ぶのは止めて貰おうっ!!」

 弾くように叫べば、周囲の客が何事かとこちらに視線を向けてくるものだから、シュトッフェルは慌てて声量を落とすと苦々しげに呟いた。

「お前の父がツェリと一緒になってからというもの、ろくな事がない!栄光燦たる我がシュピッツヴァーグ家にその下賤の血が混じってからな…!」

「この血筋が…それほど憎いのですか?」

「憎いさ…。ツェリが私の言うことを聞かなかった…唯一度の結婚だったのだからな。全く…お前の父はなるほど手練れの色事師だったようだ」

「父を誹謗するのは止めていただきたい!」

 大切な父の名が出ては、幾ら精神外傷の対象たる伯父の前でも怯み続けていることは出来なかった。

「…その目…。その目だっ!」

 シュトッフェルは憎々しげに歯噛みすると、高ぶる感情の波を押さえきれなくなったのか、手に持っていたグラスを勢いよく床に叩きつけた。

 カシャーンっ!!

「わ…っ!」

「ユーリ!」

「坊や!」

 破片が有利を傷つけそうな勢いで飛び上がるが、すんでのところでヨザックが庇ってくれた。 

「ちっ…。随分と鶏冠(とさか)に来てらっしゃるようじゃねぇか…。あんたの伯父さんはよぉ…」

 ヨザックが呼びかけたのはコンラートではなく…立ち竦んでいるヴォルフラムのようだった。

「あんた…コンラッドよりも…あんなに懐いてた兄ちゃんよりも、この伯父さんの尻馬に乗ったって訳かい?それほど自分の血筋が尊いって思っちゃったわけだ…。その血を受け継ぐ奴の価値じゃなく、ただ祖先の目端が利いてたって事の方が…あんたにとっては重要だったのかい?」

 侮蔑に満ちた声が、ヴォルフラムの矜持を揺さぶった。

「そ…そういうわけではない!僕は血統絶対主義者などという愚かい考えにとり憑かれているわけでは…」

「じゃあ何でだ?なんだってコンラッドを捨てたんだ。そのせいでこいつがどれだけ傷ついたか分かってんのかよっ!」

 ヨザックの逞しい手指がきらびやかなヴォルフラムの襟元を引き寄せると、小柄な少年は殆ど釣り上げられるような様態になってしまう。

「よせ…!ヨザ!!」

「どーなんだ、つってんだよっ!」

 コンラートが止め立てしても、ヨザックの追求が緩むことはなかった。

「僕が…捨てたんじゃない…っ!裏切られたのは…僕の方だっ!!」

 少々抵抗してもびくともしない太い腕に掴まれながらも、ヴォルフラムは精一杯の自尊心を見せて強い語調で言い募った。

「だーかーら〜…、それがどーゆー事か聞いてんだよっ!コンラッドの方は全っ然心当たりないって言ってんだ。お前も長いことお兄ちゃんっ子してたなら分かるんじゃないのか?コンラッドはお前さんのことを目に入れても痛くなってくらい可愛がってた…。そいつが心当たりがないって言ってんだぜ?こりゃどうしたって、お前の勘違いに決まってんだよ!」

「勘違いなものか……っ!」

 悲痛な叫びが、ヴォルフラムの喉を劈(つんざ)く勢いで迸った。

 

「コンラートは、僕を自分の友人に売ったんだぞっ!!」 

     

 その場にいた当事者達も…何事かと周囲に詰めかけていた客や、ツェツィーリエも…ヴォルフラムの叫びに硬直してしまった。

 

 ざわ…

 ざわざわ……

 

 驚愕による硬直が解けるに連れて…人々の囁きが大広間中に満ちあふれてくる。 

「売った…?」

「自分の弟を…?まぁ…確かに美少年ですもの。手に入れたいと思う者はいるでしょうけれど、まさか…自分の兄に売られるだなんて…」

「なんてお気の毒な…」

 本当に気の毒だと思っている者など、ごく僅かしか居ないに違いない。

 みんな好奇心にぎらつく瞳で、期せずして展開され始めた兄弟親族の愛憎劇を見守っている…。

 《売られた》というショッキングな響きも手伝って、彼らの中では男の淫欲に蹂躙される金髪美少年の姿が浮かんでいるに違いない。

「そんなことするはずない…!コンラッドは悪いことなんかしない!!」

 有利が泣きそうな顔でぴょんぴょと跳ね飛びながら叫んでも、誰も信じてなどくれなかった。

 どうしたって、人は好奇心をそそるゴシップの方に吸い寄せられていくものなのだ。

「ヴォルフ…俺の友人とは一体誰のことなんだ?」

 コンラートが真っ青になって足を一歩踏み出したとき…一際高らかな哄笑が大広間に木霊した。

「はぁっはっはっ…!とうとう尻尾を出したなコンラート!そうとも、それこそがお前の本性だ!小綺麗な顔をして、如何にも聞き分けの良さそうな顔をしながら…お前の腹の中にはいつだって黒々とした嫉妬が渦巻いていたはずなのだ!」

 鬼の首を取ったかのように悦に入っているのは勿論、シュトッフェルであった。

「嫉妬…?一体何を……」

 抗弁しようとするコンラートの声を、大袈裟な身振りで打ち消してしまう。

「昔からおかしいおかしいと思っていたのだ…。それでなくとも、父が異なる兄弟など争って当然だというのに、嘗め転がすようにしてヴォルフラムを可愛がっていたな?それもこれも…薄汚い下心を隠す為なのだろう?機会さえあれば、いつでも手を翻して汚してやろうと思っていたのだろう?」

 

「お止め下さいっ!」

 

 朗とした美声が、深い怒りを込めて大気に響き渡る。

 何事かと衆目が集まった先にいたのは…グウェンダル・フォン・ヴォルテール…三兄弟の長であった。

「グウェンダル?一体…」

 そりは合わないものの、これまで特段コンラートに構うような素振りのなかったグウェンダルの参入に、シュトッフェルは戸惑ったように唇を嘗めた。

 頑固で一本気なこの男が、シュトッフェルは心底苦手なのだ。

「いい加減、私の弟を根拠もなく貶めるのは止めていただきたい」

 鋭い濃灰色の双弁が先程まで勝ち誇っていた伯父の顔を硬直させ、手指を戦慄(わなな)かせた。

『グウェン…!』

 信じられないものを見るように…コンラートの瞳が開大する。

「ヴォルフラム。お前もお前だ!コンラートが本当にお前を売ったというのなら、今ここで事情を説明しろ。事と次第によっては、幾らお前でもそれなりの対処をさせて貰うぞ?」

 《いい加減なことを言ってくれるなよ…》そう言いたげな眼差しに、ヴォルフラムは顔色を蒼白にして唇を噛みしめた。

「…分かりました。言います…言いますとも…!この僕がどのようにして実の兄に裏切られたか…どのような屈辱を味わったのか…っ!」

 ヴォルフラムは人々の注視に耐えながら…淡紅色の唇を開いた。

 

*  *  *

 

 ヴォルフラムは12歳になるその年まで、自他共に認める《お兄ちゃんっ子》だった。 今でも長兄に対しては強い憧憬と尊敬を抱いているが、当時のコンラートに対する懐き方はその様相を異にするものであった。 

 だが…ある日、ヴォルフラムは友人から奇妙な知らせを受けたのであった。

『なあ…ヴォルフ、君…このサイトのこと、知っているかい?』

『え…?』

 友人が所持していたノートパソコン上に映し出されていたのは、美しい少年達の女装写真や映像を集めたアダルトサイトだった。ただ女装しているだけのものが殆どだったが、中には性器を露出していると思しき部分にモザイクを施した、あからさまなアダルト映像まであった。

 その中に…ヴォルフラムが幼い頃の女装写真が含まれていたのである。

 しかも、その中にはヴォルフラム自身は覚えのない…下着を露出した恥ずかしいポーズのものまで含まれていた。

『これ…は……!』

『やっぱり君かい?なにか対処をしておかないと変なことに巻き込まれるかも知れないぜ?』

 ネット情報の扱いに詳しい友人はどういう手段を用いたものか、すぐにサイトマスターを辿り、画像も巧妙に処分してくれた。 

 だが…そのサイトマスターが問題だったのである。

 友人が手に入れてくれたそのサイトマスターの個人情報を見て、ヴォルフラムは叫びだしそうになった。

 それは…ヴォルフラムも知っている、コンラートの友人…カッツェ・リーベルトだったのである。

『兄さんが…僕の写真をあげちゃったの?…どうして!?』

 だが、ヴォルフラムとてすぐにそう信じ込んでしまったわけではない。

 きっと何か手違いがあったに違いない。そう…信じたかった。

 けれど、全寮制のギムナジウムから久し振りに帰ってきたコンラートに問うたとき、彼はこう言ったのだった。

 

『カッツェに写真をあげたかって?ああ、何枚か頼まれてあげたよ?』

 

 その時、ヴォルフラムの中で何かが壊れてしまった。

 ずっと心の一番大切なところにあった聖域のような兄の像が、粉々に砕けた瞬間だった。

『もう、お前を兄などと思うものかっ!』

『何を言ってるんだヴォルフ、一体何を怒ってるんだ?』

『僕にそれを言わせようというのか!?』

 弟の恥ずかしい写真を友人に売った挙げ句、しれっとして《何を怒っているのか》などと…! 

 その日から、兄弟は絶縁したのであった。

 

*  *  *

 

「どうだ…コンラート……。僕の憎しみの理由がやっと分かったか?」

 回想を終えると同時に、ヴォルフラムは疲れ切ったような表情で…溜息と共にそう告げた。

 だが…コンラートの方は口を三角形にしてきょとんとしている。

「いや…分かったかと言われても…。俺、お前の女装写真なんてカッツェにあげてないぞ?俺があいつに渡したのは、アーヴィングやクルスナーの写真だぞ?」

 それらは、二人が暮らしていた屋敷に飼われていた犬の名前である。

「この期に及んでまだ言い訳しようとするのか!?お前の他に、誰が僕の恥ずかしい写真をカッツェに売るって言うんだ!?」 

 

「あらぁ…それ、あたくしかも」

 

 頓狂な響きのなかにも蕩ける様な甘さを含む声が、ヴォルフラムの耳朶を打った。

「へ…?は……母…上?」

「え?母上、一体……」

 三兄弟が変な汗を掻きながら呆然と佇む前で、麗しの母ツェツィーリエは艶やかにマニキュアを施した指で、ぷっくらとした紅色の下唇を押さえていた。

「カッツェ君でしょう?コンラートのお友達の。その子に、売ったわけではないのだけど…《とても可愛い写真ですね》なんて言われたものだから、ついつい差し上げてしまったんだけど…駄目だったのかしら?」

「だ…駄目…だったのかしら…っ…て……」

 ヴォルフラムは更に恐ろしい予感を覚えて呟いた。

 そういえば、コンラートに写真を撮られたときには自分は起きていた。

 だが…下着を露出させたあられもない姿の写真では、ヴォルフラムは深く寝入っている様子だった……。

「まさか…あのパンツ丸出しの写真は、母上が撮られたのですか……?」

 恐る恐る聞けば、あっさりと肯定されてしまう。

「ええ、そうよ?だってショーツもとっても可愛かったんですもの。レースがふんだんに使われてて、ひらひらのフリルがついてて…ヴォルフラムにぴったりだったわ」

「そ…んな……」

 がっくりと脱力してしまったヴォルフラムは、真っ青な顔色になってその場に頽(くずお)れてしまった。

『僕は…何のために……』

 あれほど大好きだった兄を傷つけた原因が、こんなところにあったなんて…。

『僕は…どうしたら……っ!』

 コンラートに一体どうやって詫びればいいと言うのだろうか?ヴォルフラムは何も考えられなくなって、立つ力を失った。

「あら…!まあ大変、ヴォルフ…一体どうしちゃったの?」

 まだ状況が掴めていないツェツィーリエがヴォルフラムに駆け寄るその背後で、シュトッフェルは口惜しげに舌打ちをしている。その様子をグウェンダルは見逃さなかった。

「伯父上、コンラートに謝罪していただけますか?」

「…何を言っているグウェンダル。私はあくまでヴォルフラムの話であのように勘違いしてしまっただけだぞ?私に一体何の非があるというのだ?」

「あります。公衆の面前で、謂われ無き侮辱を私の弟に与えました」

『弟と…呼んでくれるんだね…』

 じん…と沁みいるような思いに、コンラートの眦が熱く潤む。

「謝罪をお願いします!」   

 「く…この……揃いも揃って馬鹿者揃いかこの兄弟はっ!」

 開き直ったように叫ぶシュトッフェルは、長い腕を大きく広げて観衆に訴えかけた。

「どう思います皆さん!これは私を貶めようとする小芝居だとは思いませんか?私が何か理にそぐわぬ事をしましたかな?そもそも…ウェラーなどという、どこの馬の骨とも分からぬ血筋の者が我がシュピッツヴァーグ家に入り込んだことでこのような問題が起きたのだ。なあヴォルフラム…お前も、心のどこかで思っていたのだろう?兄上兄上などと懐いていても、所詮由緒の知れぬ雑種の男だ…お前の恥ずかしい写真を売るような所行をしてもおかしくはないと…」

 これは、打ち拉がれるヴォルフラムにとって…あまりにも酷な言葉だった。

「違います…僕は…僕は……っ!」

「それでは、何故先程言っていたようなやりとり如きで信じてしまったのかな?お前の心に真の信頼があれば、こんなことにはならなかったろう?」

「……っ」

 ある意味では正鵠を射た発言に、ヴォルフラムは鋭いナイフで胸を抉られたかのように…細い指で襟元を掻きむしった。

 

「いい加減にしろよっ!!」

 

 大きな貝を頬に添えた少年が…仁王立ちになって叫んだ。

「本当に悪いのはあんたじゃないかっ!」

「儒子…」

 ヴォルフラムは自我が崩壊しそうな衝撃の中から、幼い少年の声に引き上げられるようにして我に返った。

 

「こいつにそーゆー疑いの種を蒔いたのは誰だ!お前じゃないかっ!!」

「何を言っているんだこの儒子…っ!」

 シュトッフェルの手が無意識に高く翳されると、挑むように有利の声が響いた。

「俺も撲(ぶ)つ気かい?抵抗も出来ないちっちゃなコンラッドをぼこぼこにしたみたいにさ!」

「貴様…何の証拠があってそんなことをいうのだ!?」

 またも誤魔化そうとするのを許さず、有利は小脇に抱えたうさぎ人形に《力》を集中させ…先程見た映像を脳内に凝縮させた。

『おい…渋谷?一体何をするつもりだ?』

 珍しくも村田が焦ったような声をあげ、人前であることも忘れて有利の懐中で藻掻くが…寸足らずの人形の身では逃れようもない。  

「証拠ならある…ここに!」

 ドゥッドゥッドウッ…!

 村田の力によって増幅された映像が…有利の体内を駆けめぐる。

 きつすぎる感情を孕むその映像は、幼いコンラートが受けた苦しみと哀しみの結晶だ。 その映像が有利の身体のなかで頂点に達したとき…小さな角は金色に輝き、眩いほどの光を発して放電を始めた。

「ユーリ!?…うっ!」

 駆け寄ろうとしたコンラートとヨザックが揃って弾かれてしまう。

 有利の廻りには、凄まじいほどの電気…雷が張り巡らされていたのである。

「あれは…何!?」

「ディスプレイに…映像が……!」

 先程まで様々な角度からツェツィーリエを映し出していた映像が突然乱れたかと思うと、全てのディスプレイに同じ映像が映し出された。

 

 それは、随分と低い位置から映された映像だった。

 見覚えのある顔立ちが、今ここにいる男の若かりし頃の映像だということが人々に認識された頃…映像と共に声音が流れ出した。    

 

『お前が家族と呼んで良い者は墓坑のなかに居る男だけだっ!!』

 

 ヒステリックな叫びが、その声を受けたコンラートの苦しみに同調しながら人々の耳朶を打った。

「ひ…っ!」

 ご婦人方や気の弱い男は、反射的に怯えたような声を上げてしまう。

 《やめて…やめて……っ!》《お願い…ゆるしてっ!》繰り返される悲痛な少年の声と、頭を庇おうとして翳される手の幼さに、誰がその責め苦を受けているのかが次第に理解できてくると、じわじわと観衆達の眼差しがシュトッフェルを責め始める。

「まぁ…なんてこと…!」

「児童虐待をする者が、よくもまぁ《栄光燦たる》などと家名を誇れますこと!」

「み…みなさん、これはきっと手の込んだ罠で……」

 盛んに脂汗を掻くシュトッフェルが尚も言い訳をしようとするが、幾ら近年のCG技術が発達してきているといえど、これほどの精度で民間人が映像を作れるはずがない。ことに、人間を再現する場合、どうしたって接写ではCG独特の違和感が出るものだ。

 それに、この映像は単なる映像ではない…。

 村田を介して増幅されたコンラートの恐怖心が、リアルに人々の心に浸透していたのである。

 そう…それは、さしも脳天気なツェツィーリエの心にすら届いていた。

「コンラート……」

 愕然として見開かれた瞳に、見る間に涙が溢れてくる。

「ご免なさい…ご免なさい、コンラート…あたくし…なにも気付かなかった……」

 奔放な《愛の狩人》として世界中の男達に愛を振りまき、気が向いたときだけ郷里に戻って可愛らしい息子達を愛でる生活…その影で、何が行われていたのか彼女は気付かなかった。いや…気付こうとしなかったのだ。

 ほんの少し、息子達に関心を寄せていれば…。

 親密に寄り添い、悩み事に耳を傾けていれば…もっと早くに話してくれたろうに。

『こんな年になるまで…あたくし、何一つ知らなかったなんて!』

 これで、母親などと言えるだろうか?

 真珠のような涙をぽろぽろと流すツェツィーリエの前で、だめ押しとも言える映像が流された。

 目に血が入ったためだろう…薄赤く染まった画面の中に涙を浮かべた乳母の姿が映ると、彼女は震える声で《母上様にご相談しましょう》と勧めた。

 だが…コンラートはその申し出を断ったのだった。

『母上は伯父上のことがとても大好きなんだもの。こんなこと…言えないよ。それに、母上は笑ってらっしゃるのが一番良い。俺のことなら大丈夫…必ず強くなって、いつかこの家を出て行くから、心配しなくても良いんだよ、マーサ…』

「コンラート…っ!!」

 噎(むせ)び泣きながら…よろめくようにして駆け寄ってきたツェツィーリエを、コンラートはしっかと胸に抱き留めた。

 ずっと抱きしめて欲しいと思っていた母の肩は華奢で…長い腕の中にすっぽりと収まってしまう。

「許して…ご免なさい…ご免なさいね……っ!」

「許すだなんて…俺は、一度だってあなたを恨んだことなどありませんよ?」

「いいや、お前はもう少し恨み言を正面切って言うべきだ」

 割って入ってきたのはグウェンダルであった。その眉間には深々と皺が刻み込まれ、口元は苦いものを無理矢理飲み下したみたいに歪められている。目元がうっすらと紅く染まっているところを見ると…どうやら、泣きそうなのをすんでの所で堪えているらしい。

 コンラートが伯父に理不尽な仕打ちを受けていたことは知っていたが、まさかあそこまでの虐待を受けていたなど考えもつかなかったことで、自分を責めているのかも知れない。

「私たちは、まず様々なことを話し合うべきだと思いますよ。母上」

「そうね…本当にそう!」

「お前もだぞ、ヴォルフラム」

 傍までやってきたものの、何と口火を切って良いのか分からないといった風情で佇んでいたヴォルフラムにそう促せば、やはり泣きそうな顔を誤魔化すために眉根を寄せた末弟が頷いた。

「…はい」

「何か言うべき事があるだろう?ヴォルフラム」

「………はい」

  すぅ…と息を吸い込んで、精一杯の勇気を奮い起こしたヴォルフラムは、ずっとずっと…コンラートが待ち望んでいた言葉を口にしたのだった。

「ごめんなさい…コンラート兄上……」

「ヴォルフ……」 

 流石に成長してしまった身で、しかもつい先程まで誤解の上のこととはいえ蛇蝎のように嫌った態度を見せていた手前、昔のように屈託無く飛びつくことは躊躇われる様子だが…それでも、見上げた瞳は真っ直ぐにコンラートを見つめている。

 おねしょをした後に、叱られることを…いや、嫌われることを恐れて泣いていたあの頃のようだ…と、コンラートは思い出すのだった。

「グウェンダルはやっぱりお兄ちゃんねぇ…こんな時、やっぱり支えてくれるのね?」

「いえ…私は、あの子がいなければ……」

 苦笑しながら向けた視線の先で、ぐら…と有利の身体が揺れたかと思うと……

 

 …糸の切れたマリオネットのように、ばたりと倒れた。

 

「ユ……」

 ひゅ…と、コンラートの喉が鳴り…一瞬の硬直の後、爆発した。

 

「ユーリぃぃい……っっ!!」

 




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