鬼っ子シリーズ24「金色の少年」



 

 

 とっととと…

 とっててて……

 

 ランプを持って、ヴォルフラムとおぼしき人影を追いかけようとした有利だったが、はたと立ち止まって考えた。

「いけね。そういえば、日本語通じないんだっけ。村田に貝を借りなくちゃ!」

 貝というのは、鬼世界の王である眞王陛下に貸してもらった巻き貝のことである。ボウショウボラに似たこの大きな巻き貝は、これ一つで《聞き耳頭巾》と《口利き嘴(くちばし)》の両方を兼ねるという優れものである。

 一体どういう仕組みなのかは分からないが、この貝を耳に付ければ異国の言葉でも動物の言葉でもその意味を捉えることができ、逆に、口につけて喋れば自分の言いたいことを相手に伝わるように変換してくれる。今の有利の大きさなら、口と耳とを同時に覆えるため、携帯電話のように顔の横に添えて使うことが可能だ。

 その貝を、有利は村田ポシェットの腹の中に収めていたのだった。

 

*  *  *

 

「村田、村田っ!」

 ヨザックと村田に宛がわれた部屋の扉を叩くと、二人ともリラックスして安眠を楽しんでいたのだろう、寝ぼけ眼を擦りながらふらふらと歩み寄ってきた。

「んー…。何かあったのかい?」

「こんな夜中になんだい?渋谷…」

「村田、貝を貸してくれない?お腹の中に入ってるだろ?」

「…なんで?深夜のお喋りを楽しみたくなるような、萌え系のメイドさんでもいたのかい?僕が見た限りでは数十年前ならいざ知らず…って感じの《お嬢さん》が多かったような気がするけど」

 村田うさぎのコメントは、なにげにみの○んた風だ。

「違うよ。あのさ…さっき庭に、コンラッドの弟の、ボル…ええと……ボルフラム?とかいう人っぽい人影が見えたんだよ。俺、追っかけてって話をしようかと思ってさ」

「ボウフラ…?ああ、ヴォルフラム君ね。でもさ、渋谷。そういうことはウェラー氏自身がやらなくちゃいけないんじゃないかな?」

「そりゃそうだけど…。でも、コンラッドは緊張してたせいかあんまり眠ってないんだよ。だから、朝まで少しでも眠ってて欲しいんだ。それに面と向かって話をする前に、どんだけコンラッドがボルフラムのことを大好きか教えてあげても良いと思わない?」

「うーん…どうだろうねぇ……」

 眼鏡の蔓をくいくいと引き上げながら(針金のフレームだけで、度は入っていないのだから見え方が変わるわけでも無かろうに)、村田は小首を傾げて見せた。

「もー、良いから早くっ!どこか行っちゃうかも知れないじゃんっ!!」

「あ…こらこら渋谷!」

 気が焦れてしょうがない有利は、半ば強引に村田の背中にあるファスナーを下ろすと巻き貝を引きずり出し、とったかたと駆けだしてしまった。 

「ちょ…渋谷!ねえヨザック。僕を乗っけて渋谷を追いかけてよ。そんで、こっそり物陰から様子を伺ってくれないかい?渋谷が変な難癖をつけられたり、泣かされたりしそうなら取りなしてくれっ!第一、相手が弟君と決まった訳じゃないからね。万が一こそ泥なんかと鉢合わせしたら心配だ」

「へいへい」

 心配性な友人うさぎに苦笑しながら、ヨザックはパジャマ姿のままで走り出した。

  そして幾らも走らないうちに、馴染みの顔に出くわしたのである。

「あれ?コンラッド…」

「ヨザ…こんな夜中にどうしたんだ?なあ、ユーリを知らないか?トイレに行くと言って寝室を出てから帰らないんだ。寝ぼけて迷子になっているのかも…」

 廊下を物探し顔で歩いていたのはコンラートであった。

「俺もうさぎさんと一緒に坊やを追いかけてるんだよ。なんでも、あんたの弟の姿が見えたから話をつけるって息巻いてたぜ?」

「ヴォルフと?」

 コンラートはぎょっとして息を詰めた。

「ユーリもヴォルフもまっすぐな子だからな…下手をすると大喧嘩になりかねない」

「確かに!」

 ヨザックの脳裏にも天使のような顔立ちを紅潮させて、《兄上に失礼な口を利くなっ!》と怒っていた少年の姿が思い起こされた。お兄ちゃん子だったときにも多少傍迷惑な少年であったのだが、仲違いをしている現在は一層複雑な心境であるかも知れない。

『なんかなぁ…コンラッドのコトが嫌い…つっても、何かの勘違いか拗ねてるだけって気がするんだよな』

 コンラートの溺愛ぶりやヴォルフラムの以前の懐き具合を考えても、仲違いの原因はそれくらいしか考えられない。

 そうなると、有利の立場は厄介なものになる。

 ヴォルフラムが以前いた位置で猫っ可愛がりがりされている有利を見れば、きっと彼は嫉妬に駆られるに違いなのだから…。

 

*  *  *

 

 同行者一同に激しく心配されているなどつゆ知らず、有利はベランダから見えた人影を求めて庭に飛び出していった。

「どこだー、どこだー?おーい、ボルフラム!」

 そんな有利を見つめる陰が、白薔薇の木立の中にそっと佇んでいた。

『あいつ…何者なんだ?』

 苛立たしげに白皙の頬を紅潮させ、形良い桜貝のような爪を噛んでいるのはヴォルフラム・フォン・ビーレフェルト。

 有利が見つけた人影は、紛れもなくコンラートの弟だったのである。

『グウェンダル兄上に呼ばれて訪れてみたが…くそ…っ!あの小さい儒子(こぞう)、何だってあんなに馴れ馴れしく…いや、図々しくこの屋敷に居るんだ!?』 

 ヴォルフラムの怒りは、あのちいさな東洋人の子どもがやけに親密な空気を漂わせながらコンラートと過ごしていたことに対する嫉妬から来ているのだが、それを当人は決して認めないだろう。

 あくまで、下々の者が我が物顔で屋敷を闊歩していることに対する当然の怒りなのだと 思おうとした。

「ここかなー?おーい」

 焦れた有利がきょろきょろと辺りを見回し、やや乱暴に白薔薇の梢(こずえ)をかき分けたとき、ヴォルフラムは絡みやすい事象を捉えてかっと頭に血を上らせた。

「無礼者っ!!」

「わぁっ!」

 急に突き飛ばされた有利は均衡を崩し、ころんとひっくり返って尻餅をついてしまった。

「痛てて…うー…な、何すんだよ急にっ!!」

 見上げれば、月光を背にして佇むうつくしい少年がいた。

『うわ…キレー……』

 コンラートの持っていた写真で造作が整っていることは知っていたが、目の前で見ると本当に天使然とした美少年なのだと実感できる。

 抜けるように透明感があるが、決して病的な印象はもたない白皙の肌。

 けぶる長い睫に縁取られた大粒のエメラルドアイズ。

 形良い鼻から描かれる麗しいラインと、決然とした薔薇色の唇。

 ただ、欧米人にしては体格は大きな方ではなく、大きくなったときの有利と同程度の身長、肩幅であった。

 今は、その華奢な体躯を明るいクリーム色のスーツに包んでいるが、そのデザインも何処か華美な印象を持っている。襟元のふりふり感などは、一歩間違えると女の子の様だ。

 絶対言わない方が良いだろうが…。

「あんた、ボルフラム?」  

「何を言っているんだ?くそ…ドイツ語も分からないような低能なのか?面倒だなっ!」

 居丈高に言われた意味がよく分からず、有利は慌てて貝を耳に当てた。

 すると、小気味よいほどの罵詈雑言を浴びせられていることだけはよく分かった。

「お前、よくも母上が手ずから植えられた薔薇に傷をつけたな?この低能の分際で無礼も甚だしいっ!その黄色っぽい顔を洗って出直すが良いぞ猿顔の東洋人っ!!」

「む…くー……っ!」

 かーっと頭に血がのぼりかけた有利だったが、ぐっと踏みとどまって頭を振るった。

『駄目駄目…っ!俺は喧嘩をしに来たわけじゃないんだ。コンラッドのことを分かってもらわなきゃっ!』

「お花を乱暴に扱ったのは悪かったよ。この通り、謝るっ!」

 奥歯を噛みしめて、有利は宵闇の中でもはっきりと分かるほど明瞭に頭を下げて見せた。

 その潔い態度には多少感じるものがあったのか、また、奇妙な道具を介してではあるが、会話が成立することに気づいたヴォルフラムは、少しだけ語調を落ち着けて口を利いた。

「ふん…その程度の謝罪では本来収まらないところだが…。まあ、子ども相手ということで許してやろう。それより、お前…コンラートのなんなんだ?」

「コンラッドの?そりゃあ…ともだちだよ。親友なんだ!」

「親友だって…?」

 はん…と、ヴォルフラムは形良い顎をのけぞらして、嘲笑うように有利を睥睨した。

「何を勘違いしている?お前はちいさい子どもじゃないか。親友というのは、相手の苦しみや悩みも自分のことのように感じ、分かち合う、対等の存在だ。お前のように寄っかかって可愛がられるだけの存在ではない!」

「俺、寄っ掛かってばっかりじゃないもんっ!ちゃんとお皿も洗うようになったし、自分の洗濯物は自分で畳むようになったもんっ!!」

 寄っかかりの方向性が多少違う様な気がするが…とりあえず、以前ヨザックに指摘された方面では頑張っているのだとアピールしたい有利だった。

 しかし、ヴォルフラムの方は有利の言葉に一層愁眉を顰めた。

「お皿…洗濯物……?何だお前…まさか……コンラートと一緒に暮らしているなんて言うんじゃないだろうな?」

「全部一緒って訳じゃないけど、わりとよくお泊まりはしてるぜ?」

 ちょっと誇らしげに胸を張ったのがいけなかった。

 すっかり臍を曲げてしまったらしいヴォルフラムは、眦(まなじり)を朱に染めて怒気を露わにした。綺麗なエナメルの靴に包まれた足下は、だんだんと地団駄踏まんばかりだ。

「今すぐこの屋敷から出て行けっ!コンラートもコンラートの腰巾着の儒子も、この屋敷に居ること許さないっ!」

「そうはいかないよ!あんたには、コンラッドの事をちゃんと分かって貰わなくちゃなんないんだから!」

「分かって貰うだと?お前なんか…お前なんか……唯の他人じゃないかっ!」

 ヴォルフラムは突き上げてくるような怒りと共に、涙さえ溢れさせそうになって…目元を乱暴に擦りあげた。

 かつては…自分もこの子どものように、真っ直ぐにコンラートを見つめていた。

 どこに行くにも頼りがいがあって優しく、綺麗な兄についていったものだ。

 すらりとして機敏な脚が大きなストライドで歩んでいくのを、ちょこちょことした足取りで追いかけて…ぴょーんと飛びつく瞬間の、あの晴れがましい気持ち…っ!

 《あにうえ…ちっちゃいあにうえ……っ!》

 そう呼んで飛びつけば、どんなときだって満面に笑みを湛えて抱き上げてくれた、やさしい兄。

 そう…やさしかった。

 だから、騙されたのだ…。

「お前だってそのうち、こっぴどく裏切られて泣くことになるんだ。あんな奴を信じてたって…良いことなんか何もないんだからなっ!」

「何言ってんだよっ!」

 弾けるように激高した有利に、流石のヴォルフラムも一瞬気圧されてしまう。

 有利のまっくろな瞳には激しい怒りの色が浮かび、潮紅した眦がきりりと釣り上がってヴォルフラムを睨め付けた。

 ちいさな握り拳はわなわなと震え、ヴォルフラムの謂われ無き罵倒をなんとかして破却しようと真っ直ぐに向かってくる。

「何言ってんだよ…そんなこと、言うなよっ!何で…何でコンラッドにそんなこと言うんだ?そのせいでどんだけコンラッドが傷ついたか分かってんのかよ!?コンラッドはあんたのこと大好きなのにっ!」

「嘘だ…っ!僕のことが好きなら、何故裏切ったというんだっ!」

 今度は有利の方が怯む番だった。

 それほどにヴォルフラムの嘆きは痛烈であったし、涙ぐんだ美少年というのはそれだけで他を圧する迫力を持つ。

「裏切った…?」

 がさ…と、草むらが動いたような気がしたが、有利もヴォルフラムも気づかない。

 

*  *  *

 

「駄目だって、コンラッド。いまあんたが出ちゃあ、弟君は余計に高ぶっちまうぜ?」

「だが…っ!」

 弟に見限られてしまった原因が今まさに提示されようとしているのだ。

 コンラートはヨザックに羽交い締めにされなければ飛び出していたところだろう。

「ウェラー氏。君…なにやったのさ。随分と嫌われたもんだねぇ…。へぇー…。裏切りねぇ…。僕、裏切りって言葉、大っ嫌いなんだよねぇ……」

 

 でんでろでんでろでんでろ……

 

 背後から蜷局(とぐろ)を巻くような怨念が染み出してくる。

 うさぎ人形が宵闇の陰影を纏いながら凄んでいる姿は、その牧歌的な風貌にもかかわらず(そうであるだけに?)異様に猟奇的な眺めだ。

「裏切ってなど…っ!」

「いない…って言い切れる?こういうのはあくまで、裏切られた方の主観で決まるからね。君…知らないうちによっぽど弟君を傷つけてしまったんじゃないかな?」

「それは……」

 ヴォルフラムの主観と言われれば返す言葉もない。

 コンラートの方には何一つ心当たりがないのだが、確かに…彼があそこまで嘆くからにはそれなりの理由があるのだろう。

『もしかしたら、シュトッフェルに何か吹き込まれたのでは?』

 気むずかしいシュトッフェルも、如何にも貴族的な風貌で家格も申し分のないヴォルフラムのことは溺愛しており、何かと理由をつけては屋敷を訪れて、コンラートと引き離して可愛がったものだった。

 その折りに、何か吹き込まれたのだろうか?

『だが…ヴォルフ、お前は俺の言うことよりあいつの言うことを信じたのか?』

 もしもそうだというのなら…それはそれで、胸が締め付けられるのだった。

  

*  *  *

 

「裏切ったりするはず、ないよ」

 ヴォルフラムの勢いに驚きはしたものの…それでも、有利は静かな確信を込めて呟いた。

「何故そう言いきれる?」

「だって、コンラッドは絶対絶対…あんたのこと、大好きだもん。なぁ…あんた、その裏切りのこと、コンラッド本人には聞いてみたの?」

「聞いては…ない……」

 頭に血が上って、一方的に罵倒してしまったのだ。

「じゃあ、もう一度…ちゃんと話をしてみなよ。どうしてそんなに悔しかったのか、哀しかったのか…ちゃんと言わないと通じないよ?いっとき、かーっとなって怒っちゃうことは誰でもあるかも知んない…だけど、本当にそれで良いの?コンラッドと喧嘩をしたままで…いつもすっきりして暮らせるの?」

「う…うるさいっ!」

「なあ…今からでもコンラッドを起こして、ちょっとで良いからちゃんとお話を…」

「くそ…何の権利があって、お前はそんなことを言うんだ?」

 有利の言うことが尤もだと心のどこかで感じていながらも…一度拗ねてしまったヴォルフラムはそうそう軌道修正できる少年ではない。なんとか難癖をつけようとごねてみせる。

「大事なともだちのために何かするのは、おかしなこと?」

「……本当に、コンラートはお前にとって親友なのか?」

「ああ、そうさっ!」

「では…コンラートのために、お前は何でもできるのか?僕とコンラートに話し合いを持たせる為なら…何でもできるというのか?」

「できるよっ!!」

 これは半分、勢いによる発言であろう。

 確かに何でも出来そうな意気込みだけはあるのだが…物事にはおのずと限界というものがある。…が、ここまで来て引き下がれるものではなかった。

「じゃあ…僕がコンラートから受けたのと同じ屈辱を受けても、平気でいることが出来るかな?」

「くつじょく?」

 漢字で書くのは難しいが、有利にも大体の意味は分かる…。

 物凄く恥ずかしくて嫌なこと…である筈だ。

「コンラートが裏切りなどしていないと言い張れるのなら、平気なはずだぞ?」

「あ…当たり前さっ!!」

 またしても勢い発言。

 だが、当然引っ込められるはずもない。

「ふん…お前も明日の舞踏会には参加するのか?」

「うん…多分、そーだよ。ブトーとか出来ないけどさ」

 舞踏にせよ武闘にせよ良い勝負だ。

「踊れなくとも、参加するのなら問題はない。よし…明日の午後2時になったら、この屋敷の2階と3階の間にある階段室に来い。青い扉のちいさな部屋だ。そこで…僕が受けた屈辱を知るが良い!それでもお前がコンラートを信じ抜くというのなら、僕だってコンラートと話をしてやるさ」

「おうよっ!そんなに青筋立てて怒る様なもんじゃないって証明してやるぜっ!!」

 こうして、血の気が多い二人の少年は足を踏みならしながら別れていったのだった。

 

*  *  *

 

「階段室?」      

 コンラートは記憶の襞(ひだ)をまさぐるように、はたと小首を傾げた。

 フォン・ヴォルテール家所有のこの屋敷には数回しか訪れたことがないが、確かに、その部屋にはコンラートもヴォルフラムと共に訪れたことがある。

 あれは確か……。

「…………ヴォルフラムが怒っていた意味が、ちょっと分かってきた様な気がする。うぅ〜ん……そんなに嫌だったのかー……」

 何となく語尾が苦笑気味になってしまうコンラートに、村田とヨザックは怪訝そうな表情を浮かべた。

「美形兄弟がちいさな階段室で二人きり…」

「何か秘密の匂いがしますね奥さん…」

 すっかり調子を合わせた二人が、ひそひそと囁き交わす。

「誰が奥さんだ。それに、二人きりじゃないよ。母上も居たんだ。…というか、主体は母上だったんだよなぁ……だが、母上は怒るに怒れないキャラクターの人だから、俺にとばっちりが来たのかな?第一、怒られたときには結構時間がたっていたから、何のことだかさっぱり分からなくて、《謝れっ!》と凄い調子で捲し立てられたときにはついつい、《理由が分からないと謝れないよ》と言ってしまったんだ…」

 《僕の口から言えというのか!?》とヴォルフラムは益々怒りの度合いをスパークさせ、大地を踏みならして立ち去ってしまったのだった。

「…で、君はこれからどうするつもりだい?」

「どう…とは?」

 うさぎ人形に見上げられて、コンラートは小首を傾げる。

「渋谷のことに決まってるだろ?渋谷ったら、すっかりヴォルフラム君の挑戦を受ける気で居るみたいだけど、君はそれをどうする気だい?」

「止めるよ。そして、ヴォルフには俺から謝る」

「ふぅん…」

 妙にすっきりとした顔でそう言うコンラートに、うさぎ人形はまだ何かを含んだ様な眼差しで視線を送るのだった…。

 

*  *  *

 

「え…?どうしてもやるのかい?」

「そーだよ!ああまで言われて引き下がれないよっ!だって…だって、コンラッドは悪いことはしてないんだろ?」

 有利が部屋に戻ってくると、待ち受けていたコンラートがうさぎ人形の村田に言った様なことを繰り返したのだが、有利は憤然としてそれをはね除けようとしたのだった。

「うーん…悪気がなかったのは確かなんだけどね……」 

「え………」

 微妙なコンラートの返答に、勢いづいていた有利の眉がへちょりと垂れ下がってしまう。

「まさか…まさか……本当に酷いことをしたの?」

「うーん…うーん……。少なくとも、ヴォルフはそう受け止めたみたいだねぇ……」

「えええぇぇ〜……?」 

 見る見る有利の顔色が青ざめ、がっくりと肩が落ちてしまった。

「ほら、これを見て?その時の写真なんだけど……」

「わー……」

 差し出された一枚の写真に、有利はなんとなし納得の表情を浮かべた。

「こりゃあ…大きくなってから見たらちょっと怒るかも知れないねぇ…」

「そうだねぇ…ヴォルフがあんまり可愛いから、母上も俺もつい悪のりしてしまったんだよ。その頃のヴォルフはもともとひらひらした服を着ていたから、本人もあまり違和感なく、母上が言われるままに着せ替えさせられていたしね。俺も止めたりはしなかったんだ。写真も沢山撮ったしねぇ…」

 そう…ここまで読まれた方は大体お気づきであろうが、コンラートが差し出した写真とは、お姫様の様に愛くるしい…ヴォルフラムの女装写真だったのである。

 丁度、いまの有利くらいの大きさのヴォルフラムがふわふわとしたお花のようなドレスを身に纏い、きょとんとした様なあどけない表情を見せている。

 これだけ可愛い子なら、それはつい悪戯心でこんな衣装も着せてしまうというものだろう。…と、いうことは、有利が挑まれているのは舞踏会でこういう衣装を着ることなのだろうか?

「でも、変だね。これってちいさい頃の写真でしょ?」

「そうなんだ。だけど、ヴォルフにえらい勢いで怒られたのはずっと後になってから…そうだね、日本に来る3年前くらいだから、ヴォルフが12歳くらいのことだよ?だから、俺はヴォルフが腹を立てていることにさっぱり心当たりが無くて、理由を聞いたら余計に怒られてしまったんだ。だけど、この屋敷の階段室といえば母上のお人形部屋…等身大のビスクドールに可愛い服を着せるところだから、母上がいるとき以外は俺達も立ち入ったことはない。だとすると、あの部屋を引き合いに出して《屈辱》と言っているのなら、このこと以外には考えられないよ」

『やーん、ヴォルフったら可愛いわぁ〜。ずっと女の子が欲しかったんだけど、ヴォルフがいればどちらも楽しめて良いわねぇ!』

 ツェツィーリエの喜色に満ちた声音が脳裏に蘇るようだ。

「ね、だからユーリが嫌な思いをすることはないよ。これは確かに、止めてやらなかった俺も悪いんだから、ちゃんと俺から謝っておくから…」

「ううん!これは俺の闘いでもあるんだ。止めないでよコンラッド!」

 何時の間に《闘い》になったものやら…。

「こんなの大したことないって言うためには、やっぱり俺はこれを着るべきなんだ。それに、俺は約束したんだもん。俺があいつのいう《くつじょく》ってやつを乗り越えたら、コンラッドとちゃんと話し合いをしてくれるって…!」

 有利はきらきらと輝く瞳を大きく見開いて、コンラートを励ますように言うのだった。

「ね…俺に任せてよコンラッド。俺なら平気。そりゃ…ボル…えと、ヴォル?…フラム、みたいに可愛くはないから、ちょっと笑われたりはするかもしれないけど…」

「そんなことはないよ。きっと…とても可愛くなる。だけど、ユーリは男の子だから、やっぱり恥ずかしいんじゃないかな?」

「そりゃ恥ずかしいけどさ。コンラッドのためなら、平気…っ!」

 いじらしい有利の物言いに、コンラートの胸はきゅん…と甘酸っぱい痺れに満たされるのだった。

「ユーリ…」

「コンラッド……」

「あー、君達」

 見つめ合う二人の間に、ひょこ…っ!と飛び上がってきたのはうさぎ人形の村田であった。

「盛り上がってるトコ悪いけど、くれぐれも女装したあと渋谷から目を離さないようにしてくれないかな?勿論、渋谷もヨザックやこの男から離れないように気をつけて?」

「どうして?」

「どうもね、やっぱり引っかかるものがある。弟君のあの怒りよう…《裏切られた》っていう悔しさは、ウェラー氏が言っているような事柄だけで起こるものではないと思うんだよ。多分…まだ何か事情がある筈なんだ」

「なんだよ村田!コンラッドが嘘ついてるともいうのか?」  

「そうはいわないさ。だけど、注意するに越したことはない。もしかすると、ウェラー氏が知らない事情が存在してて、それをウェラー氏のせいだと弟君が勘違いしている可能性はあるだろう?」

「そりゃあ…まあ……」

「いいね、渋谷。絶対にウェラー氏やヨザックから離れるんじゃないよ?」

 再度うさぎ人形に念押しされた有利は、こっくりと頷いた。

 

*  *  * 

 

「来たな…儒子」

「おう!」

 約束の時間になると有利は階段室に向かい、そこで待ち受けていたヴォルフラムと合流した。

 コンラートと直接会わせるのは、有利が舞踏会で女装の屈辱に耐えてから…と、申し合わせてあるので、今は村田内蔵うさぎ人形だけを抱えている。

 ヨザックもコンラートも幾らか離れた場所から様子は伺っているので、多少荒っぽい行動に出られても対処は出来るように配慮はしてある。

 促されて部屋の中にはいると、こじんまりとした部屋の中には子どもサイズの等身大ビスクドールがお茶会でもして居るみたいな状態でテーブルについており、いずれも高価そうなドレスやスーツを着込んで気取った顔つきをしている。

 メイド達が丁寧に世話をしているのだろう。埃を纏っているような人形は一体もない。また、出来が良すぎる人形達は血肉が通った人間の子どものような様子なので、囲まれると正直…ちょっと怖い。

 その中の一体からヴォルフラムが見繕ってきたのは、黒地に小花やリボンをあしらったドレスだった。ふわふわのシフォン地で、腰の所できゅっと大きなリボンを括った様子がなんとも愛らしい。

「よし…これを着ろ」

「お…おう!」

 勇ましく受けて立った有利は、それ以降はされるがままにメイクされたり髪を弄られたりと、全て黙って耐えたのだった。

「おい…この妙に硬い黄色いモノは何だ?外すぞ!趣味の悪い…」

「や…やめてっ!」

 その内、有利は角を弄られて悲鳴に近い叫び声を上げてしまった。ヴォルフラムはしきりに外そうと試みていたが、有利が泣き出しそうになると止めてくれた。案外、人は良いのかも知れない。

 それに、ヴォルフラムにも独自の美意識があるのか故意に有利を笑いものにするような装飾は施さず、ナチュラルかつ有利の素地が生きるような化粧を施し、ぴんこらと跳ねている毛先を器用にアレンジして小さな小花を絡めていった。

 おかげで、小一時間も経つ頃には作成者であるヴォルフラムも息を呑むような…可憐な《少女》が出来上がってしまったのである。

『う…な、なんだこいつ……意外と化粧映えがするな……』

 明るい陽光のもとで見る有利はそれでなくとも素直に《可愛いな》と思える容貌をしていたのだが、こうして丁寧に化粧を施してみれば、辺りに座した高級な人形達など太刀打ちできないほど生き生きとしたうつくしさを呈していた。

 子どもらしいふっくらとまろやかな頬は自然な赤みを帯びて水蜜桃のようだし、ちいさな鼻はちょいっと突きたくなるような愛嬌をもっている。そして…なんといっても大粒の漆黒の瞳には、お日様のように明るい人(鬼?)柄を顕すように生気が満ちあふれている。

「おい、お前」

「有利だよ」

「お前で十分だ。なあ…分かっているのか?お前は、舞踏会にその恰好で行くんだぞ?そして…僕が受けたのと同じ屈辱を受けるんだ」

「分かってるさ。そうしたら…あんたはコンラッドとちゃんと話をしてくれる…そうだろ?」

「……どうして…」

 ヴォルフラムの瞳が初めて…戸惑うように揺らめいた。

「どうして、お前はそんなにコンラートのことを想うんだ?それに…僕が以前みたいにコンラートに愛されるようになれば、お前なんかきっと二番目に格下げされる。それでもいいのか?」

「そーかもしんない。だけど…それでも、良いんだ。だってコンラッドはずっとずっと、家族とうまくいかないことに悩んでたんだ。だったら…大事なあんたが昔みたいに好きになってくれたら、きっとコンラッドは喜ぶ。俺…コンラッドが幸せなのが、一番幸せだよ」

 ふわ…っと蕾がひらくように、芳(かぐわ)しい華やぎをもって有利が微笑む。

 それは、ヴォルフラムが精魂込めて施した化粧のせいだけではなかった。有利の中に内在する香気あふれる心根が、さしも頑固な少年の心をも打つほどに薫ってくるのだ。

『全くね…お人好しなんだから……』

 苦笑しているうさぎ人形の村田も、懸念はしつつも結局…そんな有利の人柄に友として惚れているのだった。  

「悩んでいた?あいつが…?」

 常に飄々とした風情を纏っていた兄に、そんな所があるなど思いも寄らなかったのか、ヴォルフラムはエメラルドアイズを盛大に開いて驚きを露わにした。

「そうだよ。だって、お兄さんとは以前からあんまり繋がりがなかったし、可愛がってたあんたには嫌われるし、伯父さんには火掻き棒で殴られるし、お母さんには大事な仕事から手をひけって言われるし……」

「ちょっと待て…何の話だ?兄上と僕のことはともかく、伯父上と母上が何だって?」

「伯父さん、コンラッドのこと火掻き棒や拳骨で殴ってたんだろ?コンラッド…今でも天気が悪いときとか、落ち込んだときには殴られたところが痛くなるんだ…。特に、伯父さんのことを思い出すと、いまでも怖くて身体が竦んだり、吐きそうになるんだぜ?」

「そんな…シュットッフェル伯父上が?」

「そんな名前だったな。その伯父さんがお母さんに頼んで、コンラッドが途中までやってた大事な仕事を取り上げちゃったしさ…」

 憤懣やるかたないといった表情で有利が吐き捨てれば、ヴォルフラムも幾ばくか心当たりがあったのか、眉根を顰めて小さく頷いた。

「そういえば…」

 シュトッフェル・フォン・シュッピッツヴァーグはヴォルフラムのことは可愛がってくれたが、何故か昔からコンラートには冷たかった。そして、確かに彼がコンラートやヴォルフラムが母と暮らしていた屋敷に後見人として滞在している間…コンラートの体調が優れなかったり、奇妙なところに傷をつくって、《転んだんだよ》等と言っていたことがある。

『あれは…叔父上にやられていたのか?』

 きっと…知っても力にはなれないどころか、コンラートを庇うことでヴォルフラムが何らかの割を食うことを懸念していたのだろう。

 だからこそ、ヴォルフラムの前では何ともない振りをして…叔父の暴力に耐えていたのではないか……。

『あ…あの、ええ恰好しいの男ならやりかねない…っ!』

 そして、コンラートは自由奔放で社会通念に欠ける母にも無条件に甘かった。

 彼女が頼めば、多少不条理なことでも我を枉げて受け入れたに違いない。

『くそ…なんだというのだ…どうして、今になって……っ!』

 ヴォルフラムは何も知らなかった。

 コンラートは弟に何も知らさず、隠し切って…そうすればヴォルフラムが幸せでいられるとでも思っていたのだろうか?

『そんなの…ちっとも対等じゃないじゃないか…っ!』

 腹立たしさに涙さえ出てくる。

 《相手の苦しみや悩みも自分のことのように感じ、分かち合う、対等の存在》…それは、ヴォルフラムが有利に対して示した《親友》の定義であったが、同時に兄弟についても言えることではないだろうか?

『僕は知らなかった…』

 それは最初、コンラートに対する恨み節として浮上してきた感情だったが、次第に…彼なりにこの年までに成熟した、人としての理性が…ヴォルフラムにもう一つの感情を教えた。

 それは…羞恥だった。

『僕は、コンラート自身の口から説明させることもなく、ただ一人で怒っていた。だから…僕が成長しても、コンラートは僕に色んな事を話して聞かせることが出来なかったのだ…』

 彼の悩みも苦しみも…ヴォルフラムがもう少し耳を傾ければ、もっと話してくれたかも知れないのに…。

 この時初めて、ヴォルフラムはコンラートともう一度、ちゃんと話してみよう…そう思えたのだった。

 

 トゥルル…

 トゥルルル……

 

 軽やかな電子音が響くと、ヴォルフラムは懐から携帯を取りだしてメールを確認した。

「む…母上からお呼び出しか。ふむ…」

「どーしたの?」

「舞踏会までに、母のお気に入りの理髪師にセットされることになっているのだ。おい…お前、僕がいなくてもちゃんとその恰好で舞踏会に来るのだぞ?」

「分かってらぁ!俺は約束は守る男だぜ?」

 にかりと男らしく笑う有利に、ヴォルフラムは初めて…やわらかい微笑みを見せたのだった。

    

* あともう一息です。舞踏会の2話くらいでドイツ編はけりが付きそうです。 *


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