「いざドイツへ!」

 

 

 

 ぱりっとアイロンのきいたシャツの襟元には臙脂色のショートネクタイ。かっちりした短ズボンをサスペンダーで提げ、濃紺に白二本ラインの入ったVネックのベストを纏い、同色の長靴下、そしてかぽっとしたエナメルの靴を履いた有利は、角を隠すために紺のベレー帽も被っている。

 よそ行きに身を固め、小脇に村田内蔵ウサギ人形を抱えた有利はかちかちに緊張して空港に入っていった。

 何しろ、飛行機を見るなり右手右足が同時に出てしまったくらいである。

「ユーリ、今からそんなに緊張することないから…」

 シンプルなデザインながら、すらりとした長身に似合うブルーグレーのスーツはコンラートにぴったりと似合っており、シャツの淡いラベンダー色が柔らかみを添えているせいもあり、《若くてやさしいパパ》といった風情だ。

「でも…でも…っ!あんなにおっきな鉄の塊が本当に空を飛ぶの?いっぱい飛雲がついてるみたいでもないし…」

 コンラートが励ましても、有利はまだ心配な様子で淡く涙目になっている。

「ちゃんと飛ぶよ?俺はなんども乗っているもの」

「そーよぉ〜。ちょっと長旅になるけど、飛行機で見る空の様子も乙なもんよ?…つっても、坊やには見慣れた景色かな?」

 からからと笑いながら宥めるヨザックは少しラメの入ったブラックスーツに鮮やかな朱色のシャツ、細身の濃緑色のネクタイに金色のピンと、こちらはイタリア系ちょいワル青年といった感じだ。一歩間違えると新宿二丁目界隈で労働する男のようで、コンラートと有利のカラーリングから激しく逸脱している。

 だが、本人の醸し出す陽気な空気がそうさせるのか、派手な身なりの割にすぐ周囲の人々に溶け込んでいた。

『そうだね、渋谷。君…今からそんな事じゃ先が思いやられるよ?』

 有利が小脇に抱えたうさぎ人形…村田も小さく囁いた。

「あれ?今誰かしゃべったか?」

「ん…後で説明するね?」

 ヨザックが首を傾げると、有利は声を小さくして囁いた。

 流石に他人の目のあるところで村田を紹介するのは憚(はばか)られたのだ。  

 

*  *  *

 

「…へぇ?坊やのお友達?さすが鬼っ子の友達は奥が深いねぇ…」

 どうにかこうにか飛行機に乗り込み、泣きそうになっていた有利もしっかりと飛行機が離陸して風に乗ったのを確かめると落ち着いてきたので、ようやくヨザックに村田をお披露目することになった。

 この飛行機はグウェンダルの会社の持ち物なので、6人程度で使用できる個室を与えられており、みんなゆったりと過ごすことが出来る。

「僕の事は置いておいてくれよ。それより…君こそなんなんだい?定職に就いた大の大人が、友達が家族と話し合いをするって用件でわざわざ仕事を休む…なんて、普通は考えにくいけど?」

「俺?俺はぁ…何なんだろうな?」

 コンラートに対する想いは、何とも一言では表現しにくいものがある。

 少なくとも…本人の前で口にすれば、それはとても陳腐な響きを持ってしまい、思っていたのとは違った意味合いを伝えてしまいそうだ。

 そして、有利に対してもただ親しみを覚えているのとは違う気がする。

『何なんだろうね?』

 我ながら、客観的に見れば自分の行動が可笑しく見えてきて、ヨザックは彼らしくもなく…物思うように窓の外の雲を眺めた。

 

*  *  *

 

 その内、サービスで貰ったジュースのせいだろうか?有利は尿意を催してきて、コンラートに連れられてトイレに向かった。その間、ウサギの村田はヨザックのお膝に預けられた。

「はは…まるっきり親子みたいだなぁ…」

 コンラートと有利の後ろ姿に、ヨザックはくすくすと笑みを漏らす。

「ねぇ君…あの二人って、本当に《親子》って呼ばれるくらい純粋な関係かい?」

 シニカルな言葉の中に、本心が垣間見えような気がしてヨザックは苦笑した。

「ウサギさんは、坊やのことがそんなに心配?」

「ああ、心配さ。お馬鹿で単純で真っ直ぐで…自分でも分からないまま人間を愛している友人を持つとね、苦労するものさ」

「そうだろうなぁ…少なくとも、坊やのコンラッドへの想いは父親に対するようなもんじゃなくて、もっと生々しい感情だろうねぇ…。ただ、コンラッドの方は坊やを凄く大事には思ってるだろうけど…何しろ、あいつはゲイってわけじゃないから自分自身の思いを受け入れられるかどうかがネックかな?坊や相手にそういう気持ちを持つこと自体に罪悪感もあるだろうしねぇ」

「よく観察していることだね。君は…どうなんだい?」

「俺かい?俺は…」

 少しばかり考えて、それなりに形が見えてきたような気がするヨザックは、無意識のうちにウサギ人形を撫でつけながら囁き始めた。

 流石に、声を大にして言うような心境ではなかったのである。

「俺は…コンラッドにとても返しきれないくらいの恩義がある。もうどうにもならない…誰も助けてくれない…俺は、誰にも助けて貰う価値のない惨めな生き物なんだと思いかけたとき…あいつは、何の見返りも求めずに助けてくれた」

「へぇ…憧れってことかな?」

「まずそりゃあ大きいだろうな。けど…今はそれだけじゃない」

「ふぅん?…恋愛感情とか?」

 そうであれば有利の恋敵となる相手にどう対処すべきか…村田の眼鏡がきらりと光を弾いた。

 しかし、ヨザックははっきりと首を振ったのである。

「そうじゃないかと思った時期もあるよ?あいつが俺をそういう意味で求めてくれたなら、そうなっても幸せだったかも知れない。けど…俺はあいつ自身が求めていない限り、何が何でも自分のものにしたいっていう気持ちはないみたいなんだ」

「そんなお綺麗な人柄には見えないんだけどねぇ…」

 小気味よいほど容赦ない村田の言葉に、傷ついた風もなくヨザックは笑った。

 彼自身、そうだろうなと思ったからである。

「でもねぇ…不思議なことに、本当なのさ。俺はあいつのことを世界中の何を敵に回して闘っても良いくらい大事に思ってる。俺の傍にいなくても、あいつが幸せでいてくれたらそれで良いと思うんだ。だからこそ俺は、坊やにも幸せでいて欲しいと思うんだ」

「……あの男にとって、渋谷の方が大事な存在になるとしても?」

「……ああ」

 ヨザックの顔に浮かんだ苦い…けれど、どこかたとえようもなく幸せそうな色が浮かんでいた。その複雑な表情に、村田は興味を覚えたように長い耳をぱたつかせた。

「正直言えば、凄く寂しい」

「じゃあ…どうして?」

「きっと、ウサギさんと一緒だよ」

 やさしく撫でつけてくる大きな手に、《慣れ慣れしくするな》といいたげに村田はぱくりと噛みついた。

 勿論…布製の口は甘噛み程度の攻撃しかできないので、意思表示程度の行動でしかないのだけれど…。

「ウサギさんも、坊やが誰よりも大事なんだろ?」

「…どうだろうね?」

「少なくとも、こんな姿をとってまで坊やを助けたいと思うくらいには、好きだろ?」

「…そう、だね…」

 かぱ…とウサギ人形の口がヨザックの手から離れ、どこか悄然としたように俯いてしまう。

 もう、ヨザックに撫でられても村田は逃げなくなっていた。

 思いがけず赤裸々に真情を吐露したヨザックに、毒気を抜かれてしまったのかも知れない。

「渋谷は誰にでも優しいけど、その分、誰か一人だけを思うってことが無いような気がしていたのにさ…」

「そんな感じがするねぇ…」

「知ってる?渋谷ったら凄く泣き虫なんだよ?ぼろぼろぼろぼろ…目が溶けちゃいそうなくらい泣くくせに、《コンラッドが大好きなんだ》って言いながら、自分から離れてドイツに行くように勧めようとしたんだよ?あんな…馬鹿な奴、僕が庇ってやらなきゃどうなるんだろうって…思うじゃないか」

「そうだよなぁ…ついつい、自分のキャラじゃないってちょっと憮然としつつも、何かしてあげたくなっちゃうよな…」

「そうだろう?全く…自分の行動を、誰よりも自分が奇妙だと感じているよっ!」

 村田はなんだか不思議な心地だった。

 誰からも一目置かれ、畏敬されることが当然だった村田にとって、今まで近しい存在と言えば有利だけだったのである。けれど…ヨザックは今まで知っていた誰とも違っていた。

 敢えて表現すると言えば、空気感がとても心地よい…。

 傍にそっと寄り添って自然体でいてくれるから、村田もついつい口が滑らかに動いてしまう。

「でもさ、そういう自分がちょっと好きじゃない?」

「……まぁ、ね」

 ヨザックはウサギ人形を撫でながら思うのだった。

 

『このウサギさんも、なんだか護ってあげたくなるようなタイプなんだよねぇ…』

 

 不器用で、斜に構えているくせに実は熱い情熱を持っている…そういうタイプも好みであることにヨザックは気付いてしまった。

 

『ウサギさんの、ウサギさんじゃない姿も見てみたいなぁ…』

 

 ヨザックは、自分が新たな茨の道に進み始めたことをまだ自覚はしていない…。 

 

* ヨザケンになってしまった…ということよりも、いい加減ドイツに乗り込もうよ…っ!というちょっぴりノロノロ展開な今日この頃…。次回はドイツで多少進展すると思います。 *


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