「なきべそ」

 

 

「ウェラー課長、どなたかお家で待っておられるのですか?」

 庶務課の女性社員の、苦笑気味な…けれど、何処か妬心を滲ませたその言い回しに、コンラート・ウェラーはきょとんと目を見開いた。

 そんな顔をすると、《新進気鋭のやり手課長》という風評とは裏腹な幼さ感じられるものだから、女性社員はころりと表情を変えて華のような笑顔を浮かべた。

「違うんですか?」

「うーん…待っているかどうか分からないんだけどね?先日、知り合いになった子がいるんだが…前もこんな天気の日に遊びに来たから、空を見ていたら、また来るんじゃないかと楽しみになってね…」

「こんな天気の日にですか?」

 社屋の23階…一面が硝子造りになった壁面から眺める景色は、天気の良い日には実に見放しよく遠くまで臨むことが出来るのだが、今は黒々とした雲が空一面を覆い、時折青白い稲光が天空を裂く。

 鋭い斜裂を描く雷撃はそれはそれで美しいが…来訪を願う天気としては些か風変わりと言えよう。

「お腹を空かせてないといいんだが…」

 コンラートは形良い眉を顰めて、心配げに指を組んだ。

 左眉には昔の傷跡が斜走しているが、それすらも彼の男ぶりをあげる素材として働き、彼の容貌を甘いだけでない…精悍な印象に保っている。

 口にしている言葉は、実にほのぼのとしているわけだが…。

「まぁ…猫ちゃんかワンちゃんですか?実は私もフェレットを飼ってまして…」

 女性社員は懸命に自分の動物好きをアピールしているが、コンラートは笑顔を浮かべて相手の額辺りを見ながら別のことを考えるという特技を披露しつつ…先日出会った鬼っ子のことを考えていた。

『ユーリと言ったっけ…』

 雷雨の夜に、突然ベランダに落っこちてきた不思議な少年…。

 一本の綺麗な角を頭頂部に載せた、実に可愛らしい鬼の子どもである。

 普段の姿は高校生くらいの大きさなのだが、お腹が空いたり弱っていたりすると小さな子どもになってしまう体質の持ち主だ。

『またくるね』

 と、約束してくれてから一週間…。

 彼はまだ遊びに来てくれない。

 毎日、彼が何時来ても良いようにと用意したお菓子や軽食、玩具や子供服が、既にかなりの量になっている。外出時にそういった物が目に入るたびに、あの鬼っ子が喜ぶ顔を想像してついつい買い求めてしまうのだ。

 ここ一週間は恨めしいほどに晴天続きだったので、そのせいかな…と思っていた今日、やっと訪れた(コンラート的に)良い天気に、彼の眼差しはそもすると優しい色を含み、時計を眺めてしまうのだ。

『今日は残業なしですぐに帰ろう』

 雷雨になるという天気予報を受けてから、今日は常にも増して仕事に身を入れていたのだ。

 当然の権利として、彼は定刻通りに帰宅出来るはずであった。

 しかし…社会人とは時として不条理な桎梏に責められることがあるのである。

「松江君っ!君、そんなところで油を売っている場合じゃないだろ!?」

「堀長部長…」

「ウェラー君、君も君だっ!」

 松江鈴子に気のある堀長部長の八つ当たりに、コンラートはすんなりと詫びを入れた。

「申し訳ありません、部長…。彼女もすぐ業務に戻らせます」

 言葉は殊勝ながら、端然とした面差しは薄く笑みを浮かべつつも凛とした威厳を保っており、堀長部長の怒りは一層増してしまう。

 隣で、松江が熱い吐息と眼差しをコンラートに送っているのが明瞭であったからだ。

「ウェラー君、君にやって貰いたい仕事がある…っ!」

 堀長部長の急を要しない…というより、そもそもコンラートの担当すべき業務とは思われないような書類整理は、彼の魔物じみた集中力を持ってしても2時間は掛かる代物であった…。    

 

*  *  *

 

『くそ…遅くなった……っ!』

 コンラートは濡れた車道を可能な限りの速度で飛ばすと、マンションのエレベーターが降りてくるのにさえ苛々とした面持ちで待ち受けていた。

 何か…今日は予感がするのだ。

 それなのに、こんな日に限って不条理な残業を求められるのは…。

『部長…色々と後悔して貰おうかな…』

 コンラート・ウェラーは特別残忍な男ではない。

 寧ろ、大抵の人には親切で、恩には誠実に報いる。

 だが、ひとたび彼の怒りを買うと…その対象は凄まじいばかりの報復を受けることは、親しい友人のみが知る真実である。

『恩は2倍に、仇は100倍に』

 が、彼のモットーである。

 友人は彼を、《良い性格をした男》と賞賛してくれる。

 

*  *  *

 

 もどかしいような思いで鍵をこじ開け、飛び込んだマンションの部屋は暗く…人の気配は無かった。

『……はは、当たり前だよな』

 しかし…コンラートがぱちりと電気をつけると…。

「……っ!?」

 ベランダに、びしょ濡れで泣きじゃくっている小さな鬼っ子の姿があった。

 防音が利いた建て付けの良さのせいで音が伝わってこなかったのだが、慌ててコンラートがベランダのガラス戸を開けると、ずびずびと哀れに洟を啜る音や…しゃくり上げる子どもの声が響いてきた。

「ユーリ…っ!!」

「うぇ…うえぇぇん……こ、コンラッドぉ…」

 何かを大切そうに掌で包み込んだまま有利は立ち上がるが、泣きながら部屋に入ろうとして…びしょ濡れの自分の身体に気付いて、びくりと足を止めた。

「ごめ…なさ……俺、汚れて…でも、俺、俺…あんたに、お、お礼…あげたくて…」

 ずひ…

 ひっく……

 ぼろぼろと大粒の涙を零しながらしゃくり上げる鬼っ子の手には、大きなおまんじゅうが握られていた。

 可愛らしいうさぎ型のおまんじゅうは雨に濡れ、すっかり形が崩れてしまっている。

 鬼っ子は、どれ程の間ひとりで雨に打たれ続けていたのだろう…。

 何時までも帰ってこないコンラートを想いながら、どんなにか心細い思いをしていたのだろう?

『これをあげるんだ!』

 きっと、コンラートが有利を想いながらお菓子や玩具を買ったように、きっとコンラートを想って…彼はうさぎのおまんじゅうを持ってきたのだろう。

 彼自身お腹がすいていたろうに…。

 雨に打たれて崩れていくうさぎを哀しく見つめながら、ひとりぼっちで泣いていたのだ。

 コンラートは…部長の人生行路を変換してあげる決意をした。

「ユーリ…っ!」

 矢も楯もたまらずに…コンラートは小さな鬼っ子の身体を抱き竦めた。

「ふぇ…汚れちゃ…」

 びくりと震えて…腕の中で瞳を潤ませる鬼っ子に、コンラートは慈母のような優しい表情で微笑みかけた。

「いいよ…大丈夫。俺も濡れているからね。それより、俺に贈り物をくれるんでしょう?とても可愛いおまんじゅうだね。ありがとう…」

 そういうと、ずぶぬれのおまんじゅうをひょい…と摘み上げ、一口で食べてしまう。

「あ…」

「うん、少し濡れているけどとても美味しいよ。ありがとう…ユーリ」

「ほんとう?おいしい?」

「本当だよ」

 うんうんと頷けば、やっと安堵したようにほわりと鬼っ子は微笑んだ。

「ユーリはお風呂に入っても大丈夫?すっかり濡れて…寒かったろう?」

「うん、おふろ大好き!」

 コンラートは縫いぐるみでも抱くみたいに軽々と有利をかかえると、携帯で既に予約しておいたお風呂(入浴好きのコンラートは帰って丁度良いタイミングで入れるよう、携帯から入湯予約出来るようにしている)に急いだ。

 

*  *  *

 

「うわぁ…すごい!かわいいっ!」

「そう?よかった…」

 コンラートは予想以上の反応にご満悦だ。

 たっぷり発泡入浴剤を入れたお風呂にはふわふわの泡が立ち、その上には大小様々なアヒル隊長や水鉄砲、スポンジ人形が勢揃いしていたのである。

 鬼っ子有利は泳げてしまいそうな大きな湯船の中できゃっきゃっと可愛らしい歓声をあげながら、特大のアヒル隊長を抱きしめていた。

「…コンラッド、ありがとうね。俺、こんなにしてお迎えしてくれるなんて思わなかった!」

「良かった…。ふふ…君が喜ぶかも知れないと思ったら、ついつい買い集めてしまったんだよ」

「すっごいうれしいっ!コンラッド、だーいすきっ!」

「はは、どうもありがとう」

 コンラートは抱きついてくる鬼っ子のすべらかな肌と、ぷにぷにした子ども独特の感触に楽しそうな笑い声をあげた。

「ユーリ、もし良かったら…遊びに来たときいつでも入ってこられるように、俺の家の鍵を持っておくかい?ベランダに君だけが開けられる鍵をつけておくから、今度遊びに来たときは家の中で待っていられるよ?」

「ほんとう?」

 有利はきらきらと瞳を輝かせてコンラートを見上げていたが…急に顔を伏せてしまった。

「どうしたの?」

「あのね…今日、俺…ともだちとケンカしたんだ。村田っていうヤツなんだけど…俺がコンラッドのこと話して、また遊びに行くんだって言ったら…あいつ、コンラッドが俺を食べるつもりなんじゃないかっていうんだ…。でも…コンラッドは俺を食べたりしないよね?」

「食べる?人間は鬼を食べたりしないよ?お友達にもちゃんと言っておあげ、人間は…少なくとも俺は、そんな事はしないよって」

「うん!いっとく!!そうだよね、コンラッドはいい人だもんっ!」

「いい人はどうかは分からないけどね、ユーリにとって良い友達でいたいと思うよ?」

「ともだちっ!だいじなともだちだね!!」

 

 この時…コンラートは予想だにしなかったのである。

 まさか、自分がこの鬼っ子にそう言う意味で惹かれてしまうことになるなどと…。

 そして…友人の村田の懸念が、本当はこんな言葉で語られたのだと言うことなど…。

 

『渋谷…君、注意した方が良いよ?その男は多分ゲイだよ。しかもショタコン。きっと君を餌付けして馴らしておいてから喰っちゃうつもりでいるんだと思うね。下手すると調教されて肉奴隷なんてことになりかねないよ?』

 

 村田は村田で迂闊であったのは、彼の言葉には専門用語(?)が多すぎて、ちょっとおばかちんな友人には殆ど理解されず、辛うじて伝わった言葉も曲解されていたことである。

 

* 節分にあわせて書いた「鬼は外ですか?」の続きです。設定が気に入ってしまったので、時々続きを書いてしまいそうです(前は「来年の節分にまた会いましょう」とか言ってたんですが…)。 *

 

  

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