コンラッドの過去 T





「コンラートは近日中にドイツに帰るんだ。滅多に会えなくなるのは寂しいかも知れないが…電話や手紙…それに、今はメールの遣り取りも出来るからね」

 

 言われた意味を理解した途端、有利の顔色は蒼白に変じ…がくがくと膝が震えて立っていられなくなる。

 ぺたん…と床にしゃがみ込みそうになったとき…小脇からひょいと抱え上げられた。

 力強い腕で背後から抱きしめてくれたのは…ヨザックだった。

「少し…お話をさせて頂けませんか?」

 有利にも聞かせるつもりなのだろう、ヨザックは日本語で話しかけてきた。

 その意図が伝わったのか、グウェンダルは微かに眉根を顰めたものの、小さく頷いて首肯した。

 

*  *  *

 

 ヨザックのパティスリーには小さいながらもイートイン出来るテーブルが何卓かあり、籐の衝立と植木に仕切られているので静かに話をすることが出来る。

「有利ちゃん…ね、これ食べて?」

 ウェイトレスを兼ねている女性店員の上原知佳が、頼まれていた珈琲と焼き菓子、マンゴージュースの他に、有利の好きそうな菓子類を少しずつ盛った特製のパフェをテーブルの上に置いた。

 店の品物を勝手に使ってしまったので、さすがにちら…と店長の様子を伺えば、蒼瞳は寧ろ感謝の念を込めてやさしく和んだのだった。

 たっぷりとチョコレートソースの載ったパフェには、ほろ苦い焦がしキャラメルのアイスとバニラアイスにダークチェリーを甘酸っぱく煮詰めたものを載せ、小粒のマシュマロや薄地のチョコレート、ラスクなどを愛らしくトッピングした実に美味しそうなもので、普段の有利なら目の色を変えて飛びつくような代物であった。

 だが…有利の喉はつかえてしまい、とてもパフェを味わうような余裕はないかと思われた。それでも、上原の気遣いが嬉しくて…ぺこりと頭を下げた。

「うん…ありがとうね、お姉ちゃん…」

 《お姉ちゃん》…クソ生意気な弟に呼ばれると大して嬉しくないのに、メイド服を着た有利にあどけない口調で言われると猛烈に萌えるのは何故だろう? 

「それで…丹那、コンラッドがドイツに帰るってのはもう決まった話なんで?」

 上原が立ち去り難そうにテーブルを離れて行くと、ヨザックがそう切り出していった。

 彼もまた、有利同様テーブルの上のものに手をつける余裕はないらしく、声には隠しきれない苛立ちの色があった。

 これほど大切な話をヨザックや有利に対して黙っているなんて、そんな情のない話はないではないか。

「決定事項ではない。コンラート自身は断ってきた。だが…あいつの地歩を固めるには、今しかないのだ。本社は今、《ルッテンベルクの英雄》が再来することを熱望している。だから…私がこの国まで来たのだ」

 グウェンダルの話した話はこのようなものであった。

 

 

 コンラートは大学卒業後、母の薦めで親族系列の企業に就職した。

 母の父が会長を務めるこの企業は、現在日本でコンラートが勤めている会社と同系列である。

 コンラートとしては親族の七光りを利用して立身出世を望んでいたと言うよりも、寧ろ縁薄い母のために出来ることがあるのなら…と入社したようなものであったが、伯父であるシュトッフェルはそうは思わなかったようである。

『自分の権益を侵すつもりではないのか…』

 そう恐れたのだろう彼は、本社で順調にプロジェクトを成功させていくコンラートを、突然問題が山積する国境沿いの支社に転勤させるべく辞令を出した。

 ルッテンベルク地方に建つこの支社には大規模な工場が併設されており、社員の多くは移民から成り立っている。

 数年前、国情不安定になった複数の国から流出してきた難民を受け入れるという名目で、国際的な援助も受けて設立された支社であったのだが…仕事上の能力以前に、言語的な指導が不十分であった事もあり、その運営は瞬く間に行き詰まってしまった。

 入社3年目としては異例の事ながら、コンラートはこの支社の運営を立て直せと命じられてシュトッフェルに送りこまれたのだ。

 誰がどのように見ても嫌がらせとしか受け取れない人事であった。

 もともと難しい状況の会社に、本社における一課長が、《指導員》という所在の怪しい肩書きを帯びて、人間関係も何もない支社に送り込まれて運営の仕様を変えろと言うのだ。人がついてくるはずがないではないか。

 コンラートはいつまでたっても十分な実績を上げることなど出来ないだろう。

 そうである以上、シュトッフェルはコンラートの身柄をルッテンベルクに貼り付けておくだろうし、重役であるシュトッフェルの意向に逆らってまでこの若者を盛り立てていこうなどと言う奇特な人物など現れまい。

 彼の出世はこの地方工業地帯で頭打ちとなるだろう。それどころか…下手をすれば経営不振の責任を取らされて不名誉な辞職に追い込まれる可能性さえある。

 いや…寧ろ、彼らは積極的にその可能性を高めていくつもりだろう。

『シュトッフェルめ…相変わらず出る杭の頭を押さえることだけは達者か』

 この人事を知ったとき、グウェンダルは忸怩たる思いで奥歯を噛みしめた。

 シュトッフェルに連なる連中が幅を利かせている本社の重役陣は、甥であるグウェンダルの、父方の血筋にはある程度の敬意を見せるものの、経済的には何と言うほどの力もない事では随分と軽んじてきた。

 それが、血筋もへったくれもないようなコンラートの身となれば遠慮など粟粒ほども必要ないと思っているのか、嬉々としてシュトッフェルに追従している。

 グウェンダルとしても、コンラートに特段入れ込むような義務があるわけではなかった。 母が同じとはいえ、父が違い、年の離れた彼らには殆ど接点というものがなく、共有している思い出も特にない。

 

 

 だが、グウェンダルには…忘れられない二つの光景があった。

 

 

 ひとつは…母の屋敷を何かの用事で訪問した際、コンラートと末弟のヴォルフラムが庭で笑いながら走り回っていた姿だ。

 楽しそうな笑顔できゃあきゃあと歓声を上げながら走るヴォルフラムはまだ幼く、細い手足は子鹿のようだった。いくらか大きいコンラートにしても、目元の甘さは少年独特のもので、見ていて微笑ましい心地になったものだ。

 彼らはグウェンダル同様、父を異にする身である。

 だが、そんなことには頓着しないのか…屈託のない二人の様子はごく仲の良い兄弟にしか見えなかった。

『あれが…私の弟たちなのか』

 それは…奇妙なことに、そのとき殆ど初めて覚えた《実感》であった。

 恋多き母は十六才の若さでグウェンダルを産み、その後末弟のヴォルフラムを産んでからも身体の線や美貌にくすみはなく、いまだに世界各国を回っては社交界に艶やかな華を添えている。

 下手をするともう一人兄弟が出来てもおかしくないような勢いなのが我が母ながら恐ろしいが…グウェンダルには、彼女が母であるとか、弟がいるとかいう実感を受けた記憶が希薄であった。

 そういえば…近くで会話を交わしたこと自体が殆ど無いのだな…と、彼らの様子を屋敷の客間から見守りながらそう思ったものだった。

 グウェンダルが、母が年若い時分の子どもであったことや、父方の屋敷で育てられたことも関与しているだろう。

 ごく一般的な家庭に生まれ、共に同じ家で育っていれば…もっと彼らと身近に過ごすことも出来たのだろうか?

 漠然とそう思いつつも、《お兄ちゃんだよ》などと言いながら二人の前に笑顔で現れるなど気恥ずかしくてとても出来ず、結局…声も掛けないままその日は帰ってしまった。 

 

 そして数年の後…シュトッフェルの催したパーティーに、弟たちが招待された。

 その折に目にしたのが、二つ目の光景。

『もう、お前のことを兄などと呼ぶものか!』

『ヴォルフ…』

『そんな風に呼ぶのも金輪際やめてもらおう!僕の愛称など二度と口にするなっ!!』

 バルコニーで一人佇んでいた折に、高い音域の声が響いてきた。

 目を遣れば…そこには母譲りの金髪を靡かせ、薔薇色に頬を紅潮させた末弟と、雷に撃たれた彫像のように打ち拉がれた…次男の姿があった。

 あんなにも仲の良かった二人に何があったのかは分からない。

 ただ…末弟は酷く憤っており、次男にはその理由が分からないらしく…とりつく島のない弟の言動に戸惑い、哀しげに瞳を曇らせていた。

『どうしてだい?俺は…何かお前を怒らせるようなことをしただろうか?』

『僕に言わせようと言うのか!?何処まで恥知らずなのだお前はっ!』

 末弟にとっては激昂するに足る理由は、次男が当然知っていて然るべきものであるらしい。

『僕は二度とお前に話しかけたりしないからなっ!お前も僕に話しかけるなっ!!』

 末弟はそう言い捨てると、ぷいっと顔を背けて行ってしまった。

 残された次男は呆然と佇んでいたが、暫くするとパーティー会場から離れていった。

 そして、次男は律儀に末弟との約定を護ろうというのか…二度と親族が催す集まりには参加しなくなったのだった。

『何かしらの形で、シュトッフェルが関わっているのではないか』

 そう感じたグウェンダルではあったが、胸の痛みを覚えつつも…真相を究明するとか、二人の間に立って仲を取り持つといった行動に出ることはなかった。

 そうするにはあまりにもグウェンダルは二人との距離が遠かったし、生来の不器用な行き方が祟って、未だかつて人の仲介など出来た試しがないのだ。

 手を出すことで余計に仲を拗れさせてしまうのではないか…そう思うあまり、手をこまねいてしまった。

 

 

 そのうちにまた時は流れ…今度は、社会的に冷遇されようとしている次男に直面することになった。

『俺に出来ることはないか』

 何度も書き直したり思いとどまったりしつつも…グウェンダルは、コンラートに対してようやく一文のメールを送った。

 直接言葉を交わしたこともない兄からの、とんでもなく淡泊きわまりないメールを弟が信じるという確証もなく、単なる自己満足に終わるのではないかと懸念していたのだが…予想外のことに、その日のうちに返信があった。

 メールの中で弟は、グウェンダルの気遣いに対して礼を述べると、《好意に甘えても良いですか?》と、尋ねてきた。

『そのつもりだ。なにが望みだ?』

 淡泊でぶっきらぼうな返信は、想定外の喜びを誤魔化すためのものであった…。

 

 

* お兄ちゃんの回想が長くなっております… *

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