「人魚王子」−2





   


 人魚の村田は、激しく嫌な予感を覚えました。
 夕刻遅くになってから海底へと帰ってきた有利が頬を赤らめてポーっとしていたのですから、まあどんなに鈍い人だって気付いたことでしょう。

「渋谷…君、コンラート王子に会ったな?」
「ええ…っ!?何を仰る村田さんっ!!」

 口を菱形にした有利はくるりと身を翻して逃げようとしますが、逃しはしません。
 村田は有利の首根っこを掴むと、これでもかという勢いで締めあげました。

「君って奴はーっ!!全く、本当に人の言うことを聞いてないな!」
「で…でもっ!コンラッドは良い奴だったもん〜っ!!」

 じたばたと暴れながら有利は一生懸命に言い訳をします。
 彼曰く、コンラートは砂地に乗り上げた有利を優しく海に帰してくれたというのです。

「な?恩義があるわけだよ、俺は。これは返さないわけにはいかないだろ?」
「その前に石を拾ってるから返済終了だ」
「でも、それは貰ってるもん!俺は断固として恩返しをするぞっ!」

 何でしょう、この勢い…。
 まるで労働者の賃上げ交渉のようです。

「それで…?竜宮城にでも招きたいわけ?」
「ええと…それは流石に拙いと思うんで、人間になって何か恩返ししたいな〜って…」
「君は単にあいつの傍にいたいだけだろ!」
「見抜かれていたか…」

 チ…っと舌打ちする有利に、《君はそんな子じゃなかったのに…》と涙ぐみました。

 どのみち、恋に狂った人魚を止めるのは極めて難しいことです。どんなに止められても、基本的に頑固に出来ている人魚は泡になってでも食らいつく根性の持ち主ばかりなのです。
 おそらくコンラートという男に関しては本当に《良い奴》であるに違いないのだろうから、このまま人魚の姿で逢瀬をさせるよりは、人間にしてしまった方が傷は小さくて済むかも知れません。

「仕方ないな…それじゃあ、コレを飲みなよ」
「う…っ!」

 村田が差し出した薬瓶に有利はぞっと血の気を引かせました。
 それは陰鬱なドドメ色というか不吉な国防色というか呪詛に満ちた土気色というか…とにかく、慄然としてしまうような色合いだったのです。およそ、生物が口にして良い色ではありません。

「嫌なら良いんだよ?何しろ、大賢者が代々伝えてきた貴重な薬だからね」
「い…頂きますデス……」
「あと、いっとくけどこれは陸上で、庇護してくれるって君が信じているコンラート王子と一緒にいるときに飲むんだよ?そうでなくちゃ、変身の激痛に耐えられなくて意識を失ってしまうし、そもそも水中で飲んじゃった日には水圧で押し潰されるからね」
「わ…分かった!」
「あと…」

 まだくどくどしく説教をしてやるつもりでしたが、村田は急に哀しくなって黙り込んでしまいました。

 だって、有利は人間になるなんて言うんです。仲良しの村田を置いて、人間の世界で暮らすつもりなんですよ?本当に自分と一緒にいてくれるか分からない、二回会っただけの人間と…。二番目とはいえ、堂々たる海底国家の王子である身分を擲ち、去ってしまうのです。

 そんな有利を心配して何か言ってやるなんて、悔しいような気がしました。

「どうしたの?村田…」
「何でもない…。後は、好きにしなよ。僕にしてあげられるのはこのくらいさ」
「本当にありがとうね、村田!」

 有利は友人の心を知ってか知らずか、にこにこと笑って村田の手を取りますと、ぎゅうっと強く握りしめました。

「人間になっても、時々は海に潜って会いに来るね」
「……こんな海底までは来られないさ」
「でも、頑張れば何とかなるよ」
「出来ることと出来ないことがあるんだよ?」

 拗ねたように村田が言いますが、有利は首を振ると頑固に言い張るのでした。

「出来るもん!だって、俺は人間になっても村田に会いたいもんっ!!」
「君って奴はさぁ…」

 駄々っ子みたいに言われては、村田としては呆れたように苦笑するほかありません。
 悔しいくらいに、友達が愛おしくて堪らないのです。

「なに?」
「ううん…何でもない」

 村田はこつんと額同士を当て、祈るように囁きました。
 《どうか、君に祝福を》…お馬鹿さんで思いこみが強くて我が儘で、村田を困らせてばかりの有利。この子が、不幸になる姿だけは…村田は絶対に見たくないのです。



*  *  *

 


『あれ…?』

 有利が約束の岩場にやって来ると、コンラートは静謐な面持ちで座っていました。
 その顔には昨日までは見受けられなかった苦痛の色がありましたが、有利の姿を見つけると、ふわ…っと優しく微笑みます。

「やあ…ユーリ。新しいボールを持ってきたよ」
「わあ…!凄い、ぴかぴかだね」

 有利は喜びの声を上げましたが、コンラートの瞳の奥にまだ強張ったような痛みが凝っているのを見て取ると、心配そうに囁きかけました。

「ねぇ…何か辛いことがあったの?」
 
 《何でもないんだよ》と言いかけて、コンラートはふるる…っと首を振りました。

「辛い…か。そうなのかな…?俺は今…辛いのかな?」

 不思議なことを言うものです。こんなに苦しそうな顔をしているのに、コンラートは自分が辛いのかどうかが分からないというのです。

 詳しい事情を聞いてみると、有利は更に吃驚しました。
 なんと…コンラートの兄であり、眞魔国の第一王子でもあるフォンヴォルテール卿グウェンダルが重い病に伏せっているのですが、昨夜…《あと数週間の命だろう》と医師団が囁き交わしているのを耳にしてしまったというのです。

 この人はとても優秀な王の資質を持っているのですが、数年前から病を得ていた為に、シュトッフェルのような奸臣が宮廷に蔓延る因を作っていたようです。

「そりゃあ大変だ!コンラッド…心配してるんだね?そんなに苦しそうな顔になってしまうくらい…」
「そうなのかな…。自分でも、よく分からないんだ…。グウェンダルを尊敬はしているけど、あの人は俺を弟とは思っていないだろうし、周囲も兄が亡くなることで俺が喜ぶものとばかり思っているしね…」

 グウェンダルは由緒正しい大貴族の出ですが、コンラートは身分の低い流浪の剣士の息子です。とてものこと釣り合いが取れる身ではないのに、母は順番通りコンラートを第2王位継承者にしてしまったのです。兄の死で得る物の大きさを人々は妬み嫉み、《あいつは絶対、影で高笑いをしているに違いない》と言い交わしていると言います。

「グウェンダルも…そう思っているのかと思ったら、何か胸の中がおかしいんだよ」
「でも、コンラッドは心配でしょうがないんだろ?それは誰がなんと言ったって本当のことだ。いちばん大事なことだ!」

 有利は強い語調でそう言うと、携えてきた薬をコトリと岩場に置きました。今は…この薬を使うときではないと思ったのです。
 
 では、どういう時なのでしょう?
 有利は自分のとんでもない思いつきが、何をもたらすかを考えて苦悶しました。ことは有利だけの事に留まらないかも知れません。ですが…コンラートの大切な兄が、思いも通じ合わせないまま亡くなってしまうことは耐え難い苦痛です。

 だから、思い切って有利は言いました。

「コンラッド…俺の血を、お兄さんに飲ませて?」
「ユーリ…一体何を言い出すんだ?」
「コンラッドは知らない…?人魚の血はどんな病も傷もたちどころに治す妙薬なんだ。だから…俺の血を分けてあげれば、お兄さんはきっと…」
「君を傷つけるなんて…!」
「そんなに沢山じゃなくて良いんだ。舐めるくらいで良いんだよ?」

 コンラートの剣幕に有利は苦笑しますが、その笑みもすぐに沈んでしまいます。有利の血が病を治す…その事を複数の人に知られるということは、人魚族を再び危機に晒すことになるかも知れません。
 ですから、有利は血をあげたあと即座に人間になってしまう必要がありますし、血をあげるときにも下半身を見られるわけにはいきません。

 その辺りの事情を説明しますと、コンラートは緊張した面持ちで有利を抱きしめました。

「すまない…ユーリ。君を、君の種族を…危険に晒してしまうことになるんだね?」
「良いんだ、コンラッド…あんたが幸せな気持ちになれるんだったら、俺はなんでもするよ?」
「ユーリ…」

 深く唇が重ねられても、有利はもう昨日のように慌てふためきはしませんでした。粘膜の重なりで、想いが通じ合うのを感じ取れたからです。
 


*  *  * 




 コンラートは長い巻きスカートを用意すると、有利の下半身にくるくると巻き付け、上半身にも可愛らしいブラウスを着せ付けました。目を惹く双黒も隠せるように栗色巻き毛の鬘を被りましたから、コンラートの逞しい体躯に抱え上げられると、脚の不自由な薄幸の少女のようです。

 コンラートはそっとお城の間隙を縫うと、咎められることなくグウェンダルの部屋の前まで来ました。ですが、扉の前には険しい表情をした武人が佇んでいます。グウェンダルの腹心と目される青年武官、マグドガルです。

「コンラート王子、このような夜更けにどういった用件ですかな?」
「この少女を兄に会わせたいんだ。気持ちが明るくなるように…」
「ほう?《兄》と呼ばれるのか、グウェンダル閣下を…」

 く…っと皮肉げにマグドガルの口角が上がると、本来は美麗な顔立ちが凄惨な印象を纏います。コンラートは痛ましげに眉根を寄せました。

 この青年は、本来はこのような性質の持ち主ではないのです。
 ただ…尊崇する上官が治る見込みのない病を得て、歴とした第一王位継承者であるというのに宮廷内で軽んじられていることが辛くて、悔しくてならないのです。

 その苦しみは、コンラートにも痛いほど分かりました。第2王位継承者であるコンラートに対する疑心も頷けます。
 ですが…今は何としても聞き分けて貰わねばならないのです。

「どうか、お願いだ…そこを通してくれ」

 懇願するように声を絞り出すと、マグドガルの目尻は一層釣り上がって鬼のような形相になります。

「ならば、身分証明をお願いしましょう。そこな少女に正式な書状はおありか?」
「…っ!」
「ないのでしょう?あったとしても、深く追求されては困るような代物なのでしょう…。大方、腹上死を装って閣下の死期を早めに来られたのですかな?」
「コンラッドはそんな事しねーよっ!!」

 有利が憤激のあまり叫ぶと、マグドガルはシャン…っと音を立てて抜刀しました。紅を纏った眦には、明瞭な殺意が溢れていました。

「随分とあからさまですな、コンラート閣下!毒を持たせた娼婦どころか、武器持つ明確な刺客を連れてこられたのですかな?」
「そーだったら、わざわざコンラッド自身がくるもんかっ!」

 有利が抗弁しますが、マグドガルは聞く耳を持ちません。鋭い突きを見せて有利ごとコンラートを刺し貫こうとしました。

「よせ、マグドガル…っ!」
「グウェンダル閣下の御身は、この私がお守りする…っ!」

 悲痛なまでの叫びに、コンラートは胸を引き裂かれそうになりました。
 どうして兄をこんなにも思っている相手と戦わなくてはならないのでしょうか? 

「この…分からず屋っ!」

 有利は焦れたように叫ぶと、腰に巻いていた布地をはらりと取り去り、マグドガルに鮮やかな鱗を見せ付けました。

「な…っ!?」
「俺は人魚だ!噂に聞いたことはないか?人魚の血は如何なる病にも傷にも効くって…っ!俺は…コンラッドのお兄さんを助けたいだけだ!」
「助けたい…だと?」
「そうだ!」
「お前が何故グウェンダル閣下を救いたいなどと言うのだ?」
「コンラッドの大事なお兄さんだからだっ!」

 マグドガルは有利の真っ直ぐな言葉をどう感じたのでしょう?それをそっくりそのまま受け止めてしまうことを恐れるように唇を震わせておりましたが、何処か怯えたような眼差しで有利を見つめると、無意識のうちに縋るようにして問いかけてきたのでした。

「本当に…閣下を救ってくれるのか?」
「海亀は取りあえず治ったから、きっと人間にだって効くよ。それで…俺の一族はたくさん東の海で、人間に殺されたって聞いたもん」
「……っ!」

 沈思な有利の声に、マグドガルの眉根が寄せられます。人間全体を敵であると見なしてもおかしくない人魚が、自ら血を捧げにやってきたことが不思議でならないのでしょう。

「心配だったら、あんたも傍で見てたら良い。不審に思ったら、すぐに俺を斬れよっ!だったら良いだろ?」
「ぬ…」

 思い切りの良い有利の言葉に、とうとうマグドガルが折れました。
 


*  *  *




「ウェラー卿…?」

 マグドガルが伴ってきた青年と少女の組み合わせに、グウェンダルは眉根を寄せました。

『何故…コンラートが……』

 彼は、自分のことを恨んでいると聞きました。ですが、グウェンダル自身はずっとこの不遇な弟を心配する気持ちがあったのです。
 ただ、不器用さが祟って上手く態度に表すことは出来ませんでしたから、まさか伝わっていると言うことはないように思えたのです。

 ところが…弟は窶れ果てた兄を目にすると、瞳を潤ませて寝台脇に膝を突きました。
 その様子は、とても演技とは思えません。

「フォンヴォルテール卿…お加減は、お悪いのですか?」
「少々…な」
「希少な妙薬を連れて参りました。どうか…俺を信じて、飲んで頂けますか?」
「薬…?」

 ふと見やれば、どうしたものか…コンラートに抱えられていた少女がマグドガルを促して剣の柄元を引き抜かせると、恐る恐る刃に触れて人差し指から出血しました。

「おい…何をしている!」
「お兄さん、俺の血を飲んで?」
「な…何を言っているのだ…」

 スッポンの生き血を飲むと精がつくなどと言いますが、グウェンダルはそのような呪いの類は信じない達です(それでいて星占いや花占いは信じており、ラッキーアイテムをそっと持ち歩いていたりするわけだが…)。ですから、女の子の血を飲むなんてとんでもないことだと思ったのです。

 けれど、グウェンダルがこのような身の上になっても変わらぬ忠心を尽くしてくれる臣下マグドガルもそうするような促しました。《万が一の場合はこの連中を斬り殺し、私もすぐにお供しますゆえ…》そういう彼の顔には、決然たる意志が見えました。

 そして…なにより、慕わしげに瞳を潤ませるコンラートが嘘を言っているようには見えませんでした。
 
『仕方あるまい…』

 如何なる薬や治療法を尽くしても効果のなかったこの身体が、もはや回復することはないでしょう。医師団は語尾を濁しておりましたが、医学にも長けたグウェンダルは、もう自分の命が半月もたないことを知っておりました。

 ならば…自分の大切な者達が納得いくまで、試してみても良いでしょう。

 宝石のような紅い雫がみるみる盛り上がってくるのを、グウェンダルはぱくりと舌で受け止めました。横目でコンラートの様子を伺うと、どこか羨ましそうなのが気に掛かります。

『もしや、コンラートはこの少女のことが好きなのか?』

 何となく察すると、グウェンダルはくすりと微笑みます。
 おや…不思議です。久し振りにふくふくとした幸せな気持ちが胸の奥から溢れて来るではありませんか。

 血の雫がとろとろと喉を流れていくごとにその勢いは増し、痛みと苦痛に苛まされていた肉体からそれらの責め苦がふわりと抜け出していくようです。

 気が付けば、グウェンダルの肉体には以前通りの活力が充ち満ちておりました。

「これは…何という……」
「閣下…っ!」
「兄さん…っ!!」

 マグドガルやコンラートにもグウェンダルの身体が劇的に回復したことが分かったのでしょう、感極まったように、どうっと涙を溢れさせると、グウェンダルの身体に抱きついてきました。コンラートなどは今まで一度も呼んだことのない《兄さん》という言葉を何度も何度も繰り返して、子どものように泣きました。

「おいおい…お前達、少し落ち着け。私のことはもう良い…。それより、この子の血を止めてやれ」
「あ…っ!すまない、ユーリ…っ!」

 コンラートは有利の手を取ると、反射的に口腔内へと導きました。

「おい、コンラート…それでは私がしていたのと同じだろう?」
「は…こ、これは申し訳ありませんっ!」

 こんなに挙動不審に陥った弟など初めて見ます。可笑しくて、何だか嬉しくて…グウェンダルは自分でも不思議なほど屈託のない表情を浮かべて笑いました。こんなに気分が良いのは久し振りだったのです。

「コンラート…お前でもそのような顔をするのだな!随分と可愛らしいぞ?」
「そ…そうですか?」

 照れたようにはにかむコンラートに、くすくすと微笑みかけていたその時です。

 突然、勢いよく扉を開く者がありました。

 それは、なんとシュトッフェルに率いられた兵士の一団でありました。  

 

 


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