〜先生と俺の日常生活シリーズ〜 有利side ミィーーン…… ミィイイ……ン…… 今日も岩に染み入るような…というか、何とも賑やかな蝉の鳴き声が轟いている。 夏の終わりともなれば賑やかな中にも何処か裏寂しさを感じさせるのに、どうして7月の蝉はこんなにも朗らかに、嬉しくて堪らないといったふうに鳴くのだろう? 『これから始まることに、うきうきしてるからかな?』 カシ…っと良く焼けたトーストの端を囓りながら、有利の心は蝉よりも賑やかに弾んでいた。 思いがけずコンラートと共に過ごすことになった2週間。 一体何が起こるのだろう? 『今朝はいきなり吃驚したしな…』 目が醒めたらコンラートに抱き込まれていて、予想外にあどけない寝顔に見惚れてしまった。 そしてそのまま…起こすに忍びなく(ずっと見詰めていたかったからかどうかは、ちょっと秘密として…)、朝までその体勢を保ってしまった。 起き抜けのコンラートははにかんだように微笑んだかと思うと、すぐにいつもの大人っぽい笑みを湛えてこう言った。 『ユーリの寝相が大胆だから、誘われちゃった』 ぼん…っと有利が顔を真っ赤に染めると、実に愉しそうな声を上げて笑っていた。 相手の方がわたわたしていると先に落ち着きを取り戻すものなのかも知れない。 「ユーリ、麦茶のお代わりは如何?」 「うん、いただきます」 背の高いブルーのグラスに入っていると、ただの麦茶まで小洒落た飲み物みたいに見えるから不思議だ。コンラートの家具はドイツにいる兄が頼んでもないのに色々送ってくれるそうで、随分高価そうなもので固められている。 マンション自体も一人暮らしには勿体ないくらいの広さがあって、モノトーンに纏められた調度品がとても大人っぽい。 実は、調度品と共にえらく不細…いや、可愛い編みぐるみも届けられるそうだが、それはコンラートの趣味に合わないのか無駄に広いクローゼットに押し込まれている。 「今日は何しよっかな〜」 「まずは宿題じゃない?」 「うわ…っ!教師的発言。あのね、コンラッド?夢にまで見た夏休み初日で、コンラッドだって仕事お休みなんだよ?そこでいきなり宿題ってあんた…。血も涙もないなっ!」 「人を情け知らずの辻斬り強盗みたいに…」 「そこまで言ってないし」 「ユーリは俺と遊びたいの?」 少しだけ困った風にコンラートが言うから、さっきまでぽんぽんと言い返していたのに…急に口の中のパンが水分を要求する。 でも、麦茶で流し込んでも相変わらず口の中は乾いた感じだった。 そうだ。コンラートは急に有利の面倒を見ることになってしまって、ひょっとしたら後悔しているのかも知れない。時々会う分には楽しくても、一晩一緒にいたら《何か違う》と思ったとか? 『う…。ひょっとして、変態っぽくコンラッドの寝顔眺めてドキドキしたり、ちょっと匂いとか嗅いじゃったの気付かれたとか…』 それはかなり《気色悪い》と思われたのではないだろうか? 「………コンラッド…。俺と遊ぶの…嫌?」 ちいさい子どもみたいに、ちょっと声が震えてしまったのが情けなくて、慌ててがぶがぶと麦茶を飲む。 カチ…と歯がグラスに当たって、心が余計にカチコチした感じになる。 コンラートはまた困った風に眉を顰めた。 「全く…君って子はどれだけ誘い上手なんだい?そんなに可愛く誘われたら、拒否なんか出来るわけないだろ?」 《つはぁあ〜……》と、コンラートの口から深い溜息が漏れ、大きくて形良い手がダークブラウンの髪を掻き上げる。無駄に色っぽい動作だ。 「え…え…?」 「自覚ないのかい?今…捨てられた仔犬みたいな顔してた。俺に抱っこして欲しいな〜みたいな顔だった」 「どんな顔だよっ!」 また顔が真っ赤になるけれど、コンラートがおかしそうにくすくす笑うから、口の中はすぐに潤ってきた。なんとも、現金な身体である。 「じゃあ、こうしない?午前中、ユーリは勉強。俺は学会発表の為の論文制作」 そうだった。コンラートは夏休みだからと言って仕事が無くなるわけではなかったのだ。すっかり忘れていたものだから、申し訳なくて眉が下がってしまった。 けど、コンラートはそんな有利をすぐに浮上させてくれる。 「午後からは遊びに行こう?今日は商店街で夏お祭りがあるから、浴衣を着ていこう」 「浴衣?持ってるの?つか、着られるの?」 「うん、友人が貸してくれるはずだよ。着付けは…多分、出来ると思うけど、難しければ手伝って貰おう。折角だから日本の夏を堪能したいし、浴衣を着ていると今日は商店街で色々サービスして貰えるって話だしね」 「あ、そういえば去年も綿菓子無料とか、かき氷サービスとかやってたな!」 わくわくと胸が弾みだす。 さっき言ったようなサービスが楽しみなのもあるが、それ以上に…コンラートがどんな姿になるのか楽しみでしょうがない。 だって、コンラートが浴衣を着るのだ。それでなくても目立つ彼がそんなものを着れば、さぞかし映えることだろう。 剣術家であるせいか背筋もぴしりと通っているから、きっと似合うに違いない。 「じゃあ、決まり。午前中は頑張ろうね?」 素敵な飴に釣られて、有利は彼としては画期的な速度と正確さで宿題の一端に取りかかることが出来たのだった。 転がされているという自覚はあるが…自分の為にはなるし、悪い気はしない。 * * * 淫靡な照明が照らす地下の一室に、男の感嘆の声が響く。 「うっわ…マジ似合うわ隊長〜っ!」 「そう言うお前は…まさか、その格好で祭りに行く気か?」 コンラートがげんなりとしている元凶は有利ではない。 浴衣を貸してくれた《友人》である。 この怪しげな一室でオカマバーを営むヨザックは屈強な青年なのだが、溢れんばかりの筋肉を包んでいるのは艶やかな女浴衣だ。オカマバー経営者としては間違っていないが、男としては問題有りな姿だ。 妙に徒(あだ)っぽく結い髪なんかしてるのも、網膜を経て後頭葉の視覚野に衝撃を与える。 何が怖いって、見慣れてくると《似合う》と感じられたりする自分の感覚が一番怖い。 グリエ・ヨザックという男性はコンラートと同い年で、ドイツにいた頃に一時学校が一緒だったそうだが、何年かは音信不通になっていたそうだ。 それが、先日偶然街で再会したというのだから偶然って凄い。 ちなみに、ヨザックが出会い頭に背後から抱きしめてきたので…コンラートは反射的に肘鉄と金的をしてしまったらしい。苦悶に満ちた表情で突っ伏す大柄な男の姿は、さぞかし見物だったことだろう。 「あったり前でしょ〜?俺は仕事兼ねてるもん。こう…色っぽくお客の袖引かなきゃなんないからね」 「捕まらない範囲でやってくれよ?」 「やーん?あんまり可愛くないこと言ってっと、薬嗅がせて後ろからズゴバゴ突っ込んじゃうぞ?」 ズゴバゴと何を突っ込むつもりなのだろうか? よく分からないが、コンラートが凄く嫌そうな顔をした。 「コンラッド、ズゴバゴって…」 「ユーリ、耳が腐って落ちるから塞いでおこうね」 そう言うと、涼しげな紺と黒の細縦縞浴衣を着たコンラートが、有利の耳を左右からぱふりと覆ってしまった。 何事かまだ言い交わしていたが、それでも二人の間に険悪さはないから不思議だ。 無料で借りられるとは言え、こうして訪ねてくるコンラートも、なんだかんだ言ってちゃんと有利の着付けまでしてくれるヨザックとは良い友人であるに違いない。 『ちょっと羨ましいな…』 コンラートは有利に優しくしてくれるが、それはどちらかと言えば《面倒を見てくれる》という関係だ。とても、対等と呼べるようなものではない。 『俺だって…ちゃんとコンラッドの役に立ったり、楽しませてあげられたらいいのに…』 今日だって、《捨てられた仔犬》みたいに有利が誘ったからこうして半日使ってくれたのだろう。本当は、もっと論文に集中したかったのかも知れない。 『……明日は、ちゃんと大人しくしてよう』 母のダイエットと一緒のフレーズなのが気に掛かるが、今日はこうして浴衣まで着込んだのだ。しっかり祭りを楽しんだ方が良いだろう。 「ねー、ユーリちゃん。高校卒業したらうちにおいでよ。可愛く飾ったげるよ?」 「へ?」 コンラートの手を片方外させてから、ヨザックが耳朶に触れんばかりの位置で囁きかけてくる。 考えに浸っていたせいもあって、意味が良く分からなかった。 「ユーリ、行こう!」 コンラートが焦ったような…怒ったような声を上げて有利の手を引っ張るから、転びそうになりながらついていった。 薄暗い照明の地下室から屋外に出ると、夏の陽射しが強く照りつける。 「眩しい…」 「大丈夫?」 「ん、平気」 にこっと笑ってコンラートを見上げると、少し照れくさそうにコンラートが微笑む。どうしたのだろう? 「コンラッド、どうかしたの?」 「いや、似合うなって思って…」 「……っ」 またしても、ぽんっと頬が染まるけれど…今度は釣られたようにコンラートも頬を染めるから、お互いに余裕のない恋人みたいだった。 『いや、恋人ってなに言ってんの俺っ!』 そんなことを考えたら、行きがかり上…手を繋いだままなのにも気付いてもじもじしてしまう。 「あ…」 コンラートの方も気付いたのだろう。一拍の静止の後に…ゆっくりと手が離れていく。 それを《寂しい》と想う気持ちと、《ほっとした》気持ちが綯い交ぜになって、すぐには言葉が出なかった。 「……行こうか?」 「うん」 もう、手は繋がない。 だけど…触れるか触れないかの距離で揺れている手の甲が、いつまでも気に掛かっていたのだった。 コンラートside 腐れ縁的な友人のヨザックの所に行くと、予想通り浴衣も色々揃えていた。 昔から衣装持ちなこの男は、女装用の浴衣ほどではないが、男物もちゃんと持っていた。 ただ、口が悪いのも相変わらずで、有利がいるというのに冷や冷やするようなことを言い出すから、思わず有利の耳を封じてしまった。 「おい…余計な事を言うなよヨザ」 「なに心配してんのよぉ〜?残念ながら、あんたとの間にバラして困るような事態起こってないじゃん」 起こそうとして、悉く撃退されてきたヨザックは唇を尖らせる。 どこまでが本気なのかよく分からないこの男は、よくその手の際どいちょっかいを出してくるのだ。 単にコンラートの反応を愉しみたいのか、それ以上の思いがあるのかは不分明である。 「で?この子との間には起こって欲しいわけ?バレると困るような関係」 「何を言ってる。教え子だぞ?」 「良いじゃん。禁断の関係で」 ニヤ…と物言いたげにチェシャ猫のような目が嗤う。 「ヨザ…!」 「いつも飄々としてるあんたが、この子のことになると妙に感情豊かなんだもんな。見てて可愛いぜ」 「煩い…!」 これ以上からかわれたくなくて出て行こうとしたら、あろうことか有利に卒業後の進路を勧めている。それも、甚だ教員としてはオススメ出来ない道だ。 急いで有利の手を引っ張って屋外に出たら、7月の陽光が眩暈を覚えるほど強く目を射てきた。 妖しく薄暗い空間から、急に現実世界に引き戻される。 当たり前のように繋いでいた手も、この年頃の男子高校生との接触としては、違和感を感じさせるものなのだと自覚した。 『……離したくないけど…』 それがどんな想いから来るものなのかには目を伏せて、コンラートは有利から手を離した。 「行こうか?」 「うん」 ぽてぽてと歩いていき、色んな店を冷やかして歩いたけれど…どこかふわふわとした心地だった。 夏の大気の中でひかる有利の姿が眩しくて、ヨザックの言葉が繰り返し頭の中に流れてくる。 《この子との間には起こって欲しいわけ?》…そんなわけない。 そんなつもりで、2週間共にいようと誘ったわけではない。 可愛くて素朴なこの子が大好きだけど、ヨザックがいうような関係ではない。 「コンラッド!見て…!」 射的で見事景品を倒した有利がガッツポーズを見せる。 ひらりと舞う男浴衣の袖から、白い二の腕が覗く。 肌理の細かい素肌が、触れるとさらに心地によい質感であることを…コンラートは同衾している間に確かめてしまっていた。 「……」 また、頬が染まりそうになる。 いい年をして情けないが、意外と自分は純情派であったらしい。 「凄いね、ユーリ。一発で仕留めた」 「うん、あんたに似合うと思って…絶対欲しかったんだ!」 そう言って、有利が誇らしげに差しだしたのは獅子のエンブレムが入ったなかなか立派なシガレットケースだ。古めかせた金属光沢はレプリカとは思えない出来である。 コンラートはさほど愛煙家という訳ではないが、仕事に詰まったりすると時々煙草が欲しくなる。それを知っていたのだろうか? 「くれるの?」 「うん、お世話になってるから。お礼!」 「気にしなくて良いのに…」 ぴかぴかとひかるような有利の笑顔を見ているだけで、こんなにも幸せになれるのだから贈り物なんていらないのだけれど…。でも、そんな有利がくれたものだと思うと、今まで貰ったどんな高価なプレゼントよりも嬉しい。 「でも、ありがとう。大事にするよ」 「えへへ〜…」 ああ、君はどうしてそんなにきらきらしているんだろう? 受け取ったシガレットケースから伝わる温もりに…コンラートは胸をひたすものを感じながら瞼を伏せた。 * 乙女男二人…。皆さん、背中を掻かないでぇ…っ! * |