〜先生と俺の日常生活シリーズ〜 夕刻6時を回っても、夏の日の暮れるのはとてもゆっくりだ。 それに、未だ強さを残した陽が道路に映り込む影を濃いものにして、陰影の明瞭な季節であることを物語る。 『あー、まだ遊んでる子がいるや』 塾帰りと思しき子ども達は日の長さを言い訳に、《あと5分》を繰り返しながら公園で遊んでいる。遅くなって夕食時間に食い込むと母親に怒られるのは必至だが、有利としては微笑ましい姿に《あんまり、怒んないであげてね?》と、姿の見えぬ母に言ってやりたくなる。 ただ、昨今は不審者の問題もあるので母親の懸念も尤もだと思うのだが…。それでも、《友達と何時までも遊んでいたい》という、子どもらしい本能には賛同したくなる。 『俺だって、このままコンラッドといたいって思うもん』 ちら…っと平行して歩くコンラートに視線を向ければ、あちらも有利を見ていたようだった。 「この時間になっても、まだ暑いね…」 「うん」 夕日が眩しいのか、コンラートは目を眇めてしぱしぱと瞬いた。 そうすると、それでなくとも色素の薄い瞳と睫が金色に輝いて、うっとりと見惚れてしまうくらい綺麗に見える。 男の人に対して《綺麗》というのは、男の子に対して《可愛い》というくらい嫌なものかもしれないが、それでも有利はそのようにしか感じられなかった。 「どうかした?」 「ううん!何でもな……」 プシャアア……っ! 「わ…っ!」 見惚れていたのを誤魔化そうと盛んに手を振っていたら、横合いから水飛沫が飛んできた。 見れば、公園で遊んでいた子ども達が水飲み場でふざけ、蛇口を狭めていたらしい。 《ヤバイ!》と舌を出した子ども達は、笑ったり、あまり悪気はなさそうに《ゴメンなさーい!》と叫びながら退散していった。 『くそ〜…あいつら、びしょびしょに濡れた服で帰って、お袋に怒られろっ!』 先程まで庇ってやりたかった気持ちは、ちょっと何処かに行ってしまう。 「ユーリ、大丈夫?」 「平気平気、ちょっと濡れただけだもん」 紳士用の清潔なハンカチで、濡れたシャツや髪の一部をコンラートが拭ってくれる。大きな手は指も長くて、フェンシングや剣道の影響か少し節くれ立っている。でも、すらりとした骨組みは優雅なラインを描いていて、《ああ、格好良いな…》なんて実感する。 「……」 息が掛かるほどの距離から為される接触に、少しばかり心臓がばくばくいった。 「も…良いよ!暑いから、濡れてて逆に気持ちいいし」 「そう?」 照れ隠しにとたた〜っと駆けていくと、仄かに火照った頬を誤魔化したくて、勢いよく蛇口を捻ってから迸る水でばしゃばしゃと顔を洗う。 そのままプルルっと首を振っていたら、やっぱりハンカチを手渡された。 「仔犬みたいだね」 「落ち着きがないって?」 「可愛いって事だよ」 《あ、俺は綺麗って言うの遠慮したのに》…と、有利は頬を膨らましてむくれてしまう。コンラートに比べれば微々たるものだが、それでも筋トレの成果は出ていると自負していただけにショックだ。 腹立ち紛れに蛇口を狭めると、コンラートに向けて水を掛けた。 「わ…っ!」 「ありゃ…っ!」 思いの外、勢いが激しすぎた。 噴き上げた水は止める間もなくコンラートの顔を直撃し、その整った顔立ちを見る間に濡らしてしまう。 「はわわ…ご、ゴメ…ここまで掛かるとは…っ!」 「やってくれたね…」 珍しく、据わった目が怖い。 ゆっくりと髪を掻き上げながら送られる流し目は、《妖艶》と表したくなるほど綺麗だが、楽しく鑑賞に耽っている暇はなかった。 「とりゃ…っ!」 「わぷ…っ!」 お返しとばかりに、蛇口権を奪取されて水を噴き上げられれば、先程の子どもの悪戯など可愛いくらいに有利は濡れてしまう。 大人げない高校生と非常勤講師の二人ずれは、先程の子ども達が呆れるほどの濡れ鼠になっいてしまった。 夕涼みがてらお散歩していた老夫婦も、くすくすと笑み交わしている。 「う〜…も、終わりにしようぜ。お互い、水遊びって年でもないし!公共施設の水だし!」 「最初にやったのは誰?」 「ハイ、俺です。ごめんなさい」 ぺこりと頭を下げれば、ぷくく…っとコンラートは吹き出す。 どうやら、最初から怒ってはいないようだ。 「……濡らして、ゴメンね?」 「いいよ。それより、ミコさんに言い訳を考えておきなよ?」 確かに、この濡れっぷりは酷い。 「……良い?コンラッド…。俺たちは、子どもの悪戯に巻き込まれました」 「子どもに…ね。間違ってはないかな?」 意地悪くにやにや笑いを見せるコンラートに、やっぱり頬が上気する。顔を洗いに来た意味は全くなかったようだ。 居心地悪くて身じろぎすると、濡れたシャツが張り付いて気持ちが悪い。 《もうすぐに家だし》…と、思ってタンクトップごとシャツを脱ぎ、絞っていたら…コンラートが何故だか顔の下半分を覆って顔を逸らした。 《そんなに笑ってしまうほどお粗末な身体でしたでしょうか?》…と、問いただしたい。 「さ…帰ろう?」 「うん……」 こくんと頷いて公園から出れば、漸く陽は山々の合間に姿を隠し、空は蜜柑色からゆっくりと藍色に変わっていくところだった。 《寂しいな》…と思うのは、自分だけなのだろうか? そしてそれは、この時間帯特有の寂しさなのだろうか? ぽてぽてと歩いてからいつもの分岐点に差し掛かると、コンラートが手を振った。 「じゃあ、またね」 「うん…」 ああ、もっとちゃんと約束をしておけば良かった。 何月何日の何時に何をしようねって、明確にしておけば良かった。 そうでないと…時間をおいてから改めて《お誘い》電話を掛けるのに、声が上ずったりしないように変な気遣いをしなくてはならなくなる。 何より、口約束だけに終わるんじゃないかと思ったら、凄く寂しくなった。 『寂しい…』 言い訳しようのない寂しさに、有利はきゅ…っと唇を噛んだ。 ああ…自分は、時間帯のせいでも空の暗さのせいでもなく、コンラートと離れることを寂しいと思っているのだ。 自宅へと続く道に身体を向けながらも、思いを残すようにコンラートの顔が有利を見ていた…と思うのは、自意識過剰というものだろうか? 濡れ鼠の身体がやけに冷えてくるのを感じながら、有利はコンラートが暮れなずむ大気の中に去っていくのを…余韻を持って見詰めていた。 |