「夏の王様」−1
〜2010年有利お誕生日企画〜
カ…っ!
照りつける真夏の太陽はキャッチャーマスク越しに皮膚に当たっても、暑さを通り越して痛みを感じさせる。流れる汗も暑くなった肌の上でぱちぱちと爆ぜるようだ。友人の村田健が言うには、実際問題として、過度の熱さはポリモーダル受容器によって《痛覚》として認識されるらしい。日焼けしすぎると火傷を起こすと言うから、危険を知らせるべくそのような反応を示すのだろう。
村田という少年は知識があるだけでなく、意外と甲斐甲斐しい。現在も有利の運営する草野球チームでマネージャーを買って出て、事細かにスケジュール管理やグラウンド借用手続き、練習計画などを立ててくれる。
御礼を言うと、《恩人なんだから、尽くしたくなってもしょうがいなだろ?》と彼は屈託無く笑うけど、公園で不良から助けたとは言っても、逃がしただけなのだから大したことはしていないのだが…。
それでも村田は、《僕は凄く嬉しかったんだよ》と言ってくれる。だったら、素直に受け止めるべきかなと、最近は有り難く受け入れ態勢を取っている。
村田は今やっているように、河川敷のグラウンドで草野球チームの練習を始める際にも、こまめに有利の顔や首筋へと日焼け止めを塗ったり保冷剤の入ったタオルを休憩ごとに脇の下や首筋に当ててくれる。ちなみに、後者は方のメンバーにも勧めているが、何故か前者は有利に対してだけだ。
《どうして?》と聞いたら、《折角可愛い顔してるんだから、シミとか出来ないにこしたことないじゃん》と意味不明な答えが返ってきた。可憐な容貌をしている村田はともかくとして、有利がそんな風に気を使ったってしょうがないだろうと思う。
いや…正確には、去年までは確かにそう思っていた。
今年については自分から日焼け止めを買うことはないにしても、村田が塗ろうとすると拒むことなくお願いしている。やたらと《シミが出来るよ》と言われるのが引っかかってしまうのだ。
『コンラッドは別に俺の顔に惹かれた訳じゃないと思うんだけど…』
《コンラッド》というのは、正確にはコンラート・ウェラー。19歳のドイツ人青年だ。いや、ドイツに於ける高校のような学校ギムナジウムにいたのだから、少年と言った方が良いのだろうか?ちなみに、この年齢なのは決して成績不良で留年したわけではなく、小学校にあたるグルントシューレが4年制、ギムナジウムが9年制だからだ。
彼はアビトゥーア(大学入学資格試験)の筆記試験を3月、口頭試問を6月に受け、優秀な成績で合格しているが、ドイツの大学ではなく日本の北栄大学に進学希望な為(コンラートの成績なら、どこに願書を出しても自動的に合格になるのに…)、推薦入試のある10月までは長い夏休み〜秋休みを過ごすことになるらしい。日本語の日常会話は十分に出来るが、受験するとなればやはり色々と準備が必要だろう。
『夏休みの間に、会えないかな…』
2日前に電話で話した時には、何度もそう聞きたくなってしまったけれど、結局言い出せなかった。こちらから遊びに行くには貯金が足りないし、コンラートに来て貰ったりすれば大事な時期に迷惑かなと思ったのだ。
『でも…でも、ずっと会ってないんだよな…』
コンラートの姿を思い浮かべると、有利の口元はいつだってほわほわと笑み解れ、次いでちょっぴり心配になる。美しく凛々しい王子様のような彼は、多くの崇拝者に憧憬の眼差しを送られているから、未だに有利のことを好きだと言ってくれたことが信じられないのだ。
決してからかっているという感じではなかったのだが…気の迷いと言うこともある。鬱々と考えそうになって、眩しい陽光に目を眇めながら、ぶるる…っと顔を振った。
『うーん。ウジウジしててもしょうがないや!こういうのは電話じゃ分かんないもんな?今は駄目でも、推薦入試の為に日本に来た時には直接会ってちゃんと話をしてみよう』
バスン…っと力一杯ミットを叩けば、もう一度気合いが入る。暑い暑い季節だが、カラリとした気候は有利の思考を彼本来の健全方向性に向けてくれる。
4番の瀬戸がキィーンっと金属バットが音を立てて硬球を打ち返すが、ボール気味に浮かせていた為かファールボールになった。そのせいで視線を向けた先には、河川敷の斜面に寝ころぶ老人の姿があった。一瞬ボールが当たることを心配したのだが、幸いにして2mくらい離れた場所に落ちた。
だが、有利は何故かその老人の様子が気になってならなかった。
『あれ…?』
やけに動きがない。
当たらなかったとは言え、あれほど近くにファールボールが落下したのに、逃げる素振りも見せなかったのはおかしくないだろうか?
そういえば、今は梅雨明けから息をつく暇もなく一気に気温が上がったせいか、熱射病による死亡者が100人を越えたなんて、ニュースでやってなかったろうか?
「ちょっとタイム!」
有利はキャッチャーマスクを荒々しく脱ぐと、少し脚を縺れさせながらプロテクターなども外して斜面に走っていった。
「おじいちゃん、大丈夫!?」
拙い。抱き上げた老人は息はしていたものの、浅く速い呼吸をして真っ赤な顔をしている。今日は午前中のうちは雲が空にかかり風もあったが、昼過ぎから急に陽射しが照りつけてきたので具合が悪くなったのだろう。
「村田っ!保冷剤と濡れタオルお願い…っ!あと、瀬戸さんは念のため救急車呼んで!」
医療関係者が到着するまで、すぐに日陰に運ばなくてはならない。そう思って抱きかかえようとしたのだが…足下の不安定な斜面に加え、意外とがっしりとした体型の老人は、華奢な体躯の有利が抱え上げる相手としては甚だ問題があった。
「う…っ」
老人の下に入り込んで、腰に載せる形で持ち上げようとするが、容赦なく照りつける太陽と過重な労働にすぐさま有利の顔が真っ赤になる。
心配して他のメンバー達も駆け寄ってきてくれたのだが…何故か、彼らが到着する前にふわと身体が軽くなった。
《え…?》と思う間もなく、懐かしい声音が耳朶に響いた。
サァ…っと川面から渡る風が鬱熱を払うように吹き抜けていったのは、あまりにも出来すぎだと思った。
「今日も人助けかい?ユーリ」
「コ…っ!」
喉がつっかえた雄鳥みたいな声を上げて絶句してしまう。
強い風に少し伸びたダークブラウンの前髪が靡き、爽やかに微笑む端麗な輪郭が有利を見つめている。陽光を背にしているので詳細に顔立ちを確認出来ないのが残念だが、それでも有利には彼が笑っていると感じられた。
初めて会ったときと同じように、優しくて…それでいて、ちょっぴりからかうような顔をしているのだろう。
「コンラッド…っ!」
《はふっ》…と息をしてからやっとこさっとこ名を呼んだ時点で、漸くコンラートが老人を抱えてくれているのだと知れる。彼はちいさく頷くとすぐ木陰に老人を連れて行き、シャツを脱がせから村田に手渡されたペットボトルを開いて、体表に直接冷たい水をはたき掛けた。その間に村田も老人の脇の下や首筋にガーゼで巻いた保冷剤を宛い、団扇で風を送ってやった。
おかげで、救急車が来る頃にはある程度意識も回復し、一人で歩いたりは出来ないものの、飲み物を口に出来るところまで元気を取り戻していた。
「ありがとうねぇ、坊やと外人さん。えらい助かったわぁ…」
弱々しい声で救急車に乗せられた老人を見送ってから、有利は待ちかねた質問をしたのだった。
「コンラッド…!どうして日本にっ!?」
「吃驚した?」
全く…凛々しいくせに、どうしてそういう悪戯めいた表情をするとちいさい子どもみたいに可愛いのだろうか?罪なほど魅力的な男は、にこにこしながら有利の答えを期待している。
「ん…吃驚した。すっごいすっごい…吃驚したよ。それに…」
《嬉しかった》…と囁きかければ、コンラートの表情はまるで太陽みたいに照り輝いた。琥珀色の澄んだ瞳の中で、特徴的な銀の光彩がきらきらとお星様みたいに跳ねて…眩しさに、思わず《はう…》と感嘆の声を上げて瞳を眇めてしまったくらいだ。
ゲルツヴァルトでは時折、氷の人形めいて見えるぐらい怜悧な印象があったが、こうして夏陽の下で目にするコンラートは実に瑞々しく、太陽の光がよく似合っていた。
かつて《王子様》という印象を抱いていたのだが、今は…寧ろ、王様と称した方が適切なように感じられる。
それほどに、コンラートは悠然と…伸びやかに見えたのだ。
『ああ…コンラッドだぁ…っ!』
有利は嬉しくて嬉しくて、ちいさくピョンっと飛び跳ねた。
* * *
『ああ…ユーリだ…っ!!』
ぴょこたんと飛び跳ねて喜びを表してくれる有利を、今すぐ抱きしめては拙いだろうか?有利のチームメイトらしき面々は、先程から興味津々という表情で二人を眺めているし、有利は実に恥ずかしがり屋さんだ。日本人の倫理から見ても、ここはひとつ二人きりになるのを待った方が良いだろう。
コンラートはそう判じると、状況を説明し始めた。
「実は、9月1日から北栄大学受験の為にユーリの高校に聴講生として通うことになったんだよ。マンションもご近所だから、これからよろしくね?」
「えぇえ…っ!?」
有利は吃驚しているが、実は制度時代は以前からあったらしい。有利の通う城田高校とゲルツヴァルト高等科は兄弟校の関係にあり、互いに在籍している生徒が大学への留学を希望している場合は、便宜を払うという取り決めがあるのだ。勿論成績的な条件はあるが、コンラートの場合は何の問題もなく手続きが出来た。
母を介して学園理事である伯父も説得たので、晴れて日本にやってきたのが今朝のことである。
まさか、辿り着くなり有利が人助けに奔走している現場に出くわすとは思わなかったが…。
『そういう縁がある子なんだろうな』
ただ、全てが偶然というわけではなく必然の部分もある。
あれほど消耗していたのだ…老人の様子に幾らか気付いてはいても、通行人の多くは関わり合いになるのを避けて見なかったことにしていたはずだ。それを気付いた途端、駆け出していった有利は、常に誰かが不幸になるのを見逃せない気質の持ち主なのだろう。
真っ直ぐで可愛い、《俺のユーリ》…!
ああ、このような呼び方を出来ることがどれ程嬉しいか、彼は分かっているだろうか?今すぐ抱きしめて、息が出来ないくらい熱いキスを交わしたいと思っているのだと知ったら、顔を真っ赤にしてしまうだろうか?
「うっわ…マジで嬉しい…っ!日本語の勉強とか、短期間にやるの大変かも知れないけど…でも、これだけ近くだったら一緒に遊びに行ったり…あ、その…生き抜き的にね?できるよね!?」
「勿論。その為に、俺も随分と勉強してきたんだよ?」
上体を屈ませて有利の耳朶にそっと囁きかける。
《たっぷり遊ぼうね。昼も、夜も》…途端に、ぼん…っと火を噴きそうな勢いで有利の頬が真っ赤に染まり、へなへなとしゃがみ込んでしまった。
どうやら、色んな要素による熱中症にかかり掛けたらしい。
責任を取って、コンラートは木陰で介抱してから、おんぶして有利を自宅まで運ぶことになった。
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