「夢幻軌道」
第8話








「すみません、グウェン…夢を壊してしまって」
「それ以上言うな!」

 未だにくつくつと笑っているコンラートの頭にごつんと拳をぶつけてから、過去のグウェンダルは杯を傾けた。潤沢に用意された酒類は質量共に素晴らしく、特に今現在の杯を満たしている葡萄酒は馥郁たる香りを漂わせているのだが、まだそれを十分に愉しめるような心地ではなかった。勿体ないことだが、羞恥を希釈するべく急ピッチで呷ってしまう。

 横の椅子に座って杯を揺らしている未来のグウェンダルも、どこか笑いを堪えきれぬようで、ちいさく肩が震えている。

 二人のヴォルフラムとユーリは大騒ぎした後、疲れて眠ってしまい、ツェツィーリエも《美容の為》と就寝してしまったので、今は殆ど外見の変わらないグウェンダルが二人、そしてコンラートという組み合わせで、瀟洒な内装の部屋で酒を酌み交わしている。最初の内はご相伴程度に領主達も同席していたのだが、気を使ったのか早々に退室しているから、おかげで過去のグウェンダルもどこか砕けた口調で話す事が出来た。

「しかし、過去の私があのように思いこむのも仕方のない事ではあるかも知れないな。コンラートに少年愛好の趣味があるとは思わなかったし」
「趣味で選んだわけではありませんから」
「運命だと言いたいのか?」

 兄の声はからかうようだったが、コンラートの眼差しには《ふっ…》と真剣さが滲む。

「導かれた可能性はありますが、選んだのは俺です」
「そう、だな…」

 こくりと真紅の酒を飲み干す未来のグウェンダルは、乗り越えてきた様々な過去を想うのだろうか?瞼を閉じて酒以外の何かを味わうようだった。

「そうだ、全てはお前が選んできた事だ」
「グウェンには申し訳ない決断もありましたけどね」

 詫びるように酒瓶を掴み、とくとくと杯に注いでいくコンラートに、未来のグウェンダルは苦笑を浮かべる。

「言うな。私に忠実であることが、世界を滅ぼしていたのかも知れないのだからな」
「…」

 これには何と答えて良いのか分からないようで、二人は同じ大気を共有しながら酒を口に含む。
 過去のグウェンダルとしては少々居心地の悪さも感じるが、今、この組み合わせだからこそ直裁に聞いておきたい事もある。

「幾つか聞いておきたいことがあるのだが、良いだろうか?」
「うむ」
「ええ、どうぞ遠慮無く聞いて下さい」

 快く頷く兄弟には、迷える過去のグウェンダルが他人事とは思えぬのだろう。快い返事に背を押され、思い切って口を開く。

「まず、未来の私に聞きたい。コンラートを北の塔に軟禁しておくことが十貴族会議で決定されたとき、何故、自己判断でコンラートを開放したのだろうか?」

 コト…

 未来のグウェンダルとコンラートが同時に杯を卓上に置いた。二人の表情には、微妙に色合いを異にしながらも、緊張に満ちた大気が流れる。
 どうやらコンラートにとっても、聞きたくて…しかし、時期を逸していたのか聞けずにいた事であるらしい。少しドキドキとしているような顔で、じぃ…と兄を見つめていた。

「…それは」

 長い前髪を掻き上げて、心なしか未来のグウェンダルは視線を宙に彷徨わせる。過去の自分にとっても、弟も直視しにくい気分であるのだろうか?

「もう一点は、眞王陛下からユーリ陛下の肉体を器として供出せよと命令された折も、何故拒否する事が出来たのだろう?」
「何故…と、聞かれてもな」
「聖都で出会ったソアラ・オードイルは信頼に足る男だとは思えたのだが、正直言って《私》の決断に関しては、彼の説を信じることは難しかった。その点については彼が誤報を信じているのではないかと疑ったほどだ」
「どのような形で伝わっているのかは分からないが、取りあえず、問われた二つの事例に於いて、私がコンラートを庇ったのは確かだ」
「では、何故?」
「だから、何故と言われても困るのだ…!」

 何とも不思議な光景であった。成長しきった年代であるせいか、30年の月日を介在していても殆ど外見の変わらない男二人が向き合って、《自分》の選択について問答しているというのは。

「グウェン、俺も知りたいです」
「コンラート…」
「俺もずっと不思議だったのです。特に、軟禁が決まった当時は、兄さんが俺の事を想って下さっているなど、欠片も自信など無かった。軍人としての能力は信頼されていたのだとしても、それらを全て剥奪された俺など何の意味も、存在意義もないと絶望していたのです」

 酒のせいなのか、はたまた二人の兄を目の前にするという、この不可思議な現象の為なのか、何時にない激しさでコンラートは兄の言葉を求め続けた。
 強く拳を握り、琥珀色の瞳に銀の光彩を散らした瞳で、一心に見つめながら。

「ですがあの時…兄さんが俺を信じて下さった時…俺は初めて、自分自身が意味のある存在だと信じる事が出来たのです…っ!」
「コンラート…」
「嬉しかった。本当に、泣きたいくらいに嬉しかった…っ!」

 未来のグウェンダルは落とした照明の中でもそうと分かるほどに頬を上気させ、口元を必死に掌で覆い隠している。感情の高ぶりを押さえきれずに、震わせているのかも知れない。
 《羨ましい》…過去のグウェンダルとしては、少々嫉妬してしまうほどの情景であった。

「兄さん、どうか…教えて下さい。どんに些細なことでも良いのです。あの時兄さんが何を思って俺を救おうと決意して下さったのか、俺も…知りたいです」
「…胸を張って言えるような事ではない。私は…ただ、我慢がならなかっただけだ」

 身を乗り出して熱烈に問いかけてくる弟に押し切られるような形で、未来のグウェンダルは観念したように口を開いた。

「十貴族会議の決定を携えてウェラー領に赴く折、実のところ、私は最初から会議決定を蹴るつもりでいたわけではない。少なくとも私が直接赴けば、ヴァルトラーナやシュトッフェルといった輩に、コンラートが無用な屈辱を与えられる事もないだろうと、その程度のことを考えていただけだ」
「ふむ…」

 そこまでは過去のグウェンダルにも察しが付いた。おそらく、今のグウェンダルでもその程度の決断であれば下していただろうと思えたのだ。

「だが、ウェラー領に入って直接コンラートを目にしたとき、堪らなくなった…!私が命じれば大人しく従うだろうと分かっていたから、余計に堪らなかった」

 当時の感情が蘇るのか、未来のグウェンダルは長い指で掻きむしるようにして顔を覆うと、狂おしげな声を漏らして心情を語る。

「幼い頃から、お前は一度も助けを求めた事などない子だった。その子が…お前が、何もかもを私に委ねたような瞳で、見つめていた。あの時…」

 ふ…っと、未来のグウェンダルの表情に不可思議な色が掠めた。

「何故か私の脳裏には、お前の笑顔が浮かんでいた。まるで…私自身の心が求めた幻のように、今、こうして幸せに過ごしているコンラートの笑顔のようなものが、あの時…視界を掠めていったのだ」

 《一度として見た事など無かった筈なのに》…そう呟くグウェンダルは、だからこそ苦しさを感じたのかも知れない。
 自らの選択が、その笑顔を粉砕することになると予感したからなのか。

「私は…あの時、雷撃に打たれるような怒りを感じたのだ。私がこれまでの生き方を貫く事に固執する事が、この子の生涯を無惨に潰してしまうのだと思ったら、大声で《馬鹿野郎!》と叫びたくなったのだ」

 ダン…っ!

 《これまでの生き方を貫く事に固執する》…そんな自分を叩き潰すように、未来のグウェンダルが激しく卓を叩くと、ガシャンと音を立てて華奢なグラスが踊る。灯火を受けて宙に躍る紅い滴が、ぽちゃんと音を立ててもう一度水面へと戻る間に、未来のグウェンダルはゆっくりと肩の力を抜いていった。

「コンラート…お前が期待してくれているほど、大した動機など無かったのだ。私は…あの時、自分自身に対する怒りに耐え切れなかっただけだ。世間体も身分も肩書きも、全てかなぐり捨ててでもお前を護りたいと…情動に身を任せただけなのだ」
「グウェン…兄上……」

 自嘲するように唇を噛むグウェンダルだったが、コンラートの方は激情に打たれたように、兄の肩を抱いて声を震わせた。

「ありがとう…ございます」

 葛藤してくれて、ありがとう。
 自分の為に、心を尽くしてくれてありがとう…。

 沢山の言葉を尽くしたいのだと思うが、全ては言葉にはならずに、体温と感触としてグウェンダルに伝わっていく。

『雷撃のような瞬間が、私にもいつか来るのだろうか?』

 未来のことを何一つ知らなくても、成功が約束されていなくとも…このグウェンダルのように、決断を下す事が出来るだろうか?
 コンラートの笑顔を、護る事が出来るだろうか?

 過去のグウェンダルは、爪が掌に食い込むほどの力で祈った。
 それだけの強さを、自分がその瞬間に持っていられることを、何かに祈らずにはおられなかったのだ。



*  *  * 




 キィ…

 扉の開く微かな音を敏感に捉えて、有利が寝台からむくりと身体を起こす。どうやら、コンラートのことが気になって眠れなかったようだ。なお、気を利かせて大きな寝台を用意して貰ったのだが、小柄なユーリは端っこの方にちんまりと眠っていた。 

「ねえねえ、どんな話したの?」
「ふふ…色々」
「ふぅん」

 少しぼやかして答えると、ユーリは瞳を柔らかく細めて頷いた。それ以上は聞かないつもりらしい。散々待たせてしまったのに申し訳ない事だ。
 別に秘密にしたいわけでも、ユーリには語れないなんていうわけではない。ただ、今は胸がいっぱいで何から話して良いのか分からないだけだ。いつか整理がついたら、彼には聞いて欲しかった。

「コンラッド、嬉しそう」
「そうかな?」
「うん」

 こくんとユーリが頷くと、コンラートも得心いったように何度も頷いた。

「うん…うん。そうだね、俺は…とても、嬉しいんだ」

 《嬉しい》。
 そういう《言葉》を貰ったら、やっと自分の今の感情が掴めてきたような気がする。きっと、この胸にあるふわふわしたような…時折ぎゅっとするような、甘酸っぱくて、目の奥が痛いような感触を全部引っくるめて、《嬉しい》という気持ちなのだ。

『グウェンが俺を弟として護ろうとしてくれたのは、態度で分かっていたけど…あんな風に言葉にして貰って、初めて感じる事もあるんだな…』

 寝台に腰掛けたままぼんやりとしているコンラートに、ユーリはちいさな手を添えて頬や髪を撫でてくれる。

「良かったねぇ」
「うん…うん」

 子どもみたいに、こっくらと頷くコンラートを、ユーリは細い腕を伸ばして愛おしそうに抱きしめた。

『ユーリ、グウェンがね?』

 《こんな事を言ってくれたんだよ?》言いかけて、でも、やっぱり言葉にはならなかった。グウェンダルから貰った言葉がこの上なく嬉しかったのに、それを言葉に出来ないというのは不思議な感じだ。

「ああ…とても嬉しいんだ、ユーリ。この気持ちを、なんて伝えたらいいのかな?」

 声が甘く掠れて、鼻の奥がつぅんと痛む。嬉しすぎて泣いてしまいそうらしい。なんだか本当に、小さい頃に戻ったみたいだ。

「無理に伝えなくっても良いよ。俺、コンラッドが嬉しそうにしてるってことが、凄く嬉しいんだもん」
「そう?」
「うん、そう」

 にっこりと微笑む愛しい人を抱きしめて、コンラートは溢れる気持ちのままに唇を寄せた。抱きしめ合う腕や唇から、想いが全部伝われば良いなと思いながら。 



*  *  * 




 翌日、王都へと向かう馬車には二人のグウェンダルとコンラート、ユーリが同乗した。昨夜の感情の高まりが気恥ずかしいのか、未来のグウェンダルとコンラートはどこかふわふわとした感じで、目線が合うのを恥ずかしがるようだった。それでいて、ちらりと相手を伺うような視線も送るから、見ている方が恥ずかしくなってくる。

『やれやれ、羨ましい事だ』

 過去のグウェンダルは少々拗ねたような心地で、窓の外を見るとも無しに視線を彷徨わせた。吹き込む風は次第に海の香りを薄れさせ、夏の終わりの濃い緑気が、熱い風に乗って吹き込んでくる。ただ、からりと乾いているので不快感はない。

 カタタン…
 コトトン……

『…そういえば……』

 国内情勢が安定しているせいか、王都へと繋がる中央街道は実に整備が行き届いている。そのせいか馬車の揺れも規則正しい振動を伝えてくるので、過去のグウェンダルはふとある事を思い出して、未来のグウェンダルに尋ねてみた。

「ヴォルフラムから聞いたのだが、君も30年前に馬車ごと失踪したそうだな」
「ああ、おそらくそちらの失踪と時を同じくしているのだろう」
「その折、馬車は大きな地震で発生した割裂に落下していくところだったというのだが、どうも私にはそのように激しい衝撃を受けたという記憶がないのだ。寧ろ、当時の街道は資金難から整備不十分だったので、馬車の揺れも大きて不規則だったというのに、途中から眠気を誘うような、心地よい振動に変わった気がするのだが…君の時にはどうだった?」

 そう、まるで優しい手が揺り籠をゆらすように、優しく穏やかな振動だった。

「ふむ…言われてみれば」

 未来のグウェンダルにとっては随分と昔の事なので、正確に思い出す事は難しいかも知れないが、それでも、やはり巨大な衝撃を受けた覚えはないらしい。

「やはり眞王陛下のお導きなのだろうか?」
「その辺は、伺ってみるしかないだろうな。もうじき血盟城にも着く。そうすれば、猊下が色々と質問にも答えて下さるだろう」
「双黒の大賢者殿か」
「うむ。御機嫌を損ねぬようにな?」
「難しい方なのか?」
「猫の様に気まぐれな部分を持っておいでなのだ。大真面目な気質の者は、よくからかわれる。少々居たたまれないほどにな」

 つまりは、未来のグウェンダルやコンラートも餌食になったことがあると言うことか。

「でも、村田は人を傷つけたりはしないよ?」
「勿論、それは分かっておりますよ」

 ユーリが慌てて大賢者を庇うと、未来のグウェンダルは苦笑して頷いた。

「芯の部分には強い義侠心がおありだと存じている。ただ…時として、鋭すぎる舌鋒にはらはらさせられることもあるのですよ」
「そっかなー?」
「猊下は、ユーリ陛下に対しては掛け値なしの深い愛情を注いでおられるから、多少贔屓目になると面もあるのでは?」

 グウェンダルの言葉にコンラートも賛同した。

「確かにそうだね。俺もユーリを愛していることに自信はもっているけれど、猊下のユーリへの愛情はまた特別なものがあるからね」

 コンラートの言葉に、ユーリの方はきょとんとしていた。そういう実感は無いのだろうか?

「そっかなー?俺だって村田のこと大好きだし、村田も俺のこと好きでいてくれるって思うけど、愛しているとかいうレベルまでは行かないんじゃない?村田、ヨザックと凄く仲良いし」
「それ、猊下には直接言わない方が良いよ?」

 コンラートが《しぃ》と言うように唇へと指を当てると、真似っこをしてユーリも人差し指を唇に当てる。何とも可愛らしい恋人達である。
 ついつい、見ているグウェンダルズ(複数形?)の目尻も下がるというものだ。

「村田ってちょこっとツンデレだもんな。あんまり指摘すると、照れ隠しにヨザックを痛めつけちゃうかな?」
「それも言わない方が良いよ?」
「えへへぇ…」

 ぺろりと出した舌のなんと愛らしいことだろう!

『こうして見ていると、双黒である他は無邪気で可愛らしい少年としか思えないのだが…』

 ユーリというのは実に不思議な少年だった。

 強い魔力を持つにもかかわらず、その身はコンラートと同様に混血なのだという。しかも、フォンウィンコット卿スザナ・ジュリアの魂を受けて異世界に生まれたと言うが、こちらの世界にやってくるまで自分が魔族である事も、そもそもこのような世界がある事も知らず、突然サマナ樹海に落とされたのだという。あそこは到底、物を知らぬ子どもが生きていけるような場所ではないし、何かの拍子に脱出していたとしても、複数の予見によって終結していた軍隊に捕らえられる確率も高かった。

 それが奇跡のようにコンラートと出会い、言葉も通じなかったというのに日々結びつきを強め、掛け替えのない存在になっていったのだというから、やはり《運命に導かれた特別な少年》と評するほか無いのだろう。

 こうして傍にいて会話をしていると、実に屈託のない無邪気な少年としか思えないのだが、ユーリが笑うと何か特別な糸が共鳴するようにしてコンラートが微笑む。そうすると、リィン…と心地よく大気が震えて、幸せな気持ちが辺りに広がっていくようだった。

 だからこそ、伝説のような存在である双黒の大賢者を絶対的な味方につけ、全ての要素に愛されるのだろうか?

「何にせよ、村田は良い奴だし凄く色んな事をよく知ってるよ。これは保証する。だから、眞王廟から出てきてくれたら、きっと色んな事が分かるよ?」
「そうですな」

 信頼しきった表情で請け負うユーリに頷くと、過去のグウェンダルは再び視線を窓辺に向けた。そのせいか、彼はユーリが何かを思い出すように手を動かしたり、小首を傾げたりしているのに気付かなかった。

 《馬車…かぁ》と、何事かぶつぶつと呟いていたのにも…。

「どうかしたの?」
「んー…何でもない」

 コンラートに訊ねられたユーリは、ふるると頭を振って漆黒の髪を揺らすと、もう屈託のない表情で考えるのを止めたようだ。

 カタタン…
 コトトン……

 規則正しい揺れが続いている。
 気が付けば、過去のグウェンダルは再び心地よい眠りについていた。

 


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