「夢幻軌道」
第9話
ズゥウウ……ン…
重々しい音を立てて跳ね橋が降りる。その映像は過去のグウェンダルにとっても馴染み深いものであったが、橋が降りた分、高い防壁の一部に切り取ったような空間が出来ると、そこから覗く景色は幾分雰囲気を変えていた。具体的に何が変わったというわけでもないのだが、やはり戦争末期とは雰囲気がまるで違っている。行き交う人々の表情は明るく、渡る大気までもが輝くようだった。
橋を渡って馬車が王都に入っていくと、沿道に詰めかけた人々からは歓声が上がる。正式に通達があったわけではないが、王都の住人達は《過去からの客人》がやってきた事を、既に噂で聞いているのだろう。大々的に喧伝するほどの事ではないが、さりとて秘匿するほどの事でもないから、港等での目撃情報が人の口や新聞を通じて広まったと見える。
馬車の窓越しにユーリやコンラートが手を振れば、黄色い歓声が《わ!》と沸き立つ。二人のグウェンダルも釣られて窓の外を覗き見れば、今度は《うぉっ!?》とどよめきが起こる。端麗な美形がまるで線対称のように出現したのだから、幾ら噂で知っていたとはいえ、実際目にするのは大きな衝撃なのだろう。
賑やかな沿道を抜けて、馬車は警備兵達に護られながら血盟城へと入っていった。
* * *
「へぇ…これが過去から来たロイヤルファミリーか。ビーレフェルト卿は流石に子どもらしいけど、ツェリ様やフォンヴォルテール卿は変わり映えしないねぇ〜」
「は…」
双黒の大賢者村田健は漆黒の長衣を纏い、面白そうにグウェンダル達を見やる。ユーリと同じように髪も瞳も黒いのだが、受ける印象は随分と違った。どちらかといえば村田の方が甘い顔立ちをしているようなのに、笑みの背景には色々と複雑なものを感じてしまう。
四千年前からの転生の記憶を全て保ち続けていると言うから、色々と熟成したり腐敗したり(←失礼)しているのかも知れない。
「まぁあ〜っ!本っ当ーに私だわ!!」
「まぁ〜私ったら、30年経ってもぴちぴちのままね!良かったわぁ〜っ!!」
「最新の美容法を教えてあげてよ?」
「んま、楽しみっ!」
それぞれに歓声を上げるのは勿論二人のツェツィーリエだ。手と手を取り合って小刻みにジャンプし、互いの美貌を称え合っている。その内、未来のツェツィーリエの方が誘いかけて、華やかな衣装を見に行く事になった。
「はは、楽しそうだね」
村田が微笑みながら女王と上王の後ろ姿を見送ると、ユーリもうんうんと頷いて同意する。
「ホント、ツェリ様はいつでも楽しそうだね。それに、最新の美容法なんて習ったら、ツェリ様ますます若返っちゃうよ。あれ?でも30年前のツェリ様が若返ると、今のツェリ様もその分だけ若返るの?」
「美容法なんてどうせ忘れちゃうよ。今のツェリ様が忘れているのがその証拠さ」
「あ…そっか」
そう、未来のグウェンダル達も過去に《謎の失踪》を遂げているが、発見されたときには全く失踪中の事を覚えていなかったという。だとすれば、過去のグウェンダル達が元の時間軸に戻ったときも同様なのであろう。
『だが…何とかして回避は出来ぬものだろうか?』
過去のグウェンダルは炙られるような焦燥感を覚えつつ、村田に平伏するようにして願い出た。
「猊下、不躾なお願いとは存じますが、何とか我々の記憶を止めたまま、過去に戻る事は出来ませぬか!?」
「駄ー目。僕と眞王が記憶を抹消し、渋谷の力を借りて過去に送ってあげる」
村田の返答は、にべもない。
「一考するまでもないと仰るのですか!?」
「考えていない訳じゃないさ。なにせ、君たちが暮らしていた時代に比べて、何もかもが良い方向に変わっているんだ。どうしたって、そういう申し出はしてくるだろうなと想定していたよ。だから、ちゃんと眞王にも問いただしておいたのさ。一体なんのつもりで君たちをこの時代に呼び寄せたのか…とね」
「それで、どのような返答が得られたのでしょうか?」
「結論から行くと、眞王は《俺は脚色しただけだ》って言ってたよ。実行犯は別にいるってね」
「はぁ!?」
思いがけない言葉に、過去のグウェンダルも、横で聞き耳を立てていたヴォルフラムも顎が外れんばかりの衝撃を受けている。
「し、しかし…。眞王陛下以外に、過去と未来を繋ぐ驚異的な魔力の持ち主など…」
言いかけたヴォルフラムも、同じような感想を浮かべ掛けたグウェンダルも、同時にある方向を見つめた。その場に居合わせた人々も同様である。
「え…何々?何でみんな俺を見てるわけ!?」
そう、彼らの視線の先にいたのはユーリである。
《禁忌の箱》を全て昇華した双黒の王、眞王という選択肢が除かれた今、彼以外にこんな離れ業が出来るとは思えなかったのだ。しかし、ユーリの方は困惑したように頭を振っている。彼の性格から考えても、グウェンダル達を召還しておいて、その事を黙っているとは考えにくかった。
「俺は知らないよ〜!」
「君は意識してはいなかったろうね。だけど、夢は見たはずだよ?」
確信を込めて語る村田の方は、眞王に種明かしをされているのかも知れない。彼はユーリの力について、本人よりもよく理解しているようだし。
「夢?」
「君は夢の中で、揺れる馬車を見たはずだ。ガタゴトガタゴト、酷く揺れているのを」
「確かに…」
ユーリは思い出すように、前方にひょいっと両手を出す。まるでそこに、小さな馬車があるかのようだ。そうやって、グウェンダル達の馬車も救ったというのだろうか?
「その時、君は《思い出した》はずだ。そのまま馬車を放っていたら、地震による割裂に落ち込んで、乗客達が死ぬか、良くても重傷を負ったろうことをね」
「うん…そう。だから俺…《軌道を変えなくちゃ》って思ったんだ。そんで、馬車を持ち上げたら真っ直ぐで綺麗な道が見えたんで、ほっとしてそこに置いたんだよ」
身振り手振りを交えながら、ユーリは記憶を確かめるように両手を添えて《小さな馬車的なもの》を空中で《綺麗な道》に乗せる。
夢幻の中に描かれた軌道に、グウェンダル達は乗せられたのか…。
「しかし、一体何故…過去に遡ってそのようなことが出来たのでしょう?」
過去のグウェンダルが不思議そうに呟くと、村田がまた種明かしをしてくれた。
「渋谷はその日、お茶の席で聞いていたんだ。フォンヴォルテール卿達の身に起きた、不可思議な事件についてね。その《おかげ》か《せい》かで、渋谷は思ったんだろうね。《コンラッドのお兄さん達を危ない目に遭わせちゃいけない》…ってさ」
魔法使いのように言い当てていく村田に、ユーリは目を白黒させて驚いている。
「あのお茶の時にも村田はいなかったろ?夢の事といい、どうしてそんなに詳しく知ってるんだよ!?」
「眞王が君にシンクロしていたんだってさ。全部教えて貰った」
「あの野郎…人の夢、覗き見してんのかよ!?」
伝説の英雄王にえらい言いぐさである。
「ま、結果的には君の大事な男の為になってるんだから、赦してやってよ」
村田の話から察するに、ユーリは意識せずにグウェンダル達を救ったのだろうか?
「大事なって…あ、コンラッドの為ってこと?」
「フォンヴォルテール卿やフォンビーレフェルト卿、ツェリ様のことだって大事には思ってるだろうけど、君が常に《何としても幸せに》って、浴びせかけるほど愛情を注いでいる男なんて、他にいるかい?」
ぽぁんと頬を染めるユーリとコンラートは、お互いに目と目を見つめ合ってしまう。
「そ…そりゃあ…」
「以前の君は上様の力が発動したときにだけ魔力を発揮していたけど、時折無意識に力を使えるようになっているんだろうね。《禁忌の箱》を全て昇華させたことで、君は解放してあげた要素達から溺愛されている。その要素達が、君の願いに共鳴して…時折こんな奇跡を起こさせるのさ」
村田の説明を耳にすると、コンラートは琥珀色の瞳に銀の光彩をちらちらと煌めかせ、感極まったように艶やかな声を上げてユーリを抱きしめた。《きゅむっ!》と腕の中に閉じこめられたユーリは、耳まで真っ赤にしている。
恋人同士になってから相当経つと聞くのだが、純情さという性質に、順応は起こりえないのだろうか?
「ユーリ…この奇跡は、君がくれたのか?」
「そ…そうなのかな?」
危うくそのままピンク色のオーラが漂いそうになったところに、ヴォルフラムが水を差す。
「だが、ユーリが僕たちの身を案じて遣ったというのなら、どうしてあんな辺境地に送ったのだ?真っ直ぐな道とやらで、そのまま眞魔国に運んでくれれば良かったではないか!」
「さぁて…真っ直ぐにこの地に来たとして、君たちはどういう行動を採ったろうね?特にフォンビーレフェルト卿。君はどうだ?《ここは人間と魔族の友好関係が進んだ世界なんだ》なんて言われても、信じなかったんじゃないのかな?」
「……それは…」
「渋谷に《綺麗な道》を提示したのは眞王だ。渋谷はただ割裂から救いたかっただけで、その辺の平地に戻すだけで良かったんだろうけど、あいつはそこに一手間加えた。何もかもが変わった世界の中でも、最も大きな変化が起きている地域…聖都に運ばれるよう夢幻の軌道を修正したんだ」
「一体何故!?」
「深く考えたのか、単に嫌がらせだったのかは分からないけど、取りあえず眞王は《その方が吃驚するだろう?》と言っていたね」
嫌がらせだとすれば、かなり大規模な悪戯だ。
ただ、眞王の意図がそれだけであったとは考えにくい。大賢者自身も言っているように、グウェンダル達が眞魔国に真っ直ぐ来たのであれば、わざわざ人間世界に行く理由はない。そうであれば、グウェンダル達が人間と交流したとしても、眞魔国を訪問していた人間と表面的な話をするに留まっていたに違いない。
「我々がこの世界に招かれた機序は分かりました。ですが、まだ私の懇請を拒否される理由にはなっていないと思うのですが?」
「まぁね。確かに、君たちの記憶を残したまま過去に戻す事も可能は可能だよ」
「では…っ!」
「ただ、その場合はおそらく、この次元とは異なる世界が出現するか、最悪…この世界が消える。少なくとも、君たちが辿る未来はこの世界には繋がらない」
「…っ!?ど、どういうことでしょう?」
「記憶を止めたまま過去に帰れば、確実に君たちは《起こるであろう事態》を想定して行動・決断してしまう。君はアルザス・フェスタリアの予見によって弟が辱められる事も、《地の果て》に左腕を引きちぎられるなんて事態も、何とかして回避しようとするだろう?」
「それは…」
ぐ…っと喉のつかえを感じるグウェンダルの横で、ヴォルフラムも盛んに同調してくる。彼もまた、この未来の記憶を失いたくないと思っているのだろうか?
「あ…当たり前ではないですか!回避出来るというのなら、方策を採らずにはおれないものでしょう!?」
そうだ、誰が分かっていて悲劇的な展開を享受しようとするだろう?実際、グウェンダルはこの記憶を頼りに過去を変えて、コンラートとの関係を改善させようとしていた。
だが、大賢者はそれを《否》とするのか?
「そうなれば、必ず歴史は変わる。ほんの僅かでも時節がずれたり、会えるべき人物同士が会えないなんて事が起こると、《禁忌の箱》の暴発を防ぐ事は出来ないんだよ」
「しかし、それはあまりに負の方向の可能性ばかりを言い立てているのでは?知っている事で、よりよくなる可能性も…!」
「君の弟は歴史に大きく関わりすぎているんだよ。君が判断を一つでも損なえば、君は大切にしたい連中ごと世界を滅ぼす事になる」
「記憶に基づけば、必ず私が誤ると仰いたいのですか?この記憶を全て、失えと…!?だが、だとすれば私達は一体何の為にこの世界に招かれたのだ!?」
この世界の実相を、眞魔国のみならず人間世界に至るまで理解したというのに、全て失ってしまうのなら、最初から知らなかった方が良かったのではないか。
「我々がこの数ヶ月で得た知識は全て、無駄という事ではないか…っ!」
「グウェン…」
怒りと哀しみによって激高する過去のグウェンダルに、ユーリとコンラートが左右から挟み込むようにして手を取った。
「無駄なんて、言わないで下さい…グウェン。少なくとも、俺にとってはあなたに会えた事は素晴らしい贈り物のような出来事でした」
「コンラート…」
琥珀色の瞳を優しく細め、コンラートは幸せそうに微笑んでいる。
ああ…このように嬉しそうな笑顔を浮かべた弟に、再び会う事が出来るのだろうか?不安に駆られるグウェンダルの手を、反対側からきゅうっとユーリが握った。
視線を送れば、つぶらな漆黒の瞳は暖かな感情を乗せてグウェンダルを見つめてくる。何とかして、力づけようとしているのだ。
「うん…。俺が原因だったから言う訳じゃないけど、俺…今回の事って何もかも無駄だなんて思えない。こうしてグウェンが《未来》に触れた事は、例え記憶を失ったとしても、どこかに残るような気がするんだ」
「そう…でしょうか……」
「そう信じたいだけかも知れない。だけど、信じられるかどうかって、やっぱり大きな事じゃないかな?追い詰められた最後の瞬間、《もう駄目》と思うのと、《大丈夫。何とかなる》って思うのとじゃ、きっと決断は変わってくると思うんだ」
「ええ、俺もそう信じます」
左手にはコンラート、右手にはユーリの両手が添えられて、きゅうっと握り締められる感触に、強張っていた節々が温かく解されていく。
そこに、華やかな衣装を纏いながらも、どこか真摯な眼差しをしたツェツィーリエ達が参入してくる。どうやら、少し前からグウェンダル達の遣り取りを眺めていたらしい。
「グウェン、ヴォルフ…私達は、やはり記憶を無くして戻るべきだと思うの」
「母上…」
「未来の私から、私がどんな30年を過ごす事になるのか…聞いたわ。華やかで楽しくて…そして、どうしようもなく愚かな王として、母として生きるのだと」
ツェツィーリエとは、こんな表情をする女性だったろうか?
声は震えて顔色は幾分悪かったけど、それでもどこか決然として、ツェツィーリエは息子を抱きしめて語りかけた。
「馬鹿な決断をして、民を…息子を沢山苦しめることになる。幾ら私でも、知っていたら部分的に《何とかしよう》と思ってしまうわ。でも、それは結果的に未来を歪めてしまうと思うの」
「私達には、知識を改善に向ける力など無いのでしょうか?」
「それを無力とは考えない方が良いと思うの。だって、眞王陛下ですら完全には始末する事の出来なかった《禁忌の箱》が関わっているのよ?《禁忌の箱》は荒ぶる原始の要素…大自然と同じだわ。私達が小手先で立ち向かおうとしてどうにか出来るものでは無いのではないかしら?」
おそらく、ツェツィーリエは理屈でもって考えているわけではないだろう。ただ、母として女として、感覚的に事態を捉えているに違いない。《情動による判断》などというものは、本来グウェンダルが蔑視しているような類のものだ。
けれど、どうしてだか今回に限っては、母の方が真実に近い位置にあるように思われるのだ。
「でも、私達は決して無力などではないし、この不思議な旅が無意味なものだとも思えないの。だってね…私、未来の私に聞いたのよ?ユーリ陛下の肉体を眞王陛下の器として津捧げるなんて恐ろしい決断を迫られた時、胸の奥から熱い高ぶりが沸き上がってきたんだって…」
そこに、未来のツェツィーリエも又感情を高ぶらせ、高いヒールの靴で足を踏み鳴らし、拳を握っていた。
「ええ、そうよ。私、物凄くあの時に腹が立ったの!もー、とにかく自分自身が腹立たしくてならなかったわ。ユーリ陛下の精神を失わせてしまう事が、許し難いことだと思ったの。これって、今までの私ならあり得ない事だと思うわ。だって、眞王陛下に逆らう事なんですもの!」
そういえば、未来のグウェンダルも言ってはいなかったろうか?
《ただ、我慢がならなかった》のだと。
それは、魂の根っこ部分にまで眞王崇拝が染み渡ったこれまでのグウェンダルにとっては、考えられない判断だったではないか。
『全てが失われてしまう訳ではないのか?』
この心のどこかに、最も大切な事だけは残されているのだろうか?
『信じたい…そうであるのだと…!』
引きちぎるような強さで胸元の布地を掴み、グウェンダルは瞼を閉じる。
握ったその力の分だけ、深く記憶に刻まれている様な気がして…。
* * *
グウェンダル達が過去の世界に戻ってきたとき、血眼になって捜索していたシュトッフェルや部下達は《今まで一体どうしていたのか》と問いただしてきた。しかし、欠片ほども記憶を遡る事が出来ず、特殊な魔力の使い手に記憶を覗かせても、見事に何も出てこなかった。
『しかし…何故、私の心はこんなにも平穏なのだろうか?』
そのことが最もグウェンダルにとっては不思議であった。失踪する直前まで、グウェンダルの中には鬱々と、コンラートに何もしてやれない事を悔いる気持ちが渦巻いていた。今もまた、その事に変わりは無いはずなのだが、何故か心の片隅に、妙に楽天的な自分がいて、こう言うのだ。
『きっと、何とかなる』
方策が分かっているわけではないのに、一体何を根拠にそんなことを思うのか。
自分で自分に突っ込みながらも、どうしてだか一粒の《楽観》は、消えることなく胸の中に在り続けていた。
* * *
眞魔国歴3999年…節目の年を目前に控えたこの国の中で、大きな決断が下されようとしていた。英雄として讃えられていたウェラー卿コンラートの、北の塔への《軟禁》…誰の目にも明らかな、《死せるまで続く投獄》が、実の兄の手によって実行されようとしているのだ。
「本当に…閣下が単身で向かわれるのですか!?」
「どうか我らも随伴して頂きたい…っ!」
「くどい」
ウェラー領の直前で、フォンヴォルテール卿グウェンダルはここまで強引についてきた部下達を、やはり強引に振り払った。
「私が単身赴く事が、無用な流血を防ぐことになる」
「ですが…」
「ウェラー卿は従う。どのような想いが在ろうとも、私が命じれば…従う」
「…了解致しました」
忠実な部下ウルヴァルト卿エオルザークは、上官の言葉に唇を噛んだ。グウェンダルにとっても、今回の任務が血を吐くような苦しみであることを、改めて感じ取ったからだろう。
《兄の言葉であれば従う》
そう知っているからこそ、グウェンダルは己の不甲斐なさを痛感せずにはおられないのだ。
《兄として、私は何をしているのか》…《何をしてやれるのか》と。
今のところ、無用な血を流すことなく、屈辱を与えることなくコンラートを連行する事に、任務の目的を特化しようとしているグウェンダルだったが、それが欺瞞でしかないことを、彼が誰よりも知っていた。
『緩やかに、弟の生涯を腐敗させようとしているだけだ』
野に在れば雄々しく駆け、天に在れば勇壮に羽ばたく男の脚を…翼を折るのか。
カッカッカッ…
単騎進むグウェンダルは、ゆっくりと降ろされていく跳ね橋を渡ってウェラー領へと入っていく。
「フォンヴォルテール卿グウェンダル閣下。ご足労くださり、まことにありがとうございます」
「うむ」
出迎えたコンラートの頬は流石に蒼白だったが、縋り付いたり、狼狽えたりすることはなかった。ただ、一心にグウェンダルを見つめて会議決定の報告を待つ。
巻物状にしていた告知文を開いて宙に翳し、淡々と読み上げれば辺りの大気が凍り付いた。それでもコンラートは抵抗の意志を見せず、感情の伺えない瞳を伏せた。
ひゅう…っと吹き抜けていく風だけが、音らしい音として辺りに響く。
凍てつく周囲とは対照的に、グウェンダルの腹の中には言いしれない怒りの蜷局が巻いていた。
『このような決定に、従うというのか…っ!』
静かに頭を下げて、コンラートは次なるグウェンダルの指示を待っている。どれほど屈辱的な言葉を浴びようとも、いつだって昂然と胸を張っていた、あの男が…!
『くそ…くそぉおお……っ!!』
その時、雷鳴のようにグウェンダルの脳裏に浮かび上がった映像があった。
ほんの一瞬のことではあったが、それはにこやかに微笑むコンラートと、そして…誰だろう?とても可愛らしい少年が見えたような気がする。
『な…んだ…?』
およそこのような状況で思い浮かべるには似つかわしくない情景。いや、それ以前にグウェンダルはあのような表情のコンラートなど見た事がないはずだ。
世の中の全てに感謝して、幸福に包み込まれているようなコンラートなど…。
なのに、どうしてこんなにも《懐かしい》と感じるのだろうか?
『コンラート…!』
もう一度、見たい。
あのように微笑む、幸せそうなコンラートが見たい…!
痛烈なまでの願いが、裏付けの何もない情動から出ているのは明白だった。
会議決定に逆らう、大貴族としてあるまじき欲望。今まで示した事など無い、兄弟としての情。
理性で押さえ込むべき激情に、しかしこの時のグウェンダルは逆らえなかった。
「…ウェラー卿コンラート、防腐液を詰めた缶を一つ…用意しろ」
「は?」
虚を突かれたように、コンラートはぱちくりと目を見開いた。見返すグウェンダルの瞳には言いしれない怒りが浮かんでいたから、余計に理解困難であったろう。
「異世界からやってくる双黒を探し出し、これを確実に殺して頭部を眞魔国に持ち帰るのだ」
「な…にを…?フォンヴォルテール卿グウェンダル閣下、そのような決定は告知文には…」
「私からの命令だ。己の名誉を、お前自身の手で守るのだ…コンラートっ!」
「…っ!」
大気が、震えた。
奮い立つような歓喜と共に、信じられない思いで人々はグウェンダルを見つめた。
このような命令を独断によって行えば、幾ら十貴族とはいえど唯では済むまい。殊に、これ幸いとコンラートを責め立てたシュトッフェルやヴァルトラーナから、激烈な処分を受けるのは間違いなかった。
「フォンヴォルテール卿グウェンダル閣下。いえ…」
コンラートが面を上げる。感極まったように琥珀色の瞳を濡らして、真っ直ぐに見つめる眼差しの熱さが胸に響く。まだ白昼夢の中で見たような表情ではないものの、これもまた、初めて目にする笑顔ではあった。
「兄さん…っ!」
「…っ!」
「必ずご命令を成就して、この地に還って参ります…っ!」
ウェラー家特有の銀の光彩を煌めかせて、コンラートが最敬礼を見せる。それに倣うように、ルッテンベルグ軍兵士が…その場に居合わせた民全てが、ある者は帽子を胸に押し当て、ある者は両手を摺り合わせて、思い思いの形でグウェンダルの決断に感謝の意を伝える。
「何処に赴こうとも、決して忘れるな。お前は眞魔国の軍人だ」
「はい…っ!」
《そして、我が弟だ》…喉元まで出掛かったその言葉を、口にする事は出来なかった。この期に及んで、まだ兄弟の情を優先させた事を認めたくなかったのだ。
『行ってこい。コンラート…』
この時、グウェンダルにとってコンラートが双黒の首を取れるかどうかなど二の次であった。唯、彼に自由を与えたかっただけだったのである。
* * *
獅子が野に放たれていく姿を、グウェンダルは見守る。幾多の苦難が襲いかかろうとも、彼にそれを上回る幸運が降り注ぐ事を祈りながら。
《大丈夫、何とかなるよ》
ふ…っと、励ますような声が聞こえた気がした。
「…?」
辺りを見回しても、そのような声を掛けて来そうな相手などいない。誰もが潤んだ瞳で見つめているだけだ。
不思議に思いながらも、何故か心が幾ばくか軽くなるのを感じていた。
『大丈夫…か』
口の中で繰り返せば、また心が軽くなる。祈りのようにその言葉を繰り返しながら、グウェンダルは地平線を見つめた。もう後ろ姿の見えなくなったコンラートにも、伝えてやりたかった。
《大丈夫、何とかなる》…と。
私は、そう信じていると…。
おしまい
あとがき
3周年記念にリクエスト頂いたときから書きたいな〜と思っておりましたタイムトリップモノ、漸く書く事が出来ました。
しつこいほどにグウェンダルの兄弟愛を描くのが楽しすぎて、相変わらずツェリ様やヴォルフラムの印象が薄かったわけですが…この辺は書きやすさと愛の違いで、仕方のないところデス。
現在妄想しておりますお話でも、コンラッドと家族の再会シーンをねっとりと描きたいなと思っております。
またお付き合い頂ければ幸いです。
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