「夢幻軌道」
第7話
『いよいよ、コンラートに会えるのか…!』
甲板に出たグウェンダルは、朝靄の向こうに眞魔国の港を認めると、浮き立つ心を抑えるように軍服の胸元を掴んだ。
大陸では殆ど、聖都が用意してくれた人間風の衣服を着ていたのだが、眞魔国艦船に乗ってからはヴォルテール正規軍の軍服を身につけている。襟章や肩章こそ混乱を避ける為に大将位ではなく客員将官を示すものだが、海風に裾がはためく様は威風堂々たるものである。
その彼が、弟との再会に乙女のように胸を弾ませているとは誰も思うまい。
『アルノルドでの傷は癒えているのだろうか?双黒の君とは仲良くやっているのだろうか?シュトッフェルの陰謀に巻き込まれて、またどん底の境涯を送ったりしてはいないだろうか?』
何しろ、オードイルの語った生涯が波瀾万丈で在りすぎた為、色々と杞憂を浮かべてしまう。
「兄上、随分と気分が高揚しておられるようですね?」
「お前もな」
くすりと笑みかわす弟は、ここ数日の間に随分と印象が変わっていた。相変わらず未来の自分は気にくわないようだが、顔立ちや纏う雰囲気にはよく似た落ち着きが漂うようになり、特に、例の少年といる時には晴れやかな顔をしている事が多くなった。
これまでは会話の中にコンラートの事が混じると、あからさまに顔を顰めていたというのに、今では少し沈思なものが掠める事はあっても、感情的になることはなかった。
「あの子はどうした?」
「そろそろ到着なので、荷物を纏めたりしているようです」
「あの子も眞魔国で降りるのか?」
「ええ。この港町に親がいるようです」
「そうか…では、王都には同行できぬか。その…淋しくはないか?」
「平気ですよ。また、必ず会えますから」
それは自分自身に言い聞かせる言葉のようでもあった。静かに瞼を伏せたヴォルフラムは寂しさを感じながらも、我が儘を言って少年を困らせる気はないようだった。
『変わったな…この子は』
出会いとは、ほんの短い時間に魔族を変えていくものなのだろうか。何十年にも渡ってこの末弟の未来を危ぶんでいただけに、感慨深いものがあった。
「兄上、御覧下さい。港が…」
「おお…っ!」
わぁあああ……っ!!
人々の歓声が、甲板と港の双方から起こる。待ち受けていた人々は早くも色紙などを巻き初めて、朝靄の中に色取り取りの欠片が飛散している。強い海風に舞い上がったそれは、きらりと瞬くようにして水面へと落ちていった。
『コンラート…っ!』
見えた。
靄のせいで少し輪郭がぼやけているが、間違いない。コンラート…今や、大貴族の仲間入りを果たしたフォンウェラー卿コンラートが、純白の正装軍服に身を包み、将軍位を示す緋色のマントははためかせて佇んでいる。その横には、華奢な体躯の《姫》が寄り添っていた。まだ顔立ちまでは確認できないが、頭髪と中性的な印象の長衣は見事な漆黒である。
「本当に、双黒の君だ…っ!」
感動のあまり泣き出しそうになっているグウェンダルの背に、ヴォルフラムの腕が回された。二人はそれ以上は何も言えないまま、じぃっと港の様子を見つめ続けていた。刻々と明瞭になっていく像は、その度に幸せの確信を高めていく。
柔らかく微笑むコンラートが、腕を高く掲げて手を振っている。
グウェンダルの記憶の中にある最後の彼は、全身を無惨に引き裂かれて壊れた人形のようであったけれど、今のコンラートは髪の毛の先から爪先までぎゅうぎゅうに《幸せ》を詰め込んでいるみたいに、思いっ切り晴れやかに見えた。
『幸せなのだな、コンラート…!』
その確信は下船後、更に高まることとなる。
* * *
「ようこそ、未来の眞魔国へ…!長旅お疲れ様でした」
緋色の絨毯の上に佇む青年は、30年の間に凛々しさを増したコンラートだった。伸びやかな美声は、以前はほんの少し冷たさを感じさせる事もあったのに、今では朗々と響いて胸を熱くさせる。
「んまぁああ…!コンラートっ!!」
感極まったようにツェツィーリエがしがみついていくと、コンラートはやや戸惑いながらも優しく抱きしめ返す。すると覚えのある感覚であったのか、ほっと安堵したように背中を撫でつけた。本当に過去からやってきた可能性が高いと分かっていても、実際に体感してみるまでは確信が持てなかったのだろう。
『ああ…そうだ。こうして間近に目にする事で、初めて分かる事もある』
至近距離から眺めれば、もうそれだけで胸いっぱいに溢れてくる感情がある。何時の頃からか凍てついたままだった弟は、今や内側から光を放つようにして幸福を感じさせる。歴史としてオードイル達から聞いてはいたものの、これほど印象が変わっているとは思わなかった。
「お会いできて光栄です」
コンラートの横でほわりと微笑むのは、夢にまで見た…そして、どれほどの夢幻も及ばぬほど美麗な姫君であった。いや、姫だと思っていなければ、性別を判定する事は難しかったかも知れない。それほど中性的で、両性の美を絶妙な均衡で保持しているのだ。
『なんと…美しい……っ!』
コンラートが斬れなかったのも当然だ。まろやかな透明感のある肌に、ちいさく形良い鼻、唇。華奢な顎へと流れる見事な曲線。何より、澄んだ大粒の瞳はくりくりとした漆黒で、抱きしめたいほどあどけないようにも見えるが、同時に、包み込むように大きな器も感じさせる。ただ…何処か懐かしいというか、見た事があるような気がするのは気のせいだろうか?
『想像の中で思い浮かべていた姿とはまた違うようだが…』
しゃらりした黒髪は予想していたように腰まで伸びるような長さではなかったけれど、それでも見事な漆黒を為す艶やかな質感で、蒼い小花のコサージュが胸に掛けた魔石の色とも相まって、品の良い華やかさを持たせていた。衣服も黒ではあるが、薄く透ける布地を幾重にも重ねているせいか、長い袖や裾が揺れるたびに細い手首や足首が適度に覗き、うっとりと見惚れるほどに優雅だ。
コンラートは《過去の家族》という不思議な存在にも興味はあるのだろうが、傍らの姫の事も気になるようで、彼女が何か言ったり動いたりするたびに、にこにこしながら視線を送っている。その眼差しは夏の陽射しに溶かしたラードよりもとろとろで、蜂蜜掛けにしたケーキよりも甘やかであった。
ツェツィーリエに《何て可愛いのっ!》と抱きしめられると、華奢すぎる体はお人形のようにぶんぶんと振り回されてしまう。豊満な母と並ぶと特にほっそりとした体つきが強調されるが、今のコンラートにとっては少々胸や尻が淋しくても何の支障もないらしい。
苦笑しながらユーリを救い出すと、少し乱れた前髪を優しく撫でつける。
「ユーリ陛下、大丈夫ですか?」
「陛下って呼ぶな…いいえ、呼ばないで?コンラート。もうじき、あん…いや、あなたのお嫁さんになるんだから」
淡く頬を上気させて、はにかみながら《あなたのお嫁さん》なんて口にすると、あまりの可愛らしさが眩しすぎて目が潰れそうになる。案の定、コンラートは目眩を感じるように目元を押さえると、うっとりとした声音で将来の妻を呼んだ。
「ユーリ…」
「コンラッド…」
見つめ合う二人は、国賓を迎えに来たという立場もちょこっと忘れがちであった。飛び交うハートマークの乱舞が、ごちんとおでこに当たってくるような感じがする。
『こ…これはまた幸せそうな…』
想像以上の熱愛ぶりに、グウェンダルはどういう表情を採って良いのか分からない。あの冷静沈着な弟が女性に溺れるなど、これまで考えもつかないことだったのだ。三兄弟の中では最も女性のあしらいが得意で、あらゆる身分の女性から秋波を送られるのは知っていたが、コンラートの方はいつも何処か冷静な部分を残していて、自分に首っ丈の女性を客観視している向きもあった。
それがどうだろう?とろけるような眼差しを惜しみなく降り注ぎ、見ていて恥ずかしいほどの愛情を炸裂させているのだ。おかげで、ユーリの方が気を使って《こんなところで立ち話はなんですから…》と、馬車に誘って、沿海州領事館の屋敷に連れて行ってくれた。
* * *
「ありがとう」
馬車から降りる際、ほんの少しよろめいた《過去》のヴォルフラムを、コンラートが反射的に支えた。すると信じ難い事に、するりとヴォルフラムの口から礼の言葉が出てきたのだ。
その事に、どうやら当の本人が一番驚いていたらしい。ぱちくりと目を見開いて、嬉しそうな顔をしているコンラートからぷいっと視線を逸らす。しかし、向かった視線の先にユーリを捉えると、そろりそろそろと首を巡らせて、照れ隠しに唇を尖らせつつも、コンラートの胸をぽんっと裏拳で叩いて大股に歩いていく。
どうやら、何か吹っ切れたらしい。
『何という事だ。あの子が、一体どうして…何時の間に?』
変わりつつあるとは思っていたけれど、どうしてこれほどの変化が起きたのだろう。ふと目を遣ると、コンラートが何事かユーリに囁きかけている。感謝に瞳を潤ませているコンラートに、《お節介かなって思ったんだけど…》と、少し砕けた口調でユーリが返しているのを読唇術で確認すると、グウェンダルはあることに気付いた。
『ん…?』
あの顎のライン…それにふっくりとした愛らしい唇には、少し見覚えがある気がしたのだが、いま漸くピンときた。
『もしや…』
榛色の髪をした少年こそが、この双黒の美姫なのではないか?ヴォルフラムの頑なな態度がコンラートを傷つけるのではと察して、身分を隠して事前に心を解そうとしたのではないか。
『それほどに愛されているのか…!』
またしても感動の潮の中でくるくる回されながら、グウェンダルは感涙に噎せ泣きそうになっていた。
* * *
話したい事は山ほどあるのに、どうも切り出せなくてもじもじしている内に、一行は夕食を採る事になった。しかし、何故か主要メンバーは全員席に着いているはずなのに、1席ほど空いている。
「どなたが来られるのですかな?」
グウェンダルが問いかけると、コンラートが教えてくれた。ただ、呼称には少々難渋しているようだ。
「もうじき、グウェン…いえ、こちらの世界のグウェンが到着予定なのですよ」
「ふむ…そうか」
言われてみて、そういえばヴォルフラムだけでなくツェツィーリエや自分も30年の時を経た未来像と出くわすのだと再認識する。
ツェツィーリエの方は上王に退いてからは嬉々として自由恋愛旅行に出かけていた為に連絡が遅れて、王都でやっと再会できるようだ。また、王都では普段は眞王廟に籠もっている双黒の大賢者もいるそうだから、元の時間軸への帰り方が分かるのはそれかららしい。
グウェンダルはヴォルテール領で近い親戚が急逝したことで、葬儀だ遺産分与だとごたついていた為、なかなか手が空かなかったそうだ。
「私は30年で随分と変わったのだろうか?」
「いいえ、兄上はそれほどお変わりありませんよ」
自然に《兄上》と呼ばれて、ついつい口元を覆ってしまう。はにかんだのが伝わったのか、コンラートまで淡く白皙の頬を染めて照れてしまった。
そんな様子に、ユーリはコンラートとじゃれ合うようにしてくすくす笑う。
「ふふ…眞魔国で再会した頃の二人みたい」
「あの頃も、なんて呼んで良いのか分からなくて気恥ずかしかったな」
「そうそう、すっごい微笑ましかった!」
楽しそうに笑うユーリは開けっぴろげな表情で口元も覆わないから、白く並びの良い歯列が眩しいほどよく見える。その様はとても健康的で可愛らしかったが、《神秘の姫君》としては如何にも生気に満ちすぎているようにも見える。
『だが、男装して船に乗り込んで来るくらいだから、こう見えて結構なお転婆なのかも知れないな』
だとすれば、さぞかし元気な子どもが生まれる事だろう。コンラートは溢れかえるほどユーリに愛情を感じているから、次から次へと仕込まれて、腹の落ち着く間もないのではないだろうか?
グウェンダルの視線を感じたヴォルフラムが慌てたように肘で突っつくと、漸くユーリは楚々と口元を覆うが、今更そのような所作をしても手遅れだし、別段飾り立てる意味など無い。
「ああ、どうかお気になさらず、有りの儘に振る舞って頂きたい。我が弟が愛した姫君…いや女王陛下が、どのような方なのかよく知っておきたいですからな。少々お転婆でも全く問題など…」
ぶふ…っ
何故か、いきなりコンラートが口に含んでいた酒を吹き出した。冷然とした昔の姿からは想像も付かないような失敗だ。余程気が緩んでいるのだろうか?
「なんだ、みっともないぞ?コンラート。それでは百年の恋も醒めるというものだ」
兄らしく窘めると、ユーリが両手を組んで上目遣いに(激しく可愛く)間に入ってくる。
「いいえ、グウェン。どんなコンラッドでも大事な人ですもの。決して愛が醒めるなんて事はありませんわ」
何故だろう。《未来》の方のヴォルフラムが、肩を震わせながら明後日の方向をむいているのは。それに、心なしかユーリも笑いを噛み殺すような顔をしている。
「嬉しいよ、ユーリ…」
肩を震わせながらコンラートがユーリの手を握り、間近に寄ってくると、はにかんでるんだか何かを我慢しているんだかよく分からない風情で、ユーリがふるふると胸を揺らす。
「まあコンラート…いけませんわ、こんな場所で近寄りすぎては、はしたな…」
ぶふふ…っ!
どうしようもない笑いの波動に突き動かされるように、ユーリは勢い良く吹き出すと、コンラートの胸に抱かれるようにして大笑いを始めてしまった。
「だ…駄目…っ…やっぱ、笑っちゃうっ!」
「こらっ!ユーリっ!!あれほど約束したのにっ!兄上の夢を壊すなーっ!!」
「ご、ごめ…ヴォルフ、悪かった!なんか後でお詫びするから〜っ!」
おやおや、やはりお淑やかに見せていたのはヴォルフラムの入れ知恵だったのか。
「だから、私を気にして取り繕う必要など無いのですよ?」
「えへへ、じゃあ。いつも通りにしても良い?」
ぺろりと舌を出すユーリに、過去のヴォルフラムはカンカンだ。ユーリの襟首を掴んでがくがくと揺らす。
「こらっ!兄上が優しいのを良い事に、甘ったれるんじゃないっ!!」
「だって、グウェンは良いって言ってるじゃん〜」
「こら、止めないかヴォルフラム!姫に何をするのだっ!無礼ではないかっ!!」
事情の飲み込めていないグウェンダルはぎょっとして弟を叱りとばすが、弟の方は全く悪びれていない上に、ユーリはますます《ぷくくくっ!》と大笑いしてしまう。
そこに、遅れてこの時代のグウェンダルがやって来た。
「何だ…騒がしい!」
「は…これは、兄上…っ!」
重厚な男が二人揃った事で、流石に過去のヴォルフラムが背筋を伸ばしたものだから、何とか爆笑連鎖は終止符を打たれたかに見えた。
「申し訳ありません。実は…我が兄、その…過去の方の兄上の夢がですね!?」
「夢?ふむ…旅の間に色々と想像していたのかな?」
頬を上気させて慌てる幼い末弟が可愛らしいのか、未来のグウェンダルはくすりと笑いながら、暴れたせいで少し乱れた頭髪を手櫛で梳いてやる。
「はい、実は…双黒の君とは、てっきり清楚な姫君だとばかり思っておられたのです」
「ああ…それでは、さぞかし落胆したことだろうな」
「酷いな、グウェン」
ぷくっと頬を膨らませてユーリが拗ねると、今度は過去のグウェンダルの方が気を使ってしまう。
「いやいや、ですから気にされる事はないのですよ。随分とお転婆…いや、お元気であられるということは、元気な子どもをたくさん産める証拠でもありますからな」
過去のグウェンダルが励ますと、間髪入れぬタイミングで、未来のグウェンダルが大真面目に突っ込んだ。
「なに…っ!ユーリ、どの孔から産むというのだっ!?」
ぶほぉう…っ!!
もはや、笑いの波動を止める事は出来なかった。
過去のヴォルフラムまでもが一緒になって大爆笑していたからだ…。
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