「夢幻軌道」
第6話








 走り去ってしまったヴォルフラムの事は心配だったが、ヨザックが《部下に後を追わせました》と囁きかけると、グウェンダルは懸念を解いて頷いた。

「兄上、宜しければお茶でも飲みながら、ゆっくりとお話ししませんか?」
「そうだな」

 誘われるまま部屋に入ると、馴染みのある眞魔国製の調度品や、茶器、菓子、そしてそれらが綯い交ぜとなって燻らせる大気にほっと息をつく。大陸では行く先々で細かに気を使って貰ったのだが、それでも生国の雰囲気に包まれるとまた違う。まだ船上のこととはいえど、懐かしさが込みあげてきた。

『ここはやはり、私達の世界に通じる未来なのか』

 ヴォルフラムにグウェンダル達がやってきたいきさつを話すと、その裏付けとも思える事柄を語ってくれた。

「そういえば…丁度、僕たちの身にとても不思議な現象が起きたときと一致していますね」

 ヴォルフラムの言う《不思議な現象》とはまさに、グウェンダル達が丁度同じ時期に、《神隠し》としか思えないような現象に巻き込まれたのだという。戦勝の宴に出かけようとしていた三人は、突如として発生した大地震によって馬車ごと割裂の間に飲み込まれたものと思われていた。
 ところが、幾ら探しても見つかったのは馬車を牽いていた馬の死骸だけで、三人が見つからないどころか、馬車の欠片さえ見つける事が出来なかった。辛うじて崖の灌木に引っかかって生き延びた御者にも、何が起こったのか分からないという。

 魔王と大貴族二人が突如として失踪するという事態に、血盟城は一時騒然とした。特に大戦で無能ぶりを晒したシュトッフェルにとっては、ツェツィーリエを喪う事は考えられなかったから、血眼になって探す一方、彼らが失踪した事は極秘事項として扱われた。

 そして数日の後、またしても突拍子もなく三人は帰ってきた。それも、失踪した割裂とは大きく離れた山岳地帯で、馬車に乗ったまま発見されたのだ。更には、その馬車は失踪した当時乗っていた馬車とは違っており、三人が身につけている衣装は立派なものではあったが、やはりこれも失踪した当時とは違っていた。

「でも、僕達は失踪していた間に何があったのか、全く覚えてはいないのです」
「そう…なのか?」
「ええ、眞王廟にも問い合わせてみたのですが、眞王陛下がお力をふるわれたのかどうかも分からずじまいでしたから、結局、全ては有耶無耶の内に処理されたのです」

 だとすれば、グウェンダル達も何かの拍子に帰れるのは間違いなさそうだが、引き替えに記憶を無くしてしまうらしい。それはとてつもなく残念に感じられて、自然と眉根が寄ってしまった。

「このように大規模な魔力が展開されるなどついぞ聞いた事はない。眞王陛下のお力としか思えぬのだが…。懇請して、何とか記憶を止めたまま戻れぬものだろうか?」
「そうできたら…どんなにか良い事でしょう?」

 ヴォルフラムも重々しく頷いた。

「僕の方は相変わらず…という表現も可笑しいですが、やはり血統を頑なに重んじたままかもしれませんが、兄上は随分とこちらの世界に感化されておられるようですから、記憶を止めたまま過去に戻られれば、きっとコンラートの力になる事もできましょうに!」
「うむ…」

 そう考えると、余計にコンラートに会いたくなった。
 コンラートも過去の家族に会いたがっていたそうで、緊急の用務を済ませたら眞魔国の港まで迎えに来ると約束しているという。

 焦れる気持ちもあるが、このまま無事に船旅が進めば幾らもしないうちにコンラートに会えるのだから、大人しく待つべきだろう。それに、凛々しい青年に成長しつつある末弟にも興味があった。

 実際、お茶を飲みながら会話をしていくと、ヴォルフラムの成長が見てくれだけのものではないのだとすぐに気付いた。政治・経済・軍事を総合的に見渡す識見や創造性は、目覚ましい発達を遂げていた。
 いや、その辺りは元々、30年の月日で自ずと身に付くだけの才能はあった。やはり劇的な変化は、混血や人間に対しても冷静な判断が出来るようになったことだろう。

 聞いていくと、変化のきっかけは心理的に追い詰められたヴォルフラムが魔力を暴走させていた折、双黒の君と共にコンラートが救いだしてくれた事だという。意識がないうちに隔離塔に閉じこめられていた事もあって、ヴァルトラーナとは一定の距離を置くようになったのも功を奏したのだろう。

「僕はあの日、目の前が晴れたように感じました。ですが…実のところ、それ以前から一概に混血を責める事が無意味である事に気付いてはいたのです。先程逃げ出してしまった方の僕も又、心のどこかでは既に理解はしているのです。ただ、無駄な自尊心に振り回されて、受け入れる事を拒否しているのですよ」
「よくぞ、受け止められるようになったものだな」

 己の過ちを認める事は、矜持の強すぎるヴォルフラムにとっては何よりも辛いことであったろうが、認めた瞬間から、それまで成長を阻んでいた因子が払拭されたのだろう。

『コンラート。お前と、これから妻になる姫君がヴォルフラムを救ってくれたのだな』

 どれほど隔意を持たれていても、一途に弟を想い続けたことが、時間は掛かっても頑なな心を解したのだ。



*  *  * 



 
 一方、まだ何だかんだ色々と受けられられていない方のヴォルフラムは、ぽかんと口を開けて惚けていた。

「な…な、何故そんなカツラなど…っ!?」
「いや〜今回は正式な手続きは取らずに、ちょこっと内緒で船に乗せて貰ったんだ。王太子だった時にはそうでもなかったんだけど、魔王になっちゃうと、移動するときにいちいち面倒な手続きがあるんだもん」
「ま、魔王ともあろうものが何という軽薄な行動を採るのだ!」

 《騙された》という意識も手伝って、ヴォルフラムの声は叱責するような強い語調になってしまう。けれど、ユーリの方にも言い分はありそうだ。

「別に俺が楽だからってだけでこういうコトしてる訳じゃないって。今回はツェリ様をお迎えするから現役魔王が二人揃い踏みっていう、不思議な現象が起こっちゃうだろ?そうすると、艦船内の特一等船室にどっちを泊めるかだけでもややこしいんだ。まだ退位してないツェリ様を格下の部屋に泊めるなんて考えられないけど、正式にやるとどうしても俺が最上級の部屋に泊まらなくちゃいけなんいだってさ。それくらいなら、俺が《魔王じゃないよ》って顔してた方が丸く収まるだろ?」
「しかし、この世界にとってはお前こそが魔王なのだろう?万が一何かあったら…」
「これは形式上の事だから、重要な職務の人は大体俺が魔王だって事は分かってるって。それに、警備にもちゃんと気を使ってるよ?お庭番には必ずついてきて貰ってるし」

 なるほど、ヴォルフラムには気配を微塵も感じさせなかったお庭番は、確かになかなかの手練れのようだ。ヨザックの信任を受けるだけの事はあるだろう。しかし…だからといって、こんなにも容儀が軽い魔王というのはヴォルフラムの価値観からは受け入れ難い。

「だとしても、軽率に過ぎる!それに、困ったな…何という事だ!こんながさつな少年だなんて…。兄上に何と説明すれば良いのだ…!」
「グウェンがどうしたって?」
「兄上はお前がしとやかな姫だと思いこんでいるのだ!世界から崇拝を受ける神秘の姫がコンラートと結ばれると聞いて、夢を膨らませているんだぞ?」
「えー?俺がコンラッドの相手だって分かったら、ガッカリしちゃうってこと?」
「そうだ!間違いない」

 ヴォルフラムやグウェンダルの恋人だと想定していたときには《なんて可愛らしい》と評価していたくせに、コンラートの恋人なのだと知った途端に点数が辛くなるのはどういうわけなのか。自分でもよく分からないが、コンラートには非の打ち所のない女性と結ばれて欲しいという願望があるらしい。

「そうかなー。うーん…でも、今更性別は変えられないぜ?《姫でーす》なんて言ってて、バレたら余計にがっかりしない?」
「分かっているさ!だが、もうちょっとどうにかならないか?兄上が幸せを噛みしめられるくらい、淑やかな装いはできないのか!」
「女装じゃなくても良いのなら、どうにか出来ない事はないけど…。うーん…困ったな。眞魔国に行ってから顔を合わせるとなると、鯱張っちゃって本音が言えないかと思って、無理言って船に乗せて貰ったのにな」
「しとやかに本音を言え」
「無茶言うなよっ!」

 アヒルみたいに唇を尖らせて言う様があんまり可愛くて、ヴォルフラムはつい吹き出してしまう。不思議だ…こんなに《がさつ》と感じる子なんて、今まで会話をする価値もないと思っていたのに、どうしてこの子といると楽しいのだろうか?

『コンラートもそうなのだろうか?』

 コンラートの好みは、多少がさつではあるが芯が強くて気っ風が良くて、姉御肌の女性が好みではあるようだった。ただ、体型については好みが煩くて、わりと胸や尻が発達した成熟型を好んだはずだ。そんな彼がどうして一目見ただけで、グウェンダルの命令に背かざるを得ないほどこの子を愛してしまったのだろう?

 不思議に思いながらユーリを観察していると、くるりと振り返った彼と目が合ってぎょっとしてしまう。

「なあ、俺なりにしとやかにするからさ、代わりに約束してくれない?」
「条件による」
「そういうトコ、グウェンに似てるな〜。慎重派め!」
「当然だ。条件も知らずに乗れるものか」
「ご尤も。じゃあ言うけど、港についてコンラッドに会ったとき、《素直》な応対をしてくれよ?」
「どういう意味だ?」
「照れ隠しで、心にも無いこと言うなってこと」
「…僕は、何時だって正直だ!」
「ヴォルフは確かに正直さ。でも、それは自分の自尊心に正直なだけだ。本当はコンラッドのこと好きなのに、今までにやった事とかが引っかかって、居丈だかな態度を取っちゃうんだろう?」
「知った風な口を利くな…っ!」

 怒りにまかせて踵を返そうとするが、その背中にからかうようなユーリの声が飛ぶ。

「どうしよっかな〜。大事なお兄ちゃんの前で、《双黒の美姫》とやらの幻想を引き裂いちゃおっかな〜。思いっ切り下品な格好でうろついたり、馴れ馴れしく喋ったりとかね」
「く…っ…この、卑怯者っ!」
「何とでも言え。コンラッドが傷つかないようにする為なら、俺は何だってするぜ?」

 振り返ったユーリは思いのほか真剣な顔をして、ヴォルフラムをじいっと見つめていた。

「なあ…頼むよ。取って付けたみたいに大層な事は言わなくて良い。ただ、コンラッドが示す親切や愛情に、感じたまま《ありがとう》《嬉しい》って言って欲しいんだ。ただ…それだけで良いんだ」
「……」

 もしや、ユーリはこの事をヴォルフラムに伝える為だけに、船に乗り込んできたのだろうか?

「頼むよ、ヴォルフ」
「分かった…これは、契約だ」
「うん。そうそう、これは騎士の約束だぜ?絶対に守れよ?」
「一度取り交わした約定を破るなど、騎士のすることではないっ!改めて聞くまでもないわっ!!」

 填められたような気はするが、居心地は悪くない。それは、無理矢理ユーリに強制されていると言うよりも、《約束》とすることで、返ってヴォルフラムのプレッシャーを軽くさせていると思ったからだ。

 これで、ヴォルフラムは自分の自尊心と秤に掛けることなく、《思ったまま》コンラートに優しくして良いのだ。

「じゃあ、改めてお茶でも飲もうよ」
「ああ」

 心なしか足取りも軽く、二人の少年は部屋に入った。



*  *  * 




『珍しい事もあったものだ』

 ここ数日、ヴォルフラムは思った以上に安定した心理状態でいる。しかも、傍には船で知り合ったという少年がいつもいて、楽しそうにお喋りをしているのだ。時には喧嘩のような語調になることもあるのに、大きな屈託を残す事もなく、次の日になるとまだ仲直りをして喋ったり遊んだりしている。

 船に弱いヴォルフラムは、船酔いの薬を飲んでいても波が荒れるとケロケロと吐いてしまう事もあったが、そのみっともない姿も少年には晒せるようだった。少年の方も、《しょうがないな》と笑いながら面倒を見てくれる。

 それは、ある意味ではごくごく平凡な少年達の姿であった。そうやって友達との距離感を掴んでいく事で、人も魔族も自ずと社会性を培っていくものだ。
 しかし、ヴォルフラムは生活の殆どをビーレフェルト領で過ごし、常に配下の貴族連中に傅かれていた。頭上にあるのは郷里では当主ヴァルトラーナ、王都ではツェツィーリエがいるが、いずれも近しい親族であるのだからどうしたって甘えが出る。その一方で、彼は《全く同格》という立場の友人を一人も持っていなかった。

 グウェンダルとてそれに近い状況ではあったのだが、彼には何しろ、《紅い悪魔》と恐れられるフォンカーベルニコフ卿アニシナがいた。苛烈な性格を持つ彼女には色々と問題はあったが、グウェンダルの事を客観視して、《それはおかしい》とビシビシ突きつけてくれたものだから、気が付けば周囲から見たときの自分の像というものを、幼い頃から自覚する事が出来た。

『ヴォルフラムにとって初めて出来た同格の友人が、平民だとはな…』

 驚きはしたが、不快感は全くなかった。グウェンダルも会話に加わりたいと思っていたくらいだが、近寄っていくとヴォルフラムがさり気なさを装いつつも少年を遠ざけようとするので、遠慮して距離を置くようにしていた。



*  *  * 




「ヴォルフ、私はあの子とお前が親しくしていることには全く反対していないのだぞ?」
「うふふ、そうねぇ。とっても可愛い子ですもの。私達にも紹介してくれない?」

 食事の席でグウェンダルとツェツィーリエが話を向けると、ヴォルフラムは軽く視線を彷徨わせた。

「そうですか。ですが、母上や兄上のように立派な方が傍にいると、あいつが緊張するというものですから…」

 ヴォルフラムにしては歯切れの悪い口調でモゴモゴと言い訳するので、もしかすると、《初めての友達を独占したいのかな?》とも思う。
 目元は前髪が長くてよく分からないが、よく見ると鼻筋やふっくりとした小さな唇、華奢な顎のラインはとても愛らしい子だったから、友情というよりは愛情に近いものさえ感じているのかも知れない。

 それはそれで、ちょっと心配ではある。

「ヴォルフラム…仲良くする事に反対はしないと言ったが、私達は眞王陛下にお願いして、元の時間軸に戻るのだぞ?その事は弁えておくようにな」

 少年の年頃はヴォルフラムと同じくらいに見えたから、過去に戻っても存在はしている筈なのだが、その時も必ず仲良くなれるとは限らない。今は違っても、30年前には別の恋人なり仲良しがいるかも知れないのだ。《未来で仲良くなったではないか!》等と不実を誹ったりしたら、それこそ《イタい人》になってしまうだろう。

「分かっています!」

 ぷんっとそっぽを向いたヴォルフラムは食事半ばで席を立つと、止める声も聞かずに部屋を出て行ってしまった。多少は変わってきたようでも、やはりこういうところには成長が見られないようだ。
 


*  *  * 




『全く、兄上ときたら僕の気も知らないで!』

 ぷんぷんと大股に歩いていくと、未来のヴォルフラムとユーリが会話をしていた。よく聞こえないが、仲良さそうにくすくすと笑い合っていて、時折《コンラート》とか、《コンラッド》という単語が混じる。未来の自分の傍には極力寄りたくはないのだが、ユーリが離れる素振りを見せないものだから、咳払いして近寄っていった。

「ユーリ。ああ…なんだ、ちょっと船縁を散歩でもしないか」
「うん、じゃあ三人で歩こうか?」
「…」

 自分から誘っておいて、《未来の自分といるのは嫌だ》とも言えずに、不承不承歩き始める。

 ザザ…
 ザザン…

「あと何日くらいで眞魔国に着くのだ?」

 会話に困った《過去》が誰にともなく問いかけると、《未来》の方がある方角を指し示しながら教えてくれた。

「3日ということろだろう。ほら、北西方向にうっすらと小島群が見えるだろう?あれは眞魔国領アンケプト諸島だ」
「ふん…」

 地図上の知識としては《過去》も知っていたが、実際の航行をしながらそれを察知する事は出来なかった。眞魔国から殆ど出た事のない《過去》にとって、見るもの全てが新鮮であると同時に、何一つ自分は知っていなかったのだということも認識していた。

「コンラッドに早く会いたいな…」

 ユーリにも眞魔国の港がある方向は分かるのか、水平線を見つめて唇の前に両手を合わせた。夢見るようなその容貌は奇跡のように愛らしく、知らないうちに《過去》も《未来》もうっとりと見惚れていた。

 その事に気付くと、《過去》は《未来》に食ってかかる。

「お前、もしやコンラートの思い人に懸想しているわけでは無かろうな?」
「美しいものは万民が愛でて良いものだ。独占する権利はコンラートにあっても…な」

 語尾に一拍持たせる喋り方がコンラートを真似ているように見えて、《過去》は苛ついたように唸るような声を上げた。

「詭弁だ!」
「そんな事はないさ。現に、僕はコンラートにも同じように見惚れてしまうのだから」
「…っ!」

 正直すぎる物言いに 、《過去》はやはり《信じられない》と思ってしまう。この気障ったらしい男が自分の未来で、コンラートやその恋人に見惚れているなんて考えたく無かったのだ。

「は…恥を知れっ!男が男に見惚れるなど…!それに、ユーリはともかくとして、コンラートは…混血ではないかっ!」
「俺だって混血だよ?」
「…っ!?」

 思いがけないユーリの台詞と、向けられた眼差しの哀しみに、《過去》は息を呑み、《未来》は怒りを浮かべる。

「しかし、お前は魔力が…」
「あるけど、でも、混血だよ。母親は完全な人間だし、父親だって完全な魔族って訳じゃない。爺ちゃんも人間と結婚してるし、その前の方の代だってそうだもん。成分比で言えば、殆ど人間みたいなもんだよ。ヴォルフは…やっぱり、人間は嫌?」

 ユーリの手が、そっと《過去》の頬に寄せられる。ここしばらく仲良くしている間に、平気になっていた接触だった。

 だが…《過去》は殆ど本能の赴くまま、反射的にユーリの手を弾いていた。ヴァルトラーナに叩き込まれた人間への嫌悪感が、生理的な情動を刺激したのだ。

「貴様…っ!」

 《未来》が抜刀しようとするのを、ユーリが右腕を翳して止める。

「止めて、ヴォルフ。あんた自身の過去だ」
「分かっている…だからこそ、許せない…っ!」

 《過去》も釣られて抜刀しそうになったが、《未来》が苦渋を呑むような表情で手を引くと、ほっとしたように柄から手を離した。正直言って、隙の無い《未来》の構えを見ただけで、勝負にならない事は分かっていたのだ。

「約束、守れそうにないね…ヴォルフ」
「それ…は……」
「コンラッドには、会わないで。今みたいな事を言うのなら、顔を合わせたりしないでくれよ…」
「……っ…」

 喉が引きつってちゃんとした声にならなかった。
 そうする間にも、しょんぼりとしたユーリは背中を向けてゆっくりと離れていってしまう。

 このまま行かせてしまってはいけない。それは分かる。
 だが、どうすれば良い?
 何をすればユーリは戻ってきてくれる?

 《過去》がコンラートを傷つけたりしないと、どうやったら信じて貰える?
 そもそも、絶対に傷つけたりないと、自分自身確信する事が出来る?

 困惑しきって固まってしまった《過去》の肩を、《未来》が強く握り締めた。

「謝れ」
「…っ!」
「ユーリに、謝るんだ」

 どうしてだか、《でも》とか《しかし》という否定の言葉は出てこなかった。それしか方法はないと、本当は《過去》にも分かっていたからだろうか?

 気が付いたら駆け出して、言葉には出来ないままユーリの袖を掴んでいた。

「…なに?」

 振り返った瞳には、うっすらと涙が滲んでいる。ああ…それはまるで、あの日傷つけたコンラートの瞳そのものではないか。数十年時を経て、《過去》は更なる過去の罪と向き合う事になった。

「すまない…」

 ぽつりと一言口にしたら、ふぅ…っと肩の力が抜けるのを感じた。
 あまりにも長い間抱え込んでいた重責が、その一言で昇華されていくようだ。

「すまなかった」
「うん」
「赦して…くれるのか?」
「謝ってくれた人を赦さないわけないだろ?それも、大事な人の弟なら尚更だよ」

 にっこりと微笑むユーリは、朝露を帯びた華の精霊のように、鮮やかな美しさで《過去》の胸をときめかせた。

『ユーリが、コンラートの恋人で良かった…』

 疼くような痛みを覚えつつも、今は素直にそう感じる。
 染み入るような魅力で、ユーリはきっとコンラートの傷を癒してきたのだろう。

『良かった…』

 瞼を伏せた《過去》はゆっくりと微笑みを浮かべる。
 漸く受け止める事の出来た思いを噛みしめながら。
 

  


→次へ