「夢幻軌道」
第5話
「兄上、母上、そして僕…《お久しぶり》と申し上げるべきなのでしょうか?」
くすりと笑うヴォルフラムに対して、一方のヴォルフラムは陸に上がった魚のように口をパクパクいわせているものだから、実に対照的な印象だった。
『こういう顔を、するようになったのか…!』
グウェンダルにとっても、《未来のヴォルフラム》は衝撃的だった。《こうなってくれれば良いのだが》と密かに願っていた落ち着きを漂わせ、良い意味でゆとりのある態度は軍人として、大貴族の一員として、十二分な実力を伺わせる。
「これが僕だと?何か呪術で作り出しているのではないか!?」
「ふっ…認めたくないものだな。若さゆえの過ちというものは…」
《過去》が顔を真っ赤にして激高する様子を《未来》は眉根を顰めながら見守っている。とはいえ、《未来》の口元には余裕の笑みがあり、《過去》を乗り越えてきたからこその理解があった。貴公子然とした仕草で艶やかな金髪を掻き上げると、澄んだ碧眼を毅然として《過去》に向けた。
「だが、僕は過去を否定はすまい。僕が僕として生きてきた過程に於いて、必ず通らねばならぬ道ではあったのだからな」
自分の中で何かを吹っ切るように微笑むと、《未来》は優雅な所作で手を差し出した。握手をしようと誘いかけているのだ。
「ようこそ、過去の僕!眞魔国への船旅は長い。その間に、ゆっくりと話をしようか?」
「だ、誰が貴様などと…っ!」
差し出された手を弾き、《過去》は駆け出した。それでも港町に戻るのではなく、船の中に駆け込んでいっただけマシだろうか。捜索でもされたら戻ってくるのが居たたまれないだろうと察するくらいの判断力は、辛うじて残っていたらしい。
「やれやれ…お恥ずかしいところをお見せして、申し訳ありません」
「お前は…本当に、ヴォルフラムなのか?」
「おや、兄上までお疑いですか?それでは、僕も少しはあの状態から脱却できたと信じて良いのですかね?」
「ああ…随分と、立派な男ぶりになった」
「ありがとうございます」
にこりと破顔したヴォルフラムは、流石に年相応の少年らしい貌で、実に嬉しそうに笑う。兄に褒められるのは相変わらず大好きなようだ。
「ともかく、あいつも船に乗ってさえいれば大丈夫です。母上と兄上はどうぞお部屋でゆっくりなさって下さい」
「そうさせて貰うわ。昨日、フリンとのお喋りが過ぎて少し眠いもの」
あふ…と欠伸をしたツェツィーリエの目元は、少し紅かった。夜更かしによる充血というよりは、もしかして泣いたのではないかという雰囲気があったが、彼女は何も言わなかったし、フリンも言わなかった。
ただ、グウェンダルに察しは付いている。
『ヴォルフラムの教育について、フリンから咎めを受けたのだろうな』
それこそヴォルフラムが知れば激怒しそうだが、寧ろグウェンダルは感謝している。幼い頃から大貴族の娘として蝶よ花よで育てられ、若くして魔王陛下となった美貌の女性を誰も叱ってはくれなかった。
元来は素直な気質を持つ母だけに、叱られなかった事は《不幸》でもあると感じていた。誰も彼女に、《こうあるべき》という正しい姿を示す事が出来なかったのだから。
先程ヴォルフラムに対して示そうとした叱責も、以前とは違っていた…ような、気がする。
『希望的観測でしかないのかも知れないが…』
それでも、この世界に来てからグウェンダル達の中で何かが変わろうとしている。そんな気がしてならなかった。
* * *
『くそ…くそっ!』
ヴォルフラムは大型艦船の甲板を駆け抜けていくと、荷物が集積された領域に入り込んでいった。宿泊領域に戻るのが難儀そうなくらいの場所だが、今は人と顔を合わせたくなかった。
『あれが僕だと?幻影に決まっている…!』
ヴォルフラムがちょっとやそっとで持論を変えたりするものか。あのオードイルだって、ヴォルフラムが何故気持ちを変えたのか説明できていなかったではないか。
ただ、そう考えると問題なのは、幻影を見せている手法である。
『法力なのか?いや、あれほど現実味を持たせた幻影を作り出すほどの法力が展開されていれば、僕や兄上、母上ほどの魔力持ちが気付かぬはずはない。そうだとしたら、魔力…?』
しかし、魔力であっても用いていればヴォルフラム達には大体分かる。それも、本人の前に本人を提示して違和感を感じさせないほどの魔力など聞いた事がない。それこそ眞王陛下か、絶大な魔力を持つという双黒でもなければ…。
『双黒…』
オードイルの言っていた話は、とこまでが本当でどこからが嘘なのだろう?もしかして、《双黒の君》と呼ばれるユーリか、《双黒の大賢者》と呼ばれる者は本当に存在しているのかも知れない。
考えながら走っていると、足下に飛び出してきた小さな生き物を蹴りそうになった。
「…っ!」
大きな耳とつぶらな瞳を持つ小動物に、ヴォルフラムは目を見開いた。これは…図鑑でしか見た事のない生物、《キトラ》ではないだろうか?人に馴れず、樹海の中でのみ生活する筈だが、一体どうして艦船に乗っているのだろう?
答えはすぐに分かった。肩に少し大きめのキトラを乗せた少年が飛び出してきたからだ。きっと、ヴォルフラムが蹴りかけたのはその仔どもなのだろう。
「キキ!そっちは入り組んでるから行っちゃ駄目だぞ?」
「…!」
一瞬、声が出なかった。
少年の瑞々しい美しさに心打たれ、全ての感覚がその容貌を愛でる事に夢中になってしまったからだ。
まろやかな頬は見た事もないほど肌理が細かく、奥深くから淡く発光しているのではないかと思うほど、印象深い肌色をしている。大粒の瞳は榛色なのだが、光の加減によってはもっと深い色合いにも見える。しゃりらりとした質感も瞳と同色で、眩しい陽光を受けて元気よく潮風に揺れた。
年頃はヴォルフラムより少し年長と言うところだろうか。目元にはあどけなさを多少残しつつも、頬のラインは仄かに凛々しさも帯びていて、何とも魅力的な風情が感じられる。
それに、何と言っても彼を包む要素の華やかな事と言ったら…っ!
普通はどれほど魔力が強かったとしても、一種類の要素だけが懐くようにして周囲を取り巻いているものだが、彼は水を主とはしながらも、火・風・土といった要素までが慕わしげにふわりふわりと取り巻いているのだ。
ただ、これほどの美貌にもかかわらず身なりには構わないたちなのか、清潔だが簡素極まる衣服に身を包んでおり、貴賓という印象ではない。
『美しいが…身分は低いのか?』
軽くガッカリすると、少し気分が落ち着いてきた。相手が目下の者だと思ったら、余裕が出てきたのである。
しかしどうしたものか、少年の方は一見して貴族と分かるヴォルフラムを前にしても恐れ入りも畏まりもしなかった。
小さなキトラを掌に載せると、ぱぁっと瞳を輝かせて微笑みかけてくる。それがまだあまりにも綺麗だったものだから、ヴォルフラムは何を言われたのか一瞬理解できなかったくらいだ。
「ヴォルフ、若〜い!わー、やっぱ魔族って年取りにくいとは言うけど、30年も間があると印象変わるねぇ!」
「…っ!?」
「やっぱ、貴公子!って感じ」
仔キトラをポケットに収めた少年にぺたぺたと触られると、やっとのことでヴォルフラムは反応を示す事が出来た。
「無礼者っ!下々の分際で、僕に触れるな…っ!」
チィィ……っ!!
荒っぽく少年の手を弾けば、親子のキトラが揃って牙を剥く。ちいさいが、鋭い牙は飛びかかってくればそれなりの損傷は出そうだ。
『どうする?斬るか…』
魔力を船上で使うのは御法度だが、剣を抜く事は躊躇われた。キトラは自然界の遣いとして保護すべき生物に指定されているし、それに…見開かれた少年の瞳が、ヴォルフラムの記憶を鋭い棘で刺し貫いた。
《混血め!二度と僕を弟などと呼ぶな…!想うことも赦さないっ!》…そう告げたのは、何十年前のことだったろうか?なるべく記憶を呼び覚まさないようにしていたけれど、あの日のことが消えてしまうはずもなかった。
凍てついた彫像のように立ち竦んでいたコンラートは、一歩も動かずにその場にいた。ヴォルフラムに取り縋ってきて、謝ったり宥めたりする事はなかった。
それほどに抉った傷が大きかったのだという事は、後になってから漸く察した。
けれど、コンラートを想起させる瞳を少年が見せたのは、一瞬のことだった。すぐに苦笑を浮かべると、少し距離を置いてその辺の荷物に腰を掛ける。
「馴れ馴れしくしたのは謝るよ。ヴォルフにとっては、俺は初対面だもんね?」
「あ…ああ……」
柔らかな物腰で出られると、ヴォルフラムとしてもそれ以上言い立てる事は出来ない。相変わらず、少年の面差しに見惚れてしまうのを止める事も出来なかったし。
「ねえ、ちょっと座って話でもしない?」
「このような場所でか!」
「しょーがないなー、このお坊ちゃま君め!じゃあ、俺の部屋でどう?」
「お前の部屋だと?御免被るっ!」
こんな身なりをした少年が暮らしている部屋など、どうせ薄暗い下級船室に違いない。そう考えての発言だったが、ふとヴォルフラムは動作を止めた。そういえば、何故…こんな身分の少年が、《ヴォルフ》と愛称で呼ぶような立場にあるのか?それに、当然のように部屋へと招き入れるとなると、極めて深い関係にあるのではないか。
『もしや…』
トクンと胸の中で鼓動が跳ねる。
この時点で、ヴォルフラムの脳内妄想劇場は凄まじく薔薇色の展開を見せていた。テーマは《愛》。このフォンビーレフェルト卿ヴォルフラムが未来に於いて、それまでの信念を枉げるとなれば、それなりの理由があるに違いない。
おそらくそれは、《愛》によるものだ。
『将来的に、僕はこの少年と恋に落ちるのではないだろうか?』
この思いつきは、脳髄の奥がスパークするような衝撃であった。
あんなに罵倒したのにどこか親しみを込めて向けられる眼差しも、それを証明しているように見えた。そうであれば、先程傷ついて見えたのも納得できる。未来の恋人に叱責されて落ち込みはしたものの、《こいつは過去のヴォルフなのだから》と自分に言い聞かせたに違いない。
『こいつが、僕の恋人…?』
身分は低そうだがこの容貌だし、それに、一緒にいると何とも言えぬ暖かさが伝わってくる。この柔らかな存在感を愛したヴォルフラムは、身分違いの恋を受け入れていく中で、性格にゆとりを持つようになったのではないだろうか?
そう判断すると、ヴォルフラムはコホンと咳払いをして、少し語調を弾ませて尋ねてみた。
「…すまなかった。怒鳴ったりして」
「ん?良いよ」
素直に謝ったのが驚きなのか、少年は嬉しそうに破顔する。それが決め手のように思われて、ヴォルフラムは気負い込んで尋ねた。
「君は…未来の僕とは、どのような関係にあるのだろうか?」
恥じらいながら、《恋人…だよ》なんて言われたら、どんな顔をして良いか分からないなと照れていたら、痛烈な一撃が加えられた。少年ははにかむように頬を染めると、眦を紅に染めてもじもじと囁いたのだ。
「血縁関係で行くと、あと少しで親戚になるトコだよ?ええと…義理の弟になるのかな?」
「な…っ!?」
一瞬脳裏を掠めたのは、この少年がツェツィーリエの隠し子であり、もうすぐ正式に認められるという可能性であったが、それはすぐに破棄された。ツェツィーリエは母として色々と問題があるにしても、決して愛情の薄い女性ではない。彼女なりに溢れるような愛情を持っている。シマロンから流れてきた人間の剣士との間に出来た子でさえ出産と同時に認めたのだから、どのような恋の産物であれ、こんな大きさになるまで放置しているはずがない。
では…二人の兄のどちらかと結婚するのか?オードイルの話を信じるのであれば、コンラートは双黒の美姫と結婚する筈だから、グウェンダルということになるか。
『兄上はてっきり、女性の方がお好きなのだと思ったが…』
この魅力的な少年が相手だから、身分や性別の障壁を越えてでも結ばれたいと願ったのだろうか?だとすれば、やはりこの少年との恋が兄を変えたのだろうか?
『羨ましい…』
いきなり砕けた恋にしょんぼりと肩を落とすが、相手がグウェンダルでは致し方ない。
「…本当に、済まなかった。兄上の恋人となれば、僕もそれなりの敬意を払わねばならぬだろう」
「そう?」
少年は吃驚したように目を見開いていたが、ヴォルフラムが疲れたように溜息を漏らすのを見て慌てたように手を取った。
「ゴメン、長いこと馬車で旅して疲れてるんだよな?俺の部屋に来るのが嫌だったら、ヴォルフ用の部屋に連れて行くよ。ここから少し離れたところなんだけど、歩ける?」
「歩けるさ!僕だって軍人だっ!」
言っておいて、つくんと胸を突くものも感じる。一応、士官学校に通っている以上は確かに軍隊所属であるには違いないのだが、十貴族の子弟たるヴォルフラムが訓練半ばで徴兵される事などなく、戦争の間中ぬくぬくと王都で過ごしていたのだ。
戦争とは現実味を帯びない《物語》としてヴァルトラーナが語る、大局としての戦略・戦術のことだけだった。血で血を洗うような現実に僅かなりと触れたのは、死んだように横たわるコンラートの姿を見たときだけだった。
『コンラート…』
この《未来》で、本当にコンラートは見違えるほど幸せになっているのだろうか?
「…コンラートは、どうしている?」
「うん、元気にしてるよ。今回の話を聞いたときも、すっごく会いたがってたんだけど…どうしてもすぐには済ませられない用事があったから、カロリアまでは来れなかったんだ。でも、この船が港に着くときには、必ず迎えに行くって言ってたよ?ヴォルフ達が慣れない環境や価値観の中で体調を崩したりしてないか心配してたけど、大丈夫?」
「…大丈夫だ」
「良かった!」
相変わらず家族の事を細やかに気に掛けていてくれるのか。特に、ヴォルフラムの性格からして、大陸での生活が精神的に苦しい事にも気付いていてくれるのだろう。その彼が元気で過ごしているのだと聞くと、やはり気分が晴れやかになる。
ヴォルフラムが節を枉げてまで親しくしているというのは今でも釈然とはしないが、少なくとも、《君の兄は世を恨みながら、絶望の中で死んでいった》と言われるよりは遙かに素晴らしい事だと、漸く気付いた。
『…本当だったら良いのに』
あの《未来》のヴォルフラムが双黒の作り出した幻影などではなく、本当にコンラートと仲良くしている、大人びた自分だったらいいのに。
何の屈託もなく、兄を慕える時代が本当に来るのなら、節を枉げる事など本当は大したことではないのかも知れない。自然にそう思わせてくれる少年からは、やはり不思議な力を感じた。
もしかすると未来のヴォルフラムは、長男と恋に落ちたこの少年を思慕して、それまでの信念を変えていったのかも知れない。
『しかし、あの兄上が考えを変えるほど惚れ込んでいるのなら、もう少し美服で飾ってやればいいものを』
幾ら結婚前とはいえ、恋仲であるのなら贈り物として幾らでも用意立ては出来ようと思うのだが…。
いや、もしかすると凛とした雰囲気の少年だから、《正式に結ばれるまでは、資金的な援助はいらないよ》と断っているのかも知れない。
「さあ、もう少しだよ?」
「ああ」
ほわりと笑う少年の笑顔を受けて、ヴォルフラムはぎこちないながらも笑顔を浮かべる事が出来た。身分の低いだろう少年と、こんな風に親しくするようになったという未来の自分を、初めて嫌だとは感じなくなっていることに、少し驚く。
『僕は…こいつを受け入れた事で変わったのではないだろうか?』
ヴォルフラムの性格から考えて、グウェンダルから《身分違いの恋》について打ち明けられたとして、そうそう素直に認めたとは考えられない。きっと悪し様に罵倒して、暴れて、この少年にも酷い事を言ったに違いない。
それでも、この少年は受けて立ったのだろうか?
「…初めて会った頃、僕は…お前に、酷い事を言ったりしたのか?」
「そりゃあもう!俺、マジでぼろぼろ泣いちゃったぜ?」
「…」
苦笑しながら言うものの、彼には全く屈託がない。およそ昔の事を蒸し返してとやかく言うような性格ではないのだろう。
『気持ちの良い奴だ』
この上なく可愛らしい上に、なんと気さくな性格なのだろう?《自分とは真逆だな》と思って、ちょっぴり忸怩たるものを感じる。
「…すまなかった」
「なんか、意外と素直だな〜ヴォルフってば。初めて会った頃のこととか考えたら、30年前にこんなに素直なのって意外」
「……それは…」
言い淀んでいたら、見覚えのある領域まで戻ってきた。貴賓の送迎用花階段は外されているが、おそらく乗り込んできたときにいた甲板だろう。では、グウェンダル達も近くにいるのだろうか?
「兄上や母上の部屋も近いのか?」
「うん、三つ並んでるよ。声掛けてみる?」
「いや…止めておこう」
おそらく、グウェンダル達は未来の自分と会話をしているはずだ。その中に突入していくのは如何に言っても心の準備が出来なかった。先にこの少年からグウェンダルとの馴れ初めなどを聞いておいて、自分の分が悪くなったらそちらに話を逸らせてしまおう。
「部屋で一緒にお茶でも飲まないか?」
「良いねえ。丁度喉乾いてきたし」
誘いかけると、すぐ控えめな態度で躾が行き届いた感じの侍女が進み出て来て、お茶の銘柄やお菓子の指定を受け付けてくれた。どうやら、ヴォルフラム付きの侍女であるらしい。
「じゃあお邪魔します…て、あ…。そうだ」
少年は後ろを振り返って何処かに手を振った。何かと思ったら、物陰から隠密と思われる風体の男が、困ったように首を振っていた。
「心配ないって!ヴォルフとお茶するだけだからっ!」
「しかし…」
「いいから、そこで待ってて?」
もしや、心配性のグウェンダルはこの少年に護衛をつけているのだろうか?この美貌だし、玉の輿に乗った事を妬む輩が身を害そうとしてもおかしくはない。そう、貴族の身分を何よりも尊ぶ輩が…。
そう考えたら、グっと胃の腑に重い物を感じた。自分がまさにそういった勢力の代表格であると自覚したからだ。
「僕は、お前に酷い事を言った事を謝ったろうか?」
「面と向かっては無いけど、でも…良いよ、もう。コンラッドと仲良くしてくれた事だけで、十分嬉しいもん」
「そうか?」
グウェンダルは口には出さないが、コンラートを護ってやれなかった事を強く悔いている。だからきっと、この少年も恋人であるグウェンダルの家族を気遣っているのだろう。
《この少年》というフレーズに、ヴォルフラムは大事な事を失念していたのに気付く。これだけ会話を重ねながら、相手の名前も聞いてないのを漸く思い出したのだ。
「そうだ、まだ名前を聞いていなかったな」
「あー?あ、そうだっけ!?何か初対面って気がしないから、ついつい…。ゴメンな、俺の名前は有利だよ。渋谷有利っていうんだ」
《ユーリ》…その名を、ヴォルフラムは聞いた事があった。
「おや、コンラートの妻となる双黒の君と、同じ名前なのか?」
何とも不思議な偶然があったものだ。では、親族が集う席では互いに《ユーリ》と呼び合うのだろうか?
「へ…?」
きょとんとしたように小首を傾げているユーリは、本日何度目になるか分からない爆弾発言を繰り出した。
「同じ名前も何も…本人だよ?」
しん…。
ユーリの言葉に、ヴォルフラムは動作が固まってしまった。
「どうかしたの?ヴォルフ」
「ま…さか……お前…双黒?」
言われて初めて気付いたように、ユーリは頭を掻いた。すると、ずるりと髪が動いてぎょっとしてしまうが、ぴかぴかの頭皮が出てくる事はなかった。
「ん、これはカツラだよ。んで、目はコンタクト」
するりと榛色の頭髪の下から艶やかな漆黒の髪が現れ、ころりと目元から色硝子が外されると、夜の帳を切り取ったような麗しい双弁が現れた。奇跡のように美しい黒の協演…まさしく、双黒だ。
榛色をしていてさえ心ときめくほどに美しかった容貌は、今や輝き渡るような美しさを呈している。
「な…っ!」
《コンラートの妻となるのは、女神のように美しい双黒の君》…グウェンダルが夢見るように呟いていた幻想が、ガラガラと崩れる音が聞こえるようだった。
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