「夢幻軌道」 
第一話







 ガタンッ…
 ゴッ…トトンッ……

 不規則な馬車の揺れが、体感と聴覚の両面から感じられる。
 平和な時代には完璧に整備されていた中央街道でも、長きに渡った戦役の間に修繕工事が回らなくなったのだろう。ガタゴトと響く不愉快な揺れは、時折身体全体が弾むほどに大きくなる。
 
 だが、疲れ切った身体はやはり眠りを求めた。

 ガタタン…
 ゴットン…

 完全に順応して意識しなくなるほどには大きく、常に感じているには小さいその振動は、乗客達をうとうととした傾眠状態に置く。

 眠りきれず、さりとて起きている事も適わず、重怠いもどかしさが頭蓋底にたゆたう。

『眠ったところで、ろくな夢を見る事は出来ぬだろうがな…』

 フォンヴォルテール卿グウェンダルは刻み込まれた眉根の皺を、一層深めながら静かに溜息を漏らす。目元にはきっと、拭いきれない疲労の色が滲んでいる事だろう。馬車の中に視線を巡らせてみると、色白な母と弟は、見た限りでは容色に衰えはない。心理的な負担が反映されない性質なのか、はたまた負担自体を感じていないのかは不分明なところである。

 華やかな宴の衣装を身に纏う、美貌の魔王フォンシュピッツヴェーグ卿ツェツィーリエ、そして、美少女とも見まごう愛らしさを持つフォンビーレフェルト卿ヴォルフラム。《眞魔国の華》と謳われるこの二人は、血縁者の中では最も相似形にある。

 普段はお喋り好きなツェツィーリエだが、今日は少々眠たそうで、先程からこくりこくりと船を漕いでいる。ヴォルフラムも眠いのか、線対称に頷いている。向かい合った様は、まるでオートマタの陶器人形のようだ。

『美しい親子だ』

 素直にそう思うし、愛おしいとも思う。だが、同時に込みあげてくる苛立ちは、ここにいないもう一人の弟の存在によるものなのだろうか?
 
 《混血である息子を、絶望的な戦地に送った母》
 《惜しみない愛を注がれていたくせに、ただ混血であると言うだけで兄を傷つけた弟》

 そう断罪する傍らで、グウェンダルは自分が最も許されざる存在であるとも見なしていた。

 《何一つ有効な手段を講じることなく、弟を見殺しにした兄》

 ああ…何という罪深い家族だろう?

『コンラート…』

 響きの良いその名を口内で転がしてみるものの、実際に大気を震わせて呼んで遣った事さえ数えるほどだろう。それほどに、グウェンダルはコンラートとの物理的関係が希薄だった。

 魔王ツェツィーリエの息子でありながら、流れ者の人間を父に持ったが為に、宮廷内で複雑極まる立場に立たされたコンラートを、積極的に迫害もしない代わりに、包み込んで護ってやる事もしなかった。

 その要因の一つは、グウェンダルの父親がコンラートの父ダンヒーリーに対して激しい憎しみを抱いていたせいで、グウェンダルの行動も束縛されていたことがあげられるが、彼が病死した今では、言い訳に使う事は出来ない。
 幼い頃に繋がりを持てなかった事が災いして、どうきっかけを作って良いのか分からないまま今日まで来てしまったのは、やはりグウェンダル自身だからだ。

 《あなたは不器用過ぎます!》…苛烈な物言いをする幼馴染みの言葉が、こんな時は説得力を持って胸を抉る。《本当にそうだ》と確信してしまうからだ。

 その果てに、自分たち家族はあのような地獄に弟を突き落とした。

『せめて…スザナ・ジュリアが生きていてくれたら…!』

 痛いほど奥歯を噛みしめると、舌の横に犬歯の存在を感じる。もしも願いが叶うなら、スザナ・ジュリアの部隊を死地に立たせる要因となった、グリーセラ卿ゲーゲンヒューバーの喉頸を噛み裂いてやりたい。彼が独断専行に奔らなければ、ジュリアが死ぬ事は無かったろう。

 ウェラー卿コンラートを…あの、あまりにも幸薄い弟を、孤独の中に彷徨わせる事もなかったろう。

『コンラート…。お前が絶望的な知らせを聞いた時、傍で支えてくれる者はいるのだろうか?』

 シマロンとの血で血を洗うような大戦の最終局面に於いて、コンラート率いるルッテンベルク師団は、激戦地アルノルドで奇跡とも言える勝利をあげた。しかし、その代償はあまりにも大きかった。ろくな装備も無い新兵の集まりは、コンラートの優れた指揮能力とカリスマ性によって牽引されてはきたものの、流石にアルノルドを生き抜いた者はごく僅かでしかなかった。殆どの者が命の限界まで戦って、身を砕くようにして死んでいった。

 指揮官でありながら常に前線を斬り開いてきたコンラートもまた、死線を彷徨うほどの重傷を負っていた。身体中、傷跡が見られない場所などどこにもないと言う有様で、特に、腹部を裂かれた傷からは内臓が溢れ出し、腹膜炎を発症して地獄の苦しみを味わっていた。もしもあの傷口から破傷風菌でも侵入していれば、それこそ命は無かったろう。

 戦地に駆けつけたグウェンダルは、壊れかけた人形のようなコンラートに息を呑んだ。事前に教えられていなければ、死んでいるだと思ったに違いない。青ざめた頬には幾つもの内出血が浮かび、汚れた血がこびりついたままだった。グウェンダルは個人資産を割いて医療品を送ってはいたのだが、絶対的に衛生兵が不足していたのだ。特に力在る湖畔族の民は後方の十貴族へと優先的に配当され、最も危険な前線に送られてくるのは経験の薄い新兵だけだった。

 グウェンダルはせめて、コンラートが目覚めたとき傍に居てやるべきではないかと思った。何一つしてやれないのは分かっていたが、何か一言でいいから、暖かい言葉を掛けてやりたかった。

 けれど、グウェンダルが野戦病院に腰を落ち着けていられたのは、僅か1日だけだった。すぐに白鳩便でシュトッフェルから呼び出しを受け、シマロンとの終戦交渉を手伝うよう命じられたのだ。無能極まりなく、下劣とさえ感じているこの男は、グウェンダルの能力を都合の良いときだけ摘み食いするように使おうとした。

 だが…どれほど憎くとも、シュトッフェルは未だこの国家の摂政である。その命令書に母の印が押されている限り、グウェンダルに拒否権はなかった。

『結局、私は常にその様な判断しか出来ぬのだ。決められた枠を越えることが出来ない…それが、私の器の小ささを示している』

 そして今、グウェンダルは全ての書類整備を終え、王都での最後の業務に就こうとしている。あまりにも愚かしい《戦勝パーティー》なるものに列席するのだ。

『一体、何に勝ったというのか』

 正直なところ、この大戦はよく言って《引き分け》だろう。それもルッテンベルク師団の活躍によって、ギリギリのところで《負けはしなかった》という程度の戦果である。確かにシマロン軍は弱体化したが、その一方で、眞魔国も多くの兵士を失った。ものの十数年で兵士として機能するようになる人間と比べて、魔族の成長は遅い。軍隊としての力を従来通り蘇らせるには、100年近い年月を必要とするだろう。

『もう一波続けて来れば眞魔国はおしまいだと、本当に分かっているのか?』

 グウェンダルは十貴族会議の席で口を酸っぱくして言い立てたし、フォンクライスト卿ギュンターや、フォンウィンコット卿オーディルとて同様だった。しかし哀しいかな、グウェンダル達はあくまで少数派なのである。宮廷術に長けたシュトッフェルやヴァルトラーナの牙城を崩す事は適わず、またしても意見を封じられてしまった。

 どうにか出来た事と言えば、国家として混血の功績を認めさせる事だけだった。それもグウェンダルの意見によってというよりは、世論の盛り上がりに流石のシュトッフェル達も抵抗しきれなかったとの感が強い。

 《ルッテンベルクの獅子》…《死地アルノルドを生き抜いた英雄》…そのように呼ばれる事で、コンラートが少しでも癒されるのだろうか?真実を見抜く聡いあの子なら、それが如何に空しい名であるか…どれほどの血によって贖われたものなのかを感じ取るたびに、心から血の涙を流しそうな気がした。

『コンラート…』

 もう一度名を呼べば、幼い頃のコンラートの姿が思い出された。
 初めて宴席で会ったときに、頬を紅潮させて《兄上》と呼んでくれた。まろやかな頬が綺麗な薔薇色に染まって、それはそれは可愛らしかった。グウェンダルが《コンラート》と呼んだら、嬉しそうに、ぱぁ…っと微笑んでいたから、父さえいなければ駆け寄って抱きしめていたろうと思う。

 それが帰り道には、涙で瞳を濡らしていた。何か物言いたげな瞳をしていたけれど、引き結ばれた唇が言葉を紡ぐ事はなく、口角は殴られたような赤紫を帯びていた。
 後日知ったところでは、コンラートは貴族の馬鹿息子から酷い言葉と拳を打ち付けられていたらしい。

 《フォンヴォルテール卿グウェンダルは、母を奪った人間を憎んでいるのさ》
 《薄汚れた混血児め!よくも宮廷になど登れたものだな!兄がどれほどお前を侮蔑しているのか知らないのか?》

 …あの時、事実無根の言葉を訂正しに行く勇気があったら、また別の未来が開けたのだろうか?
 コンラートはあの日以降、グウェンダルを《兄上》と呼ぶ事は無くなった。慎重な声音で、《フォンヴォルテール卿グウェンダル閣下》と呼ぶ声が、いやに冷たく脳裏に響いた。

 カタタタタタ…
 コトトトトト……

 大きかった馬車の動揺が小さく、規則正しいものに変わっていく。その事を不思議に思う間もなく、闇い眠りの淵に引きずり込まれていった。 



*  *  * 




 すう…っと意識が覚醒方向に向かっていく。
 何故かうっすらと汗ばんだ肌が気持ち悪く、身じろぐと、無意識の内に上着も脱いでいたのだと知れる。

『何故だ?異様に暖かいな…』

 シャ…っと馬車のカーテンを開けば、違和感が更に増す。明らかに季節感の異なる風景が広がっているのだ。

「何…!?」

 夢でも見ているのだろうか?冬を迎える季節であったはずなのに、森の中には青々とした葉が茂り、窓を開けると馥郁たる大気が吹き寄せてくる。

 これは…初夏の香りだ。
 
「どうしたのです?兄上」
「あらぁ〜…もう朝なの?やだわ、宴は一体どうなったの?」

 母の言葉に、はっとする。

『そうだ…どうなっているのだ!?』

 山間に隠れ掛けていた太陽は何故だか中天に昇り、赤々と照り映えている。御者に尋ねようとして身を乗り出したグウェンダルは、更に驚愕した。そこには御者どころか、馬車を牽引すべき馬自体が喪失していたのである。

「な…っ!」
「これは…どうなっているのですか?一体…っ!?」

 ヴォルフラムが顔を蒼白にさせて馬車の扉を開けようとするが、背後から抱き留めた。これが如何なる状況であるのか分からない間に、迂闊な行動を採るべきではないと思ったのだ。少なくとも、剣の技量に問題のある末弟を先行させるべきではない。

 次第に落ち着いてきたグウェンダルは、更に驚くべき事にも気付いていた。時間帯、季節感に加え、ここは…この場所は…。

「兄上…ここは、まさか…人間の地、ですか?」

 呆然としたヴォルフラムの声音が響くと、ツェツィーリエの喉もひくりと引きつる。そう、グウェンダルもそれは感じていた。生えている植物の形態以上に、要素の気配が眞魔国とは異なっている。従う要素が薄いこの地では、幾ら純血魔族とはいえ魔力に依って戦う事は出来ない。

 しかし、それとしてもまたおかしいのが、人間の地であるとすれば要素が妙に穏やかなことだった。先程から土の要素がふわりふわふわとグウェンダルの周囲を飛び交い、《こんにちは》と挨拶している。

 魔族に従う気はないようだが、さりとて、荒ぶるということもない。コンラートほどではないが、これまで幾度も人間の国に赴いているグウェンダルにとっては、実に奇妙な感覚といえた。

 その時、左舷方向から蹄の音が響いた。

『一騎…二騎、いや、三騎か?』

 ゆったりとした歩様の騎馬から、殺気は感じられない。幸いな事に法力の圧迫も感じないから、武装した人間だったとしても、何とか太刀打ちは出来るだろう。

「ヴォルフラム、陛下の御身を死守しろ」
「しかし、兄上お一人では…!」
「何としても、陛下だけはお護りしろ。私は騎馬を奪う。一騎でも得る事が出来たら、陛下をお連れしてともかく逃げるのだ。尊貴たる魔王陛下を、人間の手に渡す事は赦されぬ!」
「は…はいっ!」

 そうだ、母である以前にこの女性は眞魔国の王なのだ。家族としての愛情以上に、一臣下として護るべき使命がある。

『一体どのような奸計を用いたというのだ…!』

 コンラートが命を賭して得た勝利を、《宴に向かう馬車の中でうたた寝して、虜囚となった》などと愚かな理由で失うなど、今すぐ首を掻ききって死にたいくらいの恥辱であった。

 グウェンダルは剣の柄に手を掛け、何時でも抜刀できるように構えて騎影が近づくのを待った。焦ってし損じてはならない。向こうはまだこちらの気配に気付いてはいないのだ。なんとしても、最初の一刀で勝負を決めねばならない。

 グ…っと腰を降ろして構えていると、騎馬の装束が木々から垣間見えた。

「…っ!!」

 絶望という名の戦慄がグウェンダルを襲う。何と言う事だろう…あれは、悪名高き《聖騎士団》の白装束ではないか。神を讃え魔族を悪鬼と憎む教会の中でも、残虐無比と恐れられている軍隊。その剣先は魔族のみならず、教会に対して反抗的な人間の国家にまで向かうという。ひとたび号令が下れば白装束が鮮血で染め上げられるまで、狂ったように戦い続けるという集団ではないか…!

『填められたのか?私達は…!』

 一体、何者に?
 グウェンダルを目障りに思っている者に心当たりはあるが、ツェツィーリエは魔王だ。幾ら眞魔国の中で権力闘争があるとはいえど、眞王の任命を受けた王を討つことで、何が起こるか知らぬ者は居ないはずだ。

『まさか…だから、人間の手を借りたというのか?』

 何というおぞましい罠に填ったのだろう。グウェンダルがついていながら、おめおめとこのような機略に掛かるとは…!
 臍(ほぞ)を噛むような思いで目が眩みそうだ。

『くそ…!』

 こうなったら、死にものぐるいでツェツィーリエだけでも逃がさねばならない。悔しいほど見事に填められた以上、グウェンダルの命はもはや失われたものと考えた方が良さそうだ。

『許せ、コンラート…。これでまた、お前を護る者が一人消える…!』

 心で詫びて駆け出したグウェンダルは、抜刀すると同時に凄まじい跳躍を見せて、油断しきっているかに見えた騎手へと斬撃を加えた。
 おそらく、大抵の兵士であれば為す術もなく首を飛ばしていた事だろう。残る二騎に斬りかかられたとしても、一騎はヴォルフラムが控えている方向に追い立てられたはずだ。

 しかし…狙った聖騎士はよりにもよって、予想以上の使い手であった。
 
 キィン…っ!

 鋭い衝撃音を立てて剣が受け流される。流石にグウェンダルが剣を取り落とす事はなかったが、騎上にあった兵は突然の襲撃にも関わらず、鮮やかな軌跡を描いて剣先をかわしたのだ。

『駄目か…!』

 穏やかなだく足で寄ってきたから、自分たちに気付いていないのでは…と、一縷の望みを託していたのだが、やはり悟られていたのだろうか?考えても見れば、罠だけ仕掛けておいて、馬車を放置した挙げ句に捕獲者がやってこないのでは理屈に合わない。

「貴様…」
「何者だ!」

 白馬とすれ違うようにして着地したグウェンダルに、怒りも露わに他の二騎が抜刀するが、何故か先程剣を交えた男はその動きを制した。

「よせ!この方を斬ってはならぬ…!!」
「しかし、オードイル様っ!この男、突然斬りかかってきたのですぞ!?無礼にも程がある…っ!」
「理由は分からぬ。だが…この方はどう見ても、コンラート閣下の兄君ではないか!」
「は…?こ、これは…確かに…」

 オードイルと呼ばれた男に指摘されると、他の二人は目を白黒させて驚いている。しかし、より一層驚いていたのはグウェンダルの方だ。

『コンラート閣下…だと?敬称を付けて呼ぶとは…一体、コンラートとどういう関係なのだ?』

 一瞬、コンラートが刺客を放ったのかという疑念が掠めるが、それはあまりにもおかしい。そのような力があればコンラートが大怪我を負う事もなかったろうし、そもそも、これほど手の込んだ技を仕掛けておいて、捕獲の機会を制するのは奇妙だ。

 オードイルは人間にしては整った顔立ちの青年だ。何より、悪逆な聖騎士団員でありながら、穏やかな雰囲気と優しげな眼差しをしていることが、その言動と共にグウェンダルを驚かせる。

「フォンヴォルテール卿グウェンダル閣下…。で、間違いないでしょうか?」
「如何にも、そうだ」

 オードイルに穏やかな口調で問われれば、そうと答えるほか無い。そうすると、剥き身の剣を晒している事が如何にも言っても恥ずかしく思われ、一礼して鞘の中に収める。すると、他の二人も漸く肩の力を抜いた。

「いやぁ…それにしても、ご冗談がきつすぎますぞ!」
「そうですとも!あのような斬撃、オードイル閣下だから避けられたものの、私が受けていれば間違いなく唯ではすみませんでしたぞ?」

 ぎゃいぎゃいと言い立てる二人を掲げた手で制すると、オードイルは困ったように小首を傾げた。

「確かに、あの斬撃には殺気を感じました。一体…どのような事情で、私に斬りつけてこられたのですか?私は眞魔国で幾度かお顔も合わせておりますし、恨みを買うほど失礼な行状も為してはいないと思っていたのですが…」
「す…すまない」

 微かに瞳を潤ませてそう言われると、反射的に謝罪の言葉が出てしまい、そんな自分に慄然としてしまう。

『ほ…誇り高きヴォルテール家の男が、人間に詫びをいれるなど…!』

 これは作戦の内なのか?しかし、一体何を狙った作戦だというのだ?もしかして、誰かの悪戯なのか?
 脳裏に鮮紅色の髪を持ち、グウェンダルの性格を熟知した幼馴染みの姿が浮かぶが、彼女ならもっと《惨劇》的な驚かせ方をするはずだ。

 それに、オードイル達からは《演技》という気配を微塵も感じる事が出来ない。

『訳が分からない…!』

 くらりと目眩を覚えながら、グウェンダルは頭を抱えてしまう。

「それにしても、一体何故このようなところに一人でおられるのですか?聖都の国境沿いは随分と安全になっては来ましたが、今でも老人の中には頑迷な魔族否定者もおります。明らかに高貴な魔族と見受けられる方が、供も連れず徒(かち)でおられるのは流石に危険です」
「そ…うか…?」

 どう答えて良いのかさっぱり分からない。いっそ、《ここは魔族と人間が仲良しな、平和世界なんです》とでも言われた方がまだマシだ。それなりに現実的な設定を持ち出されると、グウェンダルの方が記憶喪失を疑ってしまうではないか。

「ともかく、このような場所では落ち着いて話が出来ませんね。宜しければ、懇意にしている者の館が近くにありますので、そちらで話をしませんか?」
「……」

 どうすれば良いのだろうか?このように情報が混乱している中で大人しくついて行く事は、おめおめと捕まることを意味するのではないか?

『どうする…。あくまで当初の計画に従って馬を奪うべきか?私だけ様子を見る為についていくべきか?』

 前者を実行しようとすると、この穏やかな物腰の青年を斬らなくてはならない。心理的な負担はもとより、不意打ちでも避けられた腕前を考えれば、相当な難事であるのは間違いない。
 後者を選んだとしても、精神鍛錬の不十分な弟が自分以上の判断力を駆使して事態を改善できるとは思えない。それこそ、出会った人間に出会い頭に斬りかかって、ツェツィーリエ共々惨死するのは目に見えていた。幾ら友好的な態度を装っている(?)人間とはいえ、ヴォルフラムの大上段に構えた蔑視と敵愾心を前にしては、流石に剣を抜くだろう。

『そう言えば…この男、コンラートの名を挙げていたな』

 どういうつもりか分からないが、斬りつけられたにもかかわらずグウェンダルを《コンラートの兄だから》という理由で信用しようとしている。何かの仕込みなのだとしても、もう少し話を聞いてみたかった。

「オードイル殿、君はコンラートとはどういう関係なのだろうか?」
「関係…ですか?」

 目をぱちくりと開いて、オードイルは小首を傾げている。よほど妙なことを聞かれたという顔だ。

「恩人…だと思うのですが、閣下は、友人と呼んで下さいます」

 はにかむような微笑みは、とても演技とは思えない。
 《嬉しくて堪らない》…そんな表情を、魔族を想いながら人間がしている。

 それは、とてもグウェンダルには理解不能な現象であった。



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