「今日から主役!」−5
順調に撮影が続いていたある日、有利はふと部屋のローテーブルの上に、見慣れないタイトルの脚本が置かれていることに気付いた。
「あれ、コンラッド。これって映画とは別の脚本?」
「ああ。俺が居ないシーンがこれから続くだろ?だから、合間にニュージーランドの特番ドラマに出ることにしたんだ。撮影期間も短いしね」
「へぇ…見ても良い?」
「うん、良いよ」
コンラートは良い薫り立てて珈琲を煎れると、有利のはカフェオレにしてくれた。
それをこくこくと飲みながら脚本をぺらりと捲れば、案の定…英語が連なっている。
「あー…やっぱ、分かんないや」
多少の意味は分かるが、ニュアンスまでは分からない。
「アニシナが英語の互換装置も作ってくれると良いんだけどね」
「でもさ、あの装置って会話には効くんだけど、どのみち文字には効かないんだよね。うーん、どんな内容なのかだけ教えてくれる?」
「ああ」
そのドラマは所謂悪女もので、次々に殺されていく男達の死因を調べていく内、刑事であるコンラートもその悪女を愛してしまい、苦悩するという話らしい。それでもコンラートは刑事の職務を全うして悪女を捕まえるのだが、搬送する車両の運転手は既に悪女に取り込まれており、背後からコンラートを射殺するのだそうだ。
ラストシーンでは悪女がコンラートから貰った指輪へと何か思い詰めたようにキスしている場面で、かつて騙されて命を落とし掛けた男に射殺され、不思議と満足しきった笑顔で死ぬ…という流れらしい。
悪女としてはコンラートだけは心から愛していたのだけど、どうしても刑事の本分を離れないコンラートを《手に入れる》為には殺すしかないと決意したらしい。それでも失ったことに耐えがたさを感じているときに、タイミング良く殺してくれたんで《ラッキー》とばかりにポックリ逝ったそうな。どっとはらい。
一言でいうと、かなり迷惑なヒトだ。
そのままの感想をコンラートに言ったら、盛大に腹を抱えて笑われた。
別にネタではなかったのだが…。
「えー、だっておかしくね?そんなに大好きなら改心して、大人しくお縄につけば良いじゃん。愛されてるのは知ってんだしさ、殺人までやっちゃってるから下手すりゃ死刑、良くて無期懲役かもしんないけど、コンラッドに《毎日面会に来てね!》って約束するとかさー」
「そんなヒトは多分、そもそも悪女にはならないんじゃないかな?」
「そっかなー」
思わず頬をぷくっと膨らませてしまう。
どうやら、有利には悪女の才能はないらしい。
あっても困るが…。
「あはは、でもユーリらしいや」
屈託無く笑うコンラートは楽しそうだが、《ユーリらしい》という台詞はちょっと…いや、かなり気になる。
「やっぱさー…そういう考えだと、創主に乗っ取られた時の演技とか難しいと思う?」
「うーん、そうだねぇ…」
「あーあ、悪女さんに転がされてこっぴどい目に遭わないと、分かんないのかなー」
「それは振られた男の悲哀が分かるだけかも…」
「うう…確かにっ!」
コンラートは少し苦笑しながら髪を掻き上げていたのだけど、ふとドラマの脚本を開いて台詞を読み始めた。
なんと、悪女側の台詞だ。
「《あら、随分と安く見られたものね。私が欲しいのなら…何が必要か、お分かりでしょう?それとも、分かっていて誘っているのかしら。意外と、自信家なのね…》」
「…っ!」
凄い。これが本物の演技というやつなのだろうか?
ウェラー卿コンラートという役柄は素のコンラートそのままの印象だから気付かなかったが、やはりこの人にはきっちりとした演技力と、役者としての華がある。
しなだれかかる妖艶な肢体、そして流し目の鮮やかさ…ぞくりとするほど蠱惑的な色香が、コンラートから漂っていた。
くすくすと零れる甘やかな声音に興奮の鳥肌が立ち、有利はごくりと自分の喉が鳴るのを感じた。
ツェツィーリエの微笑みにも少し似ているが、あの人はまだ色気はあってもどこか健康的な雰囲気がある。しかし、今のコンラートが醸し出しているのは毒を帯びた悪女の美しさだ。毒だと分かっているのに、甘美な蜜を味わいたくて男が唇を寄せずにはいられなくなる…そんな感じ。
そう言えば、見せて貰った過去の作品などでは爽やかな好青年役か、せいぜい少しセクシーなモテ男が多かったけれど、闘技場での演技や、有利の指導の為にやってくれた演技などは息を呑むような悪役ぶりだった。
《なに、こいつ憎たらしい》と単純に思うのではなく、《憎たらしいのに、目が惹きつけられて離せない》のだ。
《悪の美》とでも言うのだろうか…闇属性の妖しさに抗えず誘惑されるという感覚だけは、ちゃんと有利にもあるらしい。
「凄いっ!凄いよコンラッドっ!悪女そのものだよっ!」
「嬉しい…」
くす…っと笑みながらコンラートがしなやかに腕を絡みつけてくる。
ありゃ、まだスイッチが入りっぱなしなのだろうか?
「ユーリ…蜜の味を、知りたくない?」
「みみみ…ミツバチはっちっ!?」
「甘美な蜜…ふふ、美味しいのよ?」
寄せられる唇は、心なしか艶めいた珊瑚色に見える。濡れたような琥珀色の瞳はまるでとろけた蜂蜜みたいで、見つめられるとこちらが溶けてしまうそう。
「あ…ぁ……」
怯えるように身体を縮込めてしまうのに、目は開いたまま伏せることが出来ない。あまりにも綺麗で…怖いのに、腕もふりほどけない。
半泣きになって硬直していたら、ちゅ…っとキスをされたのは鼻の先だった。
「美味しい鼻でした。ご馳走様」
パンっと両手を合わせて笑顔になった途端、からりと纏う雰囲気が変わってしまう。
いつもの爽やか青年は、実に楽しそうにニコニコしていた。
「は…ぁあああ……」
ふしゅるぅう〜…と風船の空気が抜けるみたいに身体から力が抜けてしまう。
役者って…凄すぎる。
「もう…っ!し、心臓に悪いよコンラッドっ!!」
「あはは。オカマ芸でもいけるかな、俺」
「あんたのは洒落になんないよっ!勘違いした奴に押し倒されたらどうするつもりだよーっ!!」
「大丈夫だよ。俺、結構腕っ節は強いんだよ?」
「大勢で来るかも知れないじゃんっ!あんたが変なことされたりしたら…俺、正気で居られないからね…っ!」
「そう…」
こちらは怒っているのに、何故だかコンラートは凄く嬉しそうにニコニコしている。
そんなに有利の正気を奪いたいか!
「もう…俺、怒ってるんだからね?」
「うん、嬉しい…」
「もーっ!全然分かってない!!俺の純情返してくれよっ!あんたにときめいて、《このままキスされちゃえ》とか思っちゃったじゃんっ!」
「え?」
ぱちくりと開かれた瞳は、子どもみたいに可愛かった。
でも、なんでそんなに驚いてるんだろう?
「あのまま押し通しても大丈夫だった?」
「え?あ…い、今のなしっ!き、気の迷いだから…っ!幾らあんたが妖艶で、物凄く綺麗に見えたからって、キスがホントに甘くてとろけるみたいとか勘違いだから…っ!」
「ユーリ、ひょっとしてキスしたことない?」
「そうだよーっ!悪いかぁぁあ……っ!彼女いない歴19年をなめんなよっ!?」
完全に逆ギレしている有利は知らない。
実は彼に惚れる女の子は全て、彼に惚れた男の子の手で邪魔をされていたことに…。
だからラブレターもバレンタインのチョコも、未然に防がれていたのである。
「ふぅん…だったら、俺と練習してみない?」
「あんたどこまで面倒見が良いの…」
がっくりと肩を落としてその場にへたり込んでしまう。演技指導にしたって、流石に行き過ぎではないだろうか?まさか…チェリー君まで卒業させてくれる気ではないだろうな?
「ゴメンなさい…俺、あんたのお尻には突っ込めない……」
「幾ら俺がお笑い好きでも、そこまでのツッコミは期待してないよ。…というか、これってキスの話だったよね?」
「あ…そうでした」
一人で思考がカッ飛びすぎたらしい。
「キスならそこまで重く考えなくても良いんじゃない?男相手で、しかも演技絡みならキスやベッドシーンはノーカウントになるし」
「マジで!?」
「うん。だって演技上なら、必要があれば誰とでもキスしなくちゃいけないだろ?それをいちいちプライベートと同じ線上で扱ってたら、俺なんか結構なプレイボーイになっちゃうよ」
「あんたはプライベートもプレイボーイだろ?」
「それは役のイメージから来た噂だって!」
ぱたくたと手を振られて、ちょこっと安心した自分が居た。
『へー…ふーん…。プライベートではそんなに女の人といちゃこらしてないんだ。そっかー…』
そういえば、こちらに来てから一度も女の子とデートとかしてなかったし、メールなどの遣り取りをしている気配もなかった。
別に、だから何だってこともないけど。
「あの…ホントに、迷惑じゃない?」
おずおずと聞けば、コンラートは会心の笑みで答えてくれた。
「全然」
それで、話は決まった。
* * *
『ヤベェエエエエエエエ………っ!!!』
この時、朗らかな表情の下でコンラートは勢い良くコサックダンスを踊るような心境だった。
先程だって十分に危険だったのだ。
有利が怯えきった仔猫みたいに震えているのに、それでいてコンラートから目を逸らすことも、明確な拒絶をすることも出来ずにふるふると肩を震わせていた…あれで襲わずにすんだのは、何となくオカマ芸で押している自分に不気味さを感じたおかげだ。
それが、あんなコトを言い出すから…。
『あんたにときめいて、《このままキスされちゃえ》とか思っちゃったじゃんっ!』
拙い。その発言はとても拙い。
何だか、襲ってあげなくてはいけないような気にさえなってしまうではないか。(←そこまでは要求してない)
『まあ…キス、だけなら…ユーリにとっても良い経験になるだろう』
この映画の中にそんなシーンはないが、人生、色々と体験しておくに越したことはない。キスが上手になっていれば、恋愛面でも自信が出てくるかも知れないし。
自信をつけて日本に帰って、映画効果でモテモテになった勢いなら女の子のお持ち帰りなど楽々だろう。きっと有利のことだから、そのまま押し切られたらなし崩しにエッチまでいってしまい、数週間後に一言、《デキちゃったかも…》と囁かれるだけでゴールイン…。
『イカン…っ!』
可愛い有利に、そんな人生行路など歩ませてはならないっ!
そんな何処の馬の骨ともつかない、スターなら誰でも銜え込むようなふしだらな女を近寄せてはならない…っ!
『そのくらいなら俺が…っ!!』
盛り上がった思考を展開していると、緊張しきって瞼を閉じ、ふるふるしながら顎を上げている有利が視界に入る。唇はどうしていれば良いのか分からないらしく、前歯で噛んだり離したりしている。
『どれだけ可愛ければ気がすむんだ君は…っ!!』
いかん。
イカン如何いかんっ!
こんなに可愛かったら、油断していたら女の子の前に男にやられてしまいそうだ。
可愛い有利に、そんな人生行路など歩ませてはならないっ!
『そのくらいなら俺が…っ!!』
如何ともしがたく盛り上がっていく感情を体表面には一切出さず、コンラートは《お兄さんが教えてあげるよ》的な爽やかムードの中で有利の頬に掌を添えた。
すべやかな肌は、しっとりとしているのに女の子みたいに引っ付いてはこず、代わりにさらりとした質感が心地よい。ふに…っと下唇に人差し指を当てただけでビクン…っと震える様に、堪えきれなくなって唇を重ねた。
「ん…」
《鼻から、息を抜いて?》…《そう、上手だよ?》…優しく声掛けをして緊張が少し解れた頃、つるりと咥内に舌を差し入れたが、やはり背筋を震わせながらも不快さは感じていないようだ。
コンラートの舌は薄くてさらりとした質感だから、《キスが美味しい》とよく言われたのだが…自分ではよく分からない。キスは嫌いではないがさほど好きというわけでもなく、以前は義務的に行っている面もあったのだけど…。
『なんだこの気持ちよさ…っ!?』
内心、ぎょっとするほどふくふくとした有利の舌は…とても《美味しい》。
唾液がとろりと絡んで口角から垂れていくのも、以前なら指かハンカチで拭いて遣っていたのに、あろうことか《勿体ない》なんて感じて、舌で舐めとってしまう。
『美味しい…気持ちいい……』
溺れるように味わい、気が付けば持てる技巧の限りを尽くして咥内を蹂躙していた。
舌の横をざらりと舌先で辿り、舌体をふにふにと甘噛みし、張りの良い歯肉さえも隅々まで舌を這わせて息を奪っていく。
「はぅ…ふくぅん……」
息も絶え絶えになって腰の力が抜けてしまった有利を自然な動作でソファへと横たえると、くたりと脱力した体は唇を離してもちいさく震えたまま動かなかった。
銀色の糸が互いの舌先の間に伝い…ぷつん、と切れる。
その様は、堪らなくエロティックだった。
「…っ!」
少し身を離して有利を鑑賞すれば…あまりの可憐さに身震いした。
あえやかに開かれた唇は濡れて濃い桜色を呈しているし、その中から微かに覗く白い歯とふっくらとした舌は、どれだけ甘いかをもう知ってしまっている。
何より…一片の嫌悪も示さずにとろりと濡れた眼差しの、なんと魅惑的なことだろう?
眦から生理的な涙を滴らせながら、じぃ…っと見つめられると、もうもう…堪えることが出来なくなる。
「ユーリ…」
ひく…っと反った白い喉に噛みつくようにして吸い上げれば、危うく朱花を散らせてしまいそうになる。幾ら襟の詰まった学ランがデフォルト衣装とはいえど、これからは入浴シーンだってあるのだ。
分かっている。
分かっているのに…何故止められない?
『俺は…どうして…?』
ああ、こんなの…演技などではない。
困惑するコンラートの脳裏に、甘く囁きかける言葉があった。
『それが好きってことよ。諦めなさい、坊や…』
それは、ドラマの中で勝ち誇ったように悪女が囁く言葉だ。
「ぁ…くぅん……」
快感の波に浚われて、意識を飛ばしかけている有利の声に、はっと我に返った。
コンラートが今しようとしているのは、単なる《先輩のいきすぎた指導》や、ましてや純情な有利に対するからかい等ではない。
これは…。
貫かれるような感覚と共に、《降りてくる》ものがある。
《ユーリを愛している》のだと…その感覚は告げていた。
『愛している子に、思いを告げることもなくこんなことを?』
卑怯だ。
あまりにも卑怯ではないか。
コンラートは奥歯を噛みしめて自制すると、渾身の力をこめて体を離していく。
「ユーリ…今更かも、知れないんだけど…」
言えば、慄然として身を震わせるだろうか?
先程までの可愛らしい恥じらいではなく、恐怖と嫌悪を示して。
ああ…でも、言わないわけにはいかない。
こんなにも愛してしまったことを知った今、目を背けることなど出来なかった。
「ユーリ…俺は、君を…愛しているんだ」
告げた瞬間、《突っ込まれることは期待していないけれど、突っ込むことは期待しているみたい》…と気付いたことだけは、流石に口には出来なかった。
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