「今日から主役!」−1








 この冬、大規模なプロジェクトが始動しようとしている。

 その名は、『今日からマ王かも!』…世界規模で優れた人材を起用した、三部作のファンタジー映画である。ごく平凡な男子高校生がひょんなことから異世界に吹き飛ばされ、なんと魔王として世界平和を実現させていくという突飛な物語だ。

 三部作というと、一般的に大ベストセラーが原作になっている事が多い。この場合、根強いファンから《原作と違う》という批判を受けるリスクはあるが、上手く受け入れられれば巨大な成功を収められるし、そもそも知名度が高く話題になりやすい。

 しかし、長期スパンの撮影を必要とするにも関わらず、この映画には原作というものが存在しない。全ては総合監督であり、脚本家でもある《イタリアの紅い奇才》アニシナ・カーベルニコフの脚本に収められており、全容は世に明かされていない。

 まさに出たとこ勝負の大博打なのである。

 そもそも、三部作という形態自体がかなりリスキーなのだ。確かに撮影を一気に出来る分、キャストやスタッフの拘束時間が総合すると短くなるので、全体的な人件費は浮く。ただし、下手をすれば一作目で劇場上映がコケてしまって制作費すら回収できず、第二部、第三部についてはビデオリリースのみなんて無様な終末像も存在する。そうなれば収益どころか、キャストのギャラすら払いきれなくなることがある。
 有名な原作付き小説ですら、そんな憂き目を見たものが幾つもあるのだ。完全オリジナルと来ては危険度は尚更である。

「ソコに持ってきて、なんで俺が主役なんだよぉおお……っ!!」
「ま、良いじゃん。話題にはなるって」
「大コケ大作映画の主役なんて、恥ずかしい話題ヤダーっ!!」

 悲鳴を上げて悶絶する相方に対して、村田健は極めて気楽そうな口ぶりだ。鼻歌でもうたい出しそうなノリで煎餅を囓る彼も、魔王を支える《双黒の大賢者》という重要な役柄を担っている。

「村田っ!お前は何でそんなに暢気なんだよ!?映画撮影って言ったら、相当長いこと撮影に時間取られるんだろ?」
「うん。十ヶ月って言ってたかな?殆どがニュージーランド撮影だよ〜。観光とか楽しみだね!」
「そんなに長いんじゃあ、ペナントレースの始まりに間に合わないよ!」
「仕事のブランクとかの心配じゃないんだね…」

 とはいえ、《全ての話題に(半ば強引にでも)野球ネタで打ち返す》という芸風は健在だ。
 そう、この二人はただ今売り出し中の漫才コンビ《ムラケンズ》。名前の何処にも《渋谷有利》を忍ばせるものがないという、ちょっぴり切ないコンビ名である。ネタ作りや仕事上の契約交渉、営業先への挨拶回りの手配等々、細かいところは全て村田健が担っており、有利は大抵台詞を覚えることなく舞台上でアドリブしているだけなので、実情を現したコンビ名と言えなくもない。

 ちなみに村田自身の芸風は、《お前は本当は幾つなんだ!》と定番のツッコミを受ける昭和ネタだ。これが意外と昭和生まれ以外の平成っ子にも受けが良く、特に懐かし系アニメの話題には固定ファンがついている。場当たり的なフリートークに見せかけて、実は構成が練られているあたりも玄人好みなのだろう。

 今もテレビ番組の収録にあたっているところだが、村田は煎餅を囓りながらも有利の為にカンペを用意するなど、準備には余念がない。

「つか、俺より村田の方が拙いんじゃないの?折角良い大学に入学したってのに、10ヶ月も撮影に時間取られてたんじゃあ留年決定だろ?親御さん泣かない?」
「うちは放任主義だし、もう休学の届けは出したよ。上手くいけば、ニュージーランドからメールとネット授業とレポート提出で進級できちゃうかもしれないし…ま、一年くらいは回り道しても、人生の無駄にはならないしね」

 村田はそう言うと、煎餅を一枚有利に渡してから真面目な顔をして有利を見た。

「君にとってもそうだ。今は確かに若手芸人として芽が出てきたところではあるけれど、次の番組改編によって、若手芸人には冬の時代が来る。目新しさだけじゃあ、乗り切ってはいけない時代がね」
「村田…」

 そんな真剣な顔をされると、急に有利の語調は弱くなってしまうのだった。
 元々、《全部僕が手配をするから、お笑いコンビをやろう》と誘ったのは村田だ。当時高校2年生だった有利は学校生活と草野球だけで一杯一杯で、将来のことなど何一つ具体的には考えていなかったのだが、彼の熱意に押されてお笑いを始めた。

 彼はその理由を何も言わないが、きっと高校1年生の時に不良グループから庇ったことを、未だ恩義に感じてくれているのだと思う。その時も、別に格好良く不良連中をボコボコにしたわけではなく、助けに入った有利が逆にボコボコにされたわけだが…

『通行人と目が合っても、あいつらが睨み付けたらみんな見ないふりをしたのにさ、渋谷だけは助けてくれた。挑むみたいに、敢えてこっちを見てさ…。あの時、僕は凄く嬉しかったんだ』

 …と、村田は笑いながら言う。
 どうしてだか、凄く凄く嬉しそうに。

「僕は君の人生を軌道に乗せる義務があるしね」
「まだあの約束のこと気にしてんのか?別にもう良いのに…結局、俺が選んで俺が失敗したわけだしさ」
「ううん…僕の責任も大きいよ」

 村田は有利をお笑いに誘ったとき、渋谷家の面々に対して説得を行った。
 何しろ学力に余裕のある村田に比べて、有利の学力は寂しい限りだ。草野球チームを立ち上げるときにも家族、特に兄からは反対を受けたのだが、お笑い芸人として活動を初めると言い出したときには、凄まじい雷を落とされたのである。
 《芸人なんてつぶしが利かないじゃないか。飽きられて業界から捨てられたとき、高卒じゃあどこにも就職なんて無いぞ!》そういう勝利の言にも一理あって、有利としても結構迷った。

 その時、村田は《絶対に渋谷君の能力を最大限に生かし、学業についても僕が面倒を見ます》と確約してくれた。全国模試第一位であることを証明する成績伝票を示した上での説得に、渋々ながら勝利も従ったのである。

 本当に村田は良く面倒を見てくれたと思う。自分だって進学校で成績を維持するのは大変だったろうに、定期試験の度に重点ポイントを整理して、徹底的に《取り処》を暗記させてくれた。
 このまま行けば、そこそこの大学に進学できる…有利も家族も、三年生の夏の模試ではそう安堵していた。

 ところが、受験シーズンに万全を期そうとして秋に仕事を集中させたのが裏目に出てしまった。過労で免疫力が落ちていたのか余程タチの悪い細菌に感染したのか、体調を崩した有利は風邪が肺炎に発展し、入院を余儀なくされたのである。いっときは肺水腫も危ぶまれたくらい、結構酷い病状であったようだ。
 ギリギリで退院こそ出来たものの、追い込みの時期に高熱に晒されて勉強の出来なかった有利は、ふらふらの体調で受験に臨み敢えなく玉砕したのである。

 最後の希望であった滑り止め大学から不合格通知が来た時、勝利は村田に《出入り禁止》の通告を出した。

 それでも、村田は引かなかった。

『このままでは終わりません…!』

 体調を回復した有利と共に新人芸人の登竜門であるグランプリに出場すると、優勝こそ逃したものの、準優勝につけたムラケンズは可愛らしい容姿も買われて一気にブレイクした。まだまだ冠タイトルの番組を持てるほどではないが、先輩達からも可愛がられ、クイズなどバラエティ番組を中心にレギュラーとして使われ始めている。
 《これで、芸人として食べていける》…有利はそう思い始めていたのだが、村田は更に高みを目指しているのだろうか?

「もう…そんなに真剣な顔すんな。分かったよ!お前の言う通りに、俺も頑張るからさ」
「よーし。頑張ろうね!」

 二人して右手をぱぁんと打ち合わせたとき、丁度出番がやってきた。



*  *  * 




 年末年始の特番収録を終えたばかり有利たちは、まずは夏服を中心とした衣服をキャリーバックに詰めて飛行機に乗った。南半球のニュージーランドでは、ただいま夏真っ盛りなのだ。

 第一部、第二部の初めと第一部のラストシーンは日本での撮影になるようだが、まずはニュージーランドに集まり、各国から集まってくるキャスト同士で様々な打ち合わせをしておくらしい。出演者だけではなく、撮影に関わるスタッフも初顔合わせになるから、これは確かに必要な行程なのだろう。
 
 そして、有利は飛行機に乗って少し落ち着いたところで(人生初乗りだったので、離陸直前まで《鉄が空を飛ぶもんか…》と言い続けていたのである)、他のキャストについての資料を見せられた。村田のところに昨日届いたと言うその資料は二人とも初めて目にするものだったのだが…正直、有利にとっては高まり掛けた意欲を挫くに十分な内容であった。

「こ、これって…俺も知ってるくらいの凄い俳優さんじゃない!?」

 それは実に、錚々たるキャスト群であった。
 
 資料一枚目にお目見えしたのは、ビスクドールのように完璧な美貌を誇る、金髪碧眼の美少年…《イギリスが誇るシェイクスピア舞台の王子》ヴォルフラム・ビーレフェルト。
 現在、年齢は有利たちと同じ19歳だが、映画出演こそ初めてなものの、演技については3歳から舞台にも出ているという立派な芸歴…いや、キャリアの持ち主だ。綺麗だが気の強そうな顔立ちからして、かなりの煩さ型と見た。

 続いて目にした資料には、華麗な銀の長髪に菫色の瞳という、《あんた夢の世界の王子様ですか!?》と言いたくなるような、儚げな麗人の写真が載っていた。この人は《フランスシャンソン界の輝ける貴公子》ギュンター・クライスト。
 写真の印象では20代後半くらいに見えるが、実年齢は意外といっていて30代後半であるらしい。やはり映画出演は初めてのようだが、オペラ舞台には何度か立っているので、演技経験自体はあるようだ。
 優しそうではあるのだが…どこか綺麗すぎて近寄りがたい風情の持ち主だ。

 そして、色んな意味でぎょっとさせられたのはイタリア出身のアクション俳優で、《雌豹のヨザ》の通り名を持つグリエ・ヨザック。堂々たる外野手体型なのに雌豹を思わせるタイトなドレスが異様に似合っていて、鮮やかなオレンジ髪と陽気な蒼い瞳が印象的だ。この女装は観客を魅了すると言うよりは、笑い含みのコミカルな役どころが多い為らしい。所謂おいしいとこ取りの《オカマ役》というところだろうか?
 滅多に映画など見ない有利にも見覚えがあるくらいだから、かなり人気があるのだろう。こちらは演技経験も豊富で、ハリウッドの大作はもとより、渋好みのアジア・欧州映画にも幅広く出演している。

 そして、写真を見た途端に《この人、厳しそう…》と冷や汗が伝ったのが、ドイツからやってくるグウェンダル・ヴォルテール。蒼灰色にも見える長髪と深い蒼瞳、渋みのある表情はさぞかし女性から憧憬の眼差しを送られていることだろう。
 地元ドイツの連続刑事ドラマを中心に長いキャリアを築いており、映画に関しては軽薄な主題のものには一切出演していないようで、重厚な歴史劇、史実に基づいた戦争映画しかプロフィールには載っていない。
 一体なんだって、こんな珍妙な映画に出ることにしたのだろう?

 その中で唯一、有利が《あ、この人は優しそう》と少しほっとしたのが、アメリカを拠点として青春ドラマや映画に登場しているコンラート・ウェラーだ。彼だけが経歴を見ると主役級の出演がない。ただ、現在は20代後半という年代だが、初出演は小学校くらいなのでやはり経験は豊富そうだ。
 有利も一度コメディ映画でヨザックと協演しているのを見たことがあるが、主役でこそ無いものの、非常に重要な役どころを好演していた。決して押しつけがましくなく、自分に求められている役どころの真髄を究めているというのだろうか?映画本編の中でもそうだったし、タイトルロール後のNG集でも優しそうな人柄が現れていた。 

 その他のキャスト達も脇役であるにも関わらず異様に優れた経歴の持ち主達で、少なくとも、演技経験がないのは有利たちだけなのだと知れる。

 なんだか…背筋を粘っこい汗が流れていった。

「うん。普段は娯楽映画とかには出ないような、本格的な舞台俳優とかもいるね…。中には門外漢っぽいヒトもいるけど、それぞれの世界じゃあ一線級の連中ばかりだ。いやぁ…良くまあ僕たちにオファーが来たもんだね」
「えっ、村田が売り込んだんじゃないの!?」 
「幾ら僕の営業能力をもってしても、こんな畑違いの大きな仕事は持ってこられないよ。能動的に出ようとしてたら、オーディションとかに参加する必要があったろうね」
「えーっ!?じゃあ、一体なんだってイタリアの映画監督が俺たちに白帆の杭を刺したんだろ?」
「白羽の矢を立てるがどうやったらそう転ぶのか、逆に聞きたいね。まあ…交渉のメールによると、監督が新人グランプリの番組をネットで見て気に入ったみたいだよ?」
「あれを見て大作映画の主役とかどうなの…」

 あの時には番組スタッフの用意したセットがネタ途中に倒れてきたりして、結構しっちゃかめっちゃかだった印象しか残ってないのだが。そのドタバタ加減が良かったのだろうか?

「あとは多分、声と反射神経を買ってくれたんじゃないかなぁ…あと、容姿とね」
「俺たち、映画俳優って容姿じゃないだろー!?」

 有利が叫ぶと、周囲の座席からぎろりと睨まれる。申し訳なくて、立ち上がって小さく《ゴメンなさい》と繰り返して謝ると、睨み付けてきた人たちも相好を崩して手を振ってくれた。
 良かった。いい人たちで。

 その様子を見ながら、村田は《ほーらね》と嬉しそうに呟く。

「なにが《ほーらね》だよ。怒られたんだぜ?」
「でも、すぐに許してくれた。君ってさ、そういうキャラなんだよ」
「怒られキャラ?」

 それも立派な芸風ではあるが、心が折れないようにしたいところだ。

「それもあるけど、筋の通ったことで怒るとちゃんと謝るって素直さが感じられるのさ。番組の遣り取りで僕がボンジョルノ大下兄さんに誤解された時にも、君が一緒に行って謝ってくれたら、逆に僕たちのこと気に入ってくれたろ?あれでゴールデンタイムのレギュラーとれたんだし」
「えー?あのせいってことはないだろ」
「だって、君って凄い可愛いもん。大下先輩ってば、《お前が渋谷の面倒をしっかり見てやれよ?》っていつも僕に言うんだよ?」
「俺のどこが?お前ならともかくさー」

 村田は確かに、如何にも理知的な可愛らしい少年だ。身長は有利と一緒で小柄だが、運動嫌いのくせに均整もとれているからファンタジックな衣装だって似合うだろう。だが、有利は正直言って、ユニフォームとジャージ以外に似合う服があるとは思えない。ゲームに出てくる魔王様の衣装なんて着たら、毛皮に埋まってしまいそうだ。

「君は自分が出てる番組見てないからだよ」

 確かに見てない。出演しているときにお客さん達が笑ってくれるのは嬉しいのだが、それを家に帰ってまで再確認しようとは思わないのだ。ご贔屓チームの試合中継の方が余程気になるし。

「君って結構カメラ映えするんだよ?普段だってもう少し視線を気にしてれば、もっと輝くと思うし…それに声の通りが良いから、耳障りが良いんだってさ。繰り返し聞きたいからって、ドラマCDのオファーも来てたくらいだからね。この映画の他のキャストも、声の良さを重視してる感じだし」
「へぇ…んじゃ、反射神経は?」
「そのまんまだよ。あのグランプリの時だって、僕があがっちゃってネタを振り間違えたのに、君は上手く合わせて時間内にオチまで持ってきてくれたじゃないか。他の番組の時だって、気が付くと君は他の芸人さんの話に上手く合わせてる。それも、馬鹿にするんじゃなくて、上手いことその人が輝くように話題を持っていって、しかもほのぼのと笑える。ああいうのって、芸人として得難い反射神経だよ?」

 そんな風に言われると照れてしまう。
 だって、普段は完全に村田が仕切ってくれているのだ。あの時は珍しく村田が慌てていて、《何とかしなくちゃ》と思っただけだし、他の芸人さんとの遣り取りだって、単に楽しい会話にしたいと思っただけだ。

「きっと、この映画についても言えるんだと思う。まだ詳しい脚本は貰ってないけど、アニシナって監督さんのこれまでの作品を見ると、シリアスな中にも軽妙なお笑いが鏤められているんだよ」
「ふぅん…」

 村田が言うならそうなのだろうか?
 有利はまだ不安を抱きつつも、取りあえず自分の能力を少しは信じてみることにした。



*  *  * 




 ニュージーランドのホテルに着くと、有利は素早く自信を失った。
 正確に言うと、失わされた。

 ホテルラウンジのふかふかした絨毯だの、豪奢な調度品だのに心を奪われる暇もなく、主要キャスト二人から出会い頭に、いきなり強烈な駄目出しを喰らったのである。
 実は言っている意味は外国語だったのでさっぱり意味は汲み取れなかったのだが、そういえば…と、根元的な問題にも漸く気付く。

「むむむ…村田っ!俺…そう言えば英語駄目駄目だよっ!?」

 村田の特訓で日常会話くらいは出来るようになっていたはずだが、早口に捲し立てられる言語がさっぱり理解できない。

「安心しな、渋谷。彼らが今話してるのはドイツ語だから」
「安心できねぇーっ!!」

 単語では多少察しの付く英語ならいざ知らず、ドイツ語になった日には《だんけしぇん》くらいしか知らない。
 そんな状態で一体どうやって台詞を言えばいいのか。

 いきなり演技以前の所で座礁してしまった。



*  *  * 




「こんな黄色い猿が主役だとっ!?」

 ウィーン少年合唱団のような高い美声と、宗教画の天使もかくやと言う美貌の持ち主、ヴォルフラム・ビーレフェルトは激しく激高するあまり、血管が切れそうになっていた。
 愛らしい容姿とは裏腹に、かなり血の気の多い性格をしているのである。

 苦み走った低音と、重厚な演技で《ドイツ演劇界の至宝》と呼ばれるグウェンダル・ヴォルテールも同様に怒りを示していた。

「下品な笑いを提供する芸人…それも、まだキャリアも短く素人同然だというではないか」

 彼らもニュージーランドに旅立つ直前になってから他のキャスト達の資料を渡されたのだが、《なかなかのものではないか》と感心しながら眺めていく途上、よりにもよって主役に任ぜられたキャストが、考えられる限り最悪の人選であることに激高していたのだ。

 飛行機の直行便に乗っていたのでなければ、すぐさま本国に帰っていたかも知れない。

「アニシナ、どういうことだか説明して貰おうか!?」

 ドォン…っとロビーのテーブルを叩くと、普通なら相手は飛び上がって恐れ平伏すのだが、幼馴染みである女監督はしれっとして答えた。

「私の目に間違いはありません。この映画の主役は、このユーリ・シブヤ以外には考えられません」
「この節穴めっ!よく見ろっ!この儒子(こぞう)のどこから主役のオーラを感じる!?」
  
 グウェンダルが勢い良く指を突きつけると、有利は青ざめたまま硬直しきっている。
 その様子がまた苛立たしくて、グウェンダルはつかつかと近寄ると乱暴に肩を掴んで顔を近寄せた。

「おい、何とか言ったらどうなんだ。貴様には誇りがないのか?主役など張る度胸もなく、単に大作映画の話を振られて話題集めの為だけにここに来たというのなら、荷物を纏めて即刻日本に帰れっ!」

 耳朶に直接吹き込むような怒声を叩きつけると、流石に挑まれているのは分かったのか不快げな顔をする。しかし、ぺらぺらと早口で捲し立てる言葉はグウェンダルには理解不能であった。

「何だ、この聞き苦しい言語は」
「日本語ですよ、ヘル・ヴォルテール。彼はまだドイツ語が話せないんです。ゆっくりと英語で喋って頂けますか?」

 横合いから口を挟んできた眼鏡の少年は大賢者役の村田健だろうか?なるほどこちらはなかなかの落ち着きぶりを見せているし、ドイツ語も滑らかだ。しかし…肝心の主役がドイツ語を話すことしかできないのでは話にならない。この映画で用いられる《眞魔国語》も、基本言語体系はドイツ語に近いと聞いている。しかも、英語すらもままならない様子ではないか。これで一体どうやって演技をするつもりなのか。

「ふざけるな!」

 怒り心頭に発したグウェンダルが村田にも怒声を上げると、有利は背後に村田を庇うような位置に立って抗弁をした。相変わらず、意味の分からない言語で…だが。



*  *  * 




「もー、あんた出会い頭にガンガン怒ってくれちゃってるけど、もうちょっと会話になるように歩み寄ってくれよ!」

 文句があるのは有利にだって重々分かっているけれど、それでも《ハロー》もなしに口頭一番叱られたのではこちらも立場がない。何より、意思疎通が図れないのでは説得だって出来ない。

 キャンキャンとポメラニアンのように高音で叫ぶヴォルフラムも、ガウガウとドーベルマンのように唸るグウェンダルも、おそらく有利たちを雑種の駄犬と見なしているのだろう。
 きっと、有利達の経歴を目にした段階で《こいつは使えない》と即時駄目出しされたに違いない。
 
『でも、まだ直接俺のことを知った訳じゃないじゃないか!』

 村田もアニシナも言語問題に気付いているにも関わらず飄々としていると言うことは、きっとこのことに関しては打開策がある筈なのだ。それを全部つまびらかにしてから文句を言っても遅くはないと思う。

「ねえ、聞いてよ…!」

 グウェンダルの袖を掴んで勢いを止めようとしたら、顔を上気させたヴォルフラムが手を振り翳した。多分、《無礼者!》とか何とか時代錯誤な言葉を発しながら。

『ぶたれる…!』

 タイミングと体勢的に避けようがないと悟って目を瞑ったのだが…何故か、いつまでたっても顔に衝撃は来ず、代わりにふわりと身体が浮き上がって、少し後ろに身体が移動する。

「え…?」

 ぱちくりと目を開いてみたら、目の前には広い背中が広がっていた。半袖シャツ越しにも分かる、引き締まった体躯は見事なピッチャー体型で、均整のとれた体躯は長身であるにも関わらず、実に俊敏そうな印象を受けた。見上げた頭部は有利よりも頭一つと半分は高くて、やけに長髪率が高いキャスト達の中にあって、小気味よく切りつめた後ろ髪は逆に目立つ。

 この人は…アメリカ映画俳優のコンラート・ウェラーではないだろうか?
 そう思って背中に手を添えたら、くるりと振り返った彼はにっこりと微笑んでくれた。有利を安心させるように、凄く爽やかな表情で。

『わあ…っ!』

 写真で見たときには他のキャスト達に比べてやや地味目の容姿だと思っていたのだが、実際に目にしてみるととても鮮やかな存在感を持っている。いや、鮮やかとは言っても芸能人にありがちな《俺が俺が》という押しつけがましさではなく、心に染み入るような表情をするのだ。

 琥珀色の切れ長の瞳には綺麗な銀の光彩がちかりと瞬き、薄くて形良い唇が笑みを象ると、なんとも言えない愛嬌が漂う。

「ユーリ、吃驚させてゴメンね?」
「え…?」

 吃驚したのは彼に対してだった。

 彼が発した言葉は…滑らかな日本語だったのである。






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