「くらやみにあめだま」−1





  
  
 
 ドォン…っ!

 突き上げるような衝撃に見舞われた瞬間、渋谷有利の身体が跳ねた。
 
『え…!?』

 一体何がどうなったのか把握が出来ない。何しろ、有利の目元にはがっちりと包帯が巻かれているのだから。それを解いたところで物を見ることはまだ出来ない。永久にそうであるわけではなさそうなのだが、一時的に視覚が失われたこの時に、何も非常事態に巻き込まれることもなかろうに…。

『ど…どうしよう…っ!』

 わたわたと慌てた有利は、結果的に視覚が失われていたことに助けられたとも言える。
 後で知ったことだが、下手に動き回っていたら倒壊した建材に巻き込まれて大怪我をしていたか、最悪の場合命を失っていた可能性もあったからだ。

 だが、この時の有利にそんなことは分からない。
 ソファにしがみついたまま身を低くしている有利の周囲で、轟音を上げて建材が倒れ、ガシャーン、パリーンっと盛んに破壊音が起こるのと、自分の身体が時折浮いてしまうくらい勢いで揺れ動いていることに怯えきっている事しかできなかった。

「たすけて…助けてぇ〜っ!!」

 日本語で叫んでも、救いの手が今すぐ伸びてくるとは考えられなかった。
 おそらく、この建物内に存在する日本人は有利一人だからだ。



*  *  * 




 渋谷有利は15歳の男子中学生である。
 中の下程度のレベルではあるが一応高校にも合格し、中学の卒業式も終えた3月の中旬。入学までののんびりとした…ある面では退屈な時間を過ごしていた。

 そんな日々がなんでまたこんな事態に結びついたかと言えば、その要因は父にある。
 
『ボストンでメジャーの試合を観戦しないか?』

 父の勝馬がそう誘ってきた。
 銀行員である父は一体どういう業務内容からそうなっているのかは分からないが、何故か海外出張が多く、今回もその仕事のついでであるらしい。
 有利のご贔屓のプロ野球チームもオープン戦は始めているが、まだ公式戦ではないのだから特に断る理由もなかった。

 そんなわけで有利は父に引っ付いてボストンにやってくると、着いた3月13日に試合を見に行った。

 ところが、この試合が拙かった。
 いや、試合自体はとても白熱した素晴らしい内容であったのだが、如何せん…観客の方が白熱しすぎたらしい。試合結果に怒りを覚えた観客が、有利の目の前で花火のようなものを炸裂させたとき、火花の一部が目に入ってしまったのだ。

 すぐに病院に連れて行かれて検査をしたところ、角膜に炎症は見られるが、数週間安静にして目薬を入れていれば回復するとの事だった。
 ただ…何せ場所がアメリカだし、初日の試合観戦で目を痛めてしまった有利はホテルに缶詰になることを余儀なくされ、予想外の業務を指示された父は有利を心配しつつも仕事に向かってしまった。

 そんなわけで負傷してから一日はホテルの部屋で大人しくしていたのだが、テレビを付けても当然ネイティブの英語が理解できるはずもなく、目以外は元気であったこともあって、翌日の3月14日になるとついつい部屋から出てしまった。壁づたいに冒険して、すぐに帰ってくるつもりだったのだ。

 ところが…ロビーらしきところに着いたとき、突然の揺れに見舞われてしまった。
 おそらく地震だったのだろう。

「う…」

 漸く揺れが収まっても、ソファから降ろした足の先にガチャリと触れる物があって、びく…っと脚を引っ込めてしまう。どうやら、床の上は瓦礫で埋もれているらしい。

 人は大勢居るようだ。みんな混乱して何処かに向かって逃げていくが、当然のように英語を主体とした理解不能な言語ばかりで、有利が声を掛けても誰にも伝わっていない。

「誰か…お願い。俺…今、目が見えないんです。一緒に安全な所に連れて行って下さい…!」

 片言の英語も繰り返せば、目元を覆う包帯もあって意味は通じたと思うのだが、何しろ緊急事態だ。誰も手を差し伸べてはくれないようだった。

『どうしよう…下手に動くと怪我をするかな?』

 それなら、大人しく公的機関の救援を待った方が良いだろうか?流石に消防隊員は異国民でも見捨てたりしないだろう。

 ところが…どこからかきな臭いような匂いが伝わってくると、人々の悲鳴が上がる。二次災害として火災が起き始めたのだろうか?

『こりゃ、何がどうでも人の動きに合わせて逃げなきゃ!』

 こうなれば一か八かやるしかない。
 両手を宙に浮かせて手探りで歩き出した有利だったが、いきなりドン…っと誰かにぶつかってよろけてしまう。

『ヤバ…っ!地面の上って瓦礫だらけじゃんっ!!』

 悲鳴も上げられずに喉を引きつらせて身を固まらせていたら、不意に身体がふわりと浮いた。力強い両腕が有利の体躯を抱き上げているのだ。どうも深部感覚が指し示すに《お姫様抱っこ》のようなのだが…この際文句は言えない。

「あ…ありがとう…じゃなくて、サンキューっ!」
「あれ…君は日本人かい?」
「え…っ!?」

 驚くほど響きの良い男性の声は、少しイントネーションが独特だが十分に意味の通じる日本語であった。

「英語は出来る?」
「あんまり…」
「そうか、俺も日本語を使いこなせると言うほどではないけど、大体意味が通じれば良いかな?」
「良かった…嬉しいっ!ありがとうございますっ!!」

 感激のあまり、先程までとは違う意味で泣きそうになった。
 優しそうな声の男性は、有利を抱えたまま早足に進んでいく。このまま避難してくれるらしい。

「あ…ゴメンなさい。すぐ降ります。目以外は元気だから…」
「いいよ、今は足下が不安定だし…余震が何時来るか分からないからね」

 男性の腕は余計にがっしりと有利の体躯を抱えると、口元に布地を宛ってくれた。どうやらハンカチのようだ。煙を吸わないようにとの配慮なのだろう。

「すみません、何から何まで…」
「非常事態だもの。《すみません》は無しだよ?」
「あ…じゃあ……ありがとうございます!さ…サンキューですっ!」
「はは…そうだね。お詫びよりもお礼の言葉の方が嬉しいね。出来れば、Danke schon.だともっと良いな」
「だんけしぇん?」

 聞き慣れない言い回しに小首を傾げると、《ドイツ語だよ》と囁いてくれた。どうやらこの人はドイツ人であるらしい。仕事でアメリカに来ている身なのだろうか?
 
「えと…だんけしぇーん!」
「うん」

 一生懸命にお礼を口にすると、くすくすと楽しそうに笑ってくれる。顔の様子は分からないけれど、声や微かに触れる肌の感触から察するに、若くて逞しい人のようだ。きっちりとスーツに身を固めているが、それを介しても胸板の逞しさは明瞭である。何かスポーツをしているのかもしれない。

 こんな事を考えている場合ではないだろうが、色んな事が気になってしまう。

『凄い、親切な人だよな…』

 体力には自信があるようだが、それにしたって普通、このような緊急事態に男子中学生なんか助けられるものだろうか?余程ボランティア精神に満ちあふれた人に違いない。

 

*  *  * 




『困ったな…』

 余裕のある口ぶりで少年を抱えながらも、青年…コンラート・ウェラーは困り果てていた。見ず知らずの少年を抱えていることに対してではない。非常口の殆どが倒壊した建材によって塞がれてしまい、実質的な脱出口が一カ所に限定されており、そこに避難者が集中していることに対して不安を覚えていたのだ。

 グラ…
 グラグラ……

 時折小さな震えが身体を震わせるが、これが本当に余震であるのか、ホテルが更に倒壊しつつあるのかは判じられない。
 しかし、焦る気持ちを態度に示すことは出来なかった。

『可哀想に…目が見えなくて、余計に不安なんだろうな』

 腕に抱えた少年は小動物のように四肢を強張らせ、コンラートだけを頼りとして身を預けている。東洋人独特の華奢な体躯はしなやかで、細い割に筋肉もあるのか…実は意外と重量はある。それでも適度な筋肉の弾力が気持ちいい。目元が見られないのは残念だが、こぶりで形良い鼻や唇の均衡から考えて、かなり可愛らしい顔立ちをしているのだと思う。

『いや…何を考えているんだ』

 非常事態だからこそ、余計にのほほんとした方向に思考が向かうのだろうか?コンラートは苦笑しながら脱出口を探した。
 
『宿泊予定ならある程度建物の構造を確認していたんだけどな』

 今更ぼやいても始まらない。
 仕事相手との待ち合わせにこのホテルのカフェを使ったのだが、渋滞に巻き込まれた相手がなかなか到着しないことに焦れている最中、地震に巻き込まれたのである。

 グララ…っ…!  

「…っ!」

 また強い振動が起こり身を屈めると、抱えられた少年は小さく悲鳴を上げてコンラートにしがみついてきた。

「あ…ごめ……っ」
「お詫びは要らないっていったろ?ええと…」

 そう言えばお互いに名乗りすら上げていなかったことに気付く。

「名前を教えてくれるかい?俺はコンラート・ウェラーというんだけど…」
「俺は有利です。渋谷有利」
「ユーリって呼んで良い?」
「はい。えと…こんらぁ…ええと、こんらぁ…っとさん?」
「コンラッドでも良いよ」
「はい、コンラッドさん」
「《さん》はいらないよ」

 どうしてだか拘ってしまう。このような状況で身を寄せ合っているせいで、より強い親しみを共有したいのかもしれない。

「でも…」
「良いから、コンラッドって呼んで?」
「はいっ!」
「ん、良い返事だ」

 頷いたコンラートだったが…改めて視線を送ると、濛々と立ち込めていた煙の向こうに絶望的な映像を見つけ出した。

『非常口が…!』

 なんということだろう。唯一の脱出口が塞がれ、我先にと殺到していた連中が呻き声を上げているではないか。建材が脱出中の人々にのし掛かってきたのだ。 

 恐慌状態に陥った客達がホテルのフロントマンに掴みかかるが、上役に当たる連中が真っ先に負傷でもしたのか、お仕着せを着た年若いフロントマン達は狼狽えるばかりで戦力になっていない。

「コンラッド…あの、さっきから動いてないけど、怪我でもしたの?」
「ううん、違うよ。こういうときこそ順次脱出していかないと混乱するからね。順番待ちをしているんだ。もう少し待ってね…必ず、安全な場所に連れて行ってあげる」
「うん…!」

 こくんと頷く有利は大変愛らしく、コンラートは内心の焦りとは裏腹に不思議な幸せを感じてしまう。同時に、強い責任感もひしひしと肩に食い込んでくるのだった。

『何とかして、この子を助けてあげたい…』

 不安に萎縮しきった有利を何とか励まそうと頭を捻っていたコンラートは、ふと胸ポケットに入れたものを思い出した。

「ユーリ、胸のポケットの中に小さなビニールが入ってるから、取り出してくれる?」
「うん」

 手探りで有利が探し出したのは、可愛らしいリボンで飾られた小さなビニールと何個かの飴玉だった。

「包みを開いて、口に入れて御覧?甘いから少し落ち着くよ」
「ん…」

 有利は一つ開いて言われるまま口に放り込みかけたものの、手を止めるとコンラートの顔に手を添えて口元に添わせた。

「コンラッドがまず食べて?勤労してるんだもん」
「はは…勤労かぁ」

 くすくすと笑いながら飴玉を口に含むと、予想外に芳醇な味わいが広がる。濃厚なミルク味のソフトキャンディーであるらしい。

「こういうの、いつも持ってるの?」

 自分も飴を口に含んだらしい有利が、ちょっとあどけない声で尋ねてきた。

「いいや、午前中に会った知人が《ついでにやるよ》ってくれたんだ。何でも、バレンタインデーのお返しに、女性社員に配っているとか言ってたっけ…」
「ひょっとして日本人?」
「そうだよ。日本にはバレンタインデーのお返しを一律するって習慣があるの?」
「元々は無かったらしいけど、学校とか職場で《義理チョコ》とか貰うと、男は3月14日のホワイトデーってやつに何か白っぽいお菓子を返さなきゃいけないんだって。絶対お菓子会社の陰謀だよ!」
「ふぅん…でも、ご相伴に預かれたから少し感謝すべきかな?」
「そうだね、この飴…美味しいし」

 少々憤慨したのが気恥ずかしいのか、有利はころころと舌の上で飴を転がしては甘い香りをさせる。何ともその様子が可愛らしくて、コンラートはまた《助けたいな…》という思いを新たにするのだった。

『何か…方法はないか?』

 コンラートがくすんだ風景に目を凝らして脱出口を探すと、先程崩れた扉の脇に、太い鉄材が転がっているのに気付いた。

「少しだけここで待っていて?脱出口を塞いでいる建材をどかしてくるからね」
「う…うん…っ…」

 一瞬怯えたようにコンラートのスーツを掴み、《離れたくない》という風に眉根を寄せた有利だったが、懸命に自分を奮い立たせると強張った笑顔を浮かべてコンラートを送り出した。

「気を付けて…!」
「ああ、君も良い子にして待っているんだよ?」

 冗談めかして額にキスを送ると、何が触れたのか分からなくてきょとんとしていたが、それが唇であることに《ちゅ…》という音から察したのか、急に頬を真っ赤に染めた。
 からかい甲斐のある子だ。

 コンラートは足早に扉へと近づくと、フロントマンや周囲の被災者に呼びかけて鉄材を用い、崩れた扉をこじ開けるのに成功した。

「やった!これで逃げられるぞ!!」

 開けた視界の向こうにはレスキュー隊の制服も垣間見える。
 これで一安心…。

 そう思った瞬間、ズドォン…っ!という激震が襲いかかった。

『ユーリ…っ!』 

 頭上に落下してくる建材の影を視認しながらも、人混みに囲まれたコンラートは逃れることが出来ずに…衝撃と共に意識を失った。



*  *  *

 


 悲鳴の中に、コンラートの声が含まれていたような気がした。

「コンラッド…コンラッド…!?」

 《良い子にして待っているんだよ》…そう言い含められたけれど、有利は突き上げるような不安に駆られて手探りで歩き出す。瓦礫が足下をぐらつかせ、何度も転びそうになったけれど、声を枯らして知り合ったばかりの男を呼んだ。

「コンラッド…コンラッドぉーっっ!!」

 ふらふらとよろめきながら歩んでいった有利が、そこに行き着けたのは奇跡に近かったろう。地面に転がる瓶にとうとう足下を掬われて勢いよく転んだとき、ふわりと覚えのある香りがしたのだ。

 それは、まだ有利の口の中にある飴と同じ匂いだった。

「コンラッド…っ!」

 精一杯の声で叫べば、至近距離から《ユーリ…》という小さな返事があった。

「コン…コンラッド!?」
「ユー…リ……?」

 血相を変えて辺りを手で探っていたら、弱々しい力でゆるりと手首を捉えられる。ぬる…っと暖かな水気が触れたのが、血なのだと察して喉が強張った。

「怪我をしてるの!?コンラッド…大丈夫?」

 大丈夫なはずがない。
 ああ…なんということだろうっ!
 きっと、有利なんて足手まといを救うために時間を取られていたから逃げ損ねたのだ。

「ゴメンね、ゴメンね…コンラッド…!俺のせいで、こんな…!」
「お詫びは…無しっていったろ?」

 こんな時にまでその約束事を持ってこないで欲しい。
 泣きそうになるのをぐっと堪えて、有利は自分の目元を覆う包帯をほどくと手探りで出血部位を探した。

「包帯…取ったら、余計に目が…」
「だって、コンラッドの血の方が大変だよ。お願い…どこから出てるか確かめさせて?血を止めなくちゃ…っ!」

 悲痛に掠れる声で叫べば、コンラートがぐったりとしながらも出血部位に手を引いてくれた。握力が相当失われているのか、先程まで有利を楽々抱え上げていたとは思えないくらい、手の力は微かなものだった。

『コンラッド…!』

 目元に張られたガーゼに、堪えきれなかった涙が滲む。
 唇を噛みしめて嗚咽を殺せば、血に濡れたコンラートの手がそっと頬を撫でていく。

「泣かないで…」
「泣いて…ないよぉ…っ…」

 そうはいうものの、声を出した途端に《ひっく》と泣きじゃっくりが出てしまう。

「う…ぅう〜…」
「ゴメンね…助けてあげるって言ったのに、脚…瓦礫に挟まれたみたいだ。骨は折れてないと思うけど…ちょっと、動けない」
「どこ!?脚…あ…っ!は、早く言ってよっ!」

 コンラートのように《詫びは要らない》何て言うような余裕はなかった。
 有利はコンラートの身体を伝って瓦礫に挟まれた脚を見つけると、傍にあった棒を突っ込んで懸命に裂隙へと押し込んでいく。

「頑張って…コンラッド、絶対助かるから…!」
「ああ…」

 コンラートは《ユーリだけでも逃げるんだ》なんて、馬鹿なことは言わなかった。そんなこと出来ない気質だと分かってくれているのだろう。

「一緒に助かろう…!絶対、絶対…!」
「そうだね、ここから出たら…一緒に…」
 
 頭を打っているのだろうか?コンラートの声が掠れて…弱くなっていく。
 有利が持てる力の限りを尽くして棒を押し込むと、横合いからコンラートの身体を引っ張る者がいた。英語で捲し立てられているから意味はよく分からないが、多分助けてくれようとしているのだと思う。

「お願い、この人を助けて…っ!」

 悲痛な叫びを上げる有利もまた、別の腕に引かれて立たされると肩を貸されて誘導された。少しつるつるとした特殊な素材は、多分メタリックなレスキュー隊の制服だ。

『助かった…の?』

 しかし、手を引かれながらも有利の不安は益々強くなってしまう。何故なら、先程まで息が掛かるほど近くにいたコンラートと引き離されてしまったからだ。

『コンラッド…っ!』

 伸ばした手の先に、もう飴の香りはなかった。

 
 

 


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