「君を護り隊」−6 お風呂とトイレで、各自短くも切ない時間を過ごした後(何をしていたかは聞かないで欲しい)、二人はぴったりのタイミングで有利の部屋の前に顔を揃えた。 「寝よっか?」 「ええ」 有利としては、《寝る》という言葉に他意はないつもりだったのに、軽く上擦ってしまったことにコンラートは気付いているだろうか?心持ち足取りもふわふわと覚束なげに、有利は自分の布団へと向かった。 部屋の中にはいつもより心地よい香りがしている。美子が布団を干しておいたり、換気をしてくれていたおかげらしい。心遣いに感謝しつつも、ふかふかとした布団に潜り込もうとして、有利はちらりと傍らを見やった。ベッドの横には客用布団が敷かれていて、コンラートもその中に入る途中だった。 『何でもない顔して、コンラッドの布団にするっと入ったらどんな顔するだろう?』 そんな発想がぽこんと浮かびはするが、流石に実行には移せなかった。家族と一緒の家で誘い過ぎるのは、コンラートにも悪かろうと自重したのだ。第一、自分が一番我慢がきかなそうだし。 それでも想いが通じ合ったのに別々に寝るというのも寂しくて、何でもないような会話を交わしながら、そろろ…っと手を伸ばしていく。すると、ひたりと冷たい肌が指先に触れた。 薄闇の中で目を凝らすと、窓から差し込む月明かりの中で淡い虹彩がわりと微笑んでいる。コンラートも、同じ気持ちでいてくれたのだろうか? 「コンラッドの手、冷たいね」 「ユーリのは暖かいね」 有利に冷たい思いをさせてはならじと思ったのか、遠慮するようにすぐに手を引っ込めようとするから、慌てて人差し指をぎゅっと握ることで引き留めた。 「このまま、握っときたい」 「冷たいよ?」 「いいよ」 子どもみたいに一途に握り込んで離さなかったせいだろうか、コンラートは大人の顔で苦笑して、繋がった手の上にふわりと布団を掛けてくれた。繋がったままでも、寒くないように。 「こうして寝ましょうか」 「うん」 やっぱり、コンラートのこういうところが大好きだ。 触れているのは指先だけなのだけれど、まるで心ごと包み込まれているような心地で有利は瞼を閉じた。 安心しきって、すぐに健やかな寝息を立てた有利は知らない。 健やかな眠りにつく有利を見つめながら、コンラートが静謐な眼差しを浮かべていたことを。 * * * 触れ合う指先の熱が、胸に沁みてくる。 身じろぐ動きにさえ感じて、コンラートは甘い吐息を漏らした。 『幸せだ…』 堪らなく、幸せだ。 それでいて、心の中に恐れを感じているのは…これからやってくるだろう苦しみを知っているからだ。 これでコンラートは決して有利の傍からは離れられない。 そして、傍にいれば必ず有利を求めてしまう。今まで以上に、具体的に。 あるいは有利の方から求めてくるかもしれない。 ああ…だが、欲望が強くなればなるほど、アニシナの装置はさぞかし効果を発揮することだろう。しかし一片たりともその苦痛を有利に悟らせるわけにはいかない。 『これはヴォルフに隠れて、ユーリと心を通じ合った罰だろうか』 大事な弟が、それ以上に大切な有利を愛してしまっていることがコンラートにとっては大きな枷となっていた。 眞王の命令とはいえ、有利に離反したように見せかけて大シマロンに渡ったのも、目の前で有利がヴォルフラムのものになっていくのを見たくなかったのかも知れない。 けれどそんな怯えを破壊するように、有利は一心にコンラートを求めてくれた。 『帰って来いよ、コンラッド…っ!』 心から血を滲ませるような思いで振り払った手は、その度に酷く傷ついたろうに…何度も、何度も粘り強く伸ばされた。とうとう拒絶しきれなくなったのは、ベラールに死刑執行者として任命された時だった。 何もかも中途半端だと分かっていても、全て投げ出さずにはおられなかった。 愛おしい…誰よりも愛している少年に、剣を向けるだけで心が張り裂けそうだった。 それ以上謀り続けていれば、コンラートの心を生きながらにして壊死させてしまったことだろう。 『あの時に比べたら、幻覚だと分かっている分…幸せに違いない』 どのような幻覚に晒されようとも、きっと平気な顔をして過ごせる。1年と半年、有利が地球で過ごしている間、別の誰かを護衛として任命するくらいなら、コンラートは甘くて厳しいこの罰に、耐えてみようと思った。 * * * ふぅ…っと有利の意識が、淡い色をした空間に浮かんでくる。 もう夜でないのは分かる。でも、起き出す時間帯としては早すぎるのではないだろうか?時計へと視線を向けようと思うけれど、欲望に忠実な眼差しは時間確認よりも恋人確認に向けられる。 『いる…。うん、ちゃんといる』 ほっと安堵したことで、無意識の内に昨日のことが夢だったのではないかと懸念していたのだと知れる。 でも、大丈夫。指先は少し痺れていたけれど、ちゃんと恋人の手を握っている。きゅうっと手に力を込めろれば、応えるように握りかえされるから、瞼を閉じていても彼が起きていたのだと知れる。 「起きてる?」 「ええ。早起きですね、ユーリ」 「あんたこそ」 まだ意識の殆どが微睡んだままの有利に比べて、コンラートは身を横たえてはいてもしっかりと覚醒しているようだった。枕元には縮小拡大自在な剣が置かれ(普段は爪楊枝ほどの大きさにして袖口に隠しているらしい)、布団から身を起こす動作には一分の隙もない。いざとなったら、すぐさま戦闘態勢に入れるようにしていてくれたようだ。 「護衛ですから…と言いたいところだけど、嬉しくて…眠るのが勿体なかったんです」 「…すみません、グーグー寝て」 「いえいえ。おかげで、寝顔を堪能できました」 くすくすと笑み零れるコンラートの鼻をきゅっと摘めば、腹が立つくらいに高い。 「痛いよ、ユーリ」 「ごめん」 謝りつつも、余計に嬉しそうに笑っているものだから、続けてむにりと頬を掴む。 『すべすべだ』 元々の肌理が細かいのに加え、右の眉に傷こそあるものの、全身の傷に比べて顔や首筋にはあまり傷がない。指揮官として基本的に兜は被っていなかったようだから、きっと奇跡的なことなのだろう。 コンラートに与えられた過酷な運命も、この綺麗な顔を潰してしまうのは躊躇われたのだろうか? 指先に当たる感触が心地よくてそっと唇を寄せていけば、甘えるようにコンラートも擦り寄ってくる。至近距離で見つめた眦は、見ているだけで嬉しくなるほど無邪気な風情を滲ませていた。 こんな子どもみたいな顔をすることがあるなんて、昨日までは知らなかった。 『可愛い…』 ふくふくと湧いてくる愛おしさを抱いて、ちゅ…っと頬にキスをする。 「おはようのキス?」 「うん。あんたもちょーだい」 「唇にしても良い?」 「それは…」 昨夜の感触を思い出して、ぼんっと頬が朱に染まる。ただ触れ合うだけとはいえ、敏感な唇同士でのキスは朝から交わすには熱すぎる。 「よ…夜にしよう?今やったら、一日悶々しそう…」 「確かに」 くすす…っと笑って、コンラートの薄くて少し冷たい唇が頬に触れる。 よく知っている顔なのに、表情が少し異なるだけでこんなにも印象が代わるものなのだと、初めて気付いた。 『これが、恋人の顔?』 《恋人》という単語に、ついにまにまとした笑いが込みあげてきて口元を両手で覆ってしまう。コンラートは何となく分かっているだろうに、ちょっぴり意地悪そうな表情を浮かべて問いかけてきた。 「どうしたの?」 「なんでもない」 「じゃあ…口元を見せて?」 「いいよ?…ほら、何でもないだろ?」 殊更難しい顔をしてから掌をどけるけれど、コンラートがこちらを《じぃ》…っと見つめて実に嬉しそうな顔をするものだから、くつくつと胸の中で気泡がはじけて、結局吹き出すようにして笑ってしまう。 「ぷ…くく…っ!」 「ふふ…」 勢いよく飛びつくと、そのままごろごろと布団の上を転がって笑い合う。もう、何がおかしくて笑っているのか分からなくなっているけれど、どうしようもないほど笑いの波動が込みあげる。 これが噂の《箸が転んでもおかしい》という現象だろうか? きゅふっと抱きしめたパジャマからは、お互いよく似た匂いがした。 * * * 散々イチャイチャしてから起き出すと、有利の携帯に着信履歴とメールが数件入っていた。マナーモードにしていた上に、バイブ機能もカットしていたから全く気付かなかった(よくそれで文句を言われるのだが、静まりかえった部屋の中で携帯が急に震えるのが心臓に悪いのだ)。 確認してると送り主は全て同一人物で、有利の草野球チームに所属する社会人、加瀬武雄からだった。 「なんだろ…」 小首を傾げながらメールを見てみると、随分と切羽詰まった様子の文面だった。 「え〜?バイトのお願いって…」 加瀬は小さな雑誌編集社の社長をやっているのだが、ここ数週間は続けざまに記者やモデルがインフルエンザに感染して使い物にならなくなったとかで、練習どころの騒ぎではない忙しさだとは聞いていた。その彼から急にバイトのお願いが入ったのだが、どうもその内容に眉根を寄せてしまう。 「どうかしましたか?」 「う〜ん…なんか、俺の野球チームのメンバーが凄く困ってるみたいなんだけど…《一生のお願い》とか言われても、写真に撮らせてくれってのはなぁ…。う〜…どうしよう」 ぴくん…とコンラートの眉が跳ねる。それも当然で、そもそも彼が眞魔国から無理をして地球に来てくれたのは、有利が迂闊な行動をして怪我するところだったからである。その上、マニアックな格好で戦ってしまったせいで、どうやら世界のメイドマニアを唸らせてしまったらしい。ここにきて自発的に変態さんを呼び込むような動きを見せたとあっては、幾らなんでも怒られてしまうだろう。 「ユーリ…分かっていますよね」 「うん。分かってる…分かってるんだけど……」 加瀬は実に気のいい男で、商売上のつてを使ってとはいえ、自腹を切ってチームの道具を購入・寄付してくれたり、運営上の悩みにも気さくに応じてくれていた。その彼が困り果てている時に、何も出来ないなんてやっぱり辛い。 どうやら加瀬の会社は無理をして発行した前号にミスがあり、回収作業を余儀なくされたことで一気に経営が傾いてしまったらしい。起死回生のネタとして、一部ネット世界を騒がせている有利の写真と共に、インタビュー記事を載せたいというのだが…。 「うぅ〜ん…俺が変な人に狙われる危険性もだけど、俺なんかを扱ったせいで加瀬さんの会社が完全に転覆したら目も当てられないよな…」 普通に考えて、美少女ならともかくこんな中途半端な顔をした男子高校生を扱ったからと言って、雑誌が売れるとは到底思えない。それこそコスプレをしまくったとしても、ウケる市場が海外ではどうにもならないだろう。 「ん…あ、そーだ!」 「…どうしました?」 おや、何故コンラートの表情が先程にも増して厳しいのだろうか? 心なしか、《あんたナニ言い出す気ですか》という顔をしている。 「ほら、オーギュとラシード!あの二人って結構な金持ちっぽかったよね?多少際どい写真を撮って、あの二人に売ったら少しは足しになるかな?雑誌に載っちゃうよりは、これ以上変なヒト人口を増やさずに済むし…」 《ふぅ〜…》と、コンラートの形良い唇から深すぎる吐息が漏れる。どうやら、彼には激しく不評であったらしい。 「ユーリ」 「…はい」 やはり、名を呼ぶその声はずしりとした重みを持っている。思わず布団の上に正座をして構えてしまった。 「三つ観点から、反対します。一つは、王たるあなたの品位を下げたくないこと。もう一つは、カセ氏はあくまで出版社としてあなたの記事を載せたいと希望しているのだから、一部の客に写真だけを売るというのは筋違いだと言うこと。もう一つは…」 幾ばくか躊躇しながらも、コンラートは静かに思いを告げた。 「…恋人として、あなたのプライベートな写真をあのような連中に渡すのは…嫌です」 「コンラッド…」 きゅう…っと胸が締め付けられて、泣きそうになる。 申し訳ないのと同時に、愛されているなとも感じてしまって、後悔と嬉しさが変な具合に混ざり合っている。まるでアイスクリームに醤油を掛けたような塩梅だ(試したことはないが)。 「ゴメンね…でも、他の方法は無いかな?」 「そういえば、カセ氏の希望は女装なんですか?」 「え?」 そういえば、そんなことは一言も書かれてはいなかった。けれど…だったら余計に商業的価値があるとは思えないが? 「俺の普通の写真なんて載せちゃったら、絶対売れないよ〜っ!」 「ですが、まずは確認してみてはどうですか?」 「うん…」 まだ早い時間だから、出はしないだろうと思いつつ電話を掛けてみたのだが、加瀬は縋り付くようにしてワンコールで出てくれた。 話をしてみると、やはり加瀬としてはコンラートの言うとおり、別に女装はしなくて良いのだという。《普段通りで良いんだよ》との言葉に後押しされ、物は試しと今日の放課後に会社へと赴くことになった。 昼はまたしてもオーギュとラシードが(今度は後者も入校証を取って)やってきたものだから、まくのに少々手間取ってしまった。 * * * 加瀬の経営する出版社は本当にちいさなところで、一軒家ですらない。マンションの一室に看板を掲げてカセ出版と掲げてはいるが、発行している雑誌はいずれも出版数は少なく、たまに発行する写真集も対象が地味なのか、いつもとんとんで黒字というところらしい。 当然カメラマンも自社社員というわけではなく、その都度契約するフリーカメラマンだ。 ただ、フリーとはいえカセ出版とは馴染み深い男性カメラマン小津は、有利とコンラートを見るなり嬉しそうに相好を崩した。目尻に寄った笑い皺は人が良さそうで、あまり《業界の人》という印象はない。芸術家独特の気取りもなくて、写したい対象を素直に愛でる気質のようだ。 「かっちゃん、こりゃあ良い子だわ。つか、渋谷君の付き添い子は撮っちゃ駄目なの?」 「うんうん。それは僕も思った!渋谷君、その子にも頼んで良いかな?学生服より、スーツとか着せたいんだけどねぇ!」 「いやいや、かっちゃん。そりゃそっちの方が似合うかもしんないけど、記事の雰囲気壊しちゃうデショ?」 「あ〜…確かに!」 「カメラマンに言われてちゃしょーがないデショ?」 「ごめんごめん」 うははと笑う加瀬の目元には、色濃い隈が陣取っている。きっと何日も寝ずに仕事をしているのだろう。そこに致命打を与えてしまいそうで申し訳ないが、加瀬に《頼む》と言われてはしょうがない。 不束者で申し訳ないが、精一杯務めさせて貰おう。 「よろしくおねがいしまっす!」 「ああ、挨拶も元気で良いね」 うんうんと頷いてから、小津はぱしゃりとシャッターを切る。 「え?こんな普通のとこ撮るんですか?」 「気構えなくて良いからね。ああ、ウェラー君も気軽にしてて。上着を脱いで、シャツの袖口も緩めてくれる?」 「こう…ですか?」 コンラートが上着を脱いでシャツを七分ほどにざっくりと折ると、それだけで随分と雰囲気が変わる。緩やかな風情が出て、表情も伸びやかになってきた。 「んじゃ、写真撮りながらインタビュー受けてくれるかな?」 「はいっ!」 「ああ、気負わなくて良い良い。いつもどおりでね」 加瀬はそういうと、有利に幾つかの質問をしていった。 その主体はまだ少し懸念していたような女装の話ではなく、等身大の《渋谷有利》についての内容だった。 草野球チームを立ち上げるに至った経緯や学校生活のこと、困った人を見ると助けずにはいられないこと(その中に、文化祭で逃亡犯を蹴り倒したことも聞かれた)。 実に地味な話ばかりだと思うのに、加瀬は《それで良いんだよ》と繰り返して、PCに記事を打ち込んでいく。 何枚か撮った写真のデータ(ちゃんとしたものは、これから屋外で撮るらしいが)と合わせて、画面に映し出された誌面のゲラを見せて貰うと、あまりにも爽やかそうな姿や記事に顔から火が吹き出そうになる。 日差しを受けてやわらかに微笑む有利は、ふんわりとした質感の中にも凛とした芯を感じさせる…ように、撮ってもらっていたり書かれていたりした。 「な…何か美化しすぎ……」 「そんなことないさ。渋谷君はいつだって、俺には眩しいよ?」 「またまたぁ…!」 そんな様子を横目で見ていたコンラートは、物思うげな加瀬の眼差しに、微かに瞳を眇めた。
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