「お庭番の観察記録」C
〜フォンクライスト卿篇〜
陛下はまだまだまだ中庭の木陰でお休み中だ。
毛布にくるまれ、宛われたうさぎの縫いぐるみに頬をすり寄せている姿は、もはや殺魔族的な愛くるしさを纏っている。
使用人達は通りがかるたびに目をハート型にし、用事を作ってはわざわざ中庭の傍を通り過ぎていく。
単純に眺めていたいという欲望もあるだろうが、万が一不埒な真似をしようとする者が現れたら飛びかかってでも止める気なのかもしれない。
すぅ〜
すぅ〜…
健やかな寝息を立てる唇はちょこんと突き出しており、口吻を待つ蕾のような淡紅色をしているのだからなおさらだろう。
そこに楚々とした足取りで一人の麗人が立ち寄った瞬間…付近を歩いていた者たちの頬に緊張が奔った。
「まぁ…陛下…っ!」
美貌の王佐は陛下の寝姿に気付くと嬌声をあげ、頬を薔薇色に染めて駆け寄ろうとした。
…が、使用人達やヨザックが飛びかかる直前に急停止をすると、もじもじしながら両手を胸の前で揉み合わせた。
「ああ…いけない。陛下がこんなにも安らかにお休みされているというのに、駆け寄って叫んだりしたら迷惑ですね?愛らしき顔(かんばせ)を間近で目にし、馨(かぐわ)しい体臭に鼻腔を燻られるようものなら…折角の眠りを種々の汁で穢してしまうことになりましょう…」
…意外だ。
この王佐、意外と自分を理解している。
「でも…ちょっとだけ……後一歩だけ近くで、ご様子を拝見させて頂いても良いだろうか…?」
いや、よくない。
使用人達とヨザックはググっと腰を落としていつでも突撃できる体勢をとった。
どのくらいが王佐の臨界点なのか確認できていない以上、どの程度の差異で汁が噴出するか分かったものではない。
じり…
ググ…
じわじわと王佐が陛下に接近していくたびに、場が異様な緊張感に包まれる。
『ど…どこだ?どこら辺が限界なんだ?』
ひりつくような焦燥感に苛まされながら間合いをとるあいだに、気がつけば結構な距離まで王佐は接近していた。
「ん…んぅ〜…」
気配に気付いたわけでもないのだろうが…陛下がころりと寝返りをうち、仔猫みたいな声を上げて伸びをした。
『う…っ!』
心臓の機能に変調を来しそうなほど可愛い…っ!
だが、この場面でその仕草は反側だ。
王佐の汁が陛下に飛び散るまでに、身柄を確保できるか…っ!?
…しかし、それは杞憂だった。
王佐はその場にがくりと膝をつくと、勢いよく自分の服の中へと汁を噴出させたのである。
ブシュウゥ〜……っ!!
呆気にとられた人々が見守る中…自らの汁にまみれた王佐は恍惚とした表情を浮かべている。
「ああ…陛下の眠りを妨げずにすんだ…。これからはこの方法でいきましょう…」
《うふふ》…とはにかむ表情は、地盤が綺麗なだけに紅いものに顔の下半分が染まっている様子が…怖い。
『アルノルド帰りすら怯えさせるとは…ギュンター閣下、恐るべし…』
「でも…どうしましょう。ベタベタしてきましたねぇ…。でも、あのような場所に陛下をお一人で寝かせておくわけには…。全く、コンラートはどこに行ったのでしょう?それに、あの愛くるしすぎるにも程がある枕だ縫いぐるみだのはグウェンダルの仕業ですね?兄弟揃ってなんたるさまでしょう…!」
王佐はぶつぶつと文句を言っているが、《なんたるさま》にかけてこの方に勝てる者はいないように思われる。
そもそも、勝負自体したくないだろう。
「ギュンター閣下、どうかなさったんで?」
またしても偶然通りがかったという顔をしてヨザックが近寄ると、王佐は恥ずかしそうにハンカチで顔の下半分を覆った。
「これは失礼!ちょっと転んで、鼻を打ってしまったのですよ」
「そりゃあ大変だ!閣下の美貌に疵がついては、悲しむ婦女子も多いでしょうね!」
ほほほ…
ははは…
わざとらしい笑いを交わしつつ、王佐は来たときと同じように楚々とした足取りでその場を離れていった。
『あの方もなぁ〜…。陛下が来られるまでは眞魔国三大美人に名を連ねて、憧れてる連中も多かったんだけどな…』
しかし今は今で味があり、特異ながら愛嬌すら感じる…と思うのは自分だけだろうか?
少なくとも、彼は陛下がこの国に来たときからの数少ない擁護者であり、現在も人間世界と深く結びつこうという眞魔国の進路を快く受け入れ、もてる能力の限りを尽くして施政を支えているのは真実だ。
『俺はさぁ…あの方、結構凄いと思うんだよね?』
汁のことばかりが強調されがちだが、これまで過ごした日々の中で人間に対する隔意がなかったはずがない。それを押さえてでも陛下の為に尽くそうとしているのは、盲目的な愛情の為ではなく、その意図と効果を正確に理解しているからだ…と思うのは、買いかぶりすぎだろうか?
ヨザックに意外と評価されていることを知ってか知らずか…王佐は裾捌きも鮮やかに回廊を抜けていく。
頑張れ王佐。
まけるな王佐。
いつか正しく評価される日も来るぞ…!
…と、ヨザックはひっそり励ましのエールを送るのであった。
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