「キャンバス」−4





 
 
 
 その日、遅くなってから渋谷家に帰還した有利は、リビングで苛々とした勝利が待ち受けているのを見て舌打ちした。何だってこんな日に限ってちゃんと家にいるのか。

「遅くなりまして…」
「全くだ!もう8時だぞ?」
「だから先に御飯食べててって、お袋に電話したじゃん」
「そういう問題じゃない。それに…お前、そのズボンはどうした?お前のじゃないだろう?」

 何だってこう目敏いのか。

 平凡な高校にどうにか合格した有利と違い有名大学に通う兄の勝利は、普段は出来の違う弟を馬鹿にしたりしているのだが、その根っこは傍迷惑なほどのブラコンである。
 勿論、家族なのだから軽蔑されたり嫌がられたりしているよりは遙かにマシなのだが…こうも干渉してくると正直面倒くさい。
 それでも正直に答えてしまうのは、もう習慣としか言いようがなかった。
 もしかすると、何だかんだ言いながら有利の方もブラコンなのかも知れないが…認めたくはない。

「…借りたんだよ。俺がはいてったズボンとパンツに、飲み物零しちゃったから…」
「ぱぱぱ…パンツぅっ!?」

 しまった、やぶ蛇だったらしい。

「お前っ!よそんちでパンツが汚れるような何をしたんだっ!」
「何もしてねぇよっ!ちょっとモデルになってただけで…」
「モーデールーだーとぅお!?」

 勝利の声は音調を外して甲高く響き、きんきんと耳を突くその音に辟易してしまう。

「どんな格好をしたんだ!セーラー服か?猫耳か?ま、まさか…スクミズを着たんじゃなかろうなっ!?」
「なんだよ掬う水って…」
「スクール水着だっ!男の永遠の憧れだっ!」
「そんな極狭範囲の嗜好を男全体にスタンダード化すんなっ!つか、そんなの着るはずないだろっ!?ちょっとパンツ一丁になってただけで…」
「パンツ一枚のあられもない姿になっただとぉおおっ!?」

 もう手が付けられない。高校生の弟がモデルをやったと言うだけで、ここまで理性が崩壊する兄など世界に何人いるのだろうか…。

「ゆーちゃん、でも…パパもちょっと心配だぞ?それはちゃんとした人なのかい?変な写真とか撒いたりされないかな…」
「写真じゃないよ。絵を描く人だよ。コンラッド…ああ、違うくて…ええと、コンラート・ウェラーっていう人だよ」
「えっ!?」

 その名前に、予想外の場所から声が発せられた。美子が若ぶりなエプロンを翻して詰め寄ってきたのだ。

「ゆーちゃん、その人ってば琥珀色の瞳をした、ダークブラウンのサラサラヘアーの美形男性!?」
「う…うん。コンラッドの方が俺なんかより全然美形でさ、モデル頼まれそうな人だったよ?」
「そうだわ。ママ、写真持ってるかも…」
「え?」

 美子ががさごそと本棚を探ると、少し前のものと思われる雑誌が出てきた。派手な見出しが踊る婦人雑誌の表紙には韓国俳優が笑顔で映っていたのだが、お目当てはそこではなかったらしく、付箋のついたページをぱらりと捲ると美子の顔が輝いた。

「もしかして…この人じゃないっ!?」
「…ホントだ…」

 《送っていこう》との言葉を断って帰路に就いた有利は、振り向きざま目にした夜景の中の館に、《やっぱり夢だった…とかじゃないよね?》と軽く不安になったものだ。身につけている大きなズボン(裾は恥ずかしながら三段に折り返している)と真新しいボクサーパンツが《夢じゃないよ》と教えてくれたのだけど、こうして母親の購入した雑誌の中にコンラートが映し出されていると、何とも奇妙な感覚がある。

 見出しには《絵画界の貴公子を襲った突然の事故》…《結婚を目前に控えた女性との無理心中か!?》とのギラギラした字体が踊っている。それらは、コンラートの端正な横顔の写真と、もの悲しい絵画とを斜めに切り裂くような配置が為されていた。

「なに…これ……」
「コンラート・ウェラーってドイツの人なんだけど、結構有名な新進気鋭の画家だったのよ。ママ、ワイドショーで写真を見たときに一目惚れだったのよぉ〜」

 コンラートの絵は日本人の間では特に評価が高く、少し寂しげな絵柄ながら希望の光が仄明るく照らすような印象が認められ、かなりの高額で取引されていたらしい。そのせいか、ドイツで起こった事件だというのにこうして日本の女性雑誌に掲載されたようだ。

 食い入るように文字を読み進めていくと、胸が苦しくなるようなコンラートの過去がそこに綴られていた。
 
 それは2年前に起きた交通事故に関するものだった。コンラートとスザナ・ジュリアという女性が共同で開催した展覧会の初日、イベント終了後にコンラートが運転する乗用車でジュリアの自宅を目指していた。その道中、反対車線から突っ込んできた大型トラックを避けきれずに、車体ごと崖下に転落したのだという。

 コンラートは大怪我を負ったものの奇跡的に生還したが、女性は即死だった。

 そして悲劇的だったのは、その女性が他の男性との結婚を目前に控えていた事だった。

 婚約者の男はジュリアの葬儀の後、病院に駆けつけるとまだ入院中だったコンラートに殴りかかり、警官隊がやってきて止めなくてはならなくなったほどの荒れようだったそうで、その疑念に満ちた罵倒の言葉が荒々しい語調で書面にも綴られていた。

 曰く、コンラートがスザナ・ジュリアと離れがたく思っていたから、わざとトラックに突っ込んで無理心中を図ったのではないかというのだ。雑誌の記者もまた、事件性を煽る為にか婚約者の発言を裏付けるように、仲睦まじかった二人のエピソードを掲載したりしている。

「そんな…」

 みるみるうちに有利の目元には涙が滲み、悔しさに歯がみしてしまう。これは…亡くなったスザナ・ジュリアに対する冒涜とも感じられた。まるで婚約者がいながらコンラートの心も弄んでいたかのような書き方…そして、踊らされたコンラートが激情のままに無理心中を図ったかのような記事に、怒りと哀しみが噴きだしてくる。
 日本でも雑誌に載る位なのだから、きっとドイツではもっと激しい報道が為されたに違いない。いま日本にいるのは、そこから逃げ出す為だったのだろうか…。

『だから…あんなに、コンラッドは自分が許せないんだ…っ!』

 スザナ・ジュリアとコンラートが実際にどういう関係であったのかは計る術もない。だが、雑誌に書かれている好奇心だけの文章はとても信じられるものではなかった。大体、反対車線から飛び出してきたのは大型車両の方で、コンラートの運転には落ち度がなかったことを認めながら、どうして《無理心中》という表現になるのか。
 おそらく婚約者が騒ぎ立てたりしなければ、ここまでゴシップ性を煽られることもなかったろうに…。

「酷い…酷い……」
「ゆーちゃん…」

 泣き出した息子の背を撫でつけながら、美子は最初の内おろおろと狼狽えていたが、目元の涙を拭うと優しく語りかけた。

「ゆーちゃん、ママもコンラートさんにはちっとも全然非がないと思うわ」
「あるわけないよっ!被害者なのに、こんな言われ方して…傷つけられて…っ!ずっとずっと自分を許せないままでいるなんて、こんなの…酷い…っ!」
「まあ…」

 勝利の方は何と声を掛けて良いのか分からない様子だったが、眉根を寄せて考え込んでいた父の勝馬は有利の肩を掴むと、強く励ましてきた。

「ゆーちゃん、そんなにコンラートって人のことが心配かい?」
「当たり前だよっ!」
「だったら、コンラートはもう幸せだよ」
「なんで…」
「ゆーちゃんがそんなに泣きながら怒ってるんだ。それだけで、コンラートって人は随分と救われると思うよ?」
「……こんなの自己満足じゃん」

 言われている意味が分からなくて拗ねたようにぶすくれていると、こつんと勝馬の額が押し当てられた。

「そんなゆーちゃんだから、コンラートって人はどうにもこうには絵に描きたくなったのかも知れないなぁ…。なあ、ゆーちゃん。こうなったら、全力でコンラートを応援してやれよ。それが、きっとゆーちゃん自身の為にもなるような気がするよ」
「親父…」
「ゆーちゃんは何かにがむしゃらになってるときが一番格好いいぞ?」

 にしゃりと笑うと、父の眦には人好きのする笑い皺が浮かぶ。何とも良い表情に、涙を零していた有利の顔にも少し余裕が戻ってきた。

『親父は…ちゃんと心配してくれてたんだ…』

 有利は中学三年生まで休みの全てを尽くして野球部の活動に明け暮れていた。しかし、小柄な体躯にもかかわらずキャッチャー志望であったせいもあり、結局中学三年間一度も試合には出して貰えなかった。
 そして最後の試合…腐ることなく出場したメンバーに向けて声援を送っていた有利だったが、守備固めに使われた後輩が落球してしまったことで監督の罵倒を浴びたとき、その不必要なまでに悪し様な物言いに激高して監督を殴ってしまったのだった。

 その事件から野球部を自主退部した有利は、ふわふわと覚束ない大気の中を彷徨っているような雰囲気だった。野球をしない分勉強に集中できるわけでもなく、高校受験も本当にぎりぎりの成績で合格した。

 そんな有利を頭ごなしに叱ることなく、家族は見つめ続けていたのだ。
 いつか有利自身が《何とかしなくては》と思う日を、粘り強く待ってくれたのか…。

「ゆーちゃん、本当にその人のことを思ってお前が何とかしてあげたいって思うなら、きっと良い風に事が運ぶよ。だから、思う存分モデル業に励みなさい」
「ママも応援するわっ!」

 勝利だけはまだ納得行かないようでごにょごにょと何か言っていたが、もう有利の耳には届かなかった。
 暖かい家族のぬくもりを感じながら、決意を固めていたからだ。

『こういうあったかい気持ち、コンラッドにも伝えてあげたい…』

 コンラートはちっとも悪くないのだと…好きなだけ、のびのびと絵を描く資格があるのだと教えてあげたい。
 
 さあ、その為には何をしたらいいだろう?
 有利は一生懸命に考えた。



*  *  *

 


『結局、デッサンの方はあまり進まなかったな…』

 殆どの時間を眠ったり騒いだり(?)するのに使っていたのだから当たり前だ。けれど、どうしてだか前回のような苛立ちはない。既に有利と次回の約束を取り交わしているからだろうか。

 キャンバスに描き出された少年の姿を見つめながら、コンラートは自分が微笑んでいるのを自覚して、きゅ…っと唇を噛んだ。

『あの子には…本当は、近づかない方が良いのかも知れない』

 彼はコンラートの中の何かを呼び覚ましてしまいそうだ。

 あの事故から2年間というもの、コンラートは一度も人物画を描いたことがない。ジュリアを強く尊崇していたコンラートは、心の奥底まで晒した相手を喪ったことに衝撃を受け、二度とあのような苦しみを覚えたくはないと警戒しているのだと思う。

 婚約者のアーダルベルトの存在も大きいように思う。 
 決して無理心中など仕掛けた覚えはないが、結果的に深く愛し合っていた二人を引き裂く切っ掛けを作ったのは自分だ。
 ならば、掛け替えのない存在をコンラートが得てしまうことは、亡くなったジュリア、失ったアーダルベルトに対して申し訳ないという心理もあった。

 もう誰も心の奥深くに住まわせたりはしない。
 救われようとは思わない…。

 そうすることでしか、贖罪は出来ない。

『なのに…どうして、俺はあの子を描きたいと思うんだろう…』

 あの微笑みをキャンバスに刻んで、どうしようというのだろう?

 少しだけ有利に近づいたかと思われる描線を見つめながら、コンラートは頭を抱えた。また頭痛がする。がんがんと頭の中に響き渡るような…時折、抉り込むような頭痛。自分を許せないと感じるときに蘇るこの痛みは、きっと自分自身への心理的な鞭なのだと思う。

『救われてはいけない…』  

 有利との約束は、断るべきなのかも知れない。
 ああ…だが、絵描きの本能ともいうべきものがコンラートを突き上げてやまないのだ。せめてこの一枚が完成するまでは、描かせてくれと胸の中の激情が切望している。

 今夜も眠れぬ夜が続きそうだ。



*  *  * 




 一週間ぶりに目にしたコンラートは、更に消耗していた。

「コンラッド…あんた、目の周りの隈が酷いよっ!?」
「そうかい?」

 自分の容貌には関心がないのか、鏡を見ようともせずにコンラートはキャンバスに向かった。そんなことよりも絵を完成させる方が先だと言いたげな態度に、やっぱりこの人は描くことなしに生きていくことは出来ないのだと悟る。

『そんな人が絵を描くことに罪の意識を感じるなんて…一生掛けた拷問じゃないか…!』

 思い出すと、憤りに歯がみしてしまう。

「どうしたのかい?」
「ううん…なんでもない」

 今はともかく、コンラートが描きたいという欲求にしっかり応えていこう。そう思った有利はまだ躊躇する気持ちがありつつも、思い切って下着も脱いでみた。

「…っ!良いのかい?」
「う…うんっ!ゲージュツのためだもんっ!」

 《俺なんかの身体が芸術かねぇ…》と自分で自分に突っ込みたいような心地だが、少々ぎくしゃくしながらもソファに横たわった。今日は暑いくらいに暖炉に火がくべられているから、コンラートもシャツの袖を捲った上に薄く汗ばんでいる。ボタンを二つ外した開襟シャツからは逞しい胸筋が覗くが、そこに刻まれた傷跡が痛々しかった。

「力を抜いて?前みたいに眠ってしまっても良いから…。今度はちゃんとタオルケットなり何なりかけるからね」
「うん…」

 そうは言われても、今日は下着もつけていないせいか変に緊張してしまう。向けられるコンラートの眼差しが敏感な肌を掠めていくようで、有利はぞくぞくするような感覚と共に背筋を震わせた。

「寒い?」
「ううん…ちょっと、緊張してるせいだと思う」
「そう?だったら下着はやっぱりつけてても良いよ?」
「いやいや、大丈夫っ!すぐ慣れるよ。多分…」

 どうも意識すればするほど良くない気がする。有利は自分が裸身であることを意識しないようにコンラートへと話しかけた。

「あ、あのさ…コンラッドはスポーツとか好き?」
「そうだな…野球は結構好きだよ?」
「ホント!?」

 日本では特定の球団にご贔屓はないそうだが、某オレンジと黒の球団について愛を語られても困るので、逆に有り難い。有利は鑑賞するよりは実際にプレイするときの話でコンラートと盛り上がった。

 コンラートは有利が10言う間に1返すくらいの割合でしか語らなかったが、それでも野球に対する考え方では共感できるところが多かった。
 気が付くと、有利は《コンラートの為に》という当初の目的も忘れて彼との会話に没頭していたのだった。

『この人ってさ、やっぱ…優しい』

 一度手酷い挫折を味わったせいだろうか?コンラートの視点は天才にありがちな上位からのものではなく、頑張りたくても頑張れないもどかしさへの共感も併せ持っていた。気が付くと、有利は野球部を辞める切っ掛けとなった事件についても語り、今は根無し草のようにふわふわしているのだとも伝えていた。

「あのさ…高校生が野球やんのって、やっぱ甲子園目指さないと負け組だと思う?」

 こんな聞き方をするのは狡いとは自覚している。《そうじゃないよ》という答えを期待しているのが向こうにも分かってしまうからだ。
 しかし、コンラートの返答は当たり障りのない同情から出たものではなかった。

「君が目指す野球が甲子園を狙うものなのに、障害の多さから狙わずにいるのだとすれば、負け組だと思う」
「目指す…野球……」

 奥深い言葉だ。そういえば、有利が監督を殴って野球部を辞めたとは言っても、それはあくまで中学でのことなのである。高校に入っても部活動に参加しなかったのは、単にばつが悪いとかそれだけではなかったように思う。

「俺は…一生懸命野球がやりたい。練習がしんどいとか、試合に出られないとか…そういうのは全然平気なんだ。でも…俺……勝つことだけが一番の野球には、なんか引っかかりがあるんだと思う」
「そう…」

 コンラートは静かに微笑んだ。それは、胸に沁みるような…美しい微笑みだった。

「じゃあ、君がまず立ち上がって、目指す野球を初めてみたらどうだろう?きっと、同じように考えている連中は他にも居ると思うよ?」
「俺が立ち上がって…始める?」

 言われて思い出したのは、コンラートと出会った河川敷だった。
 あそこは増水するとすぐに川の中に沈んでしまうが、天気がよい時期には野球が出来る程度の面積があるし、整備が不十分な分、使用量はタダみたいなものだと聞いたことがある。
 あそこでなら、必要最低限の道具さえあれば野球が出来るのではないだろうか?

「草野球チームとか…どうかな?」
「良いんじゃない?」
「そっか…俺、やってみようかな…」

 自分が思うようにいかないからと拗ねてばかりいてもちっとも前には進めない。それが不満で野球部にいられないのなら、確かに思うような野球を自分自身の力で目指してみるべきだろう。

 上手くいくかどうか何て始めてみなくては分からないが、少なくとも始めてみないことには何もかもそのままだ。

「やってみようっと!」

 にこ…っと笑った有利に、コンラートも嬉しそうな微笑みを浮かべていた。その事で少し気が付いた。

『そっか…誰かを傷つけたと思って落ち込んだ気持ちって、誰かを救ったと思うことでしか癒せないのかも知れない』

 だとしたら、本当の意味でコンラートに救われなくてはならない人は唯一人なのだと思う。

 アーダルベルト・グランツ。
 スザナ・ジュリアの婚約者だった人だ。 

  



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