「キャンバス」−3







 
 河川敷で出会った少年の絵を、何故処分しなかったのだろう?
 無断で描いた絵を金に換えるわけにもいかないから、気に入らなかった河川敷の絵と共に破いてしまえば良かったのだ。

 なのに…どうしてだかコンラートはその絵を捨てることが出来ず、それどころか記憶を頼りに表情や身体のラインを修正していった。

『違う…こうじゃなかった』

 ほわりと微笑んだ、あの一瞬のやわらかい表情…。
 何とも言えぬ至福の一瞬を、コンラートは思うように描くことが出来なかった。
 
 頭の何処かで悪意に満ちた声が囁きかけてくる。

『資格がないからだよ。だから…描けないんだ』

 その声は自分自身の声だと分かっていた。
 決して赦すことの出来ない、自分自身への侮蔑だった。

『どうして絵筆を折り、何もかも捨てることが出来ないのだろう?』

 未練がましく絵を描き続けているのは、決して生活の為などではない。画商に絵を売るのも恩義のある男が強く催促してくるからであって、自ら望んでそうしているわけではなかった。

 あくせく働かなくて済む生活を可能にしているのは、今までに売れた絵の収益によるものと共に、決してコンラートに不自由な暮らしなどさせるものかと気を回す長兄の《おかげ》だか《せい》である。血の繋がらぬ兄はあの《事故》までは殆どコンラートに干渉してきたことはなかったのだが、どうしたものか、近年は母も巻き込んでえらくコンラートを気遣ってくれる。ありがたいのは間違いないのだが…どう応えて良いのか分からない面もある。自分も大概不器用な方だと思うが、兄も相当に不器用な性質で、お互い顔を合わせても心の底を素直に伝えるような会話を出来ないのである。

 そこには、彼らの生い立ちも関係しているのかも知れない。

 幼い頃には豪放磊落な絵描きの父と共に世界を旅していたコンラートは、父の急死と共に母の元に引き取られた。母はドイツ有数の富裕な家系の出で、父とはまた違ったベクトルで自由奔放な人柄がとても愛らしかった。きっと、財産など無ければ彼らはとても幸せな家庭生活を送れたに違いない。

 今となっては大した事ではないと感じられるのだが、突然放り込まれた上流社会の生活は幼いコンラートにとっては苦痛でしかなく、そのせいか随分と性格が捻くれてしまったらしい。自分自身はその事を自覚しておらず、そつのない態度と人を逸らさぬ笑みでご婦人方には大人気だったものだから、《自分は上手く生きている》と勘違いしていた節もある。

 美術大学時代にスザナ・ジュリアと出会わなければ、一生気付かなかったかも知れない。

『まあコンラート、あなたったらどうして好きな人にも嫌いな人にも同じような笑い方をするのかしら?』

 思いがけない言葉を発した彼女には、コンラートの表情は見えないはずだった。彼女は幼少期に高熱を発した影響から失明しており、辛うじてぼんやりとした陰影を見分けられる程度であった。コンラートの輪郭は何とか掴めても、表情など見えるはずは無かったのだ。
 けれど彼女は直接触れてもいないコンラートの表情を、巧みな指使いで粘土に映しだして見せた。成る程それは鏡よりも正確にコンラートの内面にある鬱屈を描き出していた。

 彼女はずけずけと物を言うタイプで、敵も多いがそれ以上に深く愛される女性だったし、敵であった者でさえも、いつしか惹かれずにはいられない誘因力の持ち主でもあった。また、卓越した彫像の才能は群を抜いており、その点でも彼女は特別な存在だった。

 美術大学の一級上であった彼女に、コンラートは多くの影響を受けたのだと思う。不思議とその思いが性的な愛情へと変わることはなかったが、心の大きな領域を奪われていたのは間違いないだろう。当時、絵の傾向が大きく変わったのも彼女から受けた影響の一つだと思う。

 深く深く心の底に抉り込むような作風は荒削りであったから、最初の内はあまり高い評価を得たとは言えなかった。それでも、自分自身初めて夢中になって絵を描くという作業に没頭できた。

『焦らなくて良いのよ。あなたが心から求めて、突き動かされるように描き出す絵なら、きっと見ている人たちの心だって震え出すわ』

 ジュリアの言葉はまるで天啓のようにコンラートの目を開いていった。
 彼女の言葉を裏付けるように絵の理解者は増えていき、まだ学生の身ながらコンラートの絵は高い評価を得ていき、大きな展覧会での受賞を切っ掛けに、市場でも高値で取引されるまでになった。

 《若き天才》《美術界の貴公子》等という、かなり面映ゆいような呼称を有り難がったことはないが、それでも自分の描いた絵が評価されること自体は素直に嬉しかった。特にジュリアをモデルとして描いた作品は、これまでになかった人物造形や深い感情表現があると絶賛された。そのことで、ジュリアも一緒に認められているような気がしてとても嬉しかった。

 出会うたびに…傍で息をしている彼女を見つめるたびに新たな発見があった。

 《私、結婚するのよ》と聞いたときにも、実に不思議な感動を味わった。どこか世の中を達観しているようだった彼女が《愛するひと》を見つけたと言ってはしゃぐ様子がとてもとても新鮮で、心から嬉しいと感じられたのだ。

『愛するひとが現れるというのは、こんなにも世界観を変えるものなのかな?』

 コンラートはその時までに何人もの女性と付き合っていたし、中には本当に《愛している》と固く信じていた人だって居たのだが、世界観の何もかもを変えてしまうような激しい恋に落ちたことはなかった。実際問題として、そんな女性に会えていたら次から次へと付き合う対象が変わったりはしなかったろう。つまりは、それだけの感情しか持ったことがなかったのだと思う。

『俺にもそんな人が現れるだろうか?』
 
 最初はジュリアがその人なのではないかと思ったこともあったが、きっとそうであれば激しい嫉妬に駆られるものだろう(…多分)。婚約者のアーダルベルトも嫌いなタイプではなかったから、コンラートは素直に祝福することが出来た。何より、彼の存在が益々ジュリアを輝かせるのだと思うと嬉しくてしょうがなかった。

 幸せ一杯のジュリア。
 誰よりも幸せになるはずだったジュリア…。
 
 しかし彼女は今、この世界の何処にもいない。

『俺が奪い取ってしまった。何もかも…』

 ズキン…と頭の奥で痛みが走ったことで、コンラートは意識を現世に引き戻された。気が付くとソファから起きあがった有利が傍にいて、心配そうに覗き込んでいる。

「どうかしたの?」
「すまない…少し、頭が痛くて…」
「ここ?」

 心配そうに頭髪を撫でた有利がはっとしたように息を呑む。古傷の痕を見せてしまったのが拙かったのだろうか?普段は服や髪で隠されているが、コンラートの肉体には無数の疵が刻まれているのだ。特に頭蓋の疵は大きく、髪を斜めに分けると生々しい縫い痕が見えてしまう。

「すまない…気持ちの良いものではないね」
「何言ってんだよ!顔色も悪いよ?ね…横になった方が良いよ」
「いや…」

 こんな日中に横になるとろくな事がない。先程の白昼夢に似た回想のように、ろくでもないことを思い出して魘されるのが関の山だ。
 けれど有利という少年は使命感に燃えているのか、コンラートの抵抗を遠慮と見ているのか、ぐいぐいと力の限りコンラートを引っ張って強引にソファに横たえようとする。

 しかし、彼は自分の体格を失念していたらしい。また、少々おっちょこちょいでもあったらしい。
 敷かれていたラグに足を取られると、コンラートを半ば抱えたままソファに転がってしまう。

「うわ…っ!」
「…っ!」

 ころんと転がった先がソファであったのは幸運なのか不運なのか…。下着一枚の華奢な体躯を抱き込んだ状態で、コンラートは横たわる羽目に陥った。

「すまない…怪我はないかい?」
「ううん。あんたこそ平気?頭痛いんだろ?もーいいから、転びついでにこのまま寝ちゃいなよ」
「しかし…」
「モデルだったら、また都合が良い日を約束しとこう?なんで俺なんか描きたいのかやっぱり分かないけどさ…」

 少年はふかふかとしたタオル地に片頬を埋めた状態で、ふわりと鮮やかな微笑みを浮かべた。

「描きたいって気持ちがあるんなら、幾らでも描いてよ。俺…あんたの絵、好きだもん」

 それは、コンラートがまさに《描きたい》と願ってしまった、あの微笑みだった。
 忘れないうちにキャンバスに戻ろうとするのに、がっしりと押さえ込まれて立ち上がれない。有利は余程コンラートの具合が悪いと思っているのか、自分が今どんな格好をしているのかも忘れているらしく、しなやかな腕を絡めてソファに横たえ続けようとしているのだ。

「ユーリ…」

 どうしてだろう?頭痛薬などではもう押さえることの出来なくなっていた痛みが、すぅ…っと引いていくのが分かる。自分自身を憎んで鞭打つ想いが影を潜め、すべやかな胸に寄り添う頬がとくん…とくんと規則正しい心音を感じ取ると、とろりとした眠気が襲ってくる。

「ほら…変な事ぶつぶつ言ってたから怪しいと思ったんだよね〜。徹夜続いてる時の兄貴にそっくりなテンパリ具合だったもん!こーゆー時は寝ちゃうに限るんだよ?ほらほら…瞼を閉じちゃいなって」
「……」

 瞼に掌が被せられて、暖かさにびくりと震える。そういえば、あの《事故》から初めて人の肌に触れたのだと思い出した。

『こんなに…暖かいものだったろうか?』

 シャツ越しに伝わってくる体温はほわほわとしたぬくもりに満ちていて、コンラートよりも遙かに華奢な体つきだというのに、絡みついてくる手足にすっぽりと包み込まれているような安心感を覚える。
 そのせいか、コンラートは殆ど意識しないままに腕を伸ばして有利の背を抱き込んでいた。一瞬、くすぐったい場所を掠めたのかぴくんと肩が震えたが、有利は逃げ出すことはなく抱かれ続けている。

『不思議だ…』

 心の中のぎすぎすと捩れていた部分が、ふわ…っと解けていく。穏やかな心地の中…コンラートは意識をとろかしていった。
 その感覚があまりにも気持ち良すぎて…抵抗する気も起こらなかった。



*  *  * 




 くしゅん…っ!
 ずず…

 ふがふがと鼻を啜る音に有利の意識が覚醒する。同時にコンラートも目を覚ましたらしく、目をまん丸にして有利を見ていた。

「ユーリ…君、大丈夫かい?」
「…ふが?」

 寝ぼけ眼で起きあがろうとした有利は、冷え切った身体を両腕で包み込んでぶるるっと震えた。

「さむぃ…」
「当たり前だ!」

 それはそうだろう。コンラートが自分の腕の中で寝息を立て始めたのが嬉しくて、ついつい一緒に寝てしまったのだが…いつの間にか陽は落ちていて、室内温度を5〜10度は下げていたのだ。

 何だか寒気が収まらないし、頭ごなしに怒られるしで泣きそうな顔をしていると、コンラートが慌てて抱き上げてくれた。その表情はどこかばつが悪そうで、心配・感謝・怒り・喜びといったものがごたまぜになっているようだ。

「すまない…声を荒げたりして。俺の為にしてくれたことで体調を崩したのに…」
「いやいやいや、勝手にやって寝ちゃったわけだし。あんたそんな泣きそうな顔しないでよ。熱もないみたいだしさ」
「確かに熱はないみたいだけど…」

 うぉう。おでことおでこを合わせるのは止めて頂きたい。幾ら男相手でも、こんなに際だって美形な人にやられると無駄にドキドキするではないか。

 コンラートはソファに敷いていたタオルケットをふわりと羽織らせてくれると、更に暖炉に火を入れて室温を上げ、畳んでいた服も持ってきてくれた。そして一度部屋を出ると、身体を芯から温めようというのか、大きなマグカップ一杯に暖めた牛乳を入れて運んでくれた。レンジで温めたのか、マグカップはえらく熱い。

 そいつをふうふうやりながら、そもそもの切っ掛けを思い出す。

「ねぇ、頭痛いのは治った?」
「頭…」

 コンラートは不思議そうな顔をして頭をさすった。

「…全く痛くないよ。不思議だな…一度ああいう頭痛が来ると、2、3日は苦しむのに…」
「やっぱ寝不足だよ!夜中遅くまでネットサーフィンとかゲームとかしちゃ駄目だよ?」
「いや…そう言うことをしていたわけでは…」
「じゃあ怪我のせいかな?でも、眠ったら治ったんだからやっぱ睡眠は重要だよ?」

 くしゅんっ

 くしゃみをしたらたっぷりと注いだ牛乳がマグカップの中で濡れて、飛沫が降りかかってしまう。

「あつ…っ!」
「大丈夫かい!?」

 マグカップを受け取ってローテーブルに置くと、コンラートは飛沫の掛かった短パンを脱がして火傷がないか確かめようとする。…が、自分で脱ぐのはともかくとして、人に脱がされるのはかなり恥ずかしいものがある。

「ちょちょちょちょちょ…っ!や、やめ…っ」
「何を言ってるんだい。結構濡れているし、怪我は…」

 つるんと剥かれた勢いで、下着まで奪われてしまう。思わず羽織っていたパーカーで股間を押さえると、やはり幾らか火傷をしていたのか、布の擦過に悲鳴が上がってしまう。

「痛…っ!」
「ほら…見せて御覧?」
「うう…」

 色んな意味で恥ずかしくて内腿の肌をおずおずと晒すと、コンラートが何故か息を呑むのが分かった。

  
 

*  *  * 




 先程目にしていた半裸には特段の感情を浮かべたりはしなかったのに、青いパーカーの裾野から覗く白い肌が、何故か心拍を跳ねさせた。股関節にほど近い肌には花びらを散らしたみたいに紅い痕が付いていた。まるで、強く吸い付けた唇の痕のようにも見える。

『何を考えている…』

 努めて平静な表情保つと、頬を染めて恥ずかしがる有利から布地を奪い、火傷の具合を検分した。

「やっぱり…紅くなってる。すぐに冷やそう」

 水疱までは形成していないが、薄い内腿の肌だけに心配だ。コンラートは薬箱の中から軟膏を取りだして薄く塗りつけると、キッチンから運んできた氷を布地にくるんで押しつけた。

「冷たい…」
「こんなところが水膨れになるよりはマシだろ?」
「そりゃそうだけど…」

 ぷぅ…と頬を膨らませて拗ねたような顔をするから、思わずくすりと笑ってしまう。すると、途端に有利も笑みを浮かべた。

「あんた、笑った方がやっぱり感じ良いや」
「普段が仏頂面過ぎるから?」
「うん。普段は眉間に皺寄せてこの世の不幸を一身に負ってますって顔してる」
「そんなに無愛想かな…」
「うんうん」



*  *  * 




 《普段から笑ってた方が良い》と言いかけて、ぱくんとその言葉は飲み込んだ。コンラートの表情がまた影を帯びたような気がしたからだ。

「すまないね。愛想が無くて」
「ううん…。コンラート、あのさ…。なんかしんどい事があったときに、相談できる人はいる?」
「残念ながら、今はいないね」

 それはとても残念なお知らせだ。だって、本当にこの人がどっかりと《この世の不幸》を背負っていた場合、ただ単に周囲からの心証の為に《笑え》というのは欺瞞になってしまう。わざと笑ったところで、本人はちっとも救われないからだ。そして、その不幸を解消させてくれる人がいないのは更に何より残念だ。

「本当に?あんたを心配してる人は一杯いるのに、見逃してるとかじゃなくて?」
「……そこまで踏み込んで、どうしようって言うんだい?」
「………それは…」

 どうやらトラウマスイッチをちろりと掠めてしまったらしい。目に見えて不機嫌になってしまったコンラートに、有利はしょんぼりと肩を竦めた。言われてみれば尤もな話で、出会って間もない…彼のことを実は何一つ知らない有利が、偉そうに踏み込んで良いことではないのだ。

『でも…でも……なんかこの人って、ほっとけない感じがするんだよね…』

 絶対にこんな人を周囲が放っておくはずがない。苦しみを癒してあげたくて必死になっている人は大勢居るのだと思う。それなのに、《相談できる人はいない》と言い切ってしまうということは、きっと…。

『コンラッド自身が、《救われてたまるもんか》って意地を張ってるように見えるんだよね…』

 本人が救われたくないと思っている以上、これは誰にも救ってあげることなど出来ない。分かっている。分かっているのだが…それでもなお、有利はこの人の為に何かをしてあげたいと思わずにはいられない。

『どうしてだろう…』

 本当は…ソファでパンツ一丁のままコンラートに抱きしめられたときだって、恥ずかしくてかなり焦っていたのだ。それでも胸に添えられたコンラートの口元から健やかな寝息が漏れたのが嬉しくて、ついついそのまま添い寝を続けてしまった(そして、やはり
ついつい眠ってしまった)。

『どうして、この人には何かしてあげたくなるんだろう…』

 理由は分からないけれど、それはコンラートも同じなのかも知れない。訳が分からない熱情に駆られて、とにかく有利を描きたいと願ったからこそ、普段は人との交渉を望まないだろうこの人が、息せき切らして頼みに来たのだ。有利もまた、心に響く絵を描いていたコンラートの為に、熱情に駆られているのかも知れない。

『いいや、もう…理屈の裏付けなんてなくたって、俺はしたいようにするんだ』

 有利は顔を上げると、努めて明るい表情を浮かべた。

「ずけずけと変なこと言ってゴメンね。それよか、次はいつモデルしたら良い?」
「…描かせてくれるのかい?」
「もう描きたくなくなった?」
「いや…俺に呆れたんじゃないかと思ったんだが。君はかなり打たれ強い気質らしい…」
「そーだよ。挫折とか失敗とかいっぱいしてるからね」

 《打たれ強い》と言われて嬉しく思うが、その一方で少し自嘲も感じる。本当に打たれ強かったら、こんなに暇な暮らしなどしていないはずだからだ。

『それはそれ、これはこれ…今はこの人が何かに苦しんでんのを、少しでも何とかしてあげたいや』

 コンラート自身は望んでいないようだが、何とかしてこの人と仲良くなって、悩みや苦しみの相談に乗ってあげたい。勿論、解決できるなんて思い上がっているわけではないが、少なくとも、誰かに話して聞かせることが出来れば苦しみというのは半分に減らせることが出来るのだと有利は信じている。

 視線の先でコンラートが微笑んでいる。少しだけ気心が知れたせいか、今までで一番くつろいだ表情に見える。

『もっともっと、笑わせてあげられないかなぁ…』

 胸の中に沸き立つ情熱がどういう意味のものなのか、この時の有利にはまだ分かっては居なかった。   




 

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