「キャンバス」−2





 
 
 『いない…』

 通学路の帰り道にまた有利は河川敷を通ったのだが、今日もあの青年はいなかった。あれから一週間ほど経過しているのだが、その間中現れなかったということは《めんどくさい子》だと思われたのだろうか?
 河川敷からは陽に焼けた土と水の匂いが綯い交ぜになって吹き付けてきて、眩しい夕陽と共に有利の感傷を誘う。何だか、鼻の奥が痛い。

『う…ちょっとショック』

 ショックを受けるということは、結構有利としてはあの青年のことを気にしていたのだろうか?いや、気になっていたのは絵の完成図の方…だと思いたい。

『でも…幾らモテないからって、男の人にまで嫌われたらマジでへこむなぁ…』

 とぼとぼと河川敷を歩くのが何だかみっともなくて、急いでいるわけでもないのに駆け足で橋を目指した。

 タッタッタッタッ…

 おや、背後から同様に駆け足の音が聞こえる。有利以外にもこの夕刻に急ぎ足で帰路に就いている者がいるのだろうか?

 …なんて思っていたら、急に後ろから肩を掴まれた。

「……っ!?」
「…すまない、ユーリ君。少し時間を貰えないか?」

 息せき切って有利の肩を掴んでいたのは…件(くだん)の青年だった。

「あ…え…?コンラッド…さん?」
「さんは良いよ。あと…本当はコンラート・ウェラーというんだけどね」

 憮然とした顔でそう言われると、有利は慌てて言い直そうとする。

「マジ…っ!?すんませんっ!ええと…コンラァ……」

 有利の焦った顔を見ている内に、コンラートは少し雰囲気を和らげた。悪気がないのを察してくれたのだろうか。

「良いよ、コンラッドで。アメリカの奴なんかはわりとそう呼ぶことも多いし」
「んじゃ…コンラッド。俺も君はいらないから呼び捨てにしてよ」
「分かった」

 何とか呼称が定まると、ふぅ…っと息を吐いてコンラートは額の汗を拭いた。結構な速度で駆けてきたのだろうか?

『なんか…ちょっと嬉しい』

 軽く頬がにやにやしてしまいそうだ。先程変な落ち込み方をよしたから、余計に嬉しい。

「それで、何か俺に用事?」
「ん…ああ。頼みたいことがあるんだ」
「頼み?」
「君の絵を、描かせて貰えないだろうか?」
「えーっ!?俺の絵?なんで?」

 唐突な申し出に声がひっくり返ってしまいそうだ。一体全体、なんだってこんな平凡極まりない男子高校生を描きたいなどと言うのだろうか?
 急に兄の顔を思い出してはっとしてしまう。

「うう…あの……俺、いっとくけど…メイド服とか着ないからね!?」

 このコンラートという青年が美少女フィギュアに取りすがってハアハア言っている姿は想像がつかないが、兄の勝利だって世間的には《切れ者イケメン眼鏡君》で通っている。人の嗜好というのは外見からは推し量れないものだ。
 別にそんな趣味を持つこと自体は構わないが、頼むから巻き込まないで欲しい。

 しかし、コンラートの返答は有利の想定の斜め上を行っていた。

「着せる気もないよ。むしろ、出来れば何も着ないで貰いたい」
「すっぽんぽんーっ!?」

 それはそれで問題だ。
 股間に葉っぱくらいは当てていても良いのか。

「無理かな?」
「そ…それは…」

 困った。
 実に困った。

 何が困ったって、この人が《困ったな》という顔をしているのを見ていると、何だか聞いてあげなくてはいけないような気がしてくるのが困る。
 兄がどう掻き口説いたり命令してきたりしても足蹴に出来るのに、何だか幸薄そうな(←失礼)青年を無碍に扱ったりすると、地に平伏して落ち込むのではないかと心配になってしまう。

「ええと…そのぅ…。写真とかビデオとか…そういうの、撮ったりしないよね?」
「撮らないよっ!」

 コンラートは吃驚して目を見開いたが、有利側の懸念を何となく察してくれたらしい。

「すまない…そうだね。殆ど初対面に近い上に、スケッチモデルをしたことのない子に裸になってくれっていうのは唐突だったな…。俺は決して怪しい者では…て、怪しい奴が自分を怪しいとは言わないよな」

 本気で困っている。

 きっと、下心のある変な人だったらもっと口八丁手八丁で誤魔化してくるはずだから、妙な事など考えていないのだと思う。そもそも、最初から《裸になってくれ》なんて言わずに連れて行って、逃げられなくしてから剥くだろう。

 普段はモデルに交渉することなどなくって、何も言わなくても全裸になって貰えるのだと思う。この人にとってはそれが日常なのだ。

『そう言えばあんなに上手なんだし。そもそもこんなに雰囲気のある美形で引く手あまたな感じなんだから、俺のエッチな写真とか撮ったってしょうがないよな』

 撮ったところで、有利の全裸写真など勝利にしか売れない気がする(←《兄が買いそう》という事の方が実は大問題なのだが)。

「じゃあ、君が都合の良い場所で描かせて貰えないかな?」
「俺の都合の良い場所ねぇ…」

 公共の施設などを借りるのが良いのかも知れないけど、そこで万一女性に見られたりとたらもっと嫌だ。

「うーん…いいや!いつもあんたが絵を描いてるトコで良いよ」
「良いのかい?」
「うん、あんた絵描きさんだもんね。変なこと考えて疑ったりしてゴメンね?」
「ありがとう…」

 ふわ…と、微かにコンラートが微笑みを浮かべると、驚くほど雰囲気が柔らかくなる。もしかすると、元々はこういう顔が地なのではないだろうか?

『いつも笑ってたらいいのに…』

 視線が少し動いただけで彼の表情は元の平坦なものに戻ってしまう。《勿体ないな》と思いながら、有利はコンラートから紙切れを受け取った。メモ帳にさらさらと書いてくれた地図と連絡先だ。

「今日はもう遅いから、土曜日の午前9時にこの場所に来てくれるかな?心配なら、家族の人にも伝えておいで」
「うん」

 頷いて別れた有利は、その日お風呂に入ってから姿見の鏡の前でポーズなんか取ってみたりした。
 正直…笑っちゃうくらい間抜けな感じだった。
 写真など売ったところで、メイド服着用でなければ兄でも買わないかも知れない(←猫跨ぎ級の価値の無さが切ない)

『あ…なんで俺なんか描きたくなったのか、聞いときゃ良かった』

 もぞもぞとパジャマを着こむと、有利は基本的な疑問点を解決していないことを思い出したのだった。



*  *  *  




 メモ帳に書かれていた場所に行くと、目的地に到達する前にその建物を知っていることに気付いた。

『あ…ここって、《おばけ屋敷》じゃん!』

 有利が小学生の頃に《お化けが住んでる》と言われていた洋館は、街を眼下に見下ろす高台の上にあった。明治か大正の頃に贅を尽くして建設されたものの、世界大戦前後に持ち主が知れなくなり、住人を持たぬ建物は随分と寂しげな様子だった。
 こういう年代物の建物にはよくあることだが、時折《窓に白い影が映った》だの、《夜な夜な女の啜り泣きが聞こえる》なんて尤もらしい噂が囁き交わされていた。

 《唯の噂だよ》とは思いつつも、夜中にちらりと見上げた先にこの建物があると、やはり背筋が震えて駆け足になったものだ。

 最近になってからリフォームをしたようだが、何故だか寂しげな印象はあまり変わっていない。流石に割れ窓は修復されているものの、壁にびっしりと生い茂った蔓草がそのまま手つかずであったり、漆喰の壁が以前の色合いを留めているせいかと思われる。
 刈り込まれていない不揃いでまふまふとした芝生や、名も知れぬ黄色やオレンジ色をした花が沢山咲いている様は綺麗だが、これも人の手が殆ど入っていないことが察せられて、まるで自然の中に館全体が飲み込まれているように見える。

『ここ…マジで人が住んでんのかな?』

 ひょっとしてからかわれたのだろうか?
 いや…あるいは、コンラート自身が実はこの世の人ではないとか?

『そういえば浮世離れした雰囲気あったもんな…』

 優れた長身と均整の取れた体躯は画家と言うよりもモデルのそれで、身のこなしもかなり俊敏だったのだが、それでいて全体的な印象は静かに沈んでいた。無気力というのとは違う…なんと言えば良いのか分からないが、どことなく《透明》な感じだった。

『あの瞳のせいかもしんない』

 神秘的な琥珀色の瞳は、澄んでいるのに酷く凍えていて…まるで、雪の中に放り出された琥珀みたいだった。

『幽霊…なのかなぁ?』

 いやいや、確かに彼からは生きている人の吐息と体温が感じられた。そんな筈はない。
 《そうそう、そんな筈ない》…と、心の中で繰り返しながら館の前まで来ると、冗談みたいに大きくて重厚な扉の、獅子型ノッカーを叩いた。

 自分で鳴らしておきながら、扉が開いたときには内心《ひょう!》と吃驚してしまった。心の何処かに、《やっぱり化かされているんじゃあ…》という疑いがあったらしい。

「来てくれてありがとう。早速だけど、こっちの部屋に来てくれるかな?」

 扉の向こうにコンラートを確認すると、生成のエプロンをつけて白いシャツを袖まくりをしたその姿に、何かのお話の中に入り込んでしまったかのような非現実感を覚える。きっと使い古したエプロン自体が、キャンバスみたいに絵の具を付着させていたからだと思う。

「は…はい……」

 靴を脱ごうとしてもじもじしていたら、そのまま手を引いて連れて行かれる。洋館なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、土足のままで屋内を歩き回れるらしい。

 洋館の内装は流石にリフォームされており、掃除も行き届いていた。これだけの広さを清めるのは大変な仕事だろう。随所に高価そうな壺やら彫像、絵画などが置かれているから、それらにはたきを掛けるだけでも一苦労だ。

「こんなに大きな家だと、掃除とか大変じゃない?」
「そうだろうね」

 えらく人ごとみたいなコメントが返ってきた。

「えー?もしかしてお母さん任せ?駄目だよ。たまには手伝わなきゃ!」

 自分も言うほど手伝っているわけではないが…あの小さな渋谷家ですら大掃除となればへとへとになるくらい手間なのだから、この館ならいかばかりかと押して計るべきだろう。

「ハウスキーパーが定期的にやってきて掃除をしていくんだ」
「お手伝いさん雇ってるんだ!そっかぁ…そうでなきゃ、お母さん大変だもんね」

 お金に余裕があるのなら、お手伝いさんくらい雇っても罰は当たらないだろう。確かにこれだけの規模の建物を維持していくとなると人手がいるに違いない。

「母は滅多にここには来ないんだけどね…」
「え?あ…じゃあ奥さんと暮らしてるの?」

 青年はまだ二十代に見えるが、まあ別に結婚しておかしい年でもない。ただ、彼の浮世離れした雰囲気と、結婚というある意味所帯じみた単語は上手く結びつかなかった。

「いや、結婚もしてない。ここでは一人暮らしをしているんだよ」

 未婚と聞いてちょっと得心いったが、一人暮らしという言葉には吹っ飛んでしまう。

「えーっ!?こんな広い家で!?」
「まあ…俺も、もう少し手狭なくらいの方が気楽で良いと思うんだけどね。《人が住んでいないと荒れる》と言われて、母から体よく押しつけられたようなものだよ」

 ふぅ…っと溜息をついてコンラートが扉を開けると、そこは自然光が程よく降り注ぐサンルームのような部屋だった。大きなキャンバスが中央あたりに置かれているから、ここで絵を描くのだろう。

「わ…」

 大きな磨り硝子が庭に面した壁に填め込まれており、そこからゆらゆらと揺れる初夏の緑と花々が透けて見える。暖かな陽がたっぷりと差し込んでいる為か、室内は少し暑いくらいだが不快ではない。気持ちよく乾燥しているせいだろうか?
 しかも、足下は良く磨かれたフローリングで、何だか土足でいるのが勿体ないような質感だ。おまけに、部屋の中を満たす木の香りも心を安らかにしてくれる。

 今は火を入れていないが、煉瓦造りの壁面には暖炉まであって驚いた。

「靴脱いでも良い?」
「構わないよ」

 そう言えば、《出来れば何も着ないで貰いたい》と言っていたくらいだから、願ってもないと言うところなのだろうか?

 靴を脱ぐと、今度は靴下も脱ぎたくなってきた。また断りを入れてからこれも脱ぐと、羽織っていたパーカーも脱いで半袖シャツと膝丈の幅広ズボンだけになる。ぺたぺたとその辺の床を歩き回ると、すべすべとした木の質感が気持ちよくて、思わず声を上げて笑ってしまった。

「うわぁ…この部屋、気持ちいいねぇ!」
「お褒め頂き、光栄だね」

 少しだけコンラートが笑った。口の端を上げただけなのに、急に空気がほわりと和むのが感じられた。

『やっぱ、すっごい…良い顔して笑うなぁ』

 思わず見惚れてしまうが、《どうしたの?》と聞かれても上手く答えられなくて、首を振って誤魔化した。今からヌードモデルをするかしないかという場面で、妙な気分になりそうで困ったのだ。

『ヌードモデルねぇ…』

 女の人が相手というわけではないから照れと言うのとは違うのだが、相手が体格に優れた青年であるだけに、《何を好きこのんで俺なんか…》という思いがある。

 だが…そんな迷いをふわふわと宥めるように、この部屋は心地よい雰囲気を持っていた。お化け屋敷扱いしたのが申し訳ないくらいだ。

「えと…どの辺で脱いだら良いのかな?」
「そこのソファが良いかな」

 指し示されたソファが、これまた気持ちの良い質感であった。適度な弾力を持つ革張りのシートに毛足の長いタオルケットが敷かれていて、これがまふっと肌に触れてくるものだから…ついついシャツとズボンも脱いでしまう。それでもパンツに手を掛けたところで流石に躊躇していると、《嫌なら良いよ》と声を掛けられて、ほっと息をつく。

『あ〜…気持ちいい……』

 抗いがたい程に、真新しいタオルシートは気持ちよかった。まふまふとした質感を素肌に感じながらソファの上に乗ると、コンラートは特にポーズなどの指示はしないままキャンバスに木炭を走らせ始める。

「ポーズとか良いの?」
「君が気持ちいいと思う姿勢で構わない。売り物ではないしね」
「ふぅん…」

 何だか妙な気分だ。コンラートの琥珀色の瞳は時折有利を見つめては、何を読み取ったのかは分からないがキャンバスの上に描線を刻んでいく。姿勢を変えても特に文句を言うこともなく、ただ淡々と白い紙を木炭の軌跡で埋めていくのだ。

 有利は今更ながらに、一体自分が何を求められているのかと小首を傾げた。

「コンラッド…どうして俺なんかモデルにすんの?」
「描きたいと思ったからだよ」

 答えになっているようななってないような…。
 登山家が《そこに山があるから》登るようなものなのだろうか?

「描いた絵って、どうするの?」
「どうもしない…自己満足の為だけのものだから」

 自嘲気味の表情は、先程の柔らかな笑みとはほど遠いものだった。

「あのさ…コンラッドって、普段は何してるの?」
「いつもこんな感じだよ。日がな一日絵を描いている」
「その絵は売るの?」
「馴染みの画商が来て、適当に値段をつけて買っていくね」

 有利はきょろきょろと部屋を見回してみたが、今頃になってこの部屋には何の絵画も掛けられていないのだと気付く。廊下には沢山の絵が飾られていたがどれも古びた印象があり、とてもこの青年が描いた物とは思われなかった。

『だって…この人の絵だったら、俺は何かもっと感じそうな気がするんだよね…』

 決して絵心があるわけではないが、それだけに初めてと言っていいほど心惹かれたコンラートの絵を見て、何も感じないとは思えなかった。

「この家に、コンラッドの絵はあるの?」
「今はないよ。描く端から画商が持っていくし、そうでないものは始末してしまうから」
「こないだ描いてた河川敷の絵も?」
「あれは…始末してしまったな」
「えー?勿体ない。つか、俺の絵も暇つぶしに描いたら捨てちゃうの?」

 コンラートが急に木炭を持つ手を止めた。図星だったのかと思って唇を尖らせていたのだが、どうしたものか…コンラートは動作を止めて、ふぅ…と重い溜息を漏らした。

「本当にね…何で君を描きたいんだろう?」
「へ?」

 少し長めのダークブラウンの髪を掻き上げながら、コンラートは困ったように眉根を寄せている。どうやら、彼自身が自分の衝動を理解しかねているようだった。

「人間を描きたいなんて…どうして思ったんだろう?」

 どうしてだろう?独白のように呟かれる言葉に、有利は室内の温度が急速に下がるのを感じる。

「…そんな資格なんて、ないのに…」

 ぽつりと漏らされた言葉があまりにも冷たくて、大気に晒した素肌がふるりと震えた。
 

 


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