「キャンバス」−1
ザァァア…… 河川敷を吹き抜けていく風で、汗ばんだ肌が少しだけ冷やされるが、それでも一気に体温を奪うところまでは行かない。 初夏の河原は強い日差しと川面の照り返しによって眩しい程の光に包まれ、じりじりと焼かれる感覚には、グリルの中の魚を想起させられる。特に、角度の鋭い斜光が目の奥を灼くようだ。 『暑い…』 夏の盛りであれば気温は今より高くとも、身体の方が汗をかくことに慣れているからもっと楽なのだろうが…ここ暫く全力で運動したこともないせいか、少年は呻くようにして空を見上げた。 きっと、中学三年までの少年…渋谷有利なら、こんな暑さでへたばったりはしなかったはずだ。《暑いなぁ》と仲間同士で文句を言い合いつつも、太陽の下を黙々とランニングし続けていたはずである。 『キャッチャーミット…どれくらい握ってないだろ?』 あれほど好きだったキャッチボールでさえ、全くやっていない。授業と食事と眠っている以外の時間は殆ど野球に注ぎ込んでいたのだから、何だか今でも身体がふわふわしていて違和感がある。 遊びなんて野球以外には殆どやっていなかったから、放課後にやたらと時間が余っているのもおかしな感じだ。そこで勉学に励むことが出来れば兄の勝利のように優秀な成績を上げられるのかも知れないが、そうはならないのが切ないところだ。 海面に浮かぶくらげのように、ふらふら…ぷかぷか漂っているだけ。 頭の何処かで《いつまでこうしているつもりなんだ?》と問いかけてくる声はするが、答えは出ない。 『あぁ〜…暇』 はふ…っと息を吐いて瞼を閉じていたら、再び強い風が吹き付けてきた。 風…風……。皮膚がびりびりするような強い風。何となく、その感触を味わい続けていたら、突然…《ばふ!》と何かに顔を包み込まれた。 「むが…っ!?」 風が具現化したというわけではないらしく、慌ててむがむがと藻掻きながら顔に手を遣れば、何か布のようなものが目鼻を覆っているのだと知れる。 「な…なんだこれ…っ!?」 「すまない」 はふりと布地を掴んで投げ捨てようとしたのだが、随分と高い位置から男の声が降ってくる。反射的に目を遣れば、唐突に…空中から現れたみたいに長身の男が立っていた。 勿論大気から生まれたわけではなく、単に視界を塞がれた一瞬の間に近寄っていたのだろうが、見上げた男の顔立ちを目にした有利は、思わず夢想的な考えに捕らわれてしまった。 『王子様?』 そんな単語を思い浮かべた途端、あまりの突飛さに淡く頬が染まる。 すらりと均整のとれた体躯は、逞しさと繊細さを絶妙な配合で調和させており、一目で欧米人と知れる白皙の肌は優美なラインを描いているのに、何故かブルーグレーのシャツから覗く肌には無数の疵がある。まるで歴戦の勇者のようだ。 だが、《勇者》と呼ぶのに問題があるのは、きりりとした切れ長の瞳に酷く冷たい色合いがあるせいだろうか?何かと戦う強さよりも、既に闘い尽くした後…無力感に苛まされているといった印象だ。本来はもっと覇気があるタイプだと思われるのに、随分と勿体ない。 どこか厭世的な雰囲気を漂わせた青年は、有利がぽんやりと差し出した布を掴むと、軽く会釈しながら再び詫びた。 「驚かせてすまない」 「あ…はい。いや、別に…どってことないデス」 「では、失礼…」 「はい…」 青年は立ち去ったが、そのまま視界から消えてしまうことはなかった。ゆっくりとした足取りで河川敷の斜面を下っていくと、中腹あたりに設置された木製の台の前に座った。結構斜度の強い場所なのだが、深く根を張っているらしい広葉樹がぽつんと一本立っていて、その木陰は随分と過ごしやすそうだった。 青年は消し炭みたいなものを取り出すと、白いキャンバスに伝わせ始めた。どうやら、布地は消し炭の滓を拭う為の物だったらしい。 シャ…シャ……っと無造作に走らされるその線が、見る間に意味のある形状を為していくのがまるで魔法のようだった。何となく興味を惹かれて歩み寄ってみると、描かれた風景に目を見張った。 『へぇ…』 凄い。留まることなく動き続ける手はあっという間に河川敷の風景をキャンバスに描き出し、ざっくりとした素描であるにもかかわらず、どこか心惹かれる絵画として成立しているのだ。 「絵描きさんですか?」 「ん…」 思わず近寄って聞いてみると、青年は興味なさそうに鼻息とも吐息ともつかぬ音を漏らす。どうやら、有利は河川敷の風景ほどには青年の興味を惹かなかったらしい。 それが少しばかり悔しく感じられたが、歓迎しない代わりに追い払うような仕草もしなかったので、そのまま重ねられていく描線に見入っていた。 『綺麗だなぁ…こんな風に描けるんだったら、絵描くのも楽しいだろうな…』 残念ながら有利に絵画の才能はない。ついでに言うと、今の今まで絵画自体にも興味はなかった。美術館に連れて行かれても、抽象画はもとより、いわゆる名画と呼ばれるものであっても特に興味をひかれたことはない。 なのに、どうしてこの青年の絵には心が動くのだろうか? 『うーん…上手いっていうだけなら、そりゃあ美術館にある絵の方が上手いんだろうけど…』 どこか寂しげな風景画には、切々と訴えかけるような何かがあった。視線を移して風景を見るとごくごく普通の景色なのに、どうしてキャンバスに映した途端、こんなに胸に迫るような光景になってしまうのだろう? 『この人にはこう見えてるのかな?』 とても綺麗だけど…それは少し辛いことなのではないだろうかと思った。だって、何の気無しに見ていた風景だけれども、このキャンバスの中にある光景を見てから目にしたそれは、雑然として纏まりはないものの、それでも野趣に溢れた生命力を感じさせるのに、この人にはそのようには見えていないのだ。 『寂しい風景…まるで、夢の中で迷子になってるみたいだ』 気が付いたら有利はその場に座り込んで、両手を顎の下に当ててキャンバスを眺めていた。しゃっしゃっ…しゃしゃ……消し炭が目の粗いキャンバスの上を滑る音を聞きながらうとうとしていると、具合の良いことに強かった風も適度な微風に代わり、ゆらゆらと瞼の上を木漏れ日が揺れる。 有利は吸い込まれるようにして、ふぅ…っと眠りの世界に引き込まれてしまった。
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