季節は丁度春から夏に差し掛かる頃でしたから…芝も、梢の若葉も鮮やかな新緑で彩られていましたし、良い香りのする珍しい花々もそこかしこに咲いておりました。 ユーリはそんな花を見つけるたびにかがみ込むと、くんくんとちいさな鼻をひくつかせて香りを楽しみました。そんな姿に茶うさぎは勿論のこと、旅の二羽もそぅ…と、柔らかい微笑みを浮かべるのでした。 旅の間中、茶うさぎは何時にも増してユーリに優しく接してくれました。 水浴びの後にはお膝に載せて髪がすっかり乾くまで拭いてくれましたし、そういう時には必ず甘くてよく冷えた果物を渡してくれました。 『なんて素敵な旅なんだろう!』 幸せに包まれて…歯磨き代わりの樹皮を囓っている間に、ユーリはうつらうつらし始めました。 そんなユーリの様子に、勝利が独白のように呟きました。 「あんたは…随分と懐かれてるんだな……」 眠りに落ちるその瞬間…言葉の意味をくみ取ったユーリの胸はツキン…と痛みました。 それは…とても寂しいことのように感じました。 * * * 次の日の朝、ユーリは早起きしてお花をたくさん摘みました。 そして花冠を作ろうとしたのですが、ユーリはあまり器用な方ではなかったので上手くいかず、結局ちいさな花束を作りました。 その時…目覚めた勝利が声を掛けました。 「ん…何やってるんだ?」 寝ぼけ眼をこすりながら眼鏡をかけた兄に、一番に花束をあげようとしたのですが… 「うん…あのね?」 ユーリは言いよどみました。いざとなると、勝利のことをなんと呼んで良いのか分からなかったのです。以前は一緒に暮らしていたそうですが、その時にはなんと呼んでいたのでしょう?思い出せなかったので、以前村で見かけた兄弟の言い回しをまねてみました。 「あのね…おにいちゃん」 はにかみながらのその…実にあどけない言い回しに、ぱぁ…っと勝利の瞳が輝き渡りました。 「ゆ…ゆーちゃん!やっとお兄ちゃんの願いを叶えてくれる気になったんだな!?おお…もう一回!もう一回呼んでくれゆーちゃん!」 力一杯抱きしめられ、揺さぶられて頭がぐらぐらします。 「えええ……!?お、兄ぃ……ちゃん……」 「ふぉぉぉっっ!!愛らしい、愛らしいぞゆーちゃん!舌っ足らずなところは相変わらずだな!!」 「ショーリ!止めて下さいっ!ユーリが壊れてしまいます!!」 早めに起きて辺りの探索をしていた茶うさぎが戻ってくると制止してくれましたが、歓喜に我を忘れている勝利には届きません、 「おおおーっ!可愛いゆーちゃん!! 」 「や…止めて……」 ぶんぶんと振り回されているうち、不意にユーリの脳裏を掠めるものがありました。 『俺…こういうこと、前にもあった気がする……』 頭の奥から、何かぼんやりとして…何処か暖かい雰囲気のする映像や言葉が出てきたかと思うと、駆けてくる馬の群れのように《どっとどっと》と押し寄せてきました。 「止めてっていつもゆってるのにっ!やめてよ、しょーちゃん!苦しいよっ!」 ユーリの叫びに、勝利は泣き笑いの表情を浮かべました。 「ユーリ…お前……思い出した、のか?」 「しょー…ちゃん?」 頭がぐらぐらとします。 どうっ…どうっ… 「しょーちゃん…気持ち悪いよぅ……」 口元を押さえ…涙目になって訴えると、勝利は顔色を変えてユーリの額に手を当てました。 「熱はないが…冷や汗が出てるな。記憶が混乱してるんだな?もう良いからちょっと横になってな、ユーリ。御免な……兄ちゃん、あんまり嬉しかったもんだから…はしゃぎすぎたな……」 責任を感じているのでしょうか、勝利があんまり落ち込んでいる風だったものですから、ユーリは懸命に笑顔を作って、手の中に握り込んでいたものを差し出しました。 「これ…しょーちゃんにあげようと思って作ったんだけど…くたくたになっちゃった。ゴメン…ね。あと…ずっと忘れてて、それもゴメンね……」 確かに少しくたびれた風なお花が、ユーリのちいさな手の中で揺れていました。 「うん…」 ユーリはにっこり笑うと、そのまま深い眠りに落ちていきました。 「渋谷は…記憶はなくしてても、僕の知っている彼のままで育ったんだね…」 村田はユーリの手に握られた、残り二つの花束を見ながら言いました。 自分とコンラートにもくれるつもりだったのだと気付いたのでしょう。 「ねぇ、ウェラー卿…僕はね、渋谷には絶対に幸せになってもらいたいんだよ」 「そうですか」 「さらっと言うねぇ…どうせ腹の中では《俺の方がずっとずっと幸せになってもらいたいと願っています》とか思ってるんだろう?」 「そうですね」 「…まぁいいや。とにかくさ…儀式は上手くやってよね。土壇場になって怖くなって尻尾を巻いて逃げる…なんてのはナシだよ?」 「逃げませんよ」 強がりではない…確信を込めた言葉を、ごく当然の事柄について語るように茶うさぎはいいました。 そんな彼を見やる勝利の瞳には、不安げな色が揺れていました。 「やっぱり…やる気なのか?」 「ええ、この旅に出るにあたって、そのことは既にお二方とも了承済みと思っていましたが…何故今頃になってそのようなことを?」 「分かってると思うけど、僕が心配してるのは君の事じゃない。君がへまをしたときに渋谷が傷つきはしないかと…唯その事だけが心配なのさ」 「そうですね…ユーリは、本当に優しい仔だから…。出来れば、儀式の後…傷が治るまでは会わない方が良いかも知れませんね」 「ああ、そうしてくれ」 三羽の思惑など何も知らないユーリは、木陰に横たえられたまますぅすぅと寝息を立てていました。
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