「愛しのコンラート様」D







「ひょぉぉおおおお………」

 ラダガスト卿マリアナが細く…長く息を吐きながら臍下丹田に力を込めていくと、彼女の周囲を取り巻く大気の色が薄赤く変化していく。

「こ…これは……!」

 舞踏会参加者から少々距離を置いて動向を見守っていた、マリアナの侍女が叫ぶ。

「マリアナ様の背後に、巨大な紅色の怪鳥が…っ!」
「マリアナ様の最終奥義…鮮紅鳳弾竜巻落としだわ!」

 炎の要素を従えるマリアナが優雅に両腕を振り上げていくと、その背後に逆巻く炎の粒子が巨大な鳳凰となって嘴を開いた。

 キシャァァァァァアアアアア…………っ!

『ぅわぁぁあん……っ!』

 涙目になって逃走したくなる有利だったが、はらはらと心配そうに拳を握り詰めて見守っているコンラートを目にすると、ここで逃げ出すわけにはいかないと下肢に力を込めて踏ん張った。

「もう良いです!逃げて…逃げてくださいっ!」

 声を限りにコンラートが叫ぶが、有利はふるふると首を振ると、きゅう…っと拳を握り詰める。

『い…今までだって、こうして追いつめられても何とかしてきたじゃないか!コンラッドのために…みんなのために…頑張るんだっ!』

「せぇぇんこぉぉ〜おぉぉ〜とぉりだぁ〜ん、たーつーまーきーおーとーし〜っっ!!」

 マリアナが必殺技の名を唱えて両腕をばっさばっさと羽ばたかせると、その動きに合わせて背後の鳳凰が火花を飛ばし…ひときわ強く羽ばたいた瞬間に勢いよく有利に向かって滑空してきた。

『見ろ…目を開いて、見極めるんだ…!』

 スパイクを凶悪に煌めかせてスライディングしてくる走者だって、目を開けて動きを追えば必ずブロックできるのだ。
 火を噴く怪鳥だって、きっとなんとかなる!
 ……筈だっ!


 ゴォオオオ……っ!


『よし…見えたっ!』

 轟音をあげて飛んでくる怪鳥の軌道を読み、避けようとした有利だったが…その行く先を瞬間的に捉えてはっと血の気を失った。
 
 なんと…軌道の果てには呆然と佇むツェツィーリエが居たのだ! 

 有利が避ければ、怪鳥はそのままツェツィーリエを直撃してしまうだろう。
 三兄弟も気づいて駆けだしたが、距離的にとても間に合うとは思えない。

 駄目だ。
 駄目…絶対に駄目だ!

 あの女性は、有利にとって個人的に大切というだけでなく、コンラートにとってこの上なく大事な人なのだ。
 どんなに不条理な目に合わされても、死地に立たされても…気色悪いM男の恐怖に晒されても憎むことの出来ない愛おしい女性なのだ。

 決して、傷つけたりできない…!


「駄目ーっ!!」


 有利は両手を広げて…怪鳥の前に立ちふさがった…!

 

*  *  *





「な…なにぃ…!?」
 
 ラダガスト卿マリアナは必殺技の効果を確信してその唇に浮かべていた微笑を硬直させたかと思うと、週間少年誌連載中格闘漫画並の台詞を口にした。

 心なしか背後にベタフラッシュが見える。

 その視線の先では、なんと…マリアナが渾身の力を込めて放った怪鳥を、華奢な体躯の少女が両手で受け止めていたのである。

「く…ぅ……ぁあああああ……っ!!」

 ジュァァアアアア……っ!!

 少女は顔を苦痛に歪ませながらも、掌に水の要素を集中させているのか…猛烈な勢いで水蒸気を放ちながら怪鳥を中和していく。
 火で直接炙られるようなことはなかったが、かなりの高温になった水蒸気は少女を熱し、真っ赤になった肌が痛々しい。
 だが、瞳に涙を浮かべながらも少女は決して怪鳥を離そうとはしない…。

「何故…何故ですの?そこまでするくらいなら、お得意のちょこまかとした動きで避ければいいだけ…」

 言いかけて、マリアナは少女の背後にあるもの気づいた。

「コンラート様……上王陛下…っ!」

 少女の背後には三兄弟に手を取られたツェツィーリエがおり、怪鳥がそのまま滑空していけば彼女を直撃していたろう事がマリアナにも理解できた。
 
 それに…辺りを見回せば、脱落者も含めて多くの観衆が二人の戦いの行く末を見守っている。怪鳥をどこに弾いたとしても、何らかの被害が出ていたに違いない。
 よく見れば、マリアナの繰り出した必殺技の数々によって美しかった中庭は半ば崩壊しており、死者が出なかったのが幸運と呼べるくらいの有様に成り果てていた。

「私…私……負けたわ……っ!」

 がくり…っ!

 マリアナは糸の切れた人形のように跪くと、サテン地の手袋で剥げた芝生の一片を握りしめた。

「恋に盲目になるあまり、コンラート様の大切なお母様を手にかけるところだったなんて…!このラダガスト卿マリアナ…一生の不覚!」

『お嬢様…後悔の台詞までが格闘系男性か武人のそれになっていますわ!』

 いつもの癖で瞬間的に突っ込みを入れつつも、侍女達が項垂れるマリアナの背を撫でつける仕草は、いつもよりずっとずっと真心のこもった、優しい手つきだった。

 彼女たちにとってマリアナは、ちょっと失笑してしまうくらい方向性のはずれたお嬢様で、我が儘でヒステリックで思いこみが激しくて…とにかく、悪いところをあげつらうときりがないような人なのだが…。

 でも…それでも、何時だって彼女は眩しいくらいに一生懸命なのだ。

 コンラートの事が好きで好きで好きすぎて…何もかもが見えなくなってしまうくらいに思い詰めてしまうこのお嬢様を、侍女達は嫌いになることは出来ないのだった。

「お嬢様…折角のお召し物が汚れてしまいますわ」
「いいの…もう、いいのよ…こんな服、泥まみれになってしまえばいいのだわ…敗者に相応しい服装になることでしょうよ。私など…汚れてしまえばいいのよ…。そうよ、私…これから山に籠もるわ…!片眉を剃り落として、新たに生えてくるまでは決して人里に降りたりしない…」
「お…お嬢様…それは伝説の格闘家がやられたエピソードでは……」
「お止めくださいマリアナ様!《これが拳闘馬鹿の顔だ!》なんて仰って泣きながら高笑いされるなんて、お嬢様にはお似合…いえいえっ!似合いませんからっ!!」

「そうだよ…ダメだよ、そんなの…」

 女性にしては少し低い…けれど、愛らしい響きを持つ声がやさしくマリアナの傍で囁かれた。
 身に纏う服をびっしょりと水蒸気に濡らしてしまった少女が、火照った頬もそのままに…マリアナの前に膝を突いて微笑んでいた。

「勝負は…あなたの勝ちだよ」
「馬鹿仰い!同情など、されるだけ私が滑稽になりますわ…!」
「同情なんかじゃないよ。ホントだよ?だって…あなたはシュトッフェルに迫られてた俺を、汗かき太っちょさんに狙われてたグウェンを、こってり系M男に怯えていたコンラッドを、美少年女装マニアに涙目になってたヴォルフを助けてくれたじゃんか」
「シュトッフェル様からですって…?では、先程のは…」
「うん、だってあいつはコンラッドを酷い目に遭わせた張本人じゃん!俺は大嫌いだよ!」
「そう…そうなのね?」

 マリアナは泣き笑いの表情になって、汗に濡れた髪を細い指でかき上げた。
 そういう仕草はすれば、見守る有利がうっとりしてしまうくらい優美な女性だ(技を掛けているときの顔も、他人事なら凄く面白くて好きだが…)。

「あなたは…本当にコンラート様を愛しているのね?」
「ぇふ…は…ぁっ!?」

 真っ赤になって口籠もってしまう有利に、マリアナは潔い動作でばさりと髪を振るった。
 
「良いのよ…正直になられて結構よ!」
「はぅ…えと、ぁの…うん。好き…デス……」
 
 蚊の鳴くような声はとても小さなものだったから、様子を見守るコンラートの耳には入っていないようだ。
 
「では、コンラート様のもとにお行きなさい。胸を張ってね…!あなたはこのラダガスト卿マリアナを負かした唯一の女…威風堂々たる態度で臨まなくてはなりませんわ!!」

 いつもの調子を取り戻したマリアナは、まだ涙目のままだというのに胸だけは仰け反るほどに張り上げて、堂々たる態度で有利に宣言した。

「勝利者は、あなたを於いて他にないわっ!!」
「ありがとう…」

 《紅〜い女は佳い女〜強いぞー強いぞー》…某紅い魔女の口ずさむ歌詞(フレーズは心なしか《鬼のパンツ》)のように、ラダガスト卿マリアナは鮮やかなドレスを閃かせて、女王のような気品を称えて有利を認めたのだった。

 思わず、有利も涙を滲ませた眼差しを綻ばせた。



*  *  *





 破壊の限りを尽くされた中庭から、祝勝会会場の支度を調えた大広間へと人々が移動していくと、そこには夜通し宴会が出来そうなくらいの準備が整っていた。

 汗やら泥やらでぐちゃぐちゃになった人々も、池渡りを成功させた者の中から希望者については身なりを整え、この宴会場に移動してきた。
 なお、全治三ヶ月と診断されたスメタナ卿など数人の重傷者を除いては、殆どが参加を希望した。

「さぁて…何故か審査員そっちのけで優勝者が決まってしまったようだが…。とにかく、君が優勝者なわけだな?さ、とっととこの連中のなかから獲物を選び給え」

 勿体をつけた蘊蓄などをひけらかせつつ優勝者を決めたかったらしいシュトッフェルは、更に自分を袖にした少女が優勝したことで臍を曲げてしまったらしい。
 すっかりやる気を失った…相当に怠慢な態度で有利を表彰台に載せた。

「くそ…あの男……っ!」

 ヴォルフラムが口惜しそうに歯がみするが、有利は《大丈夫》と言いたげに首を振った。

「さあ、誰を選ぶんだね?」
「俺…いや、私…《一日優待券》は辞退します」

 ざわ…

 人々がざわめく。彼らは、その《一日優待券》を求めて血の滲むような努力を重ねてきたのだ。それを辞退する者がいようとは信じられない心境なのだろう。

「その代わり、お願いがあります」
「なんだね?」

 シュトッフェルに尋ねられた有利は、視線をツェツィーリエの方に向けた。

「ツェリ様に、お願いがあるんです」
「んま!もしかしてあたくしの《一日優待券》ということかしら?」
「んー…そうじゃないんですけど。たとえば…もしそうだったらどうですか?」
「うふふ、あなたのように可愛らしい方なら大歓迎よ?」
「じゃあ、あなたがあまり好きではない…ううん、生理的にどう考えても受け付けないような、大っ嫌いな人だったら?」
「んん〜…それはなんだか嫌ぁねぇ…何をされるか分からないし、怖いわ」
「でも、あなたはそれと同じ事を息子さんにさせようとしておられたんですよ?」
「あ……」

 今頃になってやっと、彼女は自分のしたことを理解したらしい。
 良心や愛情が決してない人ではないのだけれど、基本的に、想像力がもの凄く欠乏している人なのだろう。

「息子さん達はあなたのことが大好きだから、《面白いからやりたいの》と言われれば、あなたを喜ばせるために大抵のことは我慢してくれるでしょう。でも…それは決してそのことが楽しいからしているわけではないんです。あなたが楽しいからといって、みんながそれを楽しめるとは思わない方が良いと思うんです。だから…もしもまたこういう事がしたいなって思ったときには、ちゃんと息子さん達の意見を聞いてあげて欲しいんです」
「まぁ…まぁ……そうよねぇ…。恥ずかしいわ、私…」

 ツェツィーリエは有利に諭されてすっかり恥じ入ってしまったものの…これとは対照的に怒気を募らせる男もいた。

「この小娘…調子に乗るでないぞ!?ツェリは退いたりとはいえ第26代魔王を務めた身…そなたのような素性も知れぬ女に説教をされるような身分ではない!」
「身分がなんだよ!ツェリ様は分かってくれるもんっ!本当に大事なことは、大切な人が幸せになるために、何をしてあげられるかってことだもんっ!!」

『ユーリ…』

 胸を熱くするコンラートの眼差しの先で、きらきらと光彩を放つように有利は輝いて見えた。

 しかし…愚かな者の目にはこの清らかな少年の価値が分からない。

「この…無礼者がぁぁっっ!!」
「ぁ…っ!」

 シュトッフェルの掌が振りかざされ、有利の頬を打擲しようと加速していった瞬間…


 ドゴォン……っ!


 気持ちが良いくらい豪快な音を立てて、土手っ腹に三発の拳を受けたシュトッフェルが、その無駄に立派な体躯を5メートルばかり吹き飛ばされて、息も出来ずにぴくぴくと泡を吹いた。

「き…さま…きさ…きさ……っ!」

 言葉にならぬ声をあげ…踏みつぶされた蟹のように蠢く男の目に、もはや有利をいれてはならじと三兄弟が立ち塞がる。

「痴れ者め…」
「この方をどなたと心得る…!」

 ヴォルフラムが唾棄するように言い捨て、コンラートが高らかに声を上げながら有利を促す。

 締めを執るのはやはり長兄だ。

「第27代魔王陛下を打擲しようとは無礼千万…!本来であれば不敬罪で厳重な処罰を下すところであるっ!」

 普段は《仕事をさぼるな!》と拳骨をくれている男が、自分の首を絞めるようなことを口にしている…。

「な…なんだと…!?」

 言い返そうとしたシュトッフェルの口がぱかりと開かれ…そのままの形で硬直した。

 三兄弟に護られた少女…有利は、潮時と悟ったのか…目に填めていたコンタクトをはずし、鬘を脱ぐと…その希少な双黒を人々の目に晒した。

「お…」
「ぉおおお……っ!」

 ぱちりと開かれた瞳は吸い込まれそうなほど澄んだ、夜空の色彩…。その大粒の瞳を取り巻く睫も、こうしてみると明らかな漆黒である。
 蒼いドレスに映える髪は色合い的には綺麗なのだが、短髪なのでちょっと寂しい…と思っていたら、気づいたコンラートがそっと花瓶から青い小花の束を挿して髪飾りにした。

「なんて愛らしい……っ!」

 ほぅ……。
 
 参加者達の熱い吐息が、場内を満たした。





つづく