「部屋とYシャツと学ラン」−2









「コンラートさん、随分とご機嫌ですねぇ」
「そうかな?」
「ええ、目がキラキラしてます」

 部下の言葉に内心、ぎくりとして鏡の中を覗き込む。

 不景気の中でも右肩上がりの成長を続けるこの企業では、男性トイレもなかなかにお洒落で、鏡も丁寧に磨かれている。そこに映し出された顔は細面だが繊弱ということはなく、精悍な面差しに切れ長の双弁が輝いている。

 琥珀色のその瞳はうきうきと弾むような色合いを湛え、時折銀色の光彩が星のように瞬く。

『浮かれている…な』

 笑った時や、うきうきしている時には特に輝いてしまうらしいこの光彩は、コンラートのバロメーターとして有名になっているらしい。

「何か良いことがあったんですか?教えて下さいよー。最近、凹むようなことが多すぎて、景気のいい話が聞きたいんですよ」

 ブォンブォンと手指乾燥機を作動させてから、清潔になった手で部下の信濃が肩を叩いた。若いがなかなかの遣り手で、コンラートが最近早く帰れるのも彼の頑張りに依るところが大きい。

「どうです?帰りに飲み屋にでも寄ってゆっくり…」

 今日も早く仕事を仕上げてくれたことを労ってやりたいのは山々なのだが、コンラートには先約があった。

「いや、今日は約束があるんだ…すまない」
「そうですか…残念ですが、仕方ないですね。それではいつ行きましょうか?」

 屈託無く受け止めつつも、ちゃっかり次の確約を取ろうとするのが信濃が遣り手な所以だろう…。正直言えば暫くの間は可能な限り早く帰りたいのだが、約束せざるを得なかった。

「じゃあ…そうだな。次の月曜日はどうだろう?」
「月曜ですか?それじゃああまり遅くまでは飲めませんねぇ」
「ダメかな?しかし…週末は最近ちょっと立て込んでてね…」
「ああ…いえいえ、お気になさらず。二人きりで飲めるだけでも嬉しいですし」

 おや?一体いつの間に二人きりで飲むことになっていたのだろうか?今までは同じ部署の仲間達数名で行っていたのだが…。

「岡田や高野は呼ばないかい?」
「たまにはじっくりコンラートさんと語り合いたいんですよ。とても…興味がありますからね」

 信濃は涙の流れ道にホクロがあり、くす…と妖しく笑うと特に艶めいて見える。その雰囲気を感じて、漸くコンラートは信濃の意図に気付いた。

『なるほど…』

 どうやら、信濃は性的な意味でコンラートを欲しているらしい。だとすれば対応も変わらざるを得ない。

「すまないけど、なるべく賑やかな方が好きなんだ。他の連中も誘いたいな」
「ダメ…ですか?」

 上目遣いに科を作る様子はなかなか堂に入っている。自分がそういう雰囲気を醸し出すことで、どういう影響があるか完璧に理解しているのだろう。
 
 しかし…コンラートには大した威力を持たない。
 そういう仕草をさせたら天下一品…しかも、どれほどの威力を持っているのか全く理解していない天然天使ちゃんを一人知っているからだ。

 その天使ちゃんは…言わずもがな、コンラートの同居人である。

『週末はゆっくりユーリと過ごしたいからな…』

 何処かに出かけるにせよ、ただ部屋でごろごろしているだけにせよ、有利との生活は甘くとろけるような心地よさを持っている。今までこんな天国を知らなかったことが信じられないくらいだ。
 今までだってそれなりに充足していたと思っていたのだが、何かの魔法で急に時間軸を戻されたりしたら、さぞかし味気ない暮らしだと思うことだろう。

「ああ、二人きりってちょっと苦手なんだ」

 有利を知らない間は平気だったけれど、今となっては有利以外と二人きりでなんか過ごしたくない。

「……」

 唇を噛みしめて、計算高い素の顔をちらつかせる信濃の肩をぽんっと叩くと…すれ違いざま、耳朶の近くで甘く囁いてやった。思いっきり…蠱惑的な響きを持たせて。
 
「ゴメンね?」
「…っ!」

 ぞく…っと背筋を震わせて信濃の腰が崩れそうになる。《自分の魅力を知っている》と言う意味では、コンラートだって負けていない。この男の誘いには乗らず、それでいて仕事は今まで以上に遣って貰う為にはご褒美も必要なのだ。

 報われないと分かっていても、尽くしたいと思わせるくらいに…。

「腐らずに、これからもよろしく頼むよ」
「…は、い…」

 頬を紅く染めて、複雑そうな顔をした信濃は足早に駆けていった。



*  *  * 




 帰りに買い物をしようと約束していた商店街まで来ると、少し早くついていたらしい有利が、ぱぁっと顔を輝かせて走ってきた。頬を上気させて、《嬉しいっ!》という感情を身体一杯で表している。まるで仔犬のように素直な反応に、コンラートの顔は熔け崩れそうになってしまう。

「コンラッド!」

 しかし、あわてん坊の彼がこういう動作をすると、コンラートとしては嬉しい反面、心配にもなってしまう。

「ユーリ、ああ…走らなくて良いよ?」

 言った端から躓きそうになっているのを抱き留めると、《ゴメン…》と恥ずかしそうに囁いて、上目遣いにぺこりと頭を下げる。

『ああ…もぅっ!なんて可愛いんだろうっ!!』

 拳を突き上げながら声を大にして叫びたい。
 こんなにも可愛らしい少年が、コンラートのお嫁さん(予約)なのだっ!
 今の関係で言うと、親には認められているから婚約者というところだろうか?

『そうだ…婚約指輪とか、受け取ってくれるだろうか?』

 《エンゲージリングは給料三ヶ月分》というのが30年前くらいは定番だったらしいが、あまり気合いの入ったものだと引いてしまうだろうか?

『どうかな…?指輪ではなくても、何か記念になるようなものを贈りたいんだけど…。何が好きかな…。いつも傍に置いておけて、見るたびに俺のことを思い出して貰えるようなもの…』

 そして出来れば、有利からも貰いたい。いつも有利を思い出せるようなものを…。

 ふと自分の袖口を見ると、亡くなった父の形見であるカフスボタンが光っていた。深い蒼をしたその石は、光を当てると青空のように澄んで少し明るい色になる。そう高価なものではないが、思い入れで言えば一番のものかもしれない。

 そして更にちらりと有利の様子を伺うと、彼は特に貴金属の類は身につけていない。当たり前と言えば当たり前で、ごく飾り気のない男子高校生としてはじゃらじゃらと飾りを付けている方がおかしいだろう。

『でも、何か普段身につけているものが欲しいな…』

 なんとも乙女チックなこの発想を、口にしたら笑われるだろうか?でも…デートに誘おうかどうかでお互い悩んでいた経過などを思い出すと、少しの勇気で色んな世界が開けてくる気もする。

 思い切って、聞いてみるだけ聞いてみようか?

「ユーリ、普段身につけているもの…そうだな。校章とか一つくれない?」
「え?どうするの?」
「いや…その……」

 改めて聞かれると言葉に詰まってしまう。
 自分が実にイタい大人のように感じて舌が縺れそうになるが、はにかみつつも囁いてみる。

「できれば、いつも身につけていたいんだ。婚約指輪の代わりに、そうだな…ストラップとかにして」
「……っ!」

 有利はかぁ…っと頬を染めたが、決して引いたという感じではなくて…ごそごそと鞄を探って学生服を取り出すと、襟元に取り付けていた校章バッジを差し出した。

「良かったら…これ、持ってて?」
「じゃあ、俺のはこれを貰って?」

 入れ替えるようにカフスボタンを渡すと、有利は驚いてしまう。

「え?でも…これ、高いんじゃない!?」
「値段は関係ないよ。わりといつも身につけているものだから貰って欲しいんだ。ちょっと…乙女チックな趣味かも知れないけど、どうしてかな…ユーリが相手だと、凄くこういうことがしたくなる」
「そうなの?」
「うん。ユーリが嫌なら改めるけど…」
「嫌なんかじゃないよっ!」

 有利は掴みかかるようにして、勢い込んで否定する。

「…嬉しい。俺も…大事にするよ?」
「ユーリ…」

 二人はそれから飾りのシンプルなストラップを二つ購入すると、すぐに包装を解いて校章とカフスボタンを通し、携帯電話に早速取り付けた。
 ゆらゆらと揺れる互いのストラップを眺めながら、二人は家路に就く。

 夕焼け空のその向こうに、二人が暮らす家があるのだ。

「ただいまー」

 扉を開けながら二人でそう言って、すぐに…

「お帰りー」

 互いを見合いながらそう返す。

 ふくふくとした幸せな気持ちに包まれながら、二人のストラップがゆらら…っと揺れた。




→次へ