「怨恨の鉄鎖 雷撃の剣(つるぎ)」−2











 ころころ絨毯の上に転がったカフスボタンは、銀色の金具がついていて、よく見ると細かな彫刻が施されていた。灯火に透かすと穏やかな夜の帳を思わせる色彩に、ほっこりと心が包み込まれる。まるで、持ち主の想いを反映しているみたいだった。

『魔王陛下の瞳みたい…!』

 綺麗な綺麗な漆黒の石に、ジルコニアはうっとりと見惚れてしまった。すぐに魔王陛下にお返しするつもりだったのに、つい失念してしまうくらいに。

『あ…拾ってくれたの?ありがとう!』

 屈み込んでふわりと微笑んだお顔の、なんと愛らしかったことだろう!つぶらな漆黒の瞳がきらきらと輝き、長い睫がふっさりと瞼を覆っていて、まろやかな頬は健康的な淡紅を帯びていた。ちいさく形良い鼻や、いつも笑みを湛えている唇も、見ているだけで幸せな心地にさせてくれる。
 思わず黒曜石のカフスボタンを摘んで、魔王陛下の瞳と見比べた。湛える生気は及ぶべくもないけれど、やっぱり澄んだ漆黒はよく似ていた。
 
『良かったら、あげようか?』

 お爺様は《滅相もない!》と固辞しようとしていたけど、この時だけはどうしても手放せなくて、淑女の礼を取って御礼を言ってしまった。

『一生の宝物にしますわ!』

 そう誓ったのに…。
 いま、ジルコニアの手にあのカフスボタンはない。

 《子どもが手にして良いようなものではないわ!》…毟(むし)り取るようにして継母がカフスボタンを奪ったとき、泣き叫ぶジルコニアの味方をしてくれる人は誰もいなかった。父はすっかり継母に骨抜きにされていたし、その後の仕事ぶりを見ていると、寧ろ積極的にカフスボタンを悪用している節がある。

 大好きな祖父は継母が館にやってきた時期から急に老け込みだして、身体の自由が利かなくなってきたことから、山間の別荘で療養生活を送るようになっていた。手紙で状況を伝えても芳しい返事は得られず、数ヶ月が経つ間には、アイオナ港には不穏な噂が流れるようになっていた。

『アイオナ港は大陸への利便が良いのは確かだが、それにしても使用税が高すぎる』
『魔王陛下はアイオナ卿ロッドバルトを信任し、彼を介して莫大な利益を上げているらしい』

 あのお優しい魔王陛下に、そのような泥を浴びせるなんて…っ!我が父とはいえ、もう許せない。

 怒りに打ち震えるジルコニアは腹を決めた。《もう誰も頼りになんかしない》と。
 ジルコニアは眞魔国ではまだまだ子どもと呼ばれる年代だけれども、人間社会では歴とした大人として扱われる年頃だと知っている。心根の持ち方次第でなんとでも出来るはずだ。

 こうなったら、自分自身の手でカフスボタンを取り返して何処までも逃げるのだ。既に金子の都合は付けているし、一人でも生きていけるように貴族の誇りなど捨て、女中仕事が出来るだけの能力は身につけた。この点に関してだけは、ジルコニアからお嬢様生活を奪い取り、女中並の処遇に叩き落とした継母のおかげかも知れない。流石に、感謝などできないが。

 ジルコニアは背も高いから、大人びた化粧をすれば十分に年は誤魔化せる筈だ。

『私には、陛下のくだすったあのカフスボタンだけがあれば良い…!』

 あれさえ手にしていれば、どんなに辛い生活だって耐え抜いてみせる。《私は陛下に下賜頂いた身》なのだと、誰に自慢するためでもなく、自分自身の誇りを支えるためにそう信じて生きていくのだ。

 奪取決行日を、ジルコニアは今宵の10時と決めていた。父の主催する宴が最も盛り上がっている時間帯に、父の懐からカフスボタンを奪い返してやる。



*  *  * 




 ほぅ…っ!

 宴の場に、一斉に感嘆の吐息が漏れた。
 国際貿易の要衝となりつつあるアイオナ港には魔族・人間を含めた多くの美姫が集まるが、今宵人々の注視を浴びていたのは美貌の少年達であった。

「ほう…ウィンコットの民族衣装を纏って、なんと愛らしい…!」
「あれほどの美貌の持ち主が社交界に初めて出てくるとは…!今まで一体何処に埋もれていたのでしょうな?」

 素直に感嘆する声に混じって、やや侮蔑的な声も聞かれる。

「なんでも、近頃力を付けてきた庶民上がりの商人だそうですよ?」
「美貌の息子達を遣わすとは…アイオナ卿の趣味を知ってのことでしょうかな?いやはや…商魂逞しい庶民には、我々高貴な身分の者は圧倒されますな」

 このような声が上がるのは、村田にとっては計算済みだ。アイオナ卿が両刀遣いであることはよく知られているから、敢えてそのような噂が立つようにしたのである。村田自身も、《手出しをされるかも知れない》と弁えているかのように勘違いさせようとしている。

 良い時間帯になってきたところでロッドバルトと共に別室へとしけ込むのは村田の役割であるが、ヨザックは既に闇夜に紛れるような衣装に着替えて、天井裏に配備している。

「あれが…ロッドバルトか。なるほどね、性根がいやらしそうな容貌をしているじゃないか」

 元々がそうであったのか、この港が潤い始めてから欲を掻くようになってきたからなのかは判然としないが、取りあえず今の彼は《スケベ親爺》を体で現したような顔貌をしている。こってりと脂の乗った顔立ちは魔族としては濃すぎる印象で、鼻筋は通っているのに口元が緩んでいるせいで、全体に歪んでいるように見える。

「やあやあ…お話は伺っているよ、君たちがスティルド家の兄弟だね?私がアイオナ卿ロッドバルトだ」

 村田と有利に気が付くと、ずいずいと進み出て妙に大きな身振り手振りで自己紹介をする。よほど自分を大人物だと認識しているのか、自己陶酔的な色も滲んでいた。

「初めまして、スティルド・ウル・ユリーです」

 ぺこりと有利がお辞儀をすれば、ロッドバルトの好色そうな顔には何ともいやらしい笑みが浮かび上がる。想像の中で既に有利を辱めているのかも知れないと思えば、それだけで喩えようもない怒りが湧いた。

「初めまして、兄のスティルド・ジール・ケンです」
「ほうほう…こちらがお兄さんか。いやぁ…どちらも麗しいご兄弟だ。お父君にもよろしくお伝え願いたいが、お二人は今後とも頻繁にアイオナを訪ねて頂きたいね。次にお泊まりの際には、どうぞ我が館をお使いなさい」
「そうですわ。是非そうなさってくださいな」

 ロッドバルトの傍らで微笑んでいるのはアイオナ卿ネルレイン。今回の商談にあたって、前金としてかなりの額をちらつかせたから、夫婦してえらく機嫌がよい。

 ネルレインは去年から後添いとしてこの家に輿入れしたと言うが、元々は高級娼婦であったという豊満な肉体の女性だ。夫の性的嗜好について特に頓着していないとこから見て、夫のことは札束としか認識していないのかも知れない。夫の方でもセックスのための肉としか認識していなさそうだから、ある意味では似合いの夫婦である。

『これで人様に迷惑を掛けないんであれば、放置したって良いんだけどね』

 その責が有利の身に掛からないのであれば、村田としても全く頓着などしなかったのだが…。彼らは少々、生き方を誤った。有利の手前、《死ね》とは言えないが、《いっそ殺してくれ》と思うような目には遭わせてやりたいものだ。

「ユリー君、ケン君、君達が勧めてくれた果実酒を早速配らせて頂いたよ。良かったらどうだね?」
「あ…あの…。勧めておいて何なんですけど、俺は酒があんまり飲めなくて…」
「いやいや、こんなに旨い酒はそうあるものではないし、どうぞ一杯…」
「じゃあ…一杯だけ」

 桜色の唇が添えられて《こく》…っと有利の喉が鳴ると、ロッドバルトの笑みが密かに深まった。そして、満足そうに自分も杯を手にして勢い良く果実酒を飲み干すと、ぷはぁ…っと熱い息を吐いた。

「ふむ、アルコール度数の割によく効くね。味も実に良い。何箱か預からせて貰って、船上輸送で品質が変わらないかを確かめたら、本格的に取り扱いしても良いな」
「ありがとうございます」
「ただ…その為には我が倉庫の一部を使う必要があるのだよ。酒の品質を保つための条件は備えているはずだが、やはり酒処に育ったお二方に確かめて貰いたいな」
「ああ、それでしたら僕が伺いましょう。弟は専門が少し違うので」
「いやいや…出来れば、二人で来て貰いたい!」

 少し慌てたようにロッドバルトが勧めてくるのを、村田は笑顔の中にもどこか醒めきった眼差しで見つめている。

『やっぱり、さっきの杯に何か盛ったね?』

 勿論、それを有利に飲ませたり村田が飲むようなヘマはしていない。この館の使用人の内、直接杯を運んでくる給仕を抱き込んで、杯の柄を入れ替えておいたのだ。全く同じように見える杯も、やはり見ていると有利と村田に行くものだけが微妙に柄が違っていた。おそらく、媚薬か何かを飲ませて、別室で拘束して3Pでも愉しむつもりでいたのだろう。

「そう言えば、少々この港について気になる噂を耳にしているんですが…真相はどうなのでしょう?」
「え…?」

 ぎくりとしたように軽くロッドバルトの眉が跳ねるが、流石にすぐ表情を戻すと、何事もなかったように穏やかな口調で尋ねた。

「どんな噂だろうか?」
「ええ、何でも魚人姫の呪いが港に掛かっているとか…」
「は?」

 今度は何事もないとは行かなかったのか、少しロッドバルトの声が素っ頓狂に跳ねた。てっきり自分の所行についての疑念かと思って構えていたところに、全く予想外の話を聞かされてからだろう。

「魚人姫…ですかな?」
「ああ、そういえば私も聞いたことがありますぞ。数日前から急に港の人夫達がまことしやかに語るようになっていたのです」

 ロッドバルトの取り巻き連中も声を揃えて噂に乗っていった。村田の計画を伝えられた前任お庭番のリュート・ポルが、この件についてはかなり頑張ったらしく、まことしやかに噂を広めておいたのだ。

「なんでも、アイオナ港の水質汚染が急速に進んできたことを恨んで、戒めの為に罰を与えているのではないかと言われておりますな。人夫どもが眠ると耳元に忍び寄って怪音を発し、恐ろしい悪夢を見せるとか…」
「朝起きてみると、びっしょりと床が濡れて、何枚も鱗が残っていたとか…」
「そうそう。被害に遭った人夫は廃棄物を垂れ流しにした当人であったから、罪の意識に駆られて仕事を辞める者も出ているとか」
「魚人姫の産んだ稚魚が、港からの廃棄物のせいで全滅したとかいう噂ですな。彼らも眞魔国の民であるわけですし、これからは港の運営にも気を回さねば…おお、いやまあ、アイオナ卿はもうその辺は十分お分かりでしょうが」

 ロッドバルトの表情が引きつっているのに気付くと、慌てて取り巻き達は言を濁した。

 さて、魚人姫の稚魚が全滅したというのは捏造だが、海の生態系に被害が出つつあるのは事実だ。
 過去に魚人姫を養っていたことのあるコンラートが、直接魚人殿から訴えを聞いている。ロッドバルトは港から出た汚水を処理すべき立場にあるのだが、新しい処理場を作る費用を惜しんで、こっそりそのまま沖合に流しているらしい。このため、湾内の水質が随分と落ちてきているのだ。今は外見的には問題ないように見えても、将来的にはどぶ水のように濁ってくる筈だ。そうなってからでは復旧に時間が掛かる為、今回の件に絡めてついでに解決しておくことにした。

「ま…まさか、そのような…」

 心なしかロッドバルトの顔色は悪い。この男、港の商業で易を為しているくせに、実は魚介類を直接見たり触ったりするのが大嫌いなのだ。半分以上が魚体の魚人姫と添い寝となれば、考えるだけで慄然とするらしい。

「ん…」

 有利がとろんとした目元をコシコシし始めると、愛らしい容貌が眠気に溶けてなんともあえやかな艶を帯びる。現金なロッドバルトは途端に元気を取り戻して、鷹揚な動作で話し出した。

「噂については我が手の者に調べさせておきましょう。それよりも、今は弟君の眠気の方が問題ですな。良かったら、少し別室で横になっては?」
「ありがうございます。ユリーときたら、本当にお酒に弱くて…」

 村田が苦笑すると、有利は不本意そうに唇を尖らせた。

「そんなに眠い訳じゃないんだよ?ただ、ちょっと頭がぼうっとするだけで…あと、なんか暑くない?」

 はふ…っと有利が息を吐いて襟元を緩めれば、ぐぐい…っと身を乗り出したロッドバルトは益々顔を脂下がらせる。

「それはいけませんな!ひと気に当たられたのかも知れませぬ。折角の滞在を快いものにしていただくためにも、是非とも別室でお休みください」
「では、お言葉に甘えましょうかユリー様」

 ロッドバルトが強く勧めると、それまで敢えて存在感を消していたコンラートがすかさず歩を進めて有利の身体をふわりと抱きかかえた。有利は媚薬が入っていないとはいえ、結構なアルコール度数の果実酒を飲んだから、ぽう…っと紅に染まった頬が艶めいている。
 ロッドバルトはもうもう…堪らないという顔をして下肢をもじもじとさせていた。有利の身をどうにかしたくて辛抱堪らないのだろう。

「や…これはまた、随分と体格に優れた使用人ですな」
「ユリー様に幼少のみぎりからお仕えしております、ダンと申します。以後お見知りおきを」
「まあ、なんだ。君は宴を愉しんだらどうかね?ユリー君はゆっくりと別室で休んで頂いて結構だから…」
「いえ、ユリー様はむずがりやすいお方ゆえ、俺が傍にいて差し上げなくてはゆっくりと眠ることが出来ないのですよ」

 苦情めかせているくせに、コンラートの声音はとろけるように幸せそうだ。抱き寄せた主人の香りを愉しむように鼻を鳴らすと、薄い唇が婉然とした笑みを刻む。その様はえらく蠱惑的で、この美味しそうな少年を味わおうとしているようだ。

「そ…それでは仕方ないですな。傍に控えておきなさい」
「ご厚意痛み入ります」

 ふ…っと微笑むと、コンラートは使用人の指示に従って別室に向かう。何が待ち受けていようとも、必ず腕の中のぬくもりを護りきってみせると確信しながら。



*  *  * 




『あのスケベ親爺め、また罪もない美少年を陛下の威光を笠に着て抱くつもりでいるのね?』

 ジルコニアがカツラを被って女中になりすまし、宴の席に向かったときにはロッドバルトがニヤニヤしながら美しい金髪の少年を別室へと促しているところだった。おそらく、変態的な嗜好剥き出しの《淫乱部屋》に連れ込む気だ。

 そこには眞魔国、大陸各国のありとあらゆる淫具が備えられており、数々の被害者が出ているのをジルコニアは知っていた。一度、魔王陛下に似た少年が捕まったときには堪らなくなって逃がしてやったが、その後で酷く打擲されて、一週間も真っ暗な地下牢に閉じこめられてしまった。

 そんな犯罪行為に手を染めながら、父が糾弾されないのはひとえに、あのカフスボタンの威光なのだ。よりにもよって、ジルコニアの宝物である魔王陛下の装飾品が、変態行為の後ろ盾になっているなんて…!耐え難い自責の念は、家族の情を断ち切らせた。何としてもカフスボタンを奪い、父をその行為に相応しい罪に問わねばならぬ。

『でも、カフスボタンを奪うついでに、あの子も助けてあげなくちゃ!』

 あのお優しい魔王陛下なら、こんな時にはきっと同じ事をしたはずだ。そう信じて、ジルコニアは足音を忍ばせて父と少年の後を追うと、吐き気を催すような《淫乱部屋》に身を潜めた。この部屋にはいざというときのための隠し扉があることを、屋敷の中を探検したときに知っているのだ。

 しばらくすると、やはり二人が淫乱部屋に通じる瀟洒な客室に足を踏み入れてきた。

「おや…ここで酒の保管をされるんですか?」
「ふふふ…君も分かっているのではないかね?」

 しゅる…っとタイを外す動作のなんと淫らがましいことだろう。距離が離れていても、父の生臭い息が伝わってくるようだ。

『母様が生きておられたときには、あんな方ではなかったのに…!』

 しっかり者の母が家庭を切り盛りしていた頃には、アイオナ家は賑やかで楽しい場所だった。国際港としての地歩はまだまだ切り開けず、単なる漁港の一つでしかなかったが、それでも父は楽しそうに日々を過ごしていた。

 それが、母が病死した頃からおかしくなってきた。
 おそらくは、母の病を治すために高額の医療費が掛かったためではないかと思われる。父は死にものぐるいで働いて働いて…けれど、働きすぎて…母が死ぬときには商談の為に遠い場所にいた。

 愛する人の死に寄り添えなかった後悔からなのか、父はそれほど金を稼ぐ必要など無くなってからも前以上にがむしゃらな働き方をした。次第にその働きの性質も変わってきて、後妻として高級娼婦を娶るようになった頃には、荒淫が祟って理性が崩壊しかけていることが、近しい者の目には明らかであった。祖父が体調を崩した一因も、息子を正道に戻せなかったことが一因だと思われる。

 可哀想な人だとは思う。だが、その哀しみを残された家族と共有することなく、金と欲にのめり込んでいった父を、ジルコニアは救うことが出来なかった。

『哀しみを拡げるばかりの父を、許しておくわけにはいかない…!』

 死んで欲しいとまでは思わなかったが、もういい加減にして欲しい。少なくとも、年端もいかない少年の肉体を自由にする権利など、父にはないのだから。

「これが分かるかい?君も父君に教えられているのではないかな…私は、畏れ多くも魔王陛下の信任を受ける身なのだよ?」

 父が胸ポケットから仰々しく取りだして見せたのは、やはりあのカフスボタンだった。薄汚い父の手にあっても相変わらず見事な黒曜石は、美しく灯火に照り映えていた。

「漆黒のカフスボタン…魔王陛下にのみ許された品ですね」

 少年がゆったりと囁いて腕を組むと、父は抵抗しないと見て足早に距離を縮めようとした。そこへ、別室から扉を開けて入ってきたジルコニアが体当たりを仕掛ける。

「はぁ…っ!」
「な…っ!?」

 絨毯の上に放り出されたカフスボタンを、初めて目にしたときのようにキャッチすると、ジルコニアは《淫乱部屋》を指さして少年に注意を促した。

「早く逃げて…!ただ寝るだけなんて可愛いもんじゃないのよっ!大事なところが壊されちゃうから、早く逃げて…っ!!」
「その声は…ジルコニア…っ!?お、お前…何のつもりだ…っ!」
「お父様、観念する事ね…っ!もう二度と、あなたにカフスボタンは渡さないわ…っ!」

 少年の手を引いて客室を出ようとするが、荒淫に耽っていたにもかかわらず、妙に動きの素早いロッドバルトは娘の頬に張り手を喰らわせた。

「あ…っ!」
「そのカフスボタンをどうする気だ…っ!」

 張り手によって一瞬くらりとしたものの、ジルコニアはもう一度脚を踏ん張って、父に奪い取られないようにカフスボタンを両手に握り締めた。

「これは私の宝物だもの…っ!もうお父様の自由になんかさせない…っ!魔王陛下の名をこれ以上汚すのは止めて頂戴…っ!!」
「この…このぉお…っ!父に意見する気かっ!生意気な…っ!!」
「もう父とも娘とも思うものですか…っ!私は家を出ます。このカフスボタンだけ返してくれれば、財産なんかいらない…。あの娼婦に全部あげたっていいから、もう私のことは忘れて…っ!」
「家を…出るだと…っ!?」

 ロッドバルトの顔色がどんどんどす黒く染まり、平手を打とうとしていた手が硬く握り込まれる。《正拳で殴られる…!》何だかんだ言って、父からはお仕置き程度の暴力しか受けたことの無かったジルコニアは、とうとう親子の縁が粉砕されるのを予感して硬く目を閉じた。

 下手をしたら、このままジルコニアは命を失ってしまうかも知れない。

 死ぬ…死ぬのだろうか?
 このまま、抵抗もせずに?
 実の父の手によって…?

 アイオナ卿ジルコニアとは、そのように無惨な生涯を辿る少女だったのだろうか?

 いいや、いいや…違う…っ!

『そんな筈無い』

 その時、ジルコニアの脳裏に美しい魔王陛下の笑顔が閃いた。
 生きとし生けるもの全てに希望を与えるその笑顔が、窮地に立たされた少女の魂を奮い立たせる。

『私は…陛下から下賜を頂いた身だもの…っ!』

 あの清らかな魔王陛下に祝福された身が、こんな不幸の中で死んで良いはずがない。

「うぉおおおお……っ!!」

 カ…っと目を見開いたジルコニアは雄々しい叫びを上げて強烈な蹴りを父の股間にお見舞いした。…と同時に、父の身体ががくりと頽れる。

「おやまあ…勇ましい娘さんだこと。俺がやんなくても撃退できたかな?」
「え…え?」

 父の背後に佇んでいたのは、一体いつの間にここに入ってきたものか…大柄な男性だった。どうやら、背後から父の首筋を殴打して気を失わせてくれたらしい。
 男が全身にぴったりと纏った布地は、薄闇に馴染む色合いをしている。これは噂に聞く…隠密行動中のお庭番ではなかろうか?

「まさか…まさか……」

 単なる物取りの泥棒が、見かねて手を出してくれたという考えもないではない。
 だが…ジルコニアの心には、どうしても夢想が浮かんできてしまう。

 《凄腕のお庭番グリエ・ヨザック》…彼が先鋒を勤めるところ、その背後にはお忍び中の魔王陛下の存在があると、巷説には伝えられている。しかしそれは、生活の苦しさを誤魔化す為に庶民が思い浮かべるお伽噺だと、ジルコニアは思いこんでいた。

 だが…もしかして、もしかして…と、この胸は激しく弾んでいる。

「勇気あるお嬢さん、魔王陛下の名誉を守ろうとして下さり、まことにありがとうございます」

 優美な礼を決めた男が、目深に被っていた頭巾を剥ぐ。

 そこにあったのは…巷説に伝えられるとおりに鮮やかな柑橘色の頭髪と、冬の海のように蒼い瞳だった。

 



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