「青空とナイフ」A








 車がガレージの外に出ると眩い盛夏の日差しが瞳を刺激し、有利は助手席に沈み込んだままゆっくりと掌で目元を覆った。

「あの…やっぱり、相続拒否しちゃダメですか?」

 こんなバタバタ劇、もう御免だ…そう思っての言葉だったが、青年の返答は意外なものだった。

「それは、ゴンゲン氏の遺書を読んでからあなたが判断して下さい。彼は…あなたに期待しているようでした」

「期待…?」

「あなたなら、あの欲まみれの者達とは違う使い方をするのではないか…おそらく、そのように期待していたのでしょう」

「……」

 どう判断して良いのかは分からないが、それでも…微かに滲む好意の色が有利を励ました。有利を《ご主人様》と呼びながら、どこか事務的な印象が強い物言いが気になっていたのだが、少なくとも…あの男達よりは有利に対して好意を抱いてくれているようだ。

「分かりました…家で、話聞かせてください」

「ええ、ご主人様」

「………あと、そのご主人様ってのやめてくれません?渋谷…は、俺の家族と喋るときややこしいか。んじゃ、有利って呼んでくださいよ」

「…ファーストネームでお呼びするのは…」

「嫌?」

「ご命令とあらば…致し方ありません」

 憮然として嘆息する様子から見ると、余程望ましくないことらしい。

 《命令ってわけじゃ》…とは思いつつも、あの《ご主人様》呼びに萌える兄の前でその呼称を使われることを考えれば、これ以上言い争うとも無為かと思われる。

「では、ユーリ…私のことも敬称抜きでお願いします」

「う…うん。それじゃ、コンラッドって呼んでも良いですか?」

「ええ」

「ねえ、コンラッド…あんたは…ありゃ?あなたは…」

 呼び捨てにするといきなり語調が砕けたものになりそうで困っていると、コンラートは微かに笑みを浮かべた。

「喋りやすいように喋って頂ければ結構ですよ。あなたは、私の雇い主ですから」

「そう?ゴメンね…。あー…それでいくと、あんたも俺にもーちょっと砕けてくんない?年上の人から敬語使われて、俺の方がため口ってマズイじゃん」

「……ですから、あなたは雇い主で…」

「じゃ、雇い主命令って事でお願い!あんた、ホントは一人称《私》じゃなくて《俺》だろ?《私》ってなんかおすましさんみたいだからさ、《俺》って言ってよ。ね?…ダメ?」

 両手を握りしめて上目づかいにお強請りすると、コンラートは困ったように長い指で髪を掻き上げた。

 貴族的な雰囲気を持つ美青年ながら、その指には幾つも傷が残っている。

 《意外とどじっ子でお料理中に手を切っちゃうの》…という可能性は低いので、多分訓練か、これまでの仕事で刻まれたものだろう。

『そういえば…この人、俺のこと護ってくれるとか言ってたよな』

 ボディーガードを生業としている人なんて、初めて目にした。

 それに…そんな人に護られなくてはならないような立場に置かれたことも、当然初めてだ。 

『俺…これからどうなっちゃうのかな?』

 不安げに瞼を伏せた有利をどう思っているのか、コンラートは横目で雇い主を確認すると微かに目元を細めるのだった。



*  *  *



 渋谷美子は学校帰りの筈の息子が黒塗りの外車で帰ってきた上、恭しく長身美形青年に傅(かしず)かれていることに驚嘆の声を上げた。

「きゃあぁぁあ…っ!ゆーちゃん!なんて素敵な人をボーイハントしてきたの!?」

「ボーイハントは死語…っていう以前に、ガールハントに比べるとそもそも普及していたかどうかすら怪しいよ…。つか、ボーイスカウトと間違える可能性が高いよね、お袋」

「そんなことよりゆーちゃん、この素敵な人は誰なの〜!?」

 少女趣味のふりふりエプロンに身を包んだ美子は、両手を組んで期待に満ちた眼差しを息子に向けた。

「えーと、俺のボディーガード…に、なんのかな?」

「ええ。マダム…今日から息子さんの護衛をさせて頂きます、コンラート・ウェラーと申します。ご家族の皆様の警備指揮も執らせて頂きますので、以後お見知りおきを」

「まあまあ…そうなのそうなの!?えええ〜っ!ゆーちゃんたら《一生君を護るよ》なんてプロポーズされちゃったの!?きゃああ〜っ!ゆーちゃんたら可愛いお嫁さんをいつか連れてきてくれると思ってたけど、素敵なお婿さんでもママは全然OKよぉぉ〜っ!!」



 渋谷美子、大興奮。

 息子と護衛、大困惑。



「お…お袋……何か誤解があるみたいなんだけど…」

「えぇ〜?じゃあどういうことなの?」

「美子さん、息子さんは多分、一夜…いや、一昼にして大金持ちになっちゃったんですよ。ボディーガードが必要になるほどの…ね」

 息子によく似た仕草で唇を尖らせていた美子に、家の中から出てきたブレザー姿の少年が声を掛けた。如何にも頭の切れそうな、眼鏡がよく似合う少年は綺麗な顔立ちに微笑みを浮かべていたけれど…コンラートを見る瞳はどこか品定めをするようであった。

「間違えていたら失礼…あなたは《ルッテンベルクの獅子》?」

「そのように呼ぶ者もおります」

 謙遜も羞恥もなく、淡々と事実だけを語るコンラートに少年はシニカルな笑みを浮かべた。

「なるほどね。《氷の刃》の通り名も事実な訳だ」

「そちらは、私にとっては不本意な名ですね」

「コンラッド…渾名いっぱいあるんだなー。でも、《氷の刃》なんで恰好いいじゃん。なんで嫌なの?」

 コンラートの眦に浮かんだ不快感を察して有利が尋ねるが、答えを返してくれたのは友人の方だった。

「言い寄る依頼人を、その名の通り冷然と斬り捨てちゃうからだよ」

「え?依頼人斬っちゃダメだろ!?」

「喩えだよ。比喩胃ユ三焦ユ(ひゆ・いゆ・さんしょうゆ)だよ渋谷」

「比喩はともかくとして、あとのはナニ?」

「膀胱系に並んでる経穴(ツボ)だよ渋谷」

「………ゴメン、村田……ネタがマニアックすぎてついていけないよ……」

 相当マイペースそうな《村田》という少年は、脱力気味の友人からの突っ込みを気にする風もなく、やはりマイペースに話を進めていった。

「ま、こんな所で立ち話もなんだし、上がって貰って腰を据えて話を詰めていこうよ」

「お前が仕切るなよ!つか、なんでお前俺んちに居るの?」

「ひっどいなぁ〜渋谷。中間試験で早速赤点予備軍になった君のために、夜更けまで勉強を教えて上げたのは誰かな?君の学校、赤点一つでもとると強制的に夏期補習があるんだろ?《野球の練習出来無くなっちゃうよぉ〜助けてムラえもん〜》って泣きついてきたのは誰?」

「……助けて下さったのは村田様で、泣きついたのは俺です……」

 へこりと頭を下げると、有利はコンラートを自分の家に招き入れた。

「狭いとこだけど、あがって?靴は脱いで…って、そういや日本語ぺらぺらだもんな。日本の習慣とか大丈夫だよね?」

「必要最低限のことは…」

 そう言ったコンラートは、玄関に上がってからきちんと片膝を突いて、有利の履き物まで揃えていた。寧ろ、有利の方が日本のマナーを学ぶべきかも知れない。

 

*  *  *



 夕刻になって長男と父、そして弁護士の甲田もやってくると、渋谷家のテーブルにはぎっしりとカレーが並べられた。

「いや〜。これだけ大皿が並ぶと壮観だね!」

「私は夕食を頂きに来たわけでは……」

 むっつりとしたした地顔のまま苦言を述べる甲田も、いつまでもその調子を保つことは出来なかった。

 はふはふとカレーをかっ込む渋谷家の面々と村田があんまり美味しそうに見えたものだから、甲田もコンラートも眉根を寄せながらもスプーンを口に運ばざるを得なかったのである。        

「…美味しい」

 無表情な二人から、同時に同じ感想が出た。

「でしょー?おかわりいぃ〜ぱい!あるから沢山食べてね?」

「何故我々が来るとはご存じなかったのに、そんなに大量のカレーが?」

「一般庶民は一度カレーを作ったら3日は食べ続けるのが定石なのよ!」

 それは全ての一般庶民共通というわけではないのだが…。

『絵に描いたような仲良し家族だな…』

 コンラートは意外と美味しいカレーを続けて口に運びながらも、居心地の悪さを感じ始めて瞳を細めた。

 《家庭》という存在を彼が感じたことは、過去にあまり無いように思う。

 父は力強い《家族》ではあったが、腕利きのシークレットサービスであった彼が長く家に居続けたことはあまりなく、彼が死んだあとも訳あって家庭的な場所に座を置くことは出来なかった。

 寂しい…と感じたことはなかったはずなのだが、自分とあまりにかけ離れたこの家庭の雰囲気に、違和感を覚えずにはいられない。

 一方、とにかく完食してしまおう…そう考えているらしく、黙々とカレーを平らげている甲田は自分と同じ人種であるように感じた。



 にこにこ顔でカレーを食べ続ける渋谷家の面々と村田。

 むっつりと押し黙って、無機質に胃袋を満たしていくだけの甲田。



 後者の方が自分の仲間なのだと思うと、微かな寂しさは感じなくもない。

「コンラッド。おかわりいる?」

 にょこっと顔を覗かせて、コンラートの雇い主が見上げてきた。

 ちいさな口に大きなスプーンでカレーを掻き込んでいたせいか、右の口角には茶色いルーが付着している。

「いえ、結構です」

 素っ気なく言いながらも…無意識のうちに有利の口角に指を沿わせれば、《むにゅ?》という感じで有利が目を細める。

 その様子が仔猫のように愛らしくて、うっかりコンラートはふんわりとした微笑みを浮かべてしまった。

 ここ近年…浮かべたこともないような、素の表情で…。

「わー…」

 仄かに有利が頬を染め、美子が少女のように歓声を上げ…長男が怒り筋を浮かべてカレー皿を握りしめる。

「ちょっと待て護衛!お前、ゆーちゃんに馴れ馴れしすぎるぞ!?」

「失礼、弟君が構い甲斐のある方なもので…」

 弟馬鹿らしい長男への反発もあり、コンラートは挑発するようにルーのついた指を自分の口元に運んでしまう。

「あーっっ!か…間接キスかーっ!?」

「馬鹿兄貴!コンラッドさんはなー、そういうのナシの人なんだぞ!《氷の微笑》で雇用主を袈裟懸けにたたっ斬る人なんだからなっ!」

「なにぃ!?シャロン・ストーンで必殺仕事人なのか?色んな意味で怪しすぎるだろ!?お前…一体何者なんだ!?」

「…………何かこう…誤解がどんどん深まっていくようですし、早く食べ終わりませんか?」

 甲田の意見は尤もであった。

 

*  *  *



「お腹が一杯になったら眠くなったねぇ〜…」

 勝馬が暢気なことを言うと、甲田の眉間に深々と皺が寄る。

『グウェンダルに似た人だなぁ…』

 コンラートは異父兄のことをちょっぴり思い出していた。あまり接触のある人ではないのだが、記憶にある表情はこの男によく似ていたように思う。

「…寝ないで下さい。私はここでの説明が終わったらすぐに権現氏の通夜を仕切に行かなくてはならないんですから」

「うん。そうだよね…。俺も一緒に行く!」

「いいえ、ご主…いえ、ユーリは通夜や葬儀の最中には行かない方が良い。なるべく顔を広い範囲に知られない方が良いですからね」

「でも…俺、さっきもちゃんとじいちゃんとお別れ出来てないから…」

 有利が握り拳を開けたり閉じたりしながらもどかしげに言うと、コンラートは眉を顰めて諭した。

「悼む気持ちがあれば十分です。それよりも、あなたの安全確保の方が大事です」

「うー…。財産貰うなんて、やっぱ良いトコなしじゃん…」

「あーん?財産って何のことだ?」

 カレーを食べるのに一生懸命で、コンラートが護衛で甲田が弁護士を《やっている》人だとしか認識していなかった勝利は、それらが全て自分の弟に関連するものだとは思っていなかったらしい。

「それでは…改めてご説明致します」

 ようやく本来の業務を展開できた甲田は、朗々と権現源蔵の遺書を読み上げた。



*  *  * 




 遺書によると、権現源蔵の遺産のうち現金化出来る資産については全額が有利のものになること。未成年である有利が成人するまでの間は渋谷勝馬が後見人となるとともに、有利が希望する限りの期間は、コンラート・ウェラーが心身共に彼を護ることなどが定められていた。

「うーん…なぁ、村田。俺…どうしたらいいのかな?」

「ゆっくり考えればいいと思うよ。少なくとも、高校卒業くらいまではどう使うかについての結論を急がなくても良いと思うね。君はまだ15歳の高校生に過ぎないんだ。まだ学ぶべき事も多く、それだけの資産を有効に運用する術も持たないだろう?受け取り拒否をするにしても、後で《あのお金があったらこれも出来たアレも出来た》って後悔すると思うね。君は過去よりも未来に多くのものを持つ身だから」

「あのね…村田。助言を求めといて言うのも何だけど、お前ホントは何歳?」

「ガーン!君が言うか渋谷っ!」

 少年二人の掛け合い漫才の一部を受けて、コンラートは淡々と自分の意見を述べた。

「俺もムラタ君の意見に賛同します。遺書にもあるとおり、ゴンゲン氏はあなたに遺産を残すということもですが、それ以上に、あなたがどう使うかに興味を覚えておられるようだ。故人の遺志を忠実に護るとすれば、何らかの形でユーリが納得出来る使い道が決まるまでは早まった決断はされない方がよいと思います」

「ふぅん…同意見って訳だ。君は噂通り、職務に忠実な人だね」

「褒めて頂いている…と認識してよろしいでしょうか?」

「ああ、そうしてよ」

 村田とコンラートの会話には、微妙に含むものを感じるのはどうしてなのだろうか…。

「それで?君の警備計画を教えて貰えるかな?長期間にわたって渋谷を警護するのなら、それなりのハードウェアが必要だろう?」

「ええ、詳しいことはショーマ・シブヤと詰めなくてはなりませんが、まずはシブヤ家の防御システムを一新する必要があります。出来れば、立地的にも警備しやすい場所に移転して貰った方が良い」

「それまではどうする?渋谷を狙う連中の活動が活発なのはまさに近々の問題だと思うけど?」

「シブヤ家の皆さんには、暫くの間ホテル暮らしをして頂きたい。これはゴンゲン氏の方で既に手配を完了してますので、ゴンゲン氏に縁のあるホテル・シュニッツラァーのインペリアルスイートが1年間押さえてあります」

「やーん!素敵!ホテルのスィートライフなの!?」

「ち…ちょっと待て!ホテル・シュニッツラァーのインペリアルスイートって…一泊100万円とかいう部屋じゃないのか!?」

 暢気にはしゃぐ美子とは対照的に、勝利は軽く青ざめていた。

 《莫大な遺産》というものを、ちょっと認識出来る領域の話で説明されたせいだろうか。

「それは一部屋のお値段ですね。最上階を借り切りますので、通常ですとこのくらい…1年契約で既に一括払いしておりますので…この金額ですね」

 甲田がファイルの中から領収書を取り出し、渋谷家のテーブル上に置いた。

「うわぁ…。0…数えるのが怖いな……」

「えと…こ…これってさっきの遺産相続とは別料金?」

「勿論です」

「おぉおお〜い…ゆーちゃん。やっぱり相続拒否した方が良くないか?」

 話が大きくなると、意外と小心者の勝利としては逃避したくなるらしい。

 だが…先程までは同じ考えだった有利も、すぐに結論を出すことには躊躇した。

「……もーちょっと、考えてみたい。多分…じーちゃん…その為にホテルのお代、先に払ってくれたんだと思うんだよ」

 ただ莫大な財産を気まぐれに押しつけたわけではなく、警備の完璧なインペリアルスィートを押さえ、腕利きのボディガードに信頼の置ける弁護士までつけてくれた権現源蔵は、やはり有利のことをそれだけ大切に思っていてくれたのだと思うし、期待してくれていたのだとも思う。

 その想いを、《大変そうだから》の一言でぽーんっと蹴り出してしまうのは、あまりに不誠実というものだろう。

「少なくとも、その一年の間は俺…ちゃんと色んなコト勉強して、使い道考えていこうと思うんだ」

「…ゆーちゃんがそう言うのなら…」

 渋谷家の面々が、息子の意見を頭ごなしに磨り潰すことなど考えられないのであった。



*  *  *




「疲れましたか?」

「うん…少し……」

 当座の荷物だけ持って、早速ホテル・シュニッツラァーに入った渋谷家の面々は、その贅沢な間取りと設備、警備の厳重さに刮目した。

 村田と甲田はそれぞれの家や仕事場に向かったが、コンラートは勿論有利に付き添ってホテルに入っている。

 インペリアルスイートは家族でゆったりと過ごすことが可能な空間で、各部屋に当然のように風呂とトイレ、整容室、クローゼットなどが完備されており、渋谷家の人々一人一人に部屋を宛って尚、部屋が余るほどであった。

 コンラートが一部屋とることも可能だったのだが、有利の警護を第一とする彼は有利の部屋で共に過ごすことになった。 

「なんか…色々あったから……」

「仕方のないことです」

 労るような内容なのだが、淡々と語る口調にはあまり感情の色は見えなかった。

 基本的に、依頼主には感情を見せないようにしているのかも知れない。

『《氷の刃》…か』

 あの後、村田に補足説明をされて、コンラートがどういう人なのか少し知ることが出来た。

ティーンズの頃にシークレットサービスだった父を亡くし、養成施設に入って父と同じ道を目指したコンラート。

 卒業後はボディガードとしての完璧な実績に加え、端麗な容姿とソフィスケートとされた物腰の為に、政財界・ショービズ界の大物からも引く手あまたなのだという。

 それはまぁ…強面で無骨な男に護られるよりも、まるで有能な秘書か恋人のように傍で佇んでくれる人の方が有り難いのだろう。

 ただ、その《売り》の方があまりに需要が高すぎて、ボディガードとしてではなく、恋人として傍にいて欲しいと熱望されることに正直辟易していたらしい。

『護るべき人が、自分に好き…って思うのは嫌なんだなぁ…』

 いっそ、嫌われた方が良いと思っているのかも知れないが、それでも時折みせる柔らかな表情が、彼を芯から冷たい人ではないのだと教えてくれる。

『情が深いからこそ、そういう態度をすんのかもしれないよな…』

 言えば、それこそ嫌そうな顔をして否定しそうだけど。

「お風呂も一緒に入るー?」

 有利はジャグジーつきの大きな浴槽があり夜景が臨める風呂場に感嘆しつつ、うきうきと声を掛けてきた。早速湯を張り、見慣れないボトルの中から注いだ液体を注いでバブルバスにしている(なお、室内にある全てのものはコンラートのチェック済みである)。

「あなたが入っている間は入り口でお守りします」

「じゃあ、あんたが入ってる間は?」

「俺は結構です。濡れタオルで一通り拭きますし、消臭スプレーは掛けますのでご不快は与えないかと思います」

「えぇ〜?何言ってくれてんだよ!こんな綺麗な部屋に泊まるのに、風呂はいんないなんて勿体ないって!入ろうよぉ〜っ!」

「俺の任務はあなたをお守りすることであって、お守(も)りではありません」

 きっぱりと言い切られて、有利はへちょりと俯いてしまう。

「はぁい…」

 唇を尖らせてしょげ返る有利に、コンラートは微かに唇を枉げる。

「何故…そんなに人懐っこいのですか?誰にでもそうなのだとしてら心配ですね。まあ…だからこそゴンゲン氏の資産を譲り受けることにもなったのでしょうが」

 コンラートとしては珍しい、老婆心から出た言葉だった。

 けれど、有利は一層その言葉が胸に刺さったのか…微かに瞳を潤ませてコンラートを睨み付けた。

「俺…誰にでもいい顔するように見える?」

「…その様に感じました」

「そう……」

 有利は強引に手の甲で目元を拭うと、浴室に駆け込んで乱暴に扉を閉めた。

 豪奢な白木の扉がビィン…っと嫌な音を立てて軋み、使用者の乱暴に文句を言っているようだ。



*  *  *




『……怒らせたか』

 それで良いと思う。

 何時になくあの子に対しては、壁を作れなくなっている自分に戸惑っていたから。

『二度と…あんな思いはしたくない』

 警護すべき相手に入れ込みすぎて、冷静な判断がつかなくなったボディガードなど、唯の足手まといだ。

 この仕事を正式に始めてからは、コンラートの経歴に《業務失敗》という染みは一切ついていない。だが…記録ではなく記憶に残るある事件が、何時までも消えない血痕としてコンラートの心身には刻み込まれている。

『父さん…俺は、あなたのようにはならない』

 自分に言い聞かせるようにそう呟いていたコンラートだったが…その内、自分がやはり私事に集中しすぎて、本来の業務を忘れかけていたことに気付いた。

『……遅すぎないか?』

 有利が浴室に入ってからもう30分が経過している。

 浴室の設備は確認しているから、音も立てず、コンラートに気づかれずに侵入者が入り込むことは考えられない。

 コンラートは冷静さを取り戻してこの状況を演算し、一つの可能性をはじき出した。

『もしかして…』

 浴室の扉からは鍵の音はしなかったはずなので、ゆっくりとノブを回せば…脱衣所には乱雑に籠へと突っ込まれた学生服があり、そのまた向こうのガラス戸の奥で…有利がぐったりと浴槽に漬かっていた。

 脇には、懸念していたとおり緑色の硝子瓶があった。

 それはアルコール度数の強いシャンパンだったのだが、おそらく清涼飲料水と間違えて飲んでしまったのだろう。

「ユーリ!」

 最悪の場合、急性アルコール中毒ということも考えられる。

 コンラートは自分の失態に舌打ちしながら、スーツが濡れるのも構わず有利を浴槽から引き上げた。

「ん…ん……」

 ぽんやりとではあるが、呻いて瞳が開かれたことにほっと安堵していると、湯の温もりと酒によって全身桜色に上気した少年が、ふんわりと華のように微笑んだ。

「にゃー…怒ってるー…」

「ユーリ…大丈夫ですか?気持ち悪くはないですか?」

「んーん?気持ちいいよぅ…。ふわふわして、気持ちいい…あんたの声も気持ちいい〜…」

 うな〜んと猫のように伸びをして、有利はくすくす笑いながらコンラートの胸に凭れていった。

「全く…困った子だ……」

 ほう…っと息をついて脱衣所に運ぶと、白いタオルに包まれて相変わらずくすくすと笑い続けている。どうやら、羨ましいくらい幸せな酔い方をする少年のようだ。 

 白く瑞々しい肌…伸びやかな四肢…そういった映像の意味を極力掘り下げて考えないようにしながら、コンラートは冷静な眼差しで有利の身体から水気を拭っていくと、大きめサイズのバスローブにくるんだ。

 有利はされるがままにとろりと脱力していたが、コンラートから冷えた水を飲まされると、少し人心地ついた様子で呟き始めた。

「あのねぇ…俺、風呂に漬かりながら考えたんだよ」

「何をです?」

「俺、誰にでも懐く訳じゃないよ?好きだなーって思う人にしか、懐かないもん。じーちゃんも、ばーちゃんも…好きだから好きなんだよ?ホントだよ?」

「……そうで…しょうね」

 風呂に入っている間、ずっと悩んでいたのかも知れない。

 よくよく観察すれば、酒気とは違う色合いに眦が染まっていた。

「すみません…」



 傷つけた。



 きっとそうだろうと思っていたけれど、こうして突きつけられると…自分が酷く人間味のない男になってしまったようで情けなくなる。

 弱い自分を取り繕うために、幾重にも張ったバリアが一枚…ぱりんと音を立てて割れるのが分かった。

「あのね…だから、あんたのことも好きなんだよ?」

「え…?」

「あんたのことも好きだから…気持ちよく一緒に過ごしたくて、お風呂も一緒が良かったんだ」

「……っ!」

 少年が言っている《好き》はどう考えても人間愛に類するもので、権現源蔵やその妻に…そして、家族に向けられているものと同種だと分かっているのに、コンラートの頬には赤みが差す。



 この子はいけない…。 

 この子は、無意識に相手を溺れさせてしまう魅力の持ち主だ。


 

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