「青空とナイフ」@










 くすぅ…
 ぷー……
 くすぅ…
 ぷー……

 春の麗(うら)らの隅田川…に、ほど近い大邸宅で、晴れ上がった青空のもと、健やかな寝息を立てて幼い少年が眠っている。
 こまめに庭師を入れているおかげで完璧な佇まいを見せる日本庭園の中…青々とした芝草を敷き詰めた上に、実に気持ちよさそうな笑顔を浮かべて眠っているのだ。

 仕事上の密談を交わす大人以外の者が、この庭にいることも…ましてや、こんなふうに子どもがひっくり返っているのを見るのも初めてだったものだから、縁側に立つ老人は暫くのあいだ呆気にとられたように沈黙していた。

 少年は小学校の3、4年生というところだろうか。地色が白で、袖口に2本の青いラインが入ったシャツを着て、サスペンダーのついた紺色の短パンと同色膝丈の長靴下を穿いた姿はなんともあどけない。
 まろやかな頬は健康的に日焼けして、淡い小麦色の光沢を湛えているし…形良いちいさな鼻から、ふくっとした唇に掛けてのラインは小動物特有の愛らしさに満ちている。

 春の微風に乗ってさわさわと揺れる芝草の中で、少年はまるで絵本に出てくる妖精のように不思議な存在に見えた。

『確か…渋谷勝馬の息子だったか?』

 渋谷勝馬は老人の叔母の娘の夫の兄弟…要するに、親族と呼ぶには些か遠く離れすぎた血縁関係の男だが、商売上の繋がりもあるせいか、何かと色んな集まりで顔を合わせることが多い。
 長男の方はもっと理知的な印象のある、中学生くらいの子どもだったと思うから…多分、次男の方だろう。よほど伸び伸びと育てられたのか、大物の気質をもっているのか…ともかく、巨大な邸宅や庭園に怯むような子どもでないことは確かだ。

『よりにもよって、うちでここまでぐーぐー眠る子がいるとはな…』

 老人…権現源蔵はこれまで、ちいさな子どもとの付き合いなど体験したことはない。
彼が相手にしてきたのは大体、海千山千の商売人か、老獪な政治屋どもだ。
 権現は政界にも大きな影響力を持つ権現財閥の総帥として長い月日を生きてきた。一代にして築き上げた富は現金価格だけでも膨大なものであり、さらに不動産などの資産を合わせれば、日本という国家はともかくとして、2、3の都道府県ならば即金でぽーんと買えそうな程に膨れあがっている。

 だが、苦楽をともにした妻に先立たれてからというものの、権現の心は乾いていくばかりで…物質的な栄華は勿論のこと、どんな美女も各界の著名人も彼の心を潤すことはなかった。

 今日は妻の命日とあって、屋敷に親族一同を招かねばならなかったのだが…これも権現にとっては鬱陶しいとしか表現しようのない行事であった。
 おそらくは誰も、引っ込み思案で無口だった妻のことを偲んでなどいないのだ。

 声と態度が大きくワンマンだった権現を支えて支えて…自分らしい生き方など一切追い求めない、昔型の女だった。
 それでも…亡くしてしまってより強く思うようになったのは、何物にも代え難いほどあの地味で控えめな女を愛していたということだった。
 その面影を追おうにも、権現夫妻に子どもはない。大勢詰めかけた親族は権現と妻の兄妹の子どもや孫といった関係なのだが…妻の兄妹は何故だか押しの強い者が多く、あまり妻に似ていない。

 それでもこうして毎年命日を大勢で弔うのは、一人きりでこの一日を乗り切ることが辛いのかもしれない。鬱陶しくとも、わいわいと賑やかにしていてくれれば多少は気が紛れたり、追従だとしても妻を悼む言葉がもたらされるからかもしれない為か…。

『儂は…弱い人間になってしまった…』

 財閥の総帥職は、妻が亡くなった翌年に自ら身を引いている。
 引き留められて顧問という形に収まってはいるが、昔のように切った張ったで荒事を乗り越えていく力はもう残されてはいないだろう。

「ん…」

 少年が身じろぐと、さらさらとした黒髪が春風を受けて靡き…まろやかな頬が芝生に擦りつけられる。
 不意に、その頬をぷにりと指で押してみたいような気がした。
 つっかけを出してゆっくりと歩いていっても、少年が目覚める様子はなく、ぷにぷにと頬を突いてみてもやはり瞼は開かなかった。

 ふと見やると…少年は手に何か持っているようだった。
 くすんだ色をしたお手玉のようなものは、よく見ると小さな顔のついたお人形のようだった。

「……これは…っ」

 生来の銅鑼声が喉を突いてしまい、耳元で叫ばれる形になった少年は跳ねるようにして目覚めた。

「はぅ…あ?」

 何が起こったのかときょろきょろしていた少年だったが、目の前の老人と、立派な日本庭園を暫く見詰めているうちに漸く自分の置かれた状況を思い出したらしい。

「あ…ご、ゴメンナサイっ!芝生…入ったらダメだった?」

 少年はあわあわと起きあがって頭を下げたが、権現に手を掴まれても泣き出したりはしなかったので少し安堵する。
 まだ幼い少年の腕は驚くほど細く…そして柔らかく、老人の朽ちた樹肌のような手が触れては壊してしまいそうな気がしたからだ。

「坊や…その人形は、坊やのものかい?」
「うん。貰ったんだよ。えぇと…あなたはゴンゲンじーちゃん…だよね?なぎさばーちゃんがくれたんだけど…返した方が良い?」
「い…いや、そういう事じゃないんだ…」

 困ったように眉根を寄せる少年に、更に困ったように権現が首を振る。

「渚のことを知っているのなら…儂と少し話をせんか?」
「うん」

 こっくりと頷く少年を縁側に導くと、主に負けず劣らず皺深い女中にお菓子とお茶を持ってくるように告げ、権現は少年から話を聞いた。
 少年は父についてこの家に来た折に、権現の妻である渚と何度か話をしているらしい。 その時、一緒にあの芝生に座ってお喋りをしたのだという。

「ばーちゃんね、じーちゃんの話もしてたよ」
「頑固爺と言っておったかの?」
「うん。ガンコでワガママでゴーインで…でも、一本筋の通ったじーちゃんがスキなんだって言ってた」

 にぱりと笑う笑顔はまるで、晴れ上がった真夏の青空のように…咲いたばかりの向日葵のように…とてもとても鮮やかで、瑞々しい何かが清水のように身体の奥から沸きだしてくるようだ。 

「そうか」

 しみじみと…噛みしめるように言葉を紡いだのは何時以来だろうか?
 極めて新鮮な感動が、権現の体細胞の全てを満たしていた。

「なぎさばーちゃん、じーちゃんにこの人形作ったら喜んだからって、これ作るの趣味になったんだってさ」

 そう。この人形は渚の故郷に伝わるもので、権現自身は特に興味があったわけではなかったのだが、何かの拍子に《可愛いな》といったのをずっと覚えていたのか、渚は綺麗な布きれを見つけるとこの人形を作り、食卓や窓際に飾っていたものだった。

「しあわせが来るんだって。おれもね、これもらってから初めてヒット打ったんだよ?」
「そうか…」

 耳に心地の良い高音がころころと屈託のない調子で言葉を連ねていくのを、権現は心地よく聞いていた。
 少年は最初のうちは渚の思い出を話していたが、そのうち話題はぽんぽんと飛んで、学校のこと野球のこと…怒ったり笑ったりしながら実に楽しそうに語ってくれた。

 きっとこの調子で、あのひっそりとした老女のことも慰めてくれたのだろう。
 子どもを為せなかった彼女にとって、この幼い少年はきらきらと輝く宝石のように映ったに違いない。

 権現にとってもそれは同様であるらしく、少年の喋る内容そのものよりも、生き生きとした表情の移り変わりを見ていることが楽しくて、時が経つのも忘れてしまったほどだ。

「おーい、ゆーちゃん。おーっと…権現さんと話し込んでたのかー。楽しかったかー?」

 廊下の向こうから勝馬が捜しにやってきたときには、《邪魔な奴が》…と舌打ちしそうになったくらいだ。

「うん。お菓子も貰ったよ」
「お礼言った?」
「うん。俺言ったよね?」
「ああ、言った言った。それに、菓子のお代以上に楽しませて貰った」
「そうですか。まあ、うちの子ですからねぇ。面白いし可愛いでしょ?」

 アメリカ生活が長いからなのか、単にそういう性分なのか、息子を《豚児》などと卑下する習慣を持つ合わせない勝馬はにこにこと機嫌良く頷いた。

「ああ。面白いし可愛いな。是非…また連れてきてくれんか?」
「勿論ですよ」



*  *  * 




 そして約束通り、勝馬は何か行事ごとで権現と会う折には必ず有利を連れてくるようになったのだった。
 その様な繋がりがあると、えてして仕事上の口利きなどを求めてくるのが定石なのだが、勝馬はどういうわけかその様な要求をしてくることはなかった。

 こうして心地よい春風のような逢瀬を何よりも楽しみにしていた権現源蔵であったが、やがて病を得て…生を終える時期を逆算出来るようになった。
 以前にも手術を行っていた胃癌が再発し、播種性に腹腔内へとばらまかれたガン細胞が転移巣を拡げていったことから、余命三ヶ月と宣告されたとき…権現の頭に浮かんだのは有利の存在だった。
 気が小さいが気が強く、臆病だが誰かのためなら臆病さを恥じて克服することを厭わない少年…彼に、自分の持てる全てを渡したら、どんな使い方をしてくれるのだろうか?

 だが、ただ渡すだけではいけない。

 権現の持つ財産はあまりにも膨大であり、そのおこぼれを狙う者は権現が健康体の頃から、砂糖に集る蟻軍団のように群れ溢れていたのだ。彼の死後は如何ばかりか瞼に浮かぶようだ。
 だとすれば、少年が財産の使い道を決めるその時まで彼を護る者が必要だろう。
 凄腕で長期間拘束出来て、そしてあの可憐な少年に対して獣心を抱く怖れがない者でなくてはならない。
 自覚が全くないのが恐ろしいほど可愛らしいあの少年は、財産など一欠片もなくてもそのような趣味をもつ男の毒牙に引っかかりかねないのだから。

『そうだ…あの男が良い』

 かつて、権現が欧米諸国の経済界を揺るがすような荒事を乗り越えている際に、専属のシークレットサービスとして働いてくれたダンヒーリー・ウェラーの息子…。
 確か、コンラート・ウェラーと言ったか。
 その業界では知らぬ者なしと言われるほどの腕前を持つ、特A級のエージェントに育っていると聞いた。
 父譲りのダークブラウンの頭髪と、過去に功績のあった事件から《ルッテンベルクの獅子》の通り名が最も有名であるはずだが、影で囁かれる《氷の刃(やいば)》との呼称も権現は知っていた。

 《刃》の由来は、彼が袖に隠し持った暗器が二振りのナイフであることにも掛かっているが、もうひとつ…彼自身の持つ印象も関与している。
 怜悧な美貌を誇る青年は、護衛としての技量以上に宴席でのエスコートも得意としており、そのような席では蕩ける様な笑顔と細やかな気配りを雇い主に捧げ、とても《氷》等という形容は当てはまらない。その様子は何かの折に権現も目にしていたので知っている。
 だが、どれほど美しい女優や膨大な財力を誇るマハラジャが愛を囁こうとも、彼は決して仕事上の繋がりがある者とは関係を持たないのだという。
 それを押して口説こうとするとする時、雇い主はまさに《氷》然とした拒絶を受けることになる。

『冷静にお護りすることが出来なくなりますから』

 そのような申し出をすること自体が罪だと言わんばかりに拒絶された者は、冷たい眼差しを受けながら傍にいる辛さに…彼をシークレットサービスから外さざるを得なくなるか、逆に執着して離せなくなってしまう。
 後者の場合も、結局虫螻でも見るような視線に耐えきれなくなり…最終的には前者の選択を迫られるそうだ。
 そんな彼ならば、有利に対して懸想するようなことはあるまい。

 権現は、自分の死を目前にして何やら楽しげな笑みが浮かんでくるのを感じていた。
 亡き妻…渚が繋いでくれたあの少年が、権現の死後どんな風にあの財産を使ってくれるのか、とても楽しみになってきたのだ。
 


*  *  *




 渋谷有利が権現源蔵の死を知ったのは、彼が息を引き取ってから数時間後のことだった。

 癌とは聞かされていなかったものの、病院には何度かお見舞いには行っていたのだが、お世辞にもあまり勉強が出来る方ではない有利が高校1年の期末試験直前という時期だったこともあり、権現自身が病室に来ることを望まなかったのだ。
 なにせ、中間試験が散々だったので…。

 だから、有利が期末試験を終えたその足で病室に向かったときには既に権現の息はなく、大勢の親族や仕事関係者が神妙な顔をして俯いていた。
 有利は権現の顔に白布が掛けられているのを目にすると、ひゅ…っと喉を鳴らし…暫くの間硬直していた。
 そして、ざわざわと周囲の人間達が動くのに合わせてどんっと肩を押されると、我に返ったように枕元へと駆けていった。

「おい…君……っ!」

 咎めようとする偉そうな人物を、半分無意識のうちに押しやり…有利は掛けられた布を剥いで権現の死に顔を確認した。
 癌で長く苦しんだ人の形相は見るに忍びないと聞いていたが、苦みの中にもどこか楽しそうな雰囲気を感じて、少しだけ安堵する。
 それでは、老人は孤独に苦しみながら逝ったわけではないようだ。

「じーちゃん…。さよなら……」

 こつんとおでこを合わせると、哀しいくらいに冷たい体温が伝わってくる。
 死した人の身体というのは、どうしてこんなに無機質になってしまうのだろうか?

 《ああ…死んじゃったんだね…》

 伝わる感触からその事を理解した途端に、ぽろぽろと涙が零れだした。
 哀しいというのではなく…寂しいというのでもなく…ただ、懐かしい日々が思い出されて涙が溢れてくる。

「さよなら……」

 静かに離別を告げる有利に、後ろから強い語調の言葉が投げかけられた。

「おい…お前が渋谷有利か!?」
「そう…だけど……」

 強面の男は50歳絡みの違和感があるほど髪の黒い男で、オールバックにした頭髪と、妙にこってりとした頬のどちらもがぎらぎらと脂っぽく光っている。
 如何にも野心家らしい堅太りの身体を、仕立てだけは上等のスーツや、高価そうな大ぶりの時計が飾っている。

「こんな子どもが…?」
「権現翁は何故こんな子どもに…!?これは、我々に対する裏切りではないか!」
「そうだそうだ!ゴンゲングループとて、このご時世…何時不況の煽りを受けて傾くかも分からないじゃないか。プール出来る資産は幾らあっても十分とは言えないのに…!」

 涙の痕も乾かぬまま、有利は一体どうしてこんなに責め立てられているのかも分からないまま、大人達に囲まれて怒声を上げられた。
 学ランの袖で強引に目元を擦ると、精一杯自分を奮い立たせて大人達に立ち向かう有利。

「あの…俺、なんかしましたか?」
「それはこっちが聞きたいよ!」

 戸惑いを隠せない有利の物言いに、大人達は嗜虐心に更なるオイルを注がれてしまった。

「君…一体どんな取り入り方をしたら権現氏の財産の大半を譲り受けるなんて事態になるんだい?」
「…財産?…俺、そんなのじーちゃんから一言も聞いてないしっ!」

 有利は必死で反論するが、大人達は一言も聞いてくれない。それどころか、有利の物言いの一部に食ってかかってきた。 

「《じーちゃん》だなんて馴れ馴れしい言い方をするもんだね…。家族同然だとアピールしたいわけかい?だが、親戚とは言っても殆ど他人に近いような血縁関係だって言うじゃないか!」
「孤独な老人の世話を焼いて、後添い紛いのことでもしてたのかい?」
「おお…そう言えば、男の子にしてはやけに可愛い顔をしてるな」

 自分たちに理解可能なフィールドに物事を填め込もうとする大人達が、勝手な理屈構成を組み立てて下卑た笑みを浮かべる。

「権現翁にはそういう趣味が?」
「いやいや…老いらくの恋で、若い頃には目覚めなかった資質が露呈することもあるさ。僕の友人にも、このくらいの男の子を寵愛してる奴が何人もいる…」
「そうだな。馴染むと下手な女よりもこのくらいの少年の方が味は良いと言うな…」
「……?何を、言って……」

 年の割に性的な知識の欠けている有利ではあるが、幾ら何でも悪意を込めて囁かれていることくらいは分かる。何とかして言い返そうと思うのだが、残念ながら相手の言っている意味が汲み取れない分、《ココが違う》と指摘する事が出来ない。

「おい、甲田…本当にその遺書は有効なのか?」

 様子が分かっていない有利にこれ以上聞いてもしょうがないと思ったのか、こってりとした印象の男が痩せた長身の男に食ってかかった。おそらく、権現の手配した弁護士なのだろう。

「はい。正式な手順を踏んで作成された遺書ですから、確実な内容です」
「あの…俺、そんな話…全然聞いてないんですけど…」

 四角四面な印象の弁護士、甲田はこってりとした男の恫喝紛いの言葉にも動揺しない代わりに、涙目の有利の訴えにも動揺しなかった。何もかもが薄っぺらい体型の中、そこだけはやけに分厚い瞼の下から細い目が有利を見る。
 だが、その瞳に薄汚れた私情が滲んでいる様子はなく、権現の残した資産の額にもやはり動揺していないのだと知れる。
 良くも悪くも、自分の業務に忠実な男…だからこそ、権現はこの男を弁護士として信頼していたに違いない。

「あなたが聞いていなくとも、この遺書自体は絶対的なものです」
「そんなぁ…。ねぇ、受け取り拒否って出来ないの?クーリングオフは適応される?そもそも俺、未成年だし判子だってサインだって拇印だって押しても書いてもないしっ!」
「受け取り拒否…されますか?」

 甲田の神経質そうな眉が跳ね上がる。

「だって、こんなに訳分かんない人達にやいのやいの言われたら受け取りたくなんかないっつーの!だってじーちゃん何にも言ってくんないし!」
「受け取り拒否だって!?」

 色めき掛けた親戚連中であったが、その喜色はそう長くはもたなかった。
 甲田が極めて事務的な声で、重大事項を告げたからだ。

「その場合、全額が国のものとなりますがよろしいですか?」
「別に良…」


「良くなーいっ!!」
 
 
 親戚連中は一斉に絶叫を上げた。

「き…君、早まるもんじゃないよ?いまどき国に一財産寄付したところで、政治家達がぶんどり合戦やって国民にはびた一文はいんないよ?」

 そんな信頼感のない国ってどうよ…とは思いつつ、確かにちょっと説得力があるのが哀しい。

「でも…おじさん達、俺が持ってくのも嫌なんだろ?」

 ぷく…っと唇を尖らせて上目づかいに睨む有利に、男達は動揺を示しつつも脳内では凄まじい勢いで(下品な)思考回路が機動していた。 

『ふむ…国に取られるくらいならこの子に相続させて、おこぼれを頂戴する方が賢くないか?』
『年頃の男の子のことだ…ちょっとグラビアアイドルでも抱かせて証文を書かせれば、財産がこっちに転がり込んでくるってことも…』
『いやいや…いっそのことこの子を拉致して陵辱して…恥ずかしい写真やら映像やら記録して、言いなりにさせるっていうのは?』

 恐るべき思惑の全てが伝わったわけではないが、先程までの突き刺すような視線とはまた違う、ぬめるような眼差しに晒される有利は、無意識のうちに我が身を両手で抱きしめて肩を竦めた。

『じーちゃん…なんちゅーもん残してくれたんだよ……』

 そんなの、一度だって有利は《欲しい》なんて言わなかったし、権現も《いるか?》とは言わなかったのに!
 有利にとって権現は、時々遊びに行くお屋敷の頑固で…でも優しい老人であった。
 決して、国の動向に影響を与えるような政経界の大物だから会いに行っていたわけではない。
 傍らを見やり、白い布を再び被らされた老人を見やると、鼻の奥がつぅん…と痛んでくる。

『こんなの…あんたが一番嫌がってたことじゃないか!』

 妻の渚を喪った後、権現は妻の葬儀や法事を極めて大規模な形で開催した。
 誰か…一人でも良いから誰か、妻を悼んでくれる者を捜していたのだと思う。
 渚と幾度か言葉を交わして、お人形を貰っただけの有利にあんなにも優しくしてしまうくらいに、権現は妻との思い出を共有してくれる存在を求めていたのだ。
 そんな彼が死んだとき…誰も彼の死を悼まず、残された財産の分捕り合戦だけをしているなんてあんまりじゃないか!
 有利はまた涙が込み上げてきそうな目元を強引に擦ると、臍下三寸丹田へと腹蔵に持てるだけの力全てを注ぎ込んで脚を踏ん張った。

「おじさん達!そーゆー話は後でしろよっ!!」
「なに…?」
「今は、じーちゃんが死んだんだぞ!?じーちゃんの思い出とか色々話すことあるだろ!?じーちゃんはこういう物が好きだったから葬式の時にはお供えしようとか、これをお棺に入れてあげようとか、こんな時にこんな事言ってたよねーとか、そーゆーこと言い合って泣き笑いすんのが正しい死んだ人の送り方じゃねぇの!?それを…なんだよ!金金金金…って!じーちゃんが寝たふりしてたら絶対起き出して怒るぞ!それより…哀しむぞっ!!」

 堪えていた涙が目元に盛り上がりそうになって《ヤバイ》…と思い始めた時、顔を赤黒く怒気に染めた例の男が掴みかかろうとした。

「知ったような口をきくな…!何も背負わぬ儒子が、俺達の気苦労も知らないで…っ!」

 だが、男の太い指が学ランの襟元を捕らえる前に、有利の身体はふわりと抱え上げられた。

『わー…高ーい……』

 思わず単純な感想を抱いてしまった有利は、はたと我に返って自分の置かれた状況を確認する。 

「え…え?」
「遅くなって申し訳ありません…ご主人様」
「はぇ!?どちら様!?」
「あなたをお護りする者…コンラート・ウェラーと申します」

 有利を抱えていたのは猫耳のメイド…ではなく、素晴らしく男ぶりの良い長身外国人男性だった。
 180p台後半…ひょっとすると190pを越えるかも知れない身長は、下肢部分が特筆すべき長さであり、胸元近くに寄せる形でお姫様抱っこにされている有利は、抱えられているとは思えないような視点の高さで周囲の大人達を見ることになった。

 それにしても…なんという美しい男性なのだろう!見ているとドキドキするのは有利だけなのかと思って辺りを見回せば…欲に目をぎらつかせていた大人達も、ぽかんと口を開けて青年に見惚れている。
 ダークブラウンの髪は襟足を極短く刈り上げているが、やや長めの前髪がさらりと流れて爽やかな印象だし、彫りの深い涼やかな造作のなかでも特に麗しいのが、琥珀色の切れ長の瞳だ。どういう構造になっているものやら、よく見ると銀色の光彩が散っていて…まるで少女漫画に出てくる王子様のようだ。

『あんたが王子サマなのはいいとして…俺がお姫様抱っこなのはどうよ!?』

 有利がじたじたと抵抗しても、青年の方はまだ欲まみれの男達の元へと降ろしたくないのか、細身ながら相当鍛えられた体躯で悠々と少年を抱え続けている。
 諦めた有利は、取りあえず無難な線から会話を試みることにした。

「あの…コンラッ…えと…」
「呼びにくければコンラッドで結構です。その様に呼ぶ者もおりますので」
「んじゃお言葉に甘えて…コンラッドさん、日本語お上手ですね…じゃなくてっ!俺は多分、あなたのご主人様とかではナイですが!?」
「あなたはユーリ・シブヤではないのですか?」

 薄い唇が奏でる《ユーリ》という声音は、《渋谷有利原宿不利》とからかわれ続けたその名前を、えらく美しい響きに変えてくれた。

「渋谷有利は確かに俺ですが…」

 《佳い男は声まで佳いのか?》そんな感慨を抱きながらぽんやりとしていた有利が認めると、青年は唇の端だけで微かに笑った。
 《全開で笑ったらもっと良い感じなのになぁ》…と、漠然とながら有利は思う。

「それでは、やはりあなたは私のご主人様です。私の依頼者は亡くなられたゲンゾー・ゴンゲン氏ですが、私の給与はあなたが相続される遺産から支給されます。私の業務はあなたを心身共にお護りし、ゴンゲン氏の遺志を完遂することです」
「じーちゃんの…遺志?」
「コーダ、君はご主人様に何も説明をしていないのか?」

 《職務怠慢なのではないか》…そう言いたげな眼差しを受けて、甲田が不機嫌そうに眉を顰めた。

「渋谷有利君は先程こちらに到着したばかりで説明する時間がなかったのだ」
「そうか。では、迅速に頼むよ。ああ…いや、こんな場所ではなんだな。コーダ、こちらに来てくれ。俺の車で渋谷家に移動しよう。ご主人様は未成年なのだろう?ご家族の了承が必要だ」

 有利に対しては《私》という青年だが、甲田に対しては《俺》という。
 後者の方が砕けた物言いなのだろう。甲田は嬉しくなさそうだが…。

「り…了承?ああ…遺産相続の?」
「それもありますが、住居を改造する必要があります。私が調べたところ、シブヤ家は侵入者や襲撃に極めて弱い構造をしています。あのままでは、私が24時間あなたの警護をしていても、ご家族を人質に取られる可能性があります」
「人質ぃ!?それに…24時間警護ってナニ!?いや、ナニですか!?」
「遺産相続者が誰になったかについては、暫くの間でしたら報道を控えることは出来ますが…そのうちどうしても漏れてきます。その前に、手を打っておきたいのですよ」
「そんなぁ…」
「ともかく、場所を変えましょう。ここは死者を悼むに相応しい場所とは言えないようです。コーダ、ゴンゲン氏の葬儀等の手続きは君がするんだったな?後でこちらに来てくれ」
「了解した」

 甲田は相変わらず無愛想にメモを受け取ると書類ケースに収め、その後はてきぱきと周囲に指示を出し始めた。

「では、行きましょう」

 《お…おい…っ!お前達…っ!》背後から声が投げかけられるが、病院の中で俊敏な動きの青年を追いかけていくには及ばず、ガレージで青年のものらしい黒塗りの車に乗り込むころには、周囲には人影一つ無かった。







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