「青空とナイフシリーズ」
小ネタ第2弾 −4−


「雪」






 
「あ…」

 ひらりちらりと舞い散る雪が、濃紺の学生服に降りかかっては消えていく。まだ粒の小さな雪は布地や肌に触れた途端にふわりと溶けて、まるで幻のようにも見える。
 車に乗れば暑さ寒さも感じぬものを、渋谷有利は自宅までの帰り道をこうして散歩しながら帰ることを好んだ。移りゆく季節の変化を、肌合いで感じ取るのが好きなのだという。

「初雪!」

 何がそんなに楽しいのか、有利は歓声を上げながら雪を捕まえようと宙に手を伸ばす。鉛色の空にちらちらと舞う粒がきらきらと輝いて、彼にとってはこの上なく面白く見えるのだろう。

『あの真っ黒な瞳には、多くの物が俺とは違って見えるのかも知れない』

 コンラートはどちらかと言うと、雪は好きではない。いや、寧ろ積極的に嫌いと明言しても良いかも知れない。
 父が惨死した日にも雪が降っていた。そのせいか、どんなに綺麗な雪を見ても、それが血と泥にまみれてぐしゃぐしゃにされた様子が、フラッシュバックの様に掠める。あの日、事件現場がそうであったように。
 それ以外にも、雪山での訓練途中に足の指が凍傷で壊死しかかったとか、ロシアでの屋外警護が文字通り《死ぬほど》寒くて長かったとか、色々と嫌な記憶ばかりが思い起こされる。

 鉛色の空など、見上げているだけで気が塞ぐ。

 なのに、どうしてだろう?
 何故、有利がいるあの空間だけほわりと光りを帯びたように明るく、楽しそうに見えるのだろう?ちいさな舌を精一杯伸ばして、雪を舐めようとしている姿なんて、どうして《可愛い》と思ってしまうのだろう?

「そんなにはしゃぐと、転びますよ」
「うん、気を付けるー」

 お返事はとても素直だ。
 性格の素直さを、そのまま顕すようなお返事だ。

 ただ、返事が素直だからと言って、遵守出来るかと言えばその限りではない。本人の感覚に於いて《気を付け》ているには違いないのだが、気を付けていてなお、この少年は妙なところですっ転ぶのだ。

「あ…」

 言わんこっちゃない。濡れ始めた点字プレートに足を取られたのか、面白いくらいの勢いで宙を舞った。

『全く…』

 回転する勢いを無理に止めず、腕の中で踊らせるようにしてキャッチすれば、仔猫みたいな顔をして吃驚した顔が、恥ずかしそうな笑顔になる。

「ご…ゴメン〜」

 気恥ずかしさはありつつも、コンラートと触れあうことで笑顔になる、素直な彼。
 一緒になって笑ってしまいそうになるから、意識して表情を凍り付かせる。油断すると、彼はコンラートの心を溶かしに来るから厄介だ。

「良いですけどね。あなたが俺の言う事を聞かないのはいつもの事だ」
「うぅ〜…お、怒ってる?」
「怒ってはいませんよ。そういう人に惹かれるのは、俺の性(さが)なのかもしれませんしね」

 くしゅりとしょげた顔が可哀想で、ついつい甘い言葉を吐いてしまう。
 《馬鹿か、俺は》と内省するのは、一体何度目だろう?

「そーなの?」

 有利は少し複雑そうな表情をして、もにもにとしている。何か聞きたそうな顔をしつつも、少し躊躇うのを何度か繰り返していた。
 しかし、元々秘密を抱えている事に馴れない少年だ。結局は意を決して聞いてくる。

「あのさ…。今まで付き合った人もそうだったってコト?」
「嫉妬しますか?」

 《そんなんじゃねーよ!》と言うかと思ったが、ぷくりと頬を膨らませつつも、何処までも素直な少年は反論しなかった。

「そりゃあ…するよ。あんたの事だからふられた訳じゃないと思うし、実は今でも結構好きとかだったらどうしようかなって、色々考えちゃうよ?」
「今でも好きですよ」
「……」

 即答すると、へにょりと眉を下げて情けない顔をしている有利の睫に、少し粒の大きくなった雪が降りかかる。ぱしぱしと瞬きをすれば大きな瞳に雫が播かれ、涙を浮かべているみたいに見えてしまう。

 つい…と指を伸ばして睫を拭えば、強い光りを湛えた瞳で真っ直ぐに見つめてきた。

「じゃあ、俺のこともっと好きになってもらえるように、頑張るからな?」
「ふふ…何をしてくれるんだか」
「まずは、あんたの言うことをちゃんと聞くとか?」
「守れない約束をしないとか?」

 くすりと笑って、強く有利の鼻を強めに摘めば、《きゅーっ!》と苦鳴をあげて別の意味の涙を浮かべる。

「どんなに頑張っても、勝てません。相手は死者ですからね」
「…!」

 幾ら有利でも、父には勝てない。
 憧れて、慕って…愛して、コンラートがいつか越えたいと願っていた最高の男。
 結局、越えさせてはくれずに一番強い男のままで逝ってしまったあの人は、コンラートが何を言っても無茶を止めない人だった。

 格好良くて、明るくて、慎重派のコンラートとは本当に親子なのかなと思うくらいに陽気だった彼が、今でも変わらず大好きだ。

 時折、憎いとさえ思うほどに。

『俺は父の存在を生涯、背負って生きていくのだろう』

 己の未熟さのせいで死なせてしまった自責の念は、きっと何十年経とうとも変わることなくコンラートを苛むだろう。愛していればいるほどに、狂おしいような想いが心臓を拉ぐ。

 瞳を眇めれば忌々しい雪がコンラートの睫にも降りかかって、ちらちらと視界を歪ませようとする。それを無造作に拭おうとしたら、有利の暖かい指がほわりと目元に当てられた。凍てつくような大気の中だというのに、有利の肌は赤子のように暖かい。コンラートの体温が低すぎるのかも知れないが、まるで同じ生き物ではないかのように感じられる。

「負けないよ」

 そう、挑むような眼差しが明るい光りを放つのも、やはりコンラートとは違い過ぎる。挑むことを楽しむようなその瞳には、欠片ほどの悲壮感もない。

「勝てなくても、負けない」
「引き分けに持ち込むと?」
「うん。引き分けでも一番は一番だし、それぞれのジャンルで一番があっても良いもんね」

 忘れられない人が肉親だとはひとことも言っていないのに、何かを汲み取ったように有利は頷く。コンラートの《好き》を奪い取るのではなく、共有したいのだというように。

『その人のことも、ずっと好きで良い』

 そんな風な立ち位置に、自然に立ってしまうこの人は、やはり自分とは別の生き物だ。

『だからこそ、惹かれるのか』

 するりとコンラートの腕から逃れた有利は、今度こそ慎重な足取りで先を行く。
 やっぱりその眼差しと手は、雪を求めて彷徨ってはいたけれど。

 雲の薄い部分があるのか、微かに光が差して鉛色だった空が銀色に照り映えていく。ちらりほらりと降る雪は何時しか大粒になって、アスファルトと学生服を白に染めた。潔く伸ばされた背中にちらりひらひらと舞う雪が、やけに綺麗に見えた。

 斑に白い大地にはまだ殆ど足跡はなく、真新しいそこへと有利の足跡がうっすらと刻まれていく。

 そこに、穢れた存在は感じられない。
 血も泥も、彼の存在を汚すことは無かった。

「コンラッド、帰ろう!」

 振り返った有利の口元からほわりと白い息がふきだされて、白い世界に暖かみを添える。

『君には、敵わない』

 ふぅ…っと息をついて、主の背を追いかける。
 
 敵わぬ相手に焦がれ、背中を追っていくのはやはり、コンラートの性であるらしい。 






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