「青空とナイフシリーズ」
小ネタ第2弾 -2-


「彼岸」









 コンラート・ウェラーは若いながらも、極めて優秀なボディガードである。
 就業年数のわりに密度の濃い経験のおかげで、例え交感神経が異常緊張を来すような場面に出くわしたとしても、衝撃のあまり身体が硬直して《動けない》等ということはあり得ない。緊張感を適度な運動指令として活用することさえ出来る。

 だが…この時ばかりは、0コンマ数秒という僅かな時間、思考が静止するのを感じた。

 朝方まで元気にしていた有利が、体育の授業中にふらりと身体を揺らがせたかと思うと、糸の切れたマリオネットのような動きで倒れていったのだ。その動きは、まるでスローモーションのようにコンラートの視界に映し出されていく。高性能カメラで連写したかと思うほど小刻みに繋がれていく映像に、コンラートは慄然としていた。

『襲撃…!?』

 いいや、サイレント機能が付いていたとしても、銃撃によるものであればあのような頽(くずお)れ方はしない。毒が作用したという感じでもない。では…何だ?とにかく、一刻も早く有利の身を確保しなくてはならない。

 精神の動揺にもかかわらず、身体の方が俊敏に動いたのはやはり経験の賜(たまもの)だろうか。コートを翻して疾風の如く地を駆けると、傍らにいたクラスメイトが異常に気付くよりも先に、有利の身体を抱き留めることが出来た。

 全身に、どっと冷や汗が浮く。後少し受け止めるのが遅かったら、頭の一部がハードルの角に激突していたかも知れない。血まみれになった有利の姿が一瞬脳裏を掠めて、呼吸が苦しくなるのを感じたが、何とか意識的に振り払う。

「渋谷!?」

 クラスメイトや教員がやっと異常に気付いて叫ぶと、意識の喪失は一瞬だったのか、有利は淡く水膜の張った瞳を開いた。

「ん…」
「ユーリ…っ!」

 頬の赤みと腕に抱いた身体の熱量で大体察しは付いたのだが、この時、コンラートは有利の額の熱を測りたいと思った。けれど、両腕はしっかりと有利を抱いているので空いていない。
 
 《手も足も出ない場合、使うのは頭だ》…コンラートは、彼らしくもなく混乱していたのかも知れない。この時活用したのは頭の中身(脳)ではなく、頭部外表に存在する器官であった。

 きゃぁあああ……っ!!

 女子生徒達が黄色い悲鳴を上げ、男子生徒達があからさまに引いている。
 コンラートの薄い唇が、有利の額にそっと押しつけられたからだ。

『熱い…』

 とんでもなく熱い。
 コンラートは対照的に心臓が凍結しそうになるのを感じながら、顔を引きつらせている有利を抱き上げた。当然、大切な主を荷袋抱きなど出来ないから、両腕にお姫様抱っこである。

「医務室にお連れします」

 鋭い一瞥を担当教員に向けると、一兵卒のように男の背筋が伸びた。

「あ…あ、ハイ…!」

 がっちりとした体躯の教員はあたふたと頷いたが、やはり担当授業中の事態ということもあって、有利の体調を確認したくなったらしい。早足に保健室へと向かうコンラートに併走すると、手を伸ばして有利の額に当てようとした。

 …が、その行為は完遂されることなく回避される。コンラートが身を逸らすようにして方向転換すると、教員の手を自分の背で防いだからだ。

「熱ならもう測りました。丁度39度です」
「あ…ハ…ああ?」

 何だって熱を測るのを邪魔されているのか分からない教員の横から、するりと村田健が顔を覗かせる。

「先生、僕も心配なんでついていきます。良いですね?」
「え?しかし…」

 《護衛がついていくんだから、わざわざついていかなくても》…そう言いかけた教員の喉はひくりと引きつる。

「良いですね?」
「あ…ああ……」

 村田の瞳に底光りする威迫が宿ると、《漆黒の龍》が放つ眼光に、唯の雇われ教員等ではとても反論することなど出来ない。これは問いかけであって問いかけではない。彼にとっては、単なる確認に過ぎないのだ。

 結局、呆然とした教員は何やら収まりのつかないモヤモヤを抱えたまま、残された生徒達に授業を続けるしかなかった。



*  *  * 




『頭…クラクラする……』

 朝まで何ともなかったのだが、昼過ぎから何やら寒気を感じてはいた。それが5限目の体育の最中にどっとおかしくなって、一瞬、意識を失ってしまった。

 《倒れる…》どこかでその意識はあったけれど、回避することは難しかった。だから衝撃を予想して身を固くしていたのだが、予想していたのとは違う衝撃が有利を襲った。

 力強い腕に抱きすくめられると、額にひんやりとした感触が与えられる。それがコンラートの唇なのだと気付いたのは、女子達の黄色い絶叫を耳にしてからだった。

『おでこに、キス…されてる……』

 熱を測るための行為だなんて咄嗟には思いつけず、ひたすら恥ずかしくてカァアア…っと体内の熱量が上がったのを感じた。

「ん…っ」

 身じろいで腕から抜け出そうとするけれど、許しては貰えずに抱き上げられてしまう。

「歩ける…よ…」
「黙って。熱が出ています」
「でも…平気……」

 咎めるように上目遣いで訴えるが、恐ろしく冴え冴えとした眼差しに制されてしまう。授業を早退することも勝手に決められて、コンラートの判断で保健室に搬送されてしまった。その間に頭がくらくらしていたのは、発熱の為というより公衆の面前でお姫様抱っこされていたせいではないだろうか?

『そういえば、初めて会ったときもそうだったっけ…』

 観念して、熱っぽい頬をコンラートのコートに押しつけていたら、自然に瞼が閉じて色々な思い出が蘇ってくる。
 ぎらぎらとした欲望を滾らせて伸ばされた大人達の手から、まるでお伽噺の王子様みたいにコンラートが救い出してくれた。もしかしたら、あの時、既にこの人を好きになっていたのかも知れない。

『人の目を気にしてるんだかしてないんだか、ちょっと掴めないところもあるけど…でも、好きなんだよね…』 

 意外と天然なところもあることを思い出してクスクスと笑っていたら、コンラートの声が一層重いものになってしまう。

「…ユーリ、大丈夫ですか?」
「んー…?」

 もしかすると、熱が頭に回ってどうにかなっているのではないかと心配しているのだろうか?
 先程、恥ずかしい目に遭わされた仕返しもしたくて、ついつい有利は悪のりしてしまう。

「ふふ…うふふ…。すごい…キレイ…大きな川の向こうに、お花畑が広がってるよ。あ…権現のお爺ちゃんが笑顔で手を振ってる。渚お婆ちゃんも…。船に乗って、向こうに渡ってみようか…」

 冗談のつもりだったのに、思いのほか悲痛な声が響いた。

「止めなさい…っ!!」
「コンラッ…」
「…っ!」

 真顔で叫んだのが恥ずかしかったのか、コンラートは舌打ちをするとそっぽを向く。秀麗な横顔が真っ青になって、引きつっているのが分かった。まるで、とんでもない度合いの恐怖を感じているみたいだ。

 きょとんとしていたら、併走していた村田が有利の手を握ってきた。焼けそうに熱い有利の手とは対照的に、村田のそれは恐ろしく冷え切っていた。ふと視線を巡らせると、村田もまたコンラートに負けず劣らず蒼白な顔色をしている。

「渋谷…。僕をこんな淋しい此岸に残して、行ってしまっては駄目だよ?」
「一緒に行く?」

 もう《からかったりしてはいけない》とどこかで思っていたのに、つい反射的にそう言うと、村田の瞳が泣きそうに眇められる。

「僕はそちらには行けない…。僕が行く先は、もっと暗くて陰惨な場所だよ」
「村田…」

 それは、以前言っていた《両親の敵を討つために、非合法な手段を執った》ということと関連しているのだろうか?全てを明かしてくれたわけではないが、この友人は想像以上に深い闇を抱いているらしい。

 でも、有利にとっても村田は、やっぱり大切な友人だ。縋り付くような声音も、抱きしめて背を撫でてあげたくなるくらいにか細かった。

「だから…出来る限り、こちらで傍にいて。お願いだよ、渋谷…」
「うん…」

 こくんと頷くと、何だか二人に申し訳なくて瞳が潤んでしまう。こんな風に冗談で言ってはいけないことだったらしい。

「インフルエンザかなぁ…。ワクチン、コンラッドが言うとおりにちゃんと受けとけばよかった。ゴメンね…」

 なまじ風邪など引いたことがなかったせいもあって、コンラートに勧められても《あんまりそーやって過保護にし過ぎるのも考えもんだよ?》と断ってしまったのだ。万が一罹患しても、元気な若者が死ぬことはあまりないと聞いていたし。
 でも、こんなに心配させてしまうのなら、やはり受けておいた方が良かったろう。

「謝るよりも、自分のことを考えて下さい。それに、発症してからすぐなら、効果のある薬剤があるはずです。大丈夫…必ず、良くなります」
「ん…」

 そうは言いながらも、コンラートの声は心なしか震えている。それが切なくて、有利はすりすりと熱い頬をコンラートの胸に寄せた。

「そうだよね。俺…元気だけが取り柄だから、免疫力だって結構あるもん。きっと…1日か2日くらい熱がでたら、スカッと治るよ…」

 励ますようにそう言うのだけれど、所々で掠れてしまう声は、コンラート達を余計に不安にさせてしまったのかも知れない。

「ユーリ、誓って下さい。どんなに美しい花畑が広がっているのだとしても、決してそちらには行かないと。例え血塗られた大地であっても、俺がいる場所にあなたもいると…」
「うん」

 こくんと頷いたら、また熱が上がってきたらしく意識が朦朧としてきた。くらりくらりと揺らぐ視界の中で、有利はぽつんと呟く。

「あんたや村田がいるなら…そこが、一番のお花畑だよ」

 本当にそう思えたから、ふわりと笑ってそう囁くと、有利は再び意識を失った。
 最後に聞いた音は、鳥の鳴き声に似ていたような気がする。《クゥ…》という、細い笛性音。
 それが悲痛な喉の音だと察する余裕は無かった。



*  *  * 



 
「…君のせいで死ぬかと思った」
「いや、死にかけたのは俺デスが…?」

 《君が悪い》と言わんばかりに不平を鳴らす村田に、有利は肩を竦めて抗弁してみる。 罹患していたのはやはりインフルエンザで、一時は脳炎を起こし掛けたりして、結構危険なところまで行ったようなのだ。

 病気によるものか薬によるものか分からないが、一時は本当にお花畑が見えてしまったり、逆に恐ろしい地獄が見えたりしてとても怖かった。有利が急に笑い出したり、悲鳴を上げて泣いたりするたびに、コンラートや村田、美子が必死の形相で手を握ってくれた。勿論、夜になるとここに勝利や勝馬も加わってくる。
 この間、警護の主体はヨザックが一人で切り盛りしていたようだ。つくづく心配や迷惑を掛けてしまったなと反省している。

「微生物ばかりは、俺も防ぐことが出来ません。これからは確実にうがい・手洗いを行っていきましょうね」
「はーい」

 厳しい表情をしたコンラートにそう言われて素直に返事をしていると、少し余裕を取り戻したらしい村田が鼻を鳴らす。

「渋谷の健康のためには、君にも少し考えて貰わなくてはならないね」
「…どういうことでしょう?」

 咎めるような声音にぴくりと眉根を寄せると、村田はソファに凭れながら横柄な態度でコンラートを責める。

「そもそも、健康優良児の渋谷が睡眠時間を削らざるを得ない事態を作ったのは誰かな~?」

 ぴくん…とコンラートの口角が引きつる。心当たりがあったらしい。

『あ…』

 有利も思いだして顔を真っ赤に染める。どうして村田が知っているのか分からないが、確かに有利が夜更かしをするのは、決まってコンラートと熱い夜を過ごしているときなのだ。

「それに、《帰ったら、すぐにうがい・手洗い》なんて、前から渋谷は習慣にしてるんだよ?それが疎かになった原因にも、思い当たる節はないかな?」

『あ~………』

 確かにそうだ。帰った途端にうがいなしで《何かを口にする》機会があるとすれば、帰路の途上で嫉妬をしたコンラートに、玄関を閉めるなりキスされて、そのまま朝まで止まらない《寝台特急》に乗せられたときくらいだ。 

「…心しておきましょう。俺も、こんな想いはたくさんです」

 ふぅ…っと吐息を漏らして切なげに呟くコンラートは、よく見ると少し窶れていた。それが余計に凄絶な艶を与えている…なんて思うのは、恋人の欲目だろうか?

「心配掛けてゴメンな?」
「いえ…」

 ふにゃりとしょげながら謝ると、コンラートは目元を和らげて頭を撫でようとしてくれた。けれど、ずっとお風呂に入っていない身体はネトネトしているような気がして、恥ずかしくて咄嗟に手を止めてしまう。美子が身体を拭こうとはしてくれたようなのだが、この年で母親に拭かれるのも恥ずかしくて、拒否していたのだ。

「あ…今、俺…汚いから」
「では、綺麗にして差し上げましょう」

 にっこりと微笑む表情には邪気は無かったけれど、色々と想像して頬を染めてしまう。

「い…良いよ。もう熱も下がってきたし、お風呂はいるから」
「駄目ですよ、まだ油断はできません」

 そう言うと、コンラートはテキパキと清拭の準備を始めてしまう。すっかりその気になった彼を止める術は無いのだろうか?

「む…村田…どうしよう?」
「僕が傍にいてあげるよ」
「ええと…止めてはくれないんだね?」
「当然だろう。愉しませて貰うよ」

 どういう意味なのか追求したいようなしたくないような…。
 結局、有利は村田が生暖かく見守る中、衣服を剥がれて丁寧に全身を拭き清められることになった。際どい場所は流石に直視しなかったものの、布団の中に差し入れられた手がもぞもぞと内腿を探れば、余計なところまでが反応しそうになって困ってしまう。

「や…ゃ…あ……」
「そのように艶めいた声で啼くものではありませんよ。御友人の前で愛撫したくなる…」
「ややや…止めて…っ!絶対止め…ぁ…っ!」

 びくんびくんと震えながら鳴き声を上げる有利を、村田は実に楽しそうに見守っていたのだった。

「ふぅん…そういう声で啼くんだ、渋谷。想像以上に可愛いね」
「何言ってんの村田ぁぁあああ~っ!!」

 嗤い顔のドSコンビを前にして、有利は心に深く誓った。

 二度と流感などに罹患しないと…。 





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* 髪の毛は暖かい格好をして、お風呂でコンラッドに洗って貰いました。その際も、感じやすい耳殻を弄られてびくびく跳ねていたわけですが…。 *