二羽は長い旅をして、眞魔国に辿り着きました。

 森はすっかり平和を取り戻し、あんな無惨な戦争があったことを偲ばせるものといえば、幾つかの記念碑くらいなものでした。

 それでも…その石作りの塔に刻まれた名前を一つ一つなぞって追えば…胸に突き上げてくる思いがあります。

『俺がもっとうまく立ち振る舞っていれば…』

『俺が純血腫のうさぎ達の協力を請い、武器や糧食や…兎手を集めることが出来ていれば…』

『この中の何羽かでも無事に帰ることが出来たのに…』

 やはり、今更茶うさぎだけが幸せになろうなんて…そんな資格はないのです。

『この仔を預けたら、俺はまたすぐ旅に出よう』

 浅ましい茶うさぎの心は、黒うさぎが他のうさぎと楽しそうにしている姿に激しく嫉妬してしまいそうです。

 きっと傍にいたら声を掛けたくなります。

 抱きしめたくなります。

 ですから、茶うさぎは黙ってどこかへ行ってしまうべきなのです。

 すくなくとも、茶うさぎはそれが一番良い方法なのだと…そう考えていました。 

「ここがコンラッドの故郷なんだね?大きくて綺麗な森だねぇ!」

「ええ…気に入って貰えると良いな。記憶が戻るまで、ここで暮らしていくことになりますからね」

「うん!」

 元気よく頷く黒うさぎを連れて、既に手紙で事情を知らせていた茶褐色うさぎ、ローレン・ローランの家を訪ねると機嫌良く迎えてくれました。

「世話になる…」

「いやぁ、俺たち夫婦は仔どもが出来ないって言われてるしな。寧ろこんな可愛い仔を連れてきて貰って礼を言いたいくらいさ!」

「よろしく頼む。それから…ユーリの記憶が戻ったら知らせてくれ。俺の方からも定期的に居場所と連絡方法を伝えるから…」

 茶うさぎはともだちと色々な約束事をかわすと、黒うさぎをその家においたまま…そうっと出て行きました。

 訳を話して別れを惜しんだりしたら余計に辛くなる…そう思ったからです。



*  *  *




 夜になると、空にはぽっかりとまんまるなお月様が浮かびました。

 けれど…茶うさぎの心には何の感情も浮かびません。

 黒うさぎと見上げたときにはあんなにも清冽に《美しい》と感じたのに…。

 それに、お腹だってちっともすきません。

 黒うさぎと一緒にいる間は、何か食べている間も

『次の食事はあれにしよう。いや…それとも軽くあれを食べてからの方が…』

 などと、ずうっと頭を巡らせていたのに。

 まだ旅支度を始める気にもなれなくて、ひたすらぼぅっとしていると…不意に扉が開かれました。

「ユーリ!?」

「はぁ?そりゃあ…あの黒うさぎの名前かい?」

 反射的に口をついて出た名前に反応した来訪者は…古いともだちの橙うさぎ、グリエ・ヨザックでした。

「よぅ、隊長。あんた、可愛い仔を拾ってローレンにくれてやったそうじゃないか」

「…そんな言い方はよせ。ユーリを犬や猫みたいに…」

「ふぅん…でもなぁ、あんたのやったことはまるっきりその犬猫拾ったときのやり口だぜ?俺はローレンの家をちらっと見てきたんだが…」

「ユーリを見たのか!?…ユーリは…どんな様子だった?」

 勢い込んで聞いてくる茶うさぎに、橙うさぎは眉を顰めました。

「あんた…そんなに気になるんならどうしてあの仔をローレンにやっちまったんだ?大体…あんた、あの仔に事情を何も話してないんじゃないのか?」

「…それは……」

「…たく、図星かよ。あのなぁ…あの仔、ずっときょろきょろしてたぜ?ローレンや嫁さんに気を使って笑っちゃいたが、どっか引き攣ってたし…」

「…ユーリが……」

「小さいからって、あの仔が何にも感じないとでも思ってんのか?あんたってさぁ…優しそうに見えてそういうところ気が回らないんだよなぁ…。んー…いや、違うか…あんたの場合、自分の価値ってものに気がついてないんだよな」

「俺の価値…だって?」

 自分というものにどれ程の価値があるかなんて、茶うさぎは考えてみたこともありませんでした。

 腕は立ちますから、国を護るための兵士としてはとても有能だったと自負しています。

 ですが、一羽のうさぎとしてどうかなんて…ちっとも想像がつきません。

 そんな茶うさぎの様子に、橙うさぎは心の中で思います。

『俺もあんたによく置いてけぼりをくらったクチだからね、あの仔うさぎの気持ちが幾らか分かるのさ』

 茶うさぎは自分のことが好きではないようです。

 ですから、相手が自分を好きな気持ちも信じられないのでしょう。

 だからこそ、そんな相手をひょいっと無造作に放っておいて姿を眩ますことが出来るのです。

 あの戦争の時だってそうでした。

 茶うさぎは真っ直ぐに敵の首領、ノロイの懐に突っ込んでいって…見事その首級を上げはしましたが、自分の保身など全く考えずに突撃したものですから、無防備になった背中を何頭もの大鼬の牙と爪に引き裂かれたのです。

 橙うさぎの心がその時砕けそうになったことなんか、きっと全く気付いてはいないでしょう。

「あんた、その様子だと随分とあの仔の事が気に掛かってるようじゃないか。なんだって置いていこうとしてんだい?」

「俺は…あの仔が可愛くて堪らないんだ」

「…良い事じゃないか。あんたがそんなに一つのものを好きになる事なんてなかったんだし…何で大事にしないんだよ?」

「だから…怖いんだ」

「はぁ…」

 なんとなく茶うさぎの心情を察して、橙うさぎは溜息をつきました。

 このうさぎは…どうでも良いことに対しては物凄く器用に遣り取りが出来るのに、何よりも大切なものが出来てしまうとどうして良いのか分からなくなるタチのようです。

 それに、相手が小さな仔うさぎであることも手伝っているのでしょう。

「いつかあの仔うさぎにヤラシイことでもしちゃうんじゃないか…なんて思ってんのかい?」

「……」

 黙ってしまった茶うさぎに何か言ってやろうと橙うさぎが口を開いたその時…扉を叩く音がしました。

 た…っと反射的に扉の前に走る茶うさぎは、またしても相手が黒うさぎだと思っていたのでしょう…開けた扉の向こうに兄うさぎが居るのを見た途端、驚くよりもがっかりした顔をしました。

「…グウェン…どうしてここに?」

「グリエに聞いたのだ。お前、すぐにこの森を立つというのは本当か?」

 濃灰色うさぎは余程急いで来たのか、額にかいた汗に乱れ髪が張り付いています。

「ああ…明日には出ようと思う」

「何故だ。あの仔うさぎはどうするのだ?」

「グウェン…ユーリを知っているのかい?」

「それもグリエに聞いた」

 茶うさぎはちらりと橙うさぎを見やりました。

 どうやら、今夜兄うさぎが訪ねてきたのもこのうさぎの計略の内のようです。

「ユーリは…ローレンに預けていこうと思うんだ。ローレンは良い奴だし…仔どもも居ないからきっと可愛がってくれる…」

「ローレンがどうだとか言うことはこの際関係ないだろう!コンラート…お前はあれだけ長い間旅をしてまだ分からんのか!?」

 濃灰色うさぎはもどかしさに眉を顰めました。

 こんな時…茶うさぎの為に兄としていってやるべき事があるだろう…そう思って駆けてきたのですが、いざその場にやってくると、やっぱり言うべき事に詰まってしまうのです。

「お前が…お前が居るべき場所はやはりこの森だ。お前はこの森を護った英雄なんだぞ!?仔うさぎだって、お前に懐いているそうじゃないか。一緒にここにいればいいだろう?」

「英雄なんて…そんな良いものじゃないよ。俺は唯…雑種の地位を上げたかっただけ…だが、それも雑種を皆殺しにしただけだった…こんな俺が今更、一羽だけ幸せになろうなんておこがましいんだよ…。それに、こんな俺などに仔うさぎを真っ当に育て上げることなどできやしない…」   

俯く茶うさぎの襟首が強引に引き上げられたかと思うと…硬い拳がガツンっと頭頂部に打ち付けられました。

「馬鹿者っ!!」

 殷々と…臓腑に轟くような怒号は、兄うさぎのあげたものでした。

「この…馬鹿者がっ!何故わからんのかっ!お前はお前に出来る精一杯の力でこの森を護ったのだ!そうでなければ誰があの苦しい戦いの中、一羽も逃げることなく全力で闘うものかっ!お前を護って、身体を張ったりするものかっ!いいか!お前が自分自身を卑下することは、お前のために闘った連中を卑下することと同じ事だっ!!」

 濃灰色うさぎには、これが良い方法なのかどうかは分かりません。

 ですが、濃灰色うさぎはもう後悔したくありませんでした。

 それなら、不器用でも見苦しくても何でも良い…弟のために、今自分に出来る精一杯のことを、自分のやり方で伝えようと思いました。

「グウェン…」

「分かったか!?返事はっ!!」

「はい…。分かりました…」

 茶うさぎは泣き笑いのような表情で微笑みました。

 正直、この兄うさぎが自分をどう思っているかずっと分からなかったのですが…今日、少なくとも…ずっとずっと兄が自分を思い、心配していてくれたことだけは…文字通り《痛いほど》よく伝わりました。

 その時、この夜三度目のノックが響きました。

「コンラッド!コンラッドっっ!!」   

扉を開けると、そこには蒼白な表情の茶褐色うさぎローレンが立っていました。

「どうしたんだ!?」

「コンラッド…大変だ!あの仔が…ユーリが家を飛び出したんだ!!」

「何!?」

「お風呂に入れた後に、お前のことを聞かれて…俺、まさか何も聞かされていないなんて思わなかったもんだから…《コンラッドはすぐ一羽で旅に出るから、その度支度だろう》って…そう言った途端、真っ青になって駆け出したんだ…っ!こんな夜更けに一羽きりで…パジャマ姿で…っ!ああ…っ!一体何処に行ったんだ!?」

 ローレンは半狂乱になって叫びました。

 茶うさぎはローレンを落ち着けさせると他にも情報を得ようとしましたが、土地勘のないこの森で黒うさぎが何処に向かうかなど、分かりようもありませんでした。

「捜そう…とにかく捜そう。ありったけのうさぎ達を集めてユーリを捜して貰うんだ」

 気が狂いそうという点では友達と大差ない…いいえ、遙かに度合いの強い茶うさぎでしたが、それでも彼は心の動揺に惑わされずに最善の策を取ることができる雄でした。

 それまでも、そうやって茶うさぎは生き延びてきたのです。

 兄うさぎや橙うさぎも使って、何羽かの機動力あるうさぎに声を掛け事情を伝えると、眞魔国森には松明を持った捜索隊が幾団も繰り出され、それらは機能的に連絡を取り合ってしらみつぶしに捜索作業を行いました。

 ところで、橙うさぎや濃灰色うさぎの指示で集められたうさぎ達は、茶うさぎが思っている以上に熱意を込めて捜索に加わりました。

『ウェラー卿がお帰りになられていたらしいぞ!?』

『あの救国の英雄が!?』

 この森を命がけで救いながら立身出世に興味を持たず、さすらいの旅に出た茶うさぎは、実は眞魔国森では伝説のうさぎとして語り継がれていたのです。

 その伝説的英雄の大切な養い仔が行方知れずと聞いて、夜更け過ぎという時刻も気にならない勢いで、うさぎ達はみんな懸命に黒うさぎを捜したのです。



*  *  *




『何処に居るんだ…何処に居るんだ!?』

 打てるだけの手を打ち尽くし個別の捜索作業にはいると、茶うさぎは目を血走らせて走り回りました。

 そしてふと…黒うさぎが行きそうな場所をたった一つ思い浮かべました。

『そうだ…あそこなら…っ!』

 黒うさぎと共にこの森に入った、あの国境付近の渓谷…っ!

『ここがコンラッドの住んでた森なんだね!』

 眞魔国森を一望出来るその場所で、何を思うのか…黒うさぎは暫くの間うっとりと森を見つめていたのです。

 きっと…あの時黒うさぎは、ずっとこの森で茶うさぎと暮らすことになるのだと信じて疑わなかったのでしょう。

 
 あんなに一心に茶うさぎを信じて…

 あんなに《大好き》と繰り返して…

 自分を見つめてくれたうさぎだったのに。

 今、何を思って黒うさぎは一羽きりで居るのでしょう?

 
 暖かい家を飛び出して、自分を《捨てた》かもしれない茶うさぎを求めて…何処をどう走っているのでしょう?

『ユーリ…ユーリ…ユーリ……っ!』

 狂おしい思いに胸が捩れ、もうその言葉しか頭の中には浮かんできません。

 その上…浮かぶ映像と言えば、暗闇で道を見失った黒うさぎが崖から落ちたり、見知らぬ大兎に騙されて連れて行かれる映像ばかり…。

『俺が馬鹿だった…俺が臆病者だった…っ!』

 黒うさぎのためと言いながら、茶うさぎはただただ恐れるばかりで、自分の欲望を整理しきれなくて逃げ出したのです。

『ユーリ…っ!』

 せめて、黒うさぎが納得するまで説明すべきだったのです。

 あんな風に突き放すような別れ方をして、傷つかないうさぎなど居るものかと…今頃になって身に染みました。



*  *  *





 渓谷にやってきたとき、そこには黒うさぎの姿はありませんでした。

 けれど、茶うさぎはなにか気配のようなものを感じて…そのままじいっと佇むと、閉眼して耳と皮膚感覚を峙(そばだ)てました。  

「…っ!」

 はっと気配を察した茶うさぎは、一本の常緑樹に近づきました。

「ユーリ…ここですね?」

「…………」

 懸命に息を殺しているのが分かりますが、茶うさぎが木に登ろうとすると…がさがさと更に高い枝を求めて小さな生き物が動き出したのが分かりました。

「いけない…ユーリ…っ!それ以上登ったら…っ!」

 ぴし…っ!

 鋭い軋轢音と同時に小さな悲鳴が上がったかと思うと、枝に引っかかりながら小さな毛玉が落下してきました。

「ユーリっ!!」

 茶うさぎは絶叫して駆け寄ると、すんでの所で黒うさぎの身体を受け止めました。

 けれど…抱きしめようとしたその身体は、素早い動きで腕をすり抜けると…ざざっと茂みに身を隠そうとしました。

「ユーリ…俺を……軽蔑しているのですか?」

「ケーベツ?」

「嫌い…ってことです」

 その言葉を聞いた途端、黒うさぎのつぶらな瞳から大粒の涙がボロボロと溢れました。

「コンラッドこそ…俺のことキライになったんだろ!?だから俺のこと置いてったんだろ!?俺のこと捕まえたら…また、ともだちの家に置いてけぼりにするんだろ!?」

「ユーリ……」

 嫌いなんて事は絶対にありませんし、今度は十分に説明しようと思っていますが…結果的な処遇としてはその通りなので、茶うさぎは言葉に詰まりました。





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