2 男達を《こらしめた》後、茶うさぎは荷馬車に捕らえられているという《黒うさぎ》 のもとに急ぎました。 ばさりと荷台の掛け布を剥ぐと、檻の中に吃驚するほど小さくて愛らしい…そして、胸が引き裂かれるほど可哀相な様子の仔うさぎが横たわっていました。 急いで檻を壊し、抱き寄せると…その小さな身体は恐ろしく冷え切っていました。 こんな雪の降る日に、ひとりぼっちで捕らえられて… どんなに恐ろしかったことでしょう? どんなに心細かったでしょう…! 茶うさぎはすぐに安全な寝床を捜すと火をおこしてお湯を沸かし、清潔なタオルをひたひたと湯で濡らしてから黒うさぎの服を脱がせました。 「これは…っ!」 黒うさぎの華奢な身体には…至る所に真新しい痣がありました。 あの連中は売り物として気を使ったと言っていましたが、それでも柔らかな仔うさぎの皮膚にとっては、男達の乱暴な扱いは耐え難いものだったのでしょう。 「可哀相に…っ!」 茶うさぎは憤りに拳をふるわせます。 それと同時に…こんな小さなうさぎに惨(むご)い仕打ちをした《人間》と同じ血が自分にも流れていることを思い…ぞっとして我が身を引き裂きたくなりました。 茶うさぎの父、ダンヒーリー・ウェラーは人間でした。 武者修行の旅をしている折りに金色うさぎのツェツェーリエに出会い、茶うさぎのコンラートが生まれたのです。 父には耳も尻尾もありませんでしたがとても侠気(おとこぎ)があって格好いい人でしたし、勿論大好きでした。 病気で死んでしまったときには、とてもとても悲しかったものです。 ですが…今は酷く自分の中を流れる血が疎ましく感じられます。 『俺は…決してこんな幼気(いたいけ)なうさぎに無体な行為などするものかっ!』 茶うさぎは硬く硬く…そう誓いました。 「これはいけない…」 茶うさぎははっと我にかえって黒うさぎの身体をさすりました。 一通り手当をしてから肌着やマントを巻き付けてあげたのですが、ちっとも身体が温まらないのです。 茶うさぎはもともと強健な軍隊兎ですからあまり防寒具を持ってきていません。 裏起毛の毛布は持っている中ではとっておきのぬくとい品だったのですが、そっくりそのまま黒うさぎにやってもまだ暖まりません。 黒うさぎはどうやら、芯から冷え切っているようです。 茶うさぎはふと思いつくと…自分の服の前を開けて、裸にした黒うさぎを腹の上に載せました。 「う…っ」 氷のような冷たさを素肌に直に感じると、流石の茶うさぎも思わず息を詰めました。 けれど…とくん、とくんと響いてくる心臓の音に励まされ、優しく黒うさぎを抱きしめました。 「元気をお出し…、仔うさぎ君。俺が必ず親元に連れて帰ってあげるから…」 それからずぅっと、茶うさぎは黒うさぎの身体をなで続けました。 そしてどのくらいの時間がたったでしょう…。 茶うさぎがうとうとと眠気に誘われそうになったとき、不意に黒うさぎが小さく呻きました。 「ん……ん…………っ」 黒うさぎの耳と睫がふるりと震え…瞼がゆっくりと開かれていきます。 茶うさぎは見開かれたその瞳に…思わず息を呑みました。 なんて澄んだ美しい漆黒なんでしょう! 黒は暗くて寂しい色だと思われがちですが、この仔うさぎの瞳は今まで目にしたどんな色彩よりも鮮やかに茶うさぎの心を奪いました。 それに…この仔うさぎときたら、瞳だけでなくどこもかしこも可愛らしいのです。 ほっぺは涙でかぴかぴになっていますが、それでもふっくらとした可憐なラインを描いていますし、ぷっくらとした唇は淡く寝涎で濡れて艶々しています。ちんまりとした鼻だって、こぼれ落ちそうな瞳や弧を描く眉と相まってとても素敵なバランスを呈しているのです。 「だ…れ?」 「俺かい?俺は…コンラート・ウェラーというんだよ」 舌っ足らずな黒うさぎの声は見目の通りに愛らしく、茶うさぎは若い純情なうさぎのように(兎生経験が豊富なだけで、茶うさぎだって本来は若いのですが)どきどきと胸を高鳴らせました。 「コンリャッド…?」 黒うさぎは寝ぼけ顔で小首を傾げました。 「ううん、コンラートだよ」 「ん…んー。コンラァ…コン………コンラッド?」 「うん、それでも良いよ。そんな風に呼ぶ友達もいるからね」 「コンラッド!」 「うん、コンラッドだよ」 黒うさぎは満足したのか、にぱぁ…っと白い蕾が綻ぶような微笑みを浮かべました。 雲間から曙光が差し込むような…熱い夏の日に、不意に涼やかな風に恵まれるような…そんな心地にさせてくれる不思議な微笑みでした。 「コンラッドお兄ちゃんの声…とってもいい声だね。俺に…元気だせって言ってくれたの、お兄ちゃんだよね?俺ね、寝てたけど…ずっとずっと聞こえてたよ」 黒うさぎはまたもにこにこ顔で笑いました。 「そうかい?どうもありがとう。ところで、君の名前と住んでいる場所を教えてくれるかな?今夜はもう無理だけど…朝になったらお父さんやお母さんの所に帰れるようにしてあげるからね」 茶うさぎはついつい夢中になりそうな自分を律すると、懸命に明るい表情を作って黒うさぎの出自を聞きました。 そうです…何故だかとても愛おしく感じられる仔うさぎですが、この仔はなるべく早く親元に帰してあげなくてはならないのです。こんなに愛らしいのですから、さぞかし家族や友達は気を揉んでいることでしょうからね。 「え?」 黒うさぎはぱちくりと目を見開いたままぽかんとしています。 「俺…名前?」 先程まで屈託無く笑っていた顔が、急に強張ってしまいます。 そして暫く視線を漂わせていたのですが、段々その焦点があやふやになってきて…顔色が目に見えて真っ青になりました。 「名前って…俺の、名前だよね……あんたの名前はコンラッド…俺は…俺は?」 黒うさぎは茶うさぎのお腹の上でふるふると震え始めました。 「分かんない…俺……名前、なんて言うんだろ?」 「…何だって?」 茶うさぎはぎょっとしました。 名前が思い出せないくらいですから、きっと他の諸々のことも忘れているはずです。 そう判断すると、茶うさぎは矢継ぎ早に質問するような愚は犯しませんでした。 「落ち着いて…黒うさぎ君。色んな事があったから混乱しているだけだと思うよ?きっとすぐに思い出せる…だから、慌てなくて良いんだよ?」 「思い出せる…かなぁ?俺…俺、凄く忘れん坊になる魔法に掛かったのかも…。こ…このまま眠ったら……ぽろんぽろんって思い出が転がっていって…お兄さんのことも忘れちゃうかも…っ!」 「大丈夫…大丈夫だよ?」 黒うさぎは大きな瞳からぼろぼろと涙を零しますが、茶うさぎの無骨な…けれど暖かくして大きな指に目元をなぞられ…響きの良い素敵な声で囁かれると少し落ち着いてきました。 「忘れても良いよ。その度に俺が教えてあげる。もしも何も思い出せなくても、俺は覚えているから大丈夫」 「ほ…本当?」 「うん、本当だよ。だから黒うさぎ君は目を閉じて、ゆっくり眠って良いんだよ…。ね、お休み…。君はとても疲れているんだから」 「ん…ぅ……ん」 歌うように…囁くように… 連なる声の滑らかな波にふわりふわりと流されて…黒うさぎの瞼は、ふぅ…と下がっていきます。 睫の先を一粒の涙がころりと伝う頃には…黒うさぎはすっかり眠ってしまいました。
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