虹越え5−8−2







 この時ほんの少年だった城下町の住人、パン売りのウェスナー・ハインツはよぼよぼのお爺さん時分になっても、繰り返しこの時の感動を口にしたものだった。

 周りの人々も《爺さん、またユーリ様の話かい?》とは言いつつも、みんな一様に穏やかな表情になり、爺さんの話を《拝聴》したのだった。

 ウェスナー少年は、目の前の…同じくらいの年頃の、美しい少年が魔王様なのだと悟った時…思わず駆け出した。

 ひれ伏す人々の中でどうして良いのか分からないみたいに戸惑っている魔王様を見た瞬間に、《不敬》だとかなんとかいう遠慮が吹き飛んでしまい、唯々ひたすらに…彼の帰還を自分が祝福しているのだということを伝えたいと…その思いに満たされてしまったのだ。

「お帰りなさいませ…お帰りなさいませ、ユーリ様!」
「あ…ただいま」
「ずっとお待ち申し上げておりました…ずっと…ずっと……!みんな、いつかお帰りなられることを信じておりました!!」
「えへへ…時間かかってゴメンね?帰るだけの力をつけるのに時間かかっちゃったんだ。でも、もう大丈夫!」
「良かった…本当に良かった!」
「あー…なんか緊張が解けたら急にお腹空いてきちゃった。あのさ…俺、今こっちのお金持ってないんだけど…。後で必ず払うから、パン一個もらえない?」
「ももももも勿論ですともっ!」

 ウェスナーは叫ぶと、自分の抱えていた籠ごと有利に押しつけた。

「え?こんなにはいらないよ。これ、今から売ったりするんだろ?俺はこれ一個で良いよ」

 そう言うと、有利は籠の一番上に載っている美味しそうなロールパンを手に取った。

「なんと無欲な……」

 ウェスナーはボロボロと溢れてくる涙を止めることが出来なかった。

 治世当時から無欲で知られた王は…本当にこんな人物だったのだ。金銀財宝で身を包み、贅沢なご馳走を幾らでも食すことができる筈なのに…こんな城下町のしがないパンを喜んで受け取って下さった上に、ウェスナーの懐まで気にして必要な分しか受け取ろうとはしない…。

 これこそが、我が国の誇る王なのだ。

 唯見目が美しいというだけではない…心根の輝くばかりの美しさに心うたれ、ウェスナーは止めどなく零れる涙を拭おうともしなかった。

「ええ?君、どうしたの?大丈夫?」

 驚いた有利が声を掛けていると、辺りにどんどん人が集まってきた。

「ユ…ユーリ様…どうかこのパイを受け取って頂けますか?しがない菓子屋のパイではありますが…この近隣じゃあ、それなりに旨いと評判をとってまして…」

 おずおずと…老女がダークチェリーの載った焼きたてのパイを差し出してきた。

「わー!美味しそう!食べても良い?」
「そりゃあもぅ!」

 老女がこくこくと頷いて請け合うと、有利はまず《まぐっ》と元気よくウェスナーのロールパンを口に入れ、3口くらいで実に旨そうにもぐもぐ食べると、今度はさくさくと良い音をさせながらパイを食べきって(ちょっとお行儀悪く指まで舐めたのだが)…輝くような笑顔で《旨い!》と叫んだ。

 すると、遠慮していた周囲の人々だって黙ってはいない。

「ユーリ様!どうか俺の花束を受け取って下さい!」
「花束なんか食えるかね!魔王陛下はお腹がすいておいでなんだ!うちのハムを食べてもらわなきゃあ!」「いやいや、パンとパイを続けてお召し上がりになったんだ。次は絞りたての生ジュースさ!」

 殆ど押しつけられるようにして差し出された杯を受け取ると、有利はありがたく喉を鳴らして飲んだ。

『それにしても…何とも美味しそうに飲み食いをする王様だ』

 見ている者達までごくりと喉が鳴るほど良い飲みっぷり、食べっぷりに人々は感嘆した。

 王様だの貴族だのいった人々は自分たち庶民とは異なり、豪華な食事を摘むように食べては、沢山の残り物など惜しげもなく捨ててしまうのだと思っていたのに…この美貌の王様はその至玉の見目からは想像もつかないほど豪快に飲み食いしては、指や口元までぺろぺろと舐めて完食してしまうのだ。

 しかも、生来の美しさのためかそんに仕草さえ何ともあどけなく…思わず頬ずりしてしまいそうなほど可愛らしい。

「ふわー…美味しい!みんな、ありがとうね。城に帰ったらちゃんとお金持ってくるからね!」
「そんな…王から代金を頂くなど…っ!」
「や、それとこれとは別だもの。それに、王様だからこそこういうコトはちゃんとしとかなきゃ!王様が食い逃げしてたんじゃあ、社会キハンってヤツが問われちゃうだろ?」
「ユーリ様っっ!」

 人々の声がまた涙混じりになり、感極まって泣き崩れる者達が続出した。
 そして次々に捧げ物を店から持ち出して駆け寄ってくる人々もいた。
 溢れんばかりの人と物とに囲まれて狼狽えていると…そこに、複数の蹄の音と…呼ばわりの声が響いてきた。

「道を空けてくれ!」
「すまないが…道を空けてくれ!」
「お開けなさい!!」

 懐かしい声が…その中に混じっていた。

「グウェン…ギュンター、アニシナさんっ!」

 幾人かの衛兵を伴って現れたグウェンダル達は、途中で騎馬を諦めると馬から下りて駆け寄ってきた。

「あああ…陛下……陛下ぁぁぁっ!」

 年をとったせいか流石に血を吹き出さなくなったギュンターが、感極まって泣き崩れているが、グウェンダルとアニシナは流石に平静な顔をしている。

 いや…アニシナの方は珍しく真正面に出てこず…グウェンダルの後方に立って何やらポケットをごそごそやっていたのだが…この時、誰もその事には気付かなかった。

「よく…帰ってきた……」

 不器用にそれだけ言うと、グウェンダルは衛兵に指示を出して自分は踵を返そうとした…が、その時!アニシナの恐怖の右手が唸りをあげてグウェンダルの首筋に突き刺さったのである。

「ぎゃーっ!何してんのアニシナさん!?」   
「くっくっくっ…素直になる薬を打ったまでですわ…陛下」

 悪代官のような含み笑いをしてアニシナが笑う。

「くっくっ…て……アニシナさん……」

 グウェンダルは首筋に撃ち込まれた薬の効果か、見る間に顔をアオミドロ色にしてぶるぶると震えだした。 

「グ…グウェンっ!大丈夫?」
「ユー…リ………」

 有利が駆け寄ってグウェンダルの長身を支えようとすると…まだ震えの残る腕が力強く…有利の華奢な身体を抱きしめた。

「ググググ…グウェン……!?」
「……ユーちゃん……ゴメンね………」
「……………………はい?」

 今…聞こえたものを、有利の耳は拒否しようとした。
 グウェンダルは…グウェンダルは……こういう人物ではなかったはずだ。

 有利の《馬鹿兄貴》のように、17歳にもなる弟を《ちゃん》付けで呼ぶようなキャラでは…。
 しかし、拒否しようとしても長い腕はがっしりと有利を抱き込み、逃れることを赦さない。

「俺は…ユーちゃんを護りたいって…大事にして…いつも頭を撫で撫でして可愛がって…こうやってきゅーっと抱きしめたいと思ってたんだ。でもね、俺にはやらなくてはならないことがあったんだよ。俺は…この国を…眞魔国を愛している。この国に住まう魔族を愛している。だから……」
「グウェン…」

 グウェンダルの声が…涙声になった。

 ギリギリのところで羞恥心と薬の効果が拮抗しているらしく、何とかして泣き顔を衆人に晒さないようにしているが、声を止める事は出来なかった。

「俺は…国と民とを護るためならば…何度でもユーちゃんを斬らなくてはいけなかったんだ」

 夢の中で…何度も何度も……。
 グウェンダルは有利に斬りかかった。
 その事が…いつもいつも…胸が張り裂けるほど辛かった。

「何度も同じ夢を見た…創主に取り込まれたユーちゃんと…コンラートをまとめて斬ろうとする夢だ。その度にユーちゃんは自分で自分に斬りつけて、血を噴いて…体中から血を流して…俺の目の前で死んでいくんだ……。俺からコンラートを護ろうとして…」
「それは違うよ、グウェン…」

 明瞭な声がグウェンダルの言葉を否定した。

「違うよ…グウェン……。俺があのとき自分で自分に斬りつけたのは、あんたの為だ」
「俺…の?」
「うん…あんたは何時だって、何もかも自分で背負い込もうとするだろう?何時だったか、《俺が暴走したらどうする?》って聞いたら、迷わずに《斬る》って言ったろ?あのときに。《ああ…グウェンはそこまで被る覚悟があるんだ》って…って思ったら、絶対にそうさせちゃいけないと思ったんだ。だって…あんたは国と民のために行動するけど、あんた自身の心は理性ほどには物事を割り切れないだろ?だってあんた…凄い、優しいもん」

 有利はそっとグウェンダルの背に腕を回すと、その高い上背を屈ませて濃灰色の頭を抱き込んだ。

「ありがとう…いつもいつも…本当にありがとう。無茶ばっかりする俺を、止めてくれてありがとう…。俺がちょっとでもちゃんと出来てたら、褒めてくれてありがとう。あんたは…眞魔国最高の忠臣だよ…」
「ユーリ…いや、魔王陛下……」

 心理的な桎梏から逃れたせいだろうか、グウェンダルは幾らか顔色は悪いものの通常の口調に戻り、腕を胸の前に翳すと…その場に恭しく膝をつき、臣従の姿勢をとった。

「陛下…今一度、我が忠誠をお受けいただけますか?」
「……喜んでっ!」

 笑顔で答えれば、我に返ったようにギュンターが唇をかんだ。

「わ、私もですともっ!!」

 忠誠心では引けを取らないと自負しているギュンターが慌てて跪くと、周囲にも波紋のようにその現象は広がり、有利を中心とした円弧状に…次々と人々が跪いていく。

「ユーリ陛下、万歳っ!」


 おおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!


 人混みに阻まれれてね有利を直接見ることも出来なかった人々の間にもその唱和は波及し、辺り一面が歓喜の叫びで満たされていく。

「ユーリ陛下万歳!」
「陛下に永遠の忠誠を!!」

 人々はその叫びを口にすることをどれほど待ったことだろう。

 十年前のあの日…世界を救いながら…眞魔国を想いながら…強制的に生まれ育った世界へと引き戻された魔王陛下。

 その美しさ、その善良さはもはや伝説となり、その勲(いさおし)を謳う吟遊詩人の美声は、人々に各(おのおの)の《魔王陛下》像を描かせていた。

『王様はいつか帰られる…だって王様は…ユーリ様は、そりゃああたし達のことを気に掛けて下すってたもの!』

 有利がお忍びで城下町探索に出かけていたことは物語となって人々の間に伝えられ、書物となって普及してきた。

 今…その物語の世界から現出した王が、人々のどんな想像も及ばぬほどの鮮やかな存在感を持って同じ大気の中に在る。

 この現実に、誰が歓喜を覚えずにいられようか!

 誰が涙を流さずにいられようか!

 酒場の亭主は男泣きに泣きながら酒蔵の鍵を開け、惜しげもなく樽を開いては人々に振舞酒を施したし、果物屋の女将は旨いと評判の果実を積み上げる端から道行く人々に手渡している。

 子ども達はありったけの色紙を千切ってはあちらの窓からこちらの窓から…街中が鮮やかな色彩で染まるくらいにいろどり豊かな紙吹雪をまき散らす。

 街はもう、おもちゃ箱をひっくり返したところに大嵐が来たかのような有様であった。


 この喜びを誰かに伝えたくて…
 この喜びをもたらしてくれた何かに、何とかして感謝の意を捧げたくて…

 
 人々は、そうせずには居られなかったのである。
     

「陛下ーっ!魔王陛下ーっっ!お帰りなさいましっ!!」
「シンニチです、何か一言っ!」

 そこへ、人混みをかき分けて駆けつけたのはシンニチ関係者の二人…高速スケッチと美麗な描出で定評のある新聞画家のスキャナー・ケリッグと、エキサイティングな言語表現で知られる記者、グレーグ・オルカーンであった。

 そのグレーグが突然、珍妙な質問をぶつけてきた。

「陛下がグウェンダル閣下と近日中にもご結婚なさるという噂は真実ですか!?」
「はぁ!?」

 突拍子もない発言に、カップル扱いされた当事者二人からは調子っぱずれな叫びが発せられた。

「いったい何の話?」
「違うのですか?この辺りに駆けつけたときに人混みの中で囁かれていたのですが…。なんでも、陛下と閣下が熱い抱擁を交わされていたと…これは世紀のロイヤルウェデングかと我々盛り上がっていたのですが…」
「ち、違うよ!あれは親愛のハグ!俺が好きなのは…っ!」
「好きなのは!?」

 ガッツリ食いついてきたグレーグに集音機を押しつけられ、有利は顔を真っ赤にしながらも額に力を集中させた。

「俺の好きな人を…いま、呼ぶね?」

 はにかむように微笑むその表情の愛らしいこと、誇らしげなこと…。

 その伏せられた睫の浮き立つような跳ね具合を見るだけで、どれほど有利がその人を愛しているのか推し量ることが出来る。

 その時…パン売り少年のウェスナー・ハインツが叫んだ。

「ウェラー卿…ウェラー卿じゃないのかな!?」
「そうよ…ウェラー卿に違いないわ!」

 傍らにいた花屋の娘もこくこくと頷いて同意する。

「ウェラー卿をおいて他に、陛下がこんなに愛おしげなお顔を向けられる方がいらっしゃるはずないわっ!」

 妙に確信を込めて娘は頷くが、彼女は別にコンラートや有利と面識があるわけではない。その根拠となっているのは幾つかの《書物》からの知識である。

 知識とはいっても、この二人の真実を知る者など居ないわけだから全て妄想作品に過ぎない。だが…異世界に去られた美貌の王と、彼を求めて旅立った英雄の話は様々な形で物語になっており、十年を閲した今では国民の基礎知識になりつつあるのだ。

 その中でも特に人気なのが子供用の絵本シリーズで、コンラートを主人公にした英雄歎《王様と獅子》、ある種の嗜好を持つご婦人方に絶大な人気を誇る獅子×陛下恋愛小説シリーズ《恋する獅子は空を越えて》である。

 真っ当な神経の持ち主ならタイトルを聞いただけで悶絶しそうな後者の作品は、魔王陛下の故郷にたどり着いたウェラー卿が怪物を倒し、恋敵の罠をかいくぐり、やがて魔王陛下と愛を確かめ合うという話なのだが…この、《愛を確かめ合う》辺りが子どもには見せられない展開になっているのが絵本シリーズと大きく異なるところである。

 ただ、両方とも基本設定はよく似ており、特に最終話が《純黒》のウェディングドレスに身を包んだ魔王陛下とウェラー卿のキスシーンで終わるところは、作家が違うにもかかわらず妙に酷似している。

「ウェラー卿…」
「ルッテンベルクの英雄と、魔王陛下のご成婚かっ!」
「しかしウェラー卿は混血だぜ?」

 人々の興奮に水を差すようにそう言う者もいたが、すぐにこっぴどく頭を叩かれてしまう。

「馬鹿言え!混血も貧血もあるか!ウェラー卿は救国の英雄だぞ!?国を救い、王を取り戻した伝説の騎士様だぞ!?」


 おおおおぉぉぉぉぉ………っ!

 
 人々は一斉にどよめいた。


 その伝説の騎士(笑)が、淡い光に包まれて有利の前に現出しつつあるのだ。

「ユーリ…いや、陛下。あなたは力をコントロール出来るようになられたのか!?」
「うん…俺ね、結構頑張ったんだぜ?水・風・火・土の四大要素と契約して、空間を渡る力を得たんだけど、何とかコントロール出来るところまで訓練したんだ」
「なんと…っ!」

 グウェンダルとギュンターが驚嘆の声を上げる。

 眞王ですら座標軸が曖昧な移動しかなしえなかったというのに、この少年王はここまで正確な移動を可能にしたというのか。

「ユーリ…」
「コンラッド……」

 引き寄せられてのスムーズな空間移動に驚いていたコンラートは、公衆の面前で有利に抱きつかれると更に瞳を見開いた。

 しかし、驚くのはまだ早かったのである。

「皆さん…っ!」

 有利は脚を踏ん張り、胸を張ると…辺りにいる人々に…いや、この世界全てに響けと言わんばかりの思いを込めて宣言したのだ。

「俺…シブヤ・ユーリは…、ウェラー卿コンラートと結婚します!!」
 

 どぁぁぁぁっっっ!!


 確信を得た人々が、一斉に歓喜の声を上げた。

「見ろ!やっぱりそうだ!!」
「伝説の魔王陛下と救国の英雄のご成婚だっ!!これは凄いスクープだぞ!?」

 スキャナーは凄まじい勢いで二人の立ち姿を美麗に描出していき、グレーグは小鼻をふくらませて記事を書きつづる。


 明日の…いや、今夕のシンニチ号外が過去最高の売り上げを記録するのはほぼ間違えようのない決定事項であろう。


  





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