虹越え5−9 1学期の終業式が終わり、人もまばらな7組の教室で、篠原楓は有利に手渡されたカードに目を見張っていた。 古式ゆかしい質感の用紙には美麗な文字が描かれているが、それを読み取ることは出来ない。英語ともフランス語とも違う…強いて言えば、アラビア語の筆記文字に似ている感じだ。 その上にはファンシーな付箋紙に有利の手書き文字で日本文が添えられている。 同じものが、教室に残っていた黒瀬と会澤にも渡される。 「あのさ…眞魔国で今度、俺の帰還祭と誕生祝いを一緒にやってくれるんだ。この年で誕生祝いもどうかなぁとは思うんだけど、コンラッドが《絶対にやります》って言い張るからさ」 「そりゃ言うわよ、あの人なら。それに…今年の誕生祝いは目一杯盛大にやるべきだとあたしも思うよ。つか、日にちはズレても良いからこっちでもやろうよ。クラスの連中と実は既に予定してんのよね」 「え?マジ!?」 恥ずかしそうに頬を染めたものの、眼差しはとても嬉しそうに和んでいることが篠原にはとても喜ばしい。 『《もういいよ!》…って位、あんたはお祝いをされるべきなんだわ』 命がけで戦ったのに…眞魔国から強制的に地球へと送り返され、寂しく過ごした昨年の誕生日の話を篠原は忘れる事ができない。 あの頃…自分たちはクラスメイトではあったけれど、友人ではなかった。 彼がそこにいることを知ってはいたけれど、認識してはいなかった。 今はその事が、物凄く寂しいと感じるのだ。 「でも…俺たち、本当に行っちゃって良いのかな?」 『異世界旅行ってそんなに簡単に出来るもんだっけ?』 会澤が首を捻る。 「勿論!国賓としてお招きシマスよっ!」 「はぁ…なんか、ドキドキするなぁ…よその世界に行くって事もなんだけど、その国じゃあ渋谷は王様な訳だろ?そこに行っていつもと全然違う渋谷を見るのかと思うと…」 「やだなぁ黒瀬、人間…いや、俺の場合半分は魔族なんだけどさ。早々変わるもんじゃないよ?そのこともちゃんと見て知っとおいて欲しいしさ…。だって俺、高校卒業したら本拠地はあっちに移すことになると思うんだけど、こっちの世界にも時々帰ってきたい…。そう思えるようになったのは、お前らのおかげだと思うんだ」 有利は照れくさそうに鼻の頭を掻くと、眩しいほどの青空が広がっている窓外を見やった。 「俺…こっちの世界に帰ってきたとき、凄く寂しくて悲しくて…あっちのことを知ってる村田もいるし、家族だって、草野球チームのみんなだっているのに、暫くの間とにかく自分が《可哀相なんだ》と思いこんでて、周りが全然見えなくなってた…。だけど、そんな時にも不思議と学校には来てたんだよね。勉強は頭にはいんないし、何でも話せるような友達がいたわけでもないんだけど、どうしてか一人で家にいるより…このわいわいがやがやした空気の中にいる方が楽だったんだ。多分、ここに居たら何かが見つかるんじゃないかって思ってたんだと思う」 涼風が吹き向けて、その感触に篠原は懐かしさを覚えた。 初めて彼のことを意識した日…あの、文化祭の出し物のことで揉めた時…暑くて不愉快だった教室の中で彼が話し始めた瞬間にも、こうして心地よい風が吹き抜けていったのだ。 「それが…去年の夏、俺の誕生日に何か起こらないかって勝手に期待してて、何にもなかった次の日に…俺、死のうと思ったんだ。だけど…出来なかった…したくなかった。このまま死ねない…何もこの世界に残さずに消えていく事なんか出来ない…俺を信じて、幸せになってくれと言ってくれた人のためにも、俺は生きたい!…って、痛切に思った…。んで……《じゃあどうやって生きていこう?》…って思ったときに、このクラスのみんなをちゃんと見てみようと思ったんだ」 そうしたら…沢山のものが見えてきた。 気位が高くて語調は厳しいが、意外と面倒見が良くて男前な篠原楓。 ガテン系の体つきに豪放磊落な性格…それでいて細かな心配りが出来る黒瀬健吾。 その他にも…目をひらけばクラスメイトの、沢山の美点が目に入ってきた。 みんな何の障害もない、幸せ一杯の日々を過ごしているわけではない。 それなりに何かの事情を抱えて…それでも少しでも幸せになりたくて毎日を生きている。 渋谷有利が愛した眞魔国の人々も、そうではなかったろうか? 異世界だとか地球だとか…そういった括りに捕らわれず一人一人を見ていくなかで、有利の心にはある衝動が沸き上がっていった。 『この中で、俺…何か出来ないかな?』 このクラスの一員として、一歩踏み出せないだろうか? その思いが口を開かせた。 『黒瀬、篠原さん、みんな……。なぁ、座ろうよ』 あの…一言。 あの言葉を口にするまでの何秒かの躊躇を、今思い出す。 あの言葉を発しなくてもコンラートは地球に来てくれて、有利は眞魔国を目指しただろう。 だが、その結果は今とは違ったものになったのではないかと思う。 「俺…学校ってやっぱ好きだよ。みんなに会えて、本当に良かったって思うんだ。俺は眞魔国で王様やってくことになるけど…まぁ…何せへなちょこな王なんで上手くやっていけるかどうか分かんないんだけど…その時にも、絶対にここで過ごした時のことを忘れることはないだろうし、なんか生き方の基礎になっていくと思うんだ。授業で教えて貰ったことが…っていうだけじゃなくて、こんだけ沢山の生徒や先生と過ごしてたっていう《生活》自体がさ」 「渋谷は…へなちょこじゃないぜ」 「うん、有利は絶対に良い王様になるよ」 「何を根拠に?」 妙に自信満々に黒瀬と会澤が言うものだから、つい照れ隠しに抗弁してしまう。 「何言ってんの。あんたみたいに人の良いトコみつけるのが上手くて、困ってる人をほっとけないようなお人好しが良い王様になんないわけないでしょ?」 褒めているのに何故馬鹿にしたような物言いになるのか篠原楓…。 紅い悪魔と近しいDNAを持つのであろう友人に、有利は苦笑する。 「えへへ…ありがとう、な……」 教室の外では、授業中よりも生き生きとクラブ活動にいそしむ生徒達の掛け声が聞こえてくる。 今こうして過ごしている日々がどれ程得難いものであるのか実感するのはまだまだ先のことなのだろうけれど…彼らもいつか思うだろう。 有利とよく似た、この感慨を…。 * * * その日…地球における7月29日に相当する眞魔国の一日は、既にギュンターの太鼓持ちで国の祝日になることが決定していた。 街の中には思い思いのプレート…魔王陛下の誕生日を顕す《29》と、世代を顕す《27》が、パン屋では硬くて日持ちのする大麦粉で象ったものが店先を飾り、花屋でつくられた華麗なオブジェは飛ぶように売れている。そういった特色を出せない一般家庭でも、板に文字を塗った素朴なものや、子どもが何日も掛けて木彫りしたものが誇らしげに玄関に掛けられている。 道行く人々は知らない者同士でも《おめでとう!》と声を掛け合い、酒場の親父は相変わらず酒蔵から樽を転がしてきては道行く人々に振る舞っているが、女将ももう止める気はないようだ。その分、すっかり気前の良くなった他の店で激安ないし無料の買い物が出来るからだ。 魔王陛下が現れることになっている血盟城バルコニー前の広場には何日も前から泊まり込みで場所取りが行われ、勿論、今朝も溢れんばかりの人々が詰めかけている。 「魔王陛下のおなーりーっ!!」 そう呼ばわりが成されるやいなや、広場には天地に轟き渡るような歓声が迸った。 「お帰りなさいませ陛下!」 「お誕生日、おめでとうございますユーリ陛下!!」 しかし、そんな人々も実際にバルコニーへと有利が出てくると…瞬間、ぴたりと歓声が止まって息を呑んでしまった。 「おお……」 「なんて…お美しいの!?」 ある者は嘆息し…ある者は涙した。 「神々しいばかりのお美しさじゃないか…」 「シンニチのイラストはやりすぎだと思ったけど、それ以上じゃないか!」 「背後に控えてらっしゃるウェラー卿だって《恋獅子》のイラストよりずっと素敵よ!?」 「あー、《恋獅子》のウェラー卿は目がビカビカしすぎだもんね」 《銀色の光彩が煌めく瞳》という特徴がクローズアップされすぎているのか、《恋する獅子は空を越えて》シリーズのコンラートは異様に目が強調されている。 ちなみに、噂を聞いて本を手に入れた有利は《宝塚…?》との印象を持った。 ただ、有利も同じように目をビカビカに描かれているのだが、コンラートは《こんな輝きで不十分ですね…》との感想を抱いているようだ。 「ああ…死んだ親父にも見せてやりたかったよ…。親父はよぉ、いつもいつも言ってたんだよ。《魔王陛下はいつかお戻りになられる…。俺ゃあ、一目で良いから魔王陛下のご尊顔を仰ぎてぇ…》てなぁ……」 遺影を手に泣きじゃくる者もいた。 何しろ十年の時が流れているのだ。 幾ら長寿の魔族とはいえ、不死ではない。魔王の帰還を夢見ながら死んでいった者達もいるのだ。 「さぁ…お喋りはここまでだ!魔王陛下が俺たちにお声を掛けて下さるんだぜ!?」 有利は丈の長い詰襟の黒衣を身に纏い、胸にはヴォルフラムに貰った金細工の飾りを…豪奢なマントの留め具にはグレタに貰った銀の鎖を取り付けている。 ヴォルフラムはこの十年で精悍な若者に成長しており、面差しは少し長兄に似てきたようである。 『今更惚れ直しても手遅れだからな』 そう笑った彼は、この秋にグレタとの結婚を控えているのだという。 グレタは二十歳の娘盛りを迎えており、しなやかに伸びた体躯と包み込むように優しい表情が印象的な淑女に成長していた。それは良い…が、なんと…身長は有利よりも遙かに高くなっていたのである。 同様にここ十年で一気に背が伸びたヴォルフラムと並んで見下ろす形で、 『ユーリはいつまでも可愛いよね!』 …と、父親としてはショッキングにも程がある感想を投げかけてくれたのである…。 「皆さん…」 有利が淡く伏せていた睫を上げ、その漆黒の双瞳を開いて広場へと面を上げると…その鮮やかな瞳に賛嘆の眼が集まる。 「皆さん…ええと……俺の帰りと誕生日をこんなに盛大に祝ってくれて、本当にありがとうございます!」 まろやかな頬を仄かに上気させ、白い歯を見せて開けっぴろげな笑顔を浮かべると、見つめる人々の面にも同様の表情が沸き上がる。 「俺は…皆さんもご存じの通り、こちらの世界では十年も昔に地球の…俺の生まれ故郷に戻されて、もう眞魔国には戻れないのだと教えられました。俺はその事で…暫くのあいだ絶望のどん底にいました。寂しかった…この世界が、恋しかった……」 切なげに眉根が寄せられると、漆黒の瞳に透明な水の膜が掛かり…儚げな美しさが人々の心をきゅうっと引き絞らせる。 「けれど…眞魔国から命がけで来てくれたウェラー卿が教えてくれたのです。四大要素の力を手に入れることが出来れば、眞魔国に帰ることが出来るのだと…。その時から、俺は考え始めました。俺が眞魔国に帰るのだとすれば、それは何のためなんだろうかと…」 そこで一息ついた瞬間…有利の表情が変わった。 最初の無邪気な少年の顔…先程の雨に打たれる紫陽花のような顔とも違う…その面差しは真摯に真正面を見据え、纏う気配は有利を大人の男に見せていた。 「皆さんが恋しいだけなら、俺はただ帰ってくるだけで良い。眞王が俺に課した命題は創主を倒して眞魔国を救うという一点にありましたから、そうしようと思えば許されるはずでした。実質、この十年間はフォンヴォルテール卿が治世を成し、不具合を生じたことなどなかったのですから。ですが…俺は《王》として帰ってくることを望みました。それは…何故だか分かりますか?」 聴衆の中にはそれぞれの器と想像力に応じた《答え》が巡らされた。 富裕を希求する者は酒池肉林の贅沢を。 権力を希求する者は誰も逆らう者のない絶対的な支配を…。 けれど、幾らかの…ことに先日、有利と直接言葉を交わす栄誉に恵まれた人々は、それとは全く異なる予想を脳裏に浮かべていた。 そして、そういった人々は一様に…その後もたらされた魔王陛下の《答え》に、 『これ在るかな、我らが魔王陛下っ!』 との想いを新たにしたのである。 「俺が王として帰りたかったのは…どうしてもやりたいことがあったからです。俺は…この国から戦争と差別をなくしたい!皆さんの誰一人として、自分の望みとは無関係に殺したり、殺されたりすることのないようにしたい。そして…純血だとか混血だとか…富んでいるとか貧しいとか…身分があるとかないとか…男だとか女だとか…そんな、自分の頑張りではどうにも出来ないところで頭打ちをされて、涙を呑む人が一人もいない国にしたいのです!」 人々はざわざわと囁き合い、戸惑ったように顔を見合わせている。 無理もない。 これまで、そんなことを大上段に掲げて宣言する王など存在しなかったのである。 「勿論、簡単なことだとは思っていません。この方針を今この場で言うことでさえ、十貴族会議の承認を得るために沢山の人の協力と助言を仰ぎました。それに…俺一人の力で出来るのは思えません。俺は…皆さんにお願いしたいのです!」 ざわめきながら…明確な反応が返せずにいる民衆に向かって、有利は無意識のうちに《上目遣いでお願いポーズ》を取っていた。 「この国を…一緒に支えてもらえますか!?」 「支えますっ!!」 興奮のあまり、うわずった…しかも、甲高く細い声が観衆のただ中から一声起きた。 その声の主は…有利が眞魔国に帰ってきたあの日、最初に声を掛けてくれたパン売り少年のものだった。 それがきっかけになったのだろう。 人々は口々に…思い思いの言葉で決意を表明していった。 「お支えします…お支えしますともっ!」 「おうさ、何だってやってやるっ!」 「聞いたかい?お願いだってさ!あんな風に、あたし達にお願いをしてくれた王なんて今までいたかい?あたしらの返事なんてお構いなしに決まったことを押しつける王様ばっかりだったのにさ…あの方は、あたしらごときにお願いして下さるんだよ!?」 「あたしゃあ感動したよ……」 「おう!あのお願いを聞いて応じないんじゃあ、魔族とは言えないぜ!?」 おおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっっっ!! 蒼穹にとどろく民衆の…決意を込めた叫び声が、この国の未来を拓いていく。 《上》に言われるまま良いことも悪いことも関係なく従属するのではなく、国民の一人一人がこの国を支えようと決意したとき、歴史は大きく変わり始めた。 眞魔国の新しい歴史が今…開かれていったのである。 完 あとがき ※以下、書き上がった平成19年8月当時のコメントです。 終わりました…ええ、終わりましたとも!その後、卒業までの話を単発でつらつらと書く気はありますが、とにもかくにも一つのシリーズとしての締めが出来ましたので、いまはただホッとしています。 思えば平成18年11月末に、美形臣下に傅かれる有利のポスターに《何か可愛い王様だなぁ…。こんなに美形に囲まれてんのに、なんか健康的な感じがするし…》と一目惚れし、試しに小説一巻を買ったが運の尽きでした…十年ぶりに訪れた激しい萌えが狸山を貫いたのです。 そこからは怒濤の勢いで小説を大人買い、妹のマックでこっそりコンユ小説を読みあさり、平成19年2月から、ちこちこと仕事と育児の終わったあとの9時から11時を使って、来る日も来る日もこの小説を書き続けておりました。 そして、そのうち急に寂しくなりました。 『コレが完成したときに…誰にも見てもらえない、誰にも《おめでとう!》って言ってもらえないのは物凄く寂しくないかい…!?』 寂しい!絵ずらで想像しだけで泣きそうです! そんなわけで、感想欲しさに7月7日にサイトアップしたわけですが…陛下のお誕生日にアップするという夢は《黒うさシリーズ》に熱中したことで先送りになったわけですが、ここ数日は久しぶりに集中して《虹越え》世界に戻ってきました。 『眞魔国に帰るために有利が頑張って、コンラッドがそれを支えてくれる話』 …如何でしたでしょうか? 無理のある点、穴のある点…オッサン臭くエロな点……色々ありましょうが、狸山にとって《楽しい》と感じながら書きつづった話が、少しでも皆さんの琴線に触れることが出来たなら、こんな嬉しいことはありません。 感想を、お待ちしております! |