虹越え5−8−1

 





「なぁ、グウェン。もしも俺が上様状態をコントロールできなくなったりしてさ、眞魔国を滅ぼしそうになったらどうする?」

 天気の良い初夏の午後。麗らかな日差しが執務室の窓から差し込み、吹き寄せる涼風がふわりとカーテンを踊らせる…絵に描いたように平穏な執務室内で、王は眞魔国の誇る優秀な宰相に向かって実に唐突な質問をした。

 まるで、《今日のお茶菓子は何かな?》程度の気負いも沈痛さもないその声音に、グウェンダルは眉根の皺を一層深くした。

 しかし…口調の割に真摯なその眼差しを蒼瞳に認めると、口内で用意していた罵声を浴びせることは出来なかった。そして暫しの沈黙の後に返した言葉は、間違いなく自分がそうするであろう掛け値無しの…唯一の選択肢であった。

「俺の持てる力の限りを尽くして、お前を斬るだろうな」

 それは、おそらくフォンヴォルテール卿グウェンダルに課せられた責務であり…おそらく、彼にしか出来ない行為であろう。

 言うまでもないがそれは力量だけの問題ではなく、何を一義に考えているかという力点の問題であろう。
 王佐はこの少年を斬るどころか、血の涙を流してでも従属する道を選ぶだろう。
 末弟は怒り、泣き、責めはしても、結局この少年を斬ることなど出来ないだろう。

 次男は彼に可能な手段を全て尽くしても無駄と分かれば、この少年に斬られる道を選ぶだろう。
 腕は確かで冷静だったはずのお庭番は、昨今(本人はそうと認めないが)深くこの少年に傾倒しており、やはり次男と同じ末路を辿りそうな気がした。

 他の国民には、絶対的な存在である王を斬るなど思いも寄らぬだろう。


 結局、グウェンダルしか居ないのだ。そのような冷厳な選択を実施に移すことが出来るのは…。


『ひでぇっ!』

 とでも叫ぶかと思われた少年は、しかし今までに見たこともないような静謐(しず)かな表情で微笑むと、安堵したように吐息を漏らしたのだった。

「ありがとう…」 

 何故礼を言うのか。
 そして、彼の問いにはどんな意味があったのか…。
 今となっては想像してみるほかないが、彼なりに何かを感じていたのかも知れない。

 自分に科せられた役回りがどんなものなのか…そうなったときの身の処し方が。

 

 数ヶ月の後、少年の言葉は現実のものとなってグウェンダルの前に突きつけられた。

 呪わしい禁忌の箱の結界は破られ、解き放たれた創主に少年は取り込まれた。グウェンダルは約束通り持てる力の限りを尽くして少年を斬ろうとしたが力及ばず、易々と打ちのめされて大地に伏した。

 その時、グウェンダルの予想を超えて行動したのが次男だった。
 己の命を少年に捧げるだけでなく、彼は最後まで少年を信じていた。
 彼が、決して創主の支配になど屈しないと…必ず己を取り戻すと信じ、託していた。

 どんなときも飄々と立ち振る舞い、とらえどころのなかった弟…ウェラー卿コンラートの、愚直とも言える愛情の示し方に、グウェンダルは初めてと言っていいほど深く…強い愛情を感じていた。

 しかし、同時に…携えた剣には残された力の全てを注ぎ込み、狙いを定めてもいた。
 創主として少年を取り込んでから初めてみせる動揺に、グウェンダルは最後の望みを掛けようとしていた。

 愛おしい肉親と、そうとは自覚したくはなかったが…何時しか認めていた主君とを己の剣で一突きにすべく、間合いを計っていた。

 そんな自分を醜悪だとは思わない。
 間違っているとも思わない。

 少なくとも、剣を手にして真っ直ぐに駆けだしたときには、グウェンダルは自分の正義を信じて疑う気持ちなど一片たりと持ってはいなかった。

 だが、少年が一瞬…グウェンダルの瞳をまともに見返した。

 コンラートの肩越しに向けられたその瞳は揺れながらも、普段の少年らしい健やかな黒色を呈して…ふわりと微笑んだのだった。



 そして彼は魔剣を大きく振りかざし、我が身を一突きに貫き…そして切り裂いた。

 

 胴の半分を抉られた細い肢体がぐらりと揺れ、噴き上がる血飛沫が大地と弟とを染め上げる。

 断面から溢れ出る腸管を、そうすればもとに戻ると信じているかのように…弟が掻き上げ、少年の体腔に戻そうとする。しかし、黒色の瞳からは見る間に生気が薄れ、紙のように白く変じた顔の中で、ごふりと咳上げて血反吐が噴き出す。

 どくどくと噴き出す暗赤色の血潮にまみれ、狂気を孕んだ瞳で弟が叫んだ。
 

『ユーリ…ユーリぃぃぃぃぃ……っっ!』


 獣の断末魔を思わせる調子外れな絶叫を、聞く力が残されているのか居ないのか…少年は力を失った頭部をごろりと大地に横たえて、見るとも無しにグウェンダルを見やる。

 その唇が、微かに動いた気がした。


『これで良かったんだろう?グウェン…』

 

*  *  *




「閣下…グウェンダル閣下……っ!」
「ギーゼラ…か」

 黒に近い濃灰色の髪を掻き上げ、グウェンダルは湖畔族の女性を見やった。
 頭を振ると幾ばくか意識が清明なものになり、自分が執務室の机に突っ伏していたのだと知れる。

「うたた寝をしていたのか…」
「魘されておいででしたわ…また、あの夢を御覧になったのですか?」
「ああ…そのようだ」

 有利が眞魔国を去ることになったあの日から、グウェンダルは幾度となくこの夢を見続けている…。

 無論、彼は現実の世界で起こったことを明瞭に記憶している。
 有利は深手など負わず、コンラートも正気を失うような事態にならなかった。

 しかし…同時に彼はこのことも知っていた。


 それが、単なる僥倖に過ぎないのだと…。


『ユーリの振るった剣がモルギフでなければ、夢は現実になったろう』

 そして、有利自身にその瞬間までどのような思惑があったにせよ、そのような一か八かの賭けに出ざるを得ないところまで追い込んだのは、自分自身に他ならないことも知っている。

『あの時…俺はコンラートごとユーリを貫くつもりだった…そのことに、あいつは気付いていた』 

 だから、そうさせないために有利は自分自身を貫くことを決意したのだ。

 後になって《モルギフは俺を傷つけないって聞いてたから》等と言ってはいたが、あの咄嗟の状況でそこまで考えが及ぶとは思えない。

 グウェンダルは、あの時の自分の選択を後悔はしていない。何度同じ場面に立たされても、彼は同じように行動するだろう。だからこそ…そう確信しているからこそ…彼は未だにあの日の呪縛から開放されないのかも知れない。

「閣下…全ては良い方向に進んだのですよ?閣下がそのようにご自分を責める必要などないのですよ?」 

 ギーゼラや王佐に見咎められるたびに、何度同じ台詞を繰り返されたことだろう?しかし、グウェンダル自身には自分を責めている気など毛頭ないからややこしいことになる。「俺はそのように自虐的な達(たち)ではない…俺はあの時の自分の行動を責めるつもりなどないと何度も言っているだろう?」

「なら、どうしてそんなに苦しそうに魘されておいでなのですか?」
「何故…だろうな」
「そんなもの、この男が阿呆だからに決まっています!」

 今日も今日とて高いテンションと無造作な動作を誇る《赤い悪魔》は、執務室の扉を勢い良く開け放ち(一人で入室するだけなのだから片面だけ開ければいいものを、今日も見事な観音開きである)、またしても謎の物体を抱えている。

「大体、あなたの執務はこのところ量が減っているではありませんか。だのにこんな天気のいい日に机に張り付いていたりするから、そんなろくでもない夢など見るのです!人生というものは、もっと有意義に用いるべきだとは思わないのですか?」 
「その有意義な人生とやらが、お前の実験に付き合わされるという地獄でなければ、その発言にも首肯の余地はあるだろうが…」
「ええいクダクダと鬱陶しい!良いからとっとと崇高な私の実験に寄与なさい!」

 一応の反論を試みてはみたものの、やはり何時も通り引きずられていく長身の国王代理は、現在の眞魔国に於いて最高権力を誇る身である筈なのだが、アニシナには相も変わらぬ扱いを受けている。

 時として、そのように扱うことで気を使っているのだろうかと考えてみることもあるが…文字通りの地獄を味合わされると、それも唯の気のせいに過ぎないのではないかと思うグウェンダルだった…。



*  *  *




「なんかさぁ…俺、眞魔国の夢をみたよ」
「そうですか、どんな夢ですか?」

 コンラートに起こされた有利は、筋肉痛となにやかにや(推して測って頂きたい)で微かに怠い身体を半身起こすと、まだぼんやりとしている瞳を擦ってコンラートを見上げた。

 今日は体育祭の翌日の月曜日で、代休なので二人とも学校も業務もない。

 そして…とうとう手に入れた四大要素を使って、眞魔国行きを試みる日でもある。

「んー…グウェンとかギーゼラとかアニシナさんが出てきたな。んで、相変わらずグウェンがアニシナさんにとっ捕まってたんだけど…」
「…だけど?」
「なんか…グウェンの夢見が悪かったみたい。どんな夢見てたのかなぁ…?」
「アニシナの夢でも見たんですかね」

 寝てもアニシナ、起きてもアニシナではまさしく地獄であろう。 

「んー…そういう感じでもなかったなぁ…なんか、前にあったことで変な夢を見てるんだけど、グウェン自身は《後悔してない》って言うのに、何度も同じ夢で苦しんでるみたい…」
「…夢は、夢ですよ」

 コンラートがそう言うまでには少し間があった。
 彼には少し察することろがあったのだ…。

『グウェン…まだあの夢を見ているのか…』

 グウェンダルが悪夢に魘される…その光景にはコンラートも出くわしたことがある。


 旅の途中眞魔国に立ち寄ったコンラートは、長兄と久方ぶりの再会を祝って宴席を設けた。その折りに珍しく深酔いしたグウェンダルが、コンラートに取りすがってその正気を確かめたことがある。

『コンラートっ!お前……、平気なのか!?』

 あなたこそ大丈夫かと突っ込みそうになったが、真剣な兄の表情にただごとではない何かを感じてギーゼラに確かめたのだ。

『閣下はあのときの行動を恥じてもいないし、今後同じ状況下になればやはり同様の行動をとると仰るのですが…確かにそうなのでしょうけれど、閣下のあの苦しみようは見ていて辛いものがありますわ…』
『何とかならないのか?君の治癒の力でも…』
『魔力は万能でないことはあなたもご存じでしょう?』
『そう…だな』
『閣下をお救い出来るとすれば…陛下をおいてないでしょうね。あの方は…天真爛漫なお心で全ての民の心を照らす、太陽のような方だから…』

 

「コンラッド?どうかしたの?」
「…いえ、何でもありませんよ。それより、朝食にしませんか?しっかり力をつけて臨まなくてはなりませんからね」
「そうだね!」

 ぴょんっと跳ねるようにしてベットから飛び出す有利は、きらきらと輝くような笑顔を惜しげもなく振りまいてくれる。

『ユーリ…俺の兄を、救って頂けますか?』

 その為にはまず、今日の《時空渡り》が成功するか否か…その一事にかかっている。



*  *  *




「準備は良いかい?渋谷」
「おうよ!」

 ぱーんっと右手で左腕を叩くと、有利は学生服姿で(彼なりに)力強く脚を踏ん張った。 初夏の日差しに照らされたこの場所は、白狼族の住処へと繋がる戌亥門の前であった。

 ここは人目につきにくい広場になっているし、聖域が近いだけあって様々な要素の力が集まりやすい場所になっているからだ。

そして集まった人々は有利と村田の他に、コンラート、ヨザック、渋谷家の面々、エルンスト、高柳鋼を初めとする白狼族、猫から離れて実態をなした水蛇の上様、そして有利の携えた剣の中から飛び出してきた紅の蝶…そういった布陣である。

 篠原、黒瀬、会澤といった友人一同には、あれでもなにか危険があってはいけないということで、今回は遠慮して貰っている。

「額に…力を集中させるんだ……」
「うん……」

 かぁ…と額が熱くなる。

 すると…4大要素に関わる面々の姿が薄れ、おのおのを象徴する色彩を纏ったオーラとなって有利の周囲に集い…渦を巻き始めた。

「イメージして…遙か彼方の…君の治めるべき国を……思い描いて、自分をそこに飛ばすんだ」
「うん…………」
 

 コォォォォォォ……………


 身体が、熱くなる。


 そもすれば暴走しそうになる力をギリギリのところでコントロールしていると、いくつかの思念が寄り添って…有利を支えてくれた。

 有利のディーバ(増幅者)である村田健の力。
 コンラートの腕に填められた魔石から、眞王の力。
 ヨザックの腕に填められた魔石からは、ウルリーケの力…。

『落ち着いて…渋谷。君はもう十分な力を手に入れている…』
『帰るのだ、ユーリ…第27代、眞魔国魔王よ。己の国へ…』
『どうぞ…お帰り下さいませ……』

 有利の中で、何かの標準がぴたりと合わさったその時…
 有利は…飛んだ。


『ああ…懐かしいな……』


 自分を取り巻く感覚に苦笑する。

 慣れない頃には迷惑以外のなにものでもなかったスター・ツアーズ…天地も左右上下もない不思議な空間の中を、有利は飛んでいく。

 ただ、あのときと違って有利にはその先の光景が見えていた。
 懐かしい…狂おしいほどに想い、焦がれたその土地の風景が…人々の笑顔が…
 この空間の先にあるのだ。


『帰るんだ……俺は、あそこに…眞魔国に……!!』   



*  *  *




 ぴくりと…ギュンターの指が震えた。
 執務室の中で、グウェンダルも同時に肩を震わせた。

「お気づきですか?グウェンダル……」
「ああ…」

 それ以上は言葉も交わさずに城の庭に飛び出していくと、魔力を持つ者も持たない者も…何か強い予感を覚えて駆け出していた。

 砦の衛兵達は流石に持ち場を離れることはなかったが、城下に住まう人々の中にざわめきが広がり、次々に家から飛び出していく情景を確認していた。

「来る…何かが来る……」
「ああ…大気が……要素達が謳っているようじゃないか?……」
「まるで…祝福の歌だ……っ」

 初夏の芳しい大気の中を、様々な要素が踊り…はね回り…弾けんばかりの歓喜に身を震わせながら謳っている…。
 木々の梢を震わす風は慕わしげに渦を巻き、せせらぎの水面はキラキラと輝きを増す。
 篝火は喜ばしげに爆ぜ、大地は静かに感動を伝える……。

「見ろ…空が……あんなに神々しい色に染まって…っ!」

 鮮やかな蒼穹に浮かぶ白い雲の間から…幾筋もの神々しい光が帯のように広がり、天地を照らし……。
 不意にその明るさが一層を増したかと思うと、一瞬…太陽が2倍にも膨れあがったような錯覚を覚えたその時…蒼穹から舞い降りてきた者がいた。

「ああ…」
「あああああ……………っ!」

 人々は思わずひれ伏し、思い思いに頭を垂れ…歓喜の涙が我知らず頬を流れるのを感じていた。

 大人も子どもも…
 女も男も…
 純血魔族も混血もなかった…

 唯ひたすらに人々は胸を打たれ、沸き上がる激情に身を任せていた。

「お帰りになられた…」
「王が…」
「我らの王が……お帰りになられたのだ!!」 

 要素の祝福を浴びてふわりと城下町に舞い降りた者こそ…
 双黒をもち…目のさめるような美貌のなかに少年の愛くるしさを湛えた王…。
 第27代眞魔国魔王…シブヤ・ユーリであった。

 ふわ…と羽のように軽やかに石畳の上に足をつけた有利は、暫く何を言って良いのか分からない風に…はにかむようにもじもじしていたが、やがて口を開くと…にぱりと笑っていったのだった。


「ええと…みんな、ただいま!」

 


 

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