虹越え5−5−1 「ふぅん…日本刀による演舞ねぇ…一体何を考えてんだか」 「村田でも分かんない?」 「ちょっと情報が少なすぎるね」 コンラートとエルンストとが長ラン姿で《手合わせ》を行うことが決まったその日の夕方、有利はコンラートと暮らしているマンションに村田を誘った。 勿論、今日の出来事を考察してもらう為だ。 『僕、血糖値が上がらないと脳が作動しないんだよね』 『あー…内臓に血液がいっちゃって脳が虚血状態に…』 勝手なことを言っては夕食とデザート、食後のコーヒーまで共にした村田だったが、腹がこなれてきたのか気が向いたのか、やっと有利の質問に答えてくれた。 「君はどう思うんだい?」 「俺?」 「あの先生が君やウェラー卿への復讐目的で何か企んでる…そう思うかい?」 逆に問いかけられてしまった有利は、食後のみならず常に虚血状態なんじゃないかと疑ってしまう自分の脳細胞を総動員して考えてみた。ただ…その思考には多分に大脳新皮質よりも、感情や本能といった機能に関わる古皮質のエリアが出張ってきたりするのだが。 「俺…あの先生が、そこまで悪い人だって…どうしても思えないんだ」 ぽつりと呟いてから…有利は上目遣いに恐る恐る…村田やコンラートの様子を伺った。 『このお人好し!』 そう罵倒されるかと思ったのだ。 しかし、確かにコンラートは眉を顰めていたものの…村田は興味深げな色をその漆黒の瞳に湛えている。 「その根拠は何だい、渋谷」 「うう…文献公証とかは俺、苦手で…」 「こんな事は書物になんか載ってやいないさ。君がそう感じる以上は、何かしらその理由があるはずだよ?素直に…心の命ずるままに出てきた言葉だろう?どうしてだか考えてご覧?」 促されて考えてみると、それなりに理由らしきものが浮かび上がってくる。 「あのさ…俺、こないだはコンラッドが俺を置いていなくなっちゃうって幻覚だけで一杯一杯になってたんだけど…あれって幻覚なわけだから、もっと酷くしようとすれば出来たんじゃないかと思うんだ。よく分かんないけど…例えば村田が先生の立場だったら、どんな幻覚で俺を絶望させようとした?」 「ふぅーん…君を絶望させる幻覚ねぇ……」 水を得た魚のようにきらきらと輝く村田の瞳に、コンラートは嫌な予感を覚えた。 「そうだな、例えばウェラー卿が浮気をして、君以外の誰かと濃厚なベットシーンを展開しているところに君が居合わせて…言い訳しようと寄ってきたウェラー卿を払いのけようとした君の手にいつの間にかナイフが握られてて、そいつが深々と胸に刺さってしまって…血まみれのウェラー卿が君の腕の中で恨みがましそうな目で睨み付けながら絶命するとか…」 有利は想像しただけで真っ青になってしまい、ぎゅ…とズボンを握りしめた指先が色を失ってしまう。 「うーん…まだ頭が動ききってないなぁ…。こんなんじゃまだユルいよね?そうだねぇ…あとは君とウェラー卿がセックスしてて、君はとろとろにとろけそうな幸せに浸ってるんだけど、急に醒めた目でウェラー卿が君を突き放すんだ。《初々しい貴方を蹂躙するのが楽しかったんですがね…すっかり身も心も淫乱になられたようだ。申し訳ありませんが、飽きてしまいましたよ》なーんて言っちゃってね、君をベッドにほっといて部屋から出でていくんだ。んでもって、入れ替わりに入ってきた下卑た男達が君を輪姦するとかね。《お前はウェラー卿に売られたんだよ》とか言われてボロボロにされちゃったりとか……」 「もーいい!赦して村田っ!!」 有利が絶叫すると、コンラートがその身体を両腕の中に包み込み…恨みがましげな視線を送ってくる。 「猊下…幾ら喩えとはいえ酷すぎませんか?ユーリが泣きそうじゃありませんか!」 「えー?今ちょっと考えただけだから全然練れてないんだけどねぇ」 「ううう…俺、村田と友達で本当に良かったよ……」 コンラートの温もりでやっと落ち着いたのか、有利は眦を薄く濡らしながらも苦笑を浮かべて村田を見やった。 「そうかい?」 「うん…お前が敵じゃあ俺…絶対に勝てっこないよ……」 「そうかなぁ……」 村田は訝しげに首を傾げる。 『君は酷く傷つきはするだろうけど…僕がどんなに練り込んだ罠も、組み込んだ仕掛けも突破して…結局は打ち勝っちゃいそうだけどね…』 渋谷有利の強さは、彼自身が理解しているよりも遙かに芯の強いものだと思うのだが…。 「まぁ…とにかくさ、確かにあの先生はユルいよね。多分、彼自身がそう信じたいと思っているほどには冷徹になりきれていない気がするよ。いい人と言ってしまうには語弊があるけど、悪い人と呼んであげるには格が不十分っていうのかな?」 「うん、その点村田は凄いよ!お前にはベストオブ悪人大賞をあげても良いよね!」 『君は無意識の時が一番ザクッと来ること言うよね…』 素直に感嘆している有利に、村田は微かに眉根を寄せた。 「それにさ…俺、あの先生が本当に底なしの悪い人なら、あの朧月さんが好きになるはずないって思うんだよね…そりゃあ、俺もあの人とそんなに話した訳じゃないんだけど」 儚げで繊弱そうに見えたのに…本当はとても芯が強くて…そして、深くエルンスト・フォーゲルを愛していたのだろう精霊…。彼女が愛した男なら、なにか素敵な性質を隠し持っているのではないかと思うのだ。 「希望的観測に過ぎないけど…そういう君の感覚は時に凄く当たるときもあるからね」 村田には決して出来ないし、したくもない芸当なのだが…有利は人の美点を探し出し、本人が希望していなくても表に《引きずり出す》ことが得意なのだ。最初はどんなに有利を馬鹿にしたり、陥れようとしていた者でも、気がつけば彼を敬愛していたりする…。 その力が、今回も働いてくれればいいのだが。 『信じるのは渋谷に任せるよ。僕は僕で…そうではなかったときのことを考えよう』 村田の眼鏡が、窓から差し込む月明かりに照らされてきらりと光った。 * * * 春霞を纏う淡い空が鮮やかな蒼へとその色を変じていくと、勢いを増した太陽に照らされた新緑が、目に眩しいほどの煌めきを放ち始める。 季節は春から初夏へと移り変わろうとしていた。 本日は待ちに待った体育祭。 現在の時刻は12時を回ったところで、午前中の競技は大いに盛り上がっていた。 競技自体も生徒会や教職員の尽力で練り込まれたものになっていたし、生徒達…特に女子にとっては午後の部が始まる直前に行われるという応援合戦に対して、例年にも増して期待感が高まっている。 『う……っ!』 そんな中、長ランを着込んだコンラートは思わず息を呑んでいた。 「ユーリはどんな恰好をしていても可愛らしいですが…これはまた……刺激的ですね」 「わぁ〜…こりゃまた萌え度の強い…」 体育祭当日になってようやく仕上がった白組男子のユニフォームに、共通のホームエリアとなっている格技場横の更衣室(紅組は体育館とその横の更衣室がホームエリアとなっている)でそれを身につけた有利が出てくると、待ち受けていたコンラートは絶句し、村田はにやにや笑いをとめられなくなった。 セーラー服を基調としたデザインのチアユニフォームは、上衣部分はぴったりと体形に合わせた白い布地で、襟元こそ少し詰まって短めの赤いネクタイで締められているものの、鳩尾までしかないその布地から覗くほっそりとした腰のラインと、小さく縦長の臍の窪みが実に目に眩しい。腸骨稜の高さから起こる紺色のプリーツスカートも膝上10pであり、脛部分は紺のハイソックスに覆われているが、裾から伸びる大腿は膝小僧までが生脚である。 漆黒の黒髪に映える尺の長い白鉢巻も、有利の動きに合わせてするりとしなやかに動くのが可憐である。 そしてなんと言っても、有利の心底嫌がっていたノースリーブのせいで、剥き出しになった肩をきゅ…っと引き寄せて恥ずかしそうにしている様が…コンラートと村田のオヤジ心を痛く刺激してくる。 『ああ…その辺の茂みに連れ込むことが出来たらっっ!』 …犯罪である。 『あー…内股でしゃがんで、股間に大きな応援ボンボン挟んでるとこ写真に撮らせてくれないかな…』 …ギリギリ犯罪ではないが、おそらくやってはくれまい。 「うぅ…視覚の暴力ってヤツ?」 顔の下半分を掌で覆い隠して目を細めるコンラートや村田、歓声を上げる白組のメンバーを見やると有利は深く嘆息した。 「何言ってんのよ!凄い似合ってるって!無茶苦茶可愛いじゃない」 篠原は有利のガクランを借りて着込んでおり、側頭部でお団子にした髪を細いリボンで飾り結いしているのが何とも愛らしい。 「でもさぁ…メイド服の時はアレでも腕だの脚だの隠せたけどさ?コレはやばいよなー…黒瀬なんて自分の恰好によっぽどショック受けたんだろうな、着替え中に鼻血吹いちゃったよ。なんか会澤も微妙な顔してたしさ」 《びき………》 大気が凍る音に、更衣室から出ようとした黒瀬が脚を固められた。 『ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっっっっ!』 更衣室の扉の隙間から…身の毛もよだつような気配が漂ってくる……。 「どうしたんだ黒瀬?鼻血出し過ぎか?」 『お前にはこのタダならぬ気配が分かんないのかよ!?』 暢気に肩を叩いてくる会澤に、黒瀬は本気で殺意を覚えてしまう。 『それにしても…』 コンラートは少しずつ更衣室から出てくる《チアボーイ》達に、そうとは気付かれないように哀れみの視線を送る。 『ユーリ以外は…見事に不気味だな………』 メンバーは公平に1〜3年の奇数クラスから選出されているはずなのだが、何故だかやたらと体格の良い生徒ばかりが選ばれてしまったらしい。ちょっとしたマッスル部隊だ。 顔立ちは比較的美形の部類に入る会澤ですら、このユニフォームを身につけると意外と濃い腿毛・腋毛が露出してしまい…かなり視覚的な暴力を振るわれる。 デザインしたのは篠原楓らしいが…彼女は、着る対象を有利しか想定していなかったのではないだろうか? 「くじ引きの結果とは言え、女装させられるとは不運だったね」 大人な態度で優しく同情してみせたのだが、会澤は如何にも好青年的な笑顔を浮かべて首を振った。 「いやぁ…有利とペアルックだと思えばちょっと楽しいですよ?」 『本当はTシャツとかポロシャツでそういうのが出来たら良いんですけど…』 はにかみながら呟く少年にコンラートは笑顔で冷気を送りつけたのだが、それを直接喰らったのは恐る恐る更衣室から出てきた黒瀬だった。 『ペアルック…』 有利とコンラートとは体格が大幅に異なる。当然、似合う服装も好みも異なるので、《何となく同じコンセプト》というのはあっても、ペアと呼べるほど一致することはない。 今までそうしたいと思ったこともなかったのだが、こう正面切ってペアルックを喜ばれてしまうと妙な敵愾心が疼いてしまう。 『しかし…俺がこのユニフォームを着込むというのは流石に無理が…』 コンラートは軍人としては細身に見えるが、着やせする方なので脱ぐと結構筋肉の盛り上がりがはっきりしている。完全に身体が隠れるドレス等ならいざ知らず、それだけ露出度の高い衣装となると、ヨザックと良い勝負のイタさになることだろう。 「あっらー!坊ちゃんったら、やっぱり良くお似合いだわーっ!」 噂をすれば影…。 今まさに旧上司によって《イタい》と評された男が、まさにイタ過ぎる恰好でやって来た。 「う……っ!」 正直、眞魔国にいるときには 『何故コイツの女装が世の人々には通じるんだろうか?』 と常々疑問に思っていたのだが、こちらの世界では流石にきつかったらしい…。 周囲の生徒達が一斉に息を呑んで引いてしまった。 白組チアユニフォームに勝るとも劣らぬ際どい衣装に身を包んだヨザックは、濃いめのメイクも脱毛処理も完璧なのだが、やはり隆々とその存在を誇示する三角筋の下方には小円筋や棘下筋の筋溝までが見事に浮かび上がり、捩れる綱のような上腕二頭筋・三頭筋が誇らしげにその隆々たる膨らみをアピールし、前腕部では腕橈骨筋と円回内筋の境界が明瞭に浮かび上がっている。 プリーツスカートの裾から覗く大腿四頭筋は、内側広筋、大腿直筋、外側広筋の筋腹を視覚で識別する事が出来る上に、その上層を斜走する縫工筋までが見て取れるとあっては、観衆は《ぎゃふん》としか言いようがない。 「わー、グリ江ちゃん…今日も素敵な筋肉だねっ!」 「うふふぅー、ありがと坊ちゃん。チアボーイのお話聞いて、昔の血が疼いちゃった!」 《バツンっ!》と音がしそうな程見事なウインクを決め、ヨザックは腰に手を当てポーズをとる。実に俊敏そうで躍動感に満ちたそういう動きを見せると、つい生き物として美しく見える瞬間があるから怖い。自分を信じ切れなくなった生徒達が顔を青くしたり赤くしたりしている。 「ヨザ…まさかとは思うが、お前…応援合戦に参加するつもりじゃないだろうな?」 「あらヤダ隊長たら、聞いてなかったのぉ?グリ江は応援合戦を盛り上げる天使として、紅組白組両方のチアボーイに参加するのよ?その為に坊ちゃん達とスポ根一直線な練習をこなしてきたんだから!」 「…そうか」 何となく得心いってコンラートは頷いた。 先日から有利が秘密にしていたのは、応援合戦のための秘密特訓だったようだ。 最初は女装ということで随分と嫌がっていたのに、どうした心境の変化なのだろうか? 「ユーリは応援のために頑張っておられたのですね」 「ん…後もうちょっとで披露するからさ、待っててね?」 にこ…とはにかむように微笑む姿は犯罪的なまでに愛らしい…。 そのまま草むらに連れ込んでしまいそうな衝動を、どうにか堪えるコンラッドであった。 「最初は嫌がっておいででしたが…何かあったのですか?」 「んー…あのさ、この体育祭の準備に頑張ってる人ら見てたら、ただ恥ずかしがってちゃいけないような気がしてきたんだ。なんか、少しでも良い思い出になるように…《楽しかったなぁ!》て、みんなが思えるような体育祭にしたいって思ったら、ちょっと思いついたことがあってさ、それで練習してたんだ」 みんなが楽しめるように。 みんなの素敵な思い出になるように…。 まっすぐなその瞳から、懸命な思いが伝わってくる。 コンラートの崇拝する王は、玉座になど座らずとも…大仰な冠など被らずとも…素晴らしい資質によって光輝たる煌めきを放っているようだ。 眩しいものを見るように瞳を細めると、コンラートはそう…っと敬礼を施した。 * * * 「きゃああああぁぁぁっっ!!素敵ぃぃぃぃっっっっ!!」 お披露目を兼ねて開会式に向かう道中にも、コンラートは道行く生徒や先生、保護者の視線を釘付けにしていた。 「か…カメラカメラっ!良かったぁ…一眼レフ持ってて……」 「ち…超絶美形の長ラン……素敵すぎるわぁ……っっ!」 人々が芸能人にでも群がるかの如く人垣を作る様子に、格技場から少し遅れて出てきた有利はほっと息をついた。 「良かったぁ…コンラッドが目を惹きつけといてくれるお陰で、俺達あんまし目立たなくなるんじゃないかな?」 『甘いと思うけど…』 村田の心の声の通り…有利も一人に気付かれると、後は芋蔓式にカメラ小僧やカメラおばさんの襲撃を受け、コンラートが眼光で牽制しなければ危うく下から舐めあげる様な撮り方をされるところだった。 * * * ピイィィィィィィィィィッッ! 高らかにホイッスルが吹き鳴らされると、グランドには駆け足で学ランを着込んだ少女達が集結する。 「やぁっ!」 低音だが、やはり可愛らしい声に混じって… 「せいっ!」 腹にズン…ッと堪えるような、通りの良い声音が気合いを入れる。 「きゃぁぁぁっっっ!やっぱいい声!!」 女性徒達の声援を受けるのは勿論、長ランに身を包んだコンラートとエルンストであった。この二人が先頭に立ち、少女達を先導する形となっている。 なお今年の応援演技は五部構成になっており、一部が紅組・白組女子合同、二部が紅組男子、三部が白組男子、四部がコンラートとエルンストの演舞、五部が本来の応援団による応援合戦となっている。 「三っ三っ七拍〜子、よぉーいっ!」 丈の長い裾を翻し、堂に入った美声で掛け声をかけ…指先まで力の籠もった見事な動作が観衆の目を釘付けにする。 「くぅぅっ!あの長い腕がビシッと動作決めちゃうトコ…もう最高!!」 「やー…それよりもさ、その腕の先のあの白い手袋がまたストイックで良い感じよぉ!!」 「いやいや…あのスクワット体勢で微動だにしない腰の強さも素敵よぉ!それでいて腰、肩幅の割に細くない?」 「締まってんのよ!超締まってんのよ腰!!」 ハイテンションな少女達の様子を傍らに見やりながら、村田が人の悪い笑顔を見せた。 「渋谷も良いポジションでウェラー卿を見守ってやりたかったんじゃない?」 「俺はいーの!悪いけど、今日は俺たちの方が大歓声を浴びる予定だし!なー、みんな!」 「おうよ!」 野太い声で合いの手が入る。 「張り切ってるなぁ…」 「まーね!折角のお祭りなんだから思いっきり楽しみたいし、見てる人たちにも楽しんで欲しいじゃん?」 「君って、そういう奴だよね」 呆れたような物言いながら、村田の瞳には実に柔らかい色彩が満ちていた。 村田自身はもう、学校行事に対する感慨や、人のためにどうこうしたいという意欲も特にないのだが…こと有利に関わる事物にだけが、こんなにも鮮やかな感動を覚えるのが不思議だった。 無彩色の世界の中で…彼と、彼に触れるものだけが心に染みるような色合いをもっている…そんな風に感じるのだ。 『君が幸せでいることが、こんなにも僕を幸せにするなんて…君は気づいてもいないだろうけど…』 有利とこうして共にある喜びの前には、あの辛く長い年月も有益なものであったのだと感謝することさえ出来る。 |