虹越え5−4−2







「ユーリ、どうしたんです?この怪我は…」

 コンラッドは有利の背中を流そうと浴室に足を踏み入れた途端、有利の身体のあちこちに残る痣に身体を強張らせた。

 どうもここ何日か様子がおかしく、風呂も一緒に入ろうとしないと思ったら…身体にこんなに青痣を作っていたのか。

「うひゃ…ばれちゃった」

 ぺろりと舌を出す様子には屈託がなく、取りあえず後ろめたさや言うに言えない悲しい事情があるというわけではなさそうなので、ほっと胸を撫で下ろす。

「やはり意識的に隠してらしたんですね?一体どうして…」
「んー…体育祭までは秘密だよ。あ、絶対俺を問いつめるなよ!?」
「…何故?」
「だって、あんたに本気で迫られたら絶対口を割るという自信があるんだ、俺は」

 妙な自信の程を見せてくれる有利に思わず苦笑してしまう。
 だからこの人には敵わないのだ。

「取りあえず…誰かに苛められたりしているわけではないんですね?体育祭までと区切るということは、応援団か騎馬戦か…」
「ん?どうしたんだよコンラッド」
「何がです?」
「あんた今、変な顔したぜ?なんか…悔しがってるみたいな…」

『どうしてこうこの人は、時々…凄い精度で勘が鋭いのだろう…』

「……先日、騎馬戦の練習を拝見したのですが…馬役の生徒達が羨ましくなりまして……」
「羨ましい?なんでー?騎馬戦の台なんて目立たないし脚踏まれるし大変みたいだぜ?」

 きょとりと小首を傾げる様子に、相変わらず無自覚なのだと嘆息する。

 せめて先程の十分の一で良いから、自分の魅力を自覚して欲しい…。

「あなたの台になった連中が…ですよ。だって、あんな無防備な格好のユーリを至近距離で見られるなんて、凄い役得だと思いませんか?」
「欠片も思わねぇよ」

 即答された…。

「黒瀬も会澤も奥寺もそんな趣味全然ないんだからさ、安心しなよ」

『何を根拠に安心しろと?』

 鷹揚に肩を叩かれてもちっとも安心なんか出来やしない。

 かといって変に絡んだりすればまた以前のような諍いを再発してしまいそうなので、コンラートの方から折れてやった。

「そうですね…大丈夫、かな?」
「うんうん、大丈夫大丈夫!この痣のことも苛められたりSMプレイやってるわけじゃないからさ、体育祭まで楽しみに待っててよ」
「ええ、ユーリがそう言われるのなら…待ちましょう?」

 柔らかい声音の中に溶け込む1ppm程の悲しげなエッセンスに気づくと、有利は困ったようにコンラートの表情を伺い…急に思い出したように駆けだした。

「どうしたんです?」
「ちょっと待ってて!」

 言われるままに浴室で待機していると、たた…っと軽い足取りで帰ってきた有利は乾きたての体操服を着込んでいた。

「俺と騎馬戦しようよ!」

 生乾きのままの黒髪が艶やかに頬を囲み、上気したすべらかな頬がにぱりと笑う…健康的な様子の中に…だからこそ薫るのだろう背徳的な欲望を感じてしまい、コンラートは鳴ってしまいそうな喉を必死で自制した。

 いかんいかん…先程の痣を見ても分かるとおり、有利は体育祭に向けて何かを一生懸命に取り組んでいるのだ。おそらく地球で過ごす学校生活の中では最後の学年になるだろうこの年に…有利は強い思い入れを抱いているに違いない。

 このままむしゃぶりついたりすれば、疲れた身体には負担になってしまうことだろう。
『落ち着けコンラート・ウェラー!お前の戦歴は伊達か?この程度の事に動揺していて、どうやってあの厳しい戦況を乗り切ってきたというのだ?大体…ユーリがそんなにあからさまに体操服プレイなど仕掛けてくるはずがないだろう?』

 しかし…必死の自制活動も空しく、有利が心配そうに…もじもじと足の親指をすりあわせ、上唇をぴこっと突き出す様子を見ていると…どうにもこうにも我慢が出来なくなってくる。

 どうやらコンラート・ウェラーの芸歴…もとい、戦歴は伊達であったらしい…。

「こーゆー事じゃなかった?あ、じゃあ…俺が台になろうか?」

『ほーらね…』

 やはり《そういう意味》でのお誘いではなく、文字通りのお誘いであったことに心の涙を流す。

「いいえ、俺が台になります!ほぅら…」
「うひゃ…っ!」

 努めて明るい声を上げて有利の華奢な体躯を抱え上げると、ふわりと宙に舞わしてから肩に載せてしまう。

「あははっ!これじゃ騎馬戦じゃなくてまるっきり肩車だよ!でも凄いなぁ…やっぱコンラッドってでかいよね。いつもと景色が全然違うや」

 子どものようにはしゃぐ有利の様子に、コンラートも心も次第に晴れていく。 

 結局、当初の目的を果たしてるんだかどうだか分からないバカップルの《騎馬戦》は暫くの間続いたのだった。

 

*  *  *




 翌日の朝…基本勤務プレイスである校門にやってきたコンラートは、そこで数人の生徒達に声を掛けられた。その内の一人は生徒会長の長鍋で、他の生徒達も生徒会の委員長やらなにやららしい。

「今日はコンラートさんに是非、折り入ってお願いがあるのですが…」
「お願い…ですか?」

 頬を上気させた長鍋が、傍らに抱えた手提げの中から一組の学生服をとりだした。

 ぱ…っと上着の方を広げてみるとやけに丈の長い代物で、どうやら《長ラン》と呼ばれる応援団御用達の衣装であると知れる。

「是非、体育祭にこれを着て応援合戦に参加して頂きたいんです」
「しかし…俺は警備員ですよ?体育祭のような行事中は特に外部からの来客も多い事でしょうし、このような衣装を着込んでいては…俺自身が調子に乗った不審者以外の何者でもないでしょう…」
「いやいや、ウェラー君…私からもお願いできないかな?」

 そういってひょこりと校門の陰から姿を現したのは、普段は比較的印象の薄い校長であった。

 頭髪も年齢相応…というか相応以上に薄くなってきているが、その点は指摘してはならない。

「警備員の業務内容から逸脱しているのは承知の上なんだが…何とかこの体育祭を盛り上げてもらえんだろうか?君も知っての通り、うちの学校は青嵐学園の生徒を受け入れてからここ暫く諍いが絶えない…それが夕日に向かって駆け出して一気に友情成立というのは無理でも、せめてうちの学校で幾らか楽しい思い出を作っていって欲しいんだよ…。無理なお願いだと言うことは重々承知しているが、頼めないだろうか?警備会社の方には私の方からお願いして、体育祭当日のみの契約で何人か派遣を頼むことにしているんだ」
「…そういうことでしたら、喜んでやらせていただきましょう」

 にっこりと微笑むと、コンラートはその場で警備員服の上着を脱いだのだが…彼の無駄のない所作で迅速に着替えられると、そういう演目ででもあるかのように絵になってしまう。

 しゃ…っと、音を立てて袖から抜かれる上着と、ネクタイを外す為に反らされた首筋のしなやかさか…はだけられたシャツの襟元から覗く、くっきりとした鎖骨のラインだとか…

『格好いい人って何でこう…』

 と、周囲の男子生徒や校長を羨ましくて堪らない心地にさせてしまう。

「これでよろしいでしょうか?」

 1分も掛からずに着替えを完了させたコンラートの長ラン姿に…思わず有利は口の中で小さな歓声を上げてしまった。

 人が周りにいなければ、遠慮なく大きな歓声が出せたのに…と、少し残念である。

 そのくらい、長ランを着込んだコンラートの姿は意外なほど似合っており…《男伊達》とでも評したいような風情を醸し出していた。

 良くこんなサイズがあったなと感心するほどぴったりと体躯に合った長ランは、丈長の軍服のように立てた襟が禁欲的で、長い腕を強調する袖口からは目に鮮やかな白い手袋が覗く。

 そしてぴしりと伸ばされた背筋からしなやかな腰…殿筋、東洋人には嫌みなほど長いと感じさせる下腿へと伸びる長ランが、コンラートの綺麗な骨格を際だたせている。

 ズボンの丈は靴にやや被る程度で、膝を曲げると布の隆線が絵にでも描きたいほど流麗なラインを描いていく…。

 ダークブラウンの頭髪にきりりと巻かれた鉢巻は広い背中から腰へと流れ、吹き抜ける初夏の涼風に靡く様は、うっかり周囲の男子生徒に《抱かれたい…っ!》などという兄貴萌えを抱かせてしまう。

「凄ぇ…恰好良い……っ」

 有利が我慢しきれずに漏らした感嘆の声に、コンラートは実に見事な反応を見せる。

「ありがとうございます…俺などでよろしければ、一緒に応援をさせていただけますか?」

 細められた琥珀色の瞳の中で、きらきらと銀色の光彩が跳ねて眩しいほどの笑顔が放たれたものだから、有利は思わずうっとりしかけたものの…ふと何かに気付いたように眉を顰めた。

「…でもさ、これだとちょっと不公平じゃないかな?白組はあんたの応援で盛り上がるけど、紅組は悔しがるんじゃない?特に女の子は凹むと思うな」
「…ふっふっふっ…渋谷君。そこは先生、抜かりなしだよ?」

 困ったように小首を傾げるという、愛らしすぎる有利の姿に一瞬返答が遅れたものの…校長先生は自信満々の笑顔で胸を張った。

「この学校にはウェラー君と双璧になる人物がいるじゃあないかね」

 その言葉にどき…っと胸が拍動する。

 気配を感じて背後を振り向けば、そこにはコンラートと同様に長ランに身を包んだエルンスト・フォーゲルの姿があった。

「やあ…おはよう。渋谷君、ウェラー君」

 常と変わらぬ軽やかな声と、爽やかな微笑み。

 エルンスト・フォーゲルは目の前で恋人を喪った日の翌日以降も、きっちりと出勤して教員生活を送っている。

 その様子は前日までと全く変わることはなく…有利に必要以上に近寄ることない代わり、気にして避けている風もない。

 …実に、自然体で行動しているように見える。
 それが逆に…酷く気がかりだった。

 そもそも彼は土の要素の持ち主であり、土中の貴金属類によって相当な富を得ているのだから今更講師などする必要は欠片もないはずだ。

 元はと言えば、恋人の器に適合する人物捜しとしてやっていたらしいし。
 それが、何故何事もなかったように勤めているのだろうか?

 流石にコンラートや村田に止められるまでもなく警戒して近寄らないようにしていた有利であったが、とても無関心ではいられなかった。

『俺のこと…恨んでるのかな……』

 恋人の器となることを拒絶したこと…。
 恋人を、意図せずして昇天させてしまったこと…。
 理由には事欠かないように思われる。

 だが、エルンストはそういった負の感情など一切伺わせない表情で笑いかけてきた。

「私も生徒会長と校長先生に頼まれたんだよ。ウェラー君と長ランを着込んで、そっくりさん同士の応援合戦をして下さい…てね。ああ…ウェラー君、やはり同じ服を着ると余計にそっくりになるね」

「そうですね」

 こちらもにこやかに微笑んでいるから恐ろしい。
 どうしてそんなに心の中の風景を外に出さずにいられるのか、有利には不思議で堪らない。

「ウェラー君…確か、君は剣の腕が確かだったよね?」
「嗜み程度に…ですが?」
「はは…謙遜することはないよ、素晴らしい技量だと伺っているよ?それで相談なんだが、体育祭の折りに、私と手合わせ願えないかな?」
「手合わせですか?先生も剣を使われるので?」
「ああ、私はこちらを使わせていただく。君も、持っているだろう?先日見せて貰ったあの剣で手合わせ願いたいな」

 エルンストが取り出したのは造りの見事な日本刀であった。

 桜の花弁を透かし彫りにした鍔と、流麗なラインを描く黒艶の鞘…金糸と紅色の綾紐を組み込んだ柄本も艶やかな、見事な太刀である。

「フォーゲル先生…それは……」

 校長先生が予想外の展開に軽く慌ててしまう。
 長剣など振り回されて怪我人など出ては、ここまで勤め上げてきた教員人生にサヨウナラしなくてはならない。
 多額の退職金を目の前にして、そんな人生行路転換は嫌だ。

「ああ…大丈夫ですよ。危険のあるものではありません。そんなに堂々と銃刀法違反などしませんよ。ウェラー君の剣もそうだよね?」
「ええ…」

 何を企んでいるのかしれないが、流れ的に拒否することは難しい。

 コンラートは浅く頷くと、油断なくエルンストの様子をうかがった。







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