虹越え5−4−1







 麗らかな日差しに照らされる5月の初旬。

 3限目の理科が終わって教室に帰る道中、言い争うような声に聞き慣れた響きを見いだすと、有利は弾かれたように駆け出した。

「もう一度言ってみろ!」
「ああ…何度だって言ってやらぁっ!大久保よぉ…そんなに青嵐に帰りたきゃ帰れよ。真っ黒焦げの校舎になっ!」
「帰れるもんならとっくに帰ってるさ!そうでなきゃ、誰がこんな低レベルな学校にいるもんか!」

 爽やかな初夏の陽気とは裏腹に、渡り廊下の上では今にも掴みかからんばかりの勢いで二人の少年達が言い争っていた。

 馴染みのある皮肉げな口調は2年の時に同じクラスだった藤谷のもので、大久保と呼ばれたのは青嵐の生徒らしき神経質そうな男だった。彼らはこれが初めての衝突というわけでもないのか、遠巻きに眺めている生徒達は醒めた目で見やるばかりだ。

「おい、何してんだよ藤谷。お前らしくもない…。あんな言い方したら青嵐の奴は立つ瀬ないじゃん」
「俺はコイツのいちいち嫌みな態度に、いい加減ブチ切れてんだよ。ここまでの経緯も知らずに口出ししてんじゃねぇよ!」

 余程腹に据えかねる事でもあったのか、口は悪いが何処か物事を達観している風だった藤谷が、珍しく眦を釣り上げて激昂している。

 実のところ、こういった事態を有利が目の当たりにした事自体は初めてなのだが、そういう問題が起きつつあることは噂には聞いていた。


 新学期に入ってから1ヶ月あまりが過ぎたゴールデンウィーク開け。

 普通の環境でも5月病が囁かれる時期ではあるが、この学校では更に特殊な事情により分裂が顕著なクラスが多数見うけられる。

 理由というのは勿論、学力レベルが大幅に異なる青嵐の生徒を一部受け容れているためである。

 建築基礎まで一部崩壊している青嵐学園では現在懸命の復旧作業が続いているが、2階建てのプレハブも全生徒を収容するには足らず、しかもこれから暑い季節を迎えるということもあり、少なくとも3学年の生徒については基本的に現在割り振られている学校で学習していく事になる。とはいえ、進学校の青嵐とこの高校とでは殆どのカリキュラムで進度が異なるため、進学に必要な重要教科については空き教室に青嵐の生徒を集めて、青嵐の教員が指導している。

 そうなると、どうしても青嵐の生徒は浮きがちになってしまう。既に何人かは精神的に不安定になって不登校に陥る生徒も出だしており、根深い問題を醸し出している。

「へぇ…こいつがこの学校の有名人かよ」

 青嵐の生徒は藤谷よりも更に苛々とした表情で、侮蔑の表情も露わに有利を嘲笑した。

「メイド服がお似合いのお嬢さんだろ?この学校って共学なのにさ、男子に女装させなきゃなんないくらい困窮してるって訳?女子のレベルが低いからかな?低いのは学力レベルだけじゃないんだ」

 思わず…藤谷と一緒になって殴りかかりそうになるが、いやいや待て待て…と、心の中で滝に打たれて冷静さを取り戻そうとする有利であった。

『まぁ落ち着け…こいつだって、平穏無事に青嵐にいられたらそんなに嫌な奴じゃないのかもしんないし…。そうだよ、きっと何かよっぽど嫌なことがあったんだよ』

 何とか心に折り合いをつけると、努めて平静な声で話しかけてみる。

 《暴力より対話》と、ガンジーだって周恩来だって言っている。

「なあ、あんたもそんな風に突っかかってくんなよ。折角こうして一緒に学校生活送るんだから、何かどうしても嫌なことがあるんだったら、相談してくれよ。なんか力になれるかもしんないよ?」

 小首を傾げて上目遣いに見やれば、何故か青嵐の生徒は狼狽えたように息を呑んだ。

『なんだコイツ…妙に……可愛くねぇ?』

 思わず浮かんだ妙な発想に、大久保は必死で自分の心を殴りつけた。

「力になれるだって?はん…教員みたいなことを言いやがる。お前もあの連中と一緒で、口ではそう言ってても本気で解決してやろうなんて思っちゃいないんだろ?」
「んなことねぇよ!そりゃ…ものによっちゃあ解決できないこともあるかもしんないけど、言う前から諦めんなよ。あれでも何かの役に立てるかも知れないぜ?」

 困ったように眉根を寄せて言い募れば、大久保はにやりと笑ってこう言った。

「そうかよ…じゃあ、俺の悩み…肩代わりしてくれるか?」



*  *  *




「ノォォォォォォォォォオオオオオオオオッッッッ!!」
「ま、君が自分で言い出したことだしねぇ……」

 がくりと肩を落とした有利の背を、ぽんぽんと村田が叩く。

「渋谷なら似合うだろうな!」
「体育祭盛り上げてくれよ?」

 囃し立てる生徒達の服装は部分的に青嵐のブレザーを含んだもので、揶揄うような口振りながらその声音は優しく、腹の底から楽しそうな笑い声が響いていく。

 こんな光景が展開されているクラスは少数派なのだということは、先だっての藤谷と大久保の事件からして推し量れることだろう。このクラスに配分された青嵐の生徒5名は村田と会澤を筆頭にすっかり溶け込んでいた。

 何故なのかについては担任の松本も生徒達も不思議に感じているようだが…昨年、2年5組に在籍していた生徒や村田にはその理由を推察することが出来た。

 物事が揉めそうになったとき…気持ちが塞いでいるとき…有利はそっと傍に座って、話しかけてくる。内容自体はごくごく他愛ない話なのだが…不思議と心が晴れるのを感じるのだった。

 そんな彼が泣きそうな顔で絶叫しているのはとても気の毒なのだが…理由が理由なだけに、みんなの口元には微笑みが浮かんでしまう。

「もー、渋谷ってば往生際が悪いんだから…。あたしが腕によりをかけてデザインしたコスチュームに何か文句でもあるわけ?」
「そりゃ、このデザインは可愛いよ?女の子が着る分には俺だって何の文句もないよっ!でも、でもコレ…俺が着るんだよ!?」  

 そう…もうこの流れでお察しの通り、有利はまたしても女装の危機に立たされているのである。

 大久保が腹に据えかねた出来事…それは、くじ引きで《女装応援団》に入れられることだったのである。

 《女装応援団》…それは、正確には《男女入れ替え応援団》と呼ばれる、この学校に二十数年前から伝統として伝わる出し物である。

 そもそもの由来は好きな男子のガクランを借りて女子が応援するという、《ぶかぶかのガクランを捲り上げ、白い鉢巻・手袋で応援する少女達》という、萌え要素の強い出し物だったのだが、二十数年前のカップルがお互いの制服を交換して…男子の方がセーラー服を着て応援をやらかしたことから恒例行事になってしまったらしい。今では各クラスから厳正なくじ引きにより、男子3名、女子3名が選出されて、紅白に別れて応援合戦を繰り広げるのだが…女子が相変わらずガクラン姿なままなのに、何故か毎年男子の衣装に凝ってしまうことが多い。

 尚、くじ引きによる選出は公平を期する為にこの人数と決められているのだが、チーム分け自体は奇数クラスが白組、偶数クラスが紅組なので、組ごとに人数が揃えば問題はない。そこで、既に7組で行われていたくじ引きでは幸運にも当たりくじ(?)をひかずにすんだにもかかわらず、迂闊なことに自分から首を突っ込んで見事に引っ込みがつかなくなった有利は、誰もが嫌がる女装応援団に唯一人《立候補》によって選出されるという、かなり恥ずかしい事態に陥っていたのである。

「それにしても…男子校じゃ珍しくないけど、こんな伝統がある共学校って珍しいな」

 会澤も苦笑混じりに有利の背を叩く。

「ま、そう落ち込むことないよ有利。どうせお祭りなんだからさ。一緒に恥かこうよ」

 会澤はクラスのくじ引きで当たってしまったのだが、彼はあまりこういった事に動じない達なのか、あっけらかんとして笑っている。

「お前らなんて細面で似合うんだから良いじゃないか…俺なんて見たヤツが気持ち悪くなったらどうしようかと今から心配だよ……」
「俺も…」

 同じく選出されてしまったバスケ部の奥寺寿士と、黒瀬謙吾も頭を抱えて嘆息していた。

 特に黒瀬謙吾などは応援団に所属しているにもかかわらず女装チアもやるということで、一年間で最も応援団が輝く応援団演舞に出ても何となく格好がつかないのである。

「篠原…なぁ、せめてこの服、ノースリーブじゃなくて袖付けない?」

 有利はせめてもの譲歩を求めてごねるのだが、ファッション・マスター篠原には通らなかった。

「なんで?この方が絶対バランス良いって!」

 篠原の提示したデザイン案では、一応セーラー服が基本ラインにはなっているものの、上衣の基礎は身体にぴったりとした白い布地で、肩はノースリーブ、ウエスト丈は鳩尾までという思い切ったデザインで、襟元は水色のセーラー、スカーフの代わりに短めの赤いネクタイを垂らしている。紺色のスカートも膝上10pという短さで、たっぷりと採ったプリーツが翻ると、かなり危険な事になりそうだ…。靴下は紺のハイソックスに白いラインが一本入ったもので、靴は普通の白い運動靴である。

「ヤダって!その…腋とか見えるだろ?」
「別に良いじゃない、渋谷腋毛ないでしょ?」
「嘘!?渋谷君って腋毛生えないの?羨ましいぃぃっっ!」
「ぐわっ!ばらすなよ篠原っ!」

 有利が真っ赤になってのたうつと、羨ましがったり冷やかしたりする女子の横で、村田達は静かに頷いたりしていた。

『腋毛…ないのか、そうか……』
『つるつるの腋でノースリーブ…膝上10pのプリーツスカート……か、良い夢みれそうだな…』

 こくりこくりと頷くクラスメイトは、渋谷有利と同じクラスにならなければ真っ当な道を進んでいたかも知れない連中が殆どであった。



*  *  *




「うおおぉぉ…嫌だ……嫌だぁ……」
「何が嫌なんです?」
「うぉっ!コンラッドっ!」

 5限目の前に体育館に移動する道すがら、しょぼんと肩を竦めて歩いていたら巡視中のコンラートに見咎められてしまった。

「どうかなさったんですか?顔色が少し悪いようですが…それに、目元が赤いですよ?何か嫌なことでもおありですか?」

 目元にそぅ…っと指を伝わせるコンラートに、有利は擽ったそうに肩を竦めた。

「大したことじゃないんだよ…御免な、心配掛けて」
「御免だなどと…ユーリ、大したことでないのなら、話して下さっても良いでしょう?」
「んー…それがその……今度の体育祭で応援合戦やるんだケド…」
「おや?昨日、くじ引きでは上手く回避できたと喜んでらしたような…」
「んー…それがさ、ちょっと訳アリで…やっぱやることになったんだ」
「そんなにお嫌でしたら、俺の方から教員なり何なりに申し入れをしましょうか?」


 真顔で言ってくれるからこの人は怖い。


「いや、良いって!俺…実は自分からやるって言っちゃったんだよ。他のクラスなんだけど、青嵐の生徒が女装を凄い嫌がってて、そのせいでうちの学校の連中と喧嘩になりそうになってたんだよ。事情も聞かずに《悩みがあるなら聞かせろ》なんて言っちゃったからさ…引っ込みつかなくなっちゃって…」
「そうですか…」

 だからそう色々なことに首を突っ込むべきではないと説教をしようとしたのだが、丁度予鈴が鳴ってしまった。

「あー、もう行かなきゃ」
「ええ…それではあまり落ち込まないようにしてくださいね?」

 そう言って送り出したものの落ち込む有利の様子がやはり心配で、グランドの片隅で体育の授業参観を始めたコンラートだったが…展開される授業内容に愕然としてしまった。

『何だこれは…何という競技だ…っ!』

 この時間は目前に迫った体育祭に向けて、騎馬戦の練習が行われていた。

 有利は長身の奥寺、会澤、黒瀬の3人の上に乗る役割なのだが(よりにもよって女装メンバーばかりである)…この台の形態が問題であった。3人の内、先頭の1人…奥寺はまだ良い。有利と後続台2名の内側腕に後ろから肩を掴まれ、後ろ手に回した手を後続台2名の外側腕と組み、そこに有利の裸足を乗せている。問題は…この後続台2名の内側腕である。

『何故…何故あの腕の上に乗らなくてはならないんだ!?』

 そう、騎馬戦では後続台2名の内側腕2本の上に搭載者が腰掛ける事になるのだ。

 有利は膝丈程度の青いゆったりとした短パンを穿いており、その下からすんなりとして眩しい下肢を惜しげもなく晒している。敵の鉢巻を取ろうと身を乗り出せば、小気味よく締まった小さめの尻が浮きあがって会澤と黒瀬の前で揺れてしまうし、時には白い体操着の影から腹部…ことによると胸部までの素肌が後方から覗けてしまう恐れがある。

 …心なしか、二人の顔がにやけているような気がするのだが…。

『いっそ亡き者にしてやろうか…』

 燃え上がる嫉妬の炎に炙られて、コンラートは危うく剣を鞘走らせるところだった。



*  *  *




 2時間続きの体育の授業を終えて更衣室に向かおうとしていた有利は、えっちらおっちら大荷物を抱えて歩いてくる大柄な女子を見かけた。膂力は有利よりも遙かにありそうな体躯(…)ながら、流石に抱えている荷物は多すぎるようで、重さよりも視界を覆われていることが危険を呼び込みかねない状況であった。

「あのさ…良かったら半分持とうか?」

 思い切って声を掛けると、その女子は立ち止まって有利を見た。

『ああ、長鍋さんだったんだ』

 その女子の顔立ちには幾らか見覚えがあった。確か生徒会長をやっている長鍋だ。有利とは中学が一緒で、やはりその時も生徒会役員をやっていた筈だ。

 茅で斬ったような一重瞼のまなじりがきりりと釣り上がり、意志の強そうな太めの眉が強面の印象を更に強める。お世辞にも小綺麗な顔立ちではないが、闊達な言い回しとさっくりとした快活そうな雰囲気が有利の人としての好みに合致する。

「あら渋谷君、良いの?ありがとうね!」

 一度も一緒のクラスになったことはないのだが、彼女の方も有利を認識していたらしい。ちゃんと名前も覚えていてくれた。

「家庭科室に運んでもらえる?そこで体育祭の応援団の衣装、手芸クラブの子らに縫ってもらうことになってんのよ。…て、そういえば渋谷君てチアボーイやってくれるんだっけ?」
「うう…もうみんなに知られてんだ…」

「そりゃ…ね。楽しみだもん」
「でもさぁ…ノースリーブなんだぜ?無茶苦茶イタイと思うんだけどなぁ…」

 拗ねたように唇を尖らす有利を見やりながら長鍋は唇の端をあげた。これだけ愛らしい外見なのだ、別に男の子でも十分可憐になることは間違いないだろう。

「そんなに嫌なのに受けてくれたんだ」
「どーせ俺は立候補しましたよー。文句言う筋合いありませんよ」

 ぷくっと頬をふくらませる仕草までが妙に可愛らしい。

『これだけ可愛いけりゃ、あたしも別の人生歩めてたかも』

 ちょっと…いや、かなり羨ましいと感じてしまう。

「あはは、知ってるよ。くじで当たった青嵐の生徒がごねてたのを代わってあげたんでしょ?渋谷君て相変わらずそういうトコ人が良いよね…。あのさ、その話聞いたとき…あたしは凄く嬉しかったな」
「…俺の女装をそんなに楽しみにしてくれてるの?」

「まぁ、そこも個人的には楽しみだけど、それ以上にさ…この体育祭盛り上げようとしてくれてんのかと思って、その辺が特にね…嬉しかった。ほら、いまうちの生徒と青嵐の生徒って険悪じゃない?あたしさ…そういうの嫌なのよね。折角の高校生活なんだもん、なるべくならみんなで楽しくやりたいじゃない?」
「長鍋さんて、そういうトコ本当に一生懸命だね」

 中学なら内申書に影響するということもあろうが、高校となるとそこまで生徒会活動を頑張ったからといって凄い特典があるとは思えないので、本当に損得なしで《やりたくてやって》いるのだろう。

 有利はそういうタイプの女子に弱いという妙な自信がある。

「まぁねぇ…あたし、勉強にしてもスポーツにしても大した事なくて、特に凄い特技があるわけでもないんだけど…こんな風に生徒会でわいわいやってるの好きなのよ。特にこういう行事の下準備とかね、凄くわくわくするんだ。だから渋谷君がチアやってくれるって分かったときには凄く嬉しかったのよ。今の生徒会の任期って7月一杯だから、これが最後の大きな行事になるしね…うちの生徒も青嵐の生徒も関係ないってくらい盛り上がれると良いなぁ…って、思うの。だからさ、渋谷君には是非頑張って欲しいんだ」  
「そっか…俺、恥ずかしいってことばっか考えてたけど…そうだよな。こんだけ長いこと続いてるって事は、やっぱ盛り上がるから…楽しいって思う奴がいるから続いてるんだよな…」

 そう考えると、何やら別の見方が出来そうな気がする。

 有利は長鍋と一緒に家庭科室に布地などを届けたあと暫く考え込んでいたが、別れ際に一言だけ長鍋に伝えた。

「あのさ…長鍋さんが頑張ってんの見たら、俺も何かやんなくちゃって気になってきた。どこまで出来るか分かんないけどさ…体育祭、盛り上げような?」
「うん!」

 こっくりと頷く長鍋は、元の容姿以上に可愛らしく見えた。



  

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