虹越え5−3−2







 有利は瞳に力を取り戻すと…まだ怠さの残る脚を踏ん張り、よろめきながらも立ち上がった。

「俺は…俺でいる事を絶対に自分から手放したりしない。俺は…俺として生きていく!」
「渋谷君…どうしたって言うんだい?もう少しでとても楽になれたのに…」

 もう一歩だったというのに…記憶の中の、一番辛い記憶にまで遡って責め立てたというのに、何が有利を奮起させたというのだろうか。エルンストは眉をしかめて少年の腕を掴もうとするが、勢いよくはね除けられてしまう。

「楽なんて嘘だ!俺は渋谷有利としてこの世に生を受けたんだぜ?俺はたった一人の俺なんだ!どんなに端から見たらちっぽけでも、平凡でどうしようもない俺だって、生きてて良かったって…ちゃんと生き抜いたって自信もって存在出来なきゃ意味がないんだよ!あの日だって…俺は、だからあの屋上から飛ばなかったんだっ!」


 絶望の誕生日翌日が、再生への道程に向かったあの一瞬…。
 有利の脳裏に浮かんだのは、あの顔と…声。


『ユーリ…』


 ああ…どんなに似ていたって、誰があの声で有利を呼べるものか!
 どんなに似ていたって、有利にこんな…生きる力を与えてくれるものか!


『どうか…どうか幸せになってくれユーリ!辛かったら、俺たちのことなど忘れて良い…夢だったのだと思って良い。だから、どうか幸せになってくれ……。俺は、何時だって…ユーリの幸せを祈っているから……っ!』


 あの別れの瞬間…祈るように捧げられたあの言葉は、深い愛情に満ちて有利を祝福してくれた。
 幸せになってくれと…祈ってくれたあの人を、渋谷有利は決して裏切りはしない。

「コンラッドは絶対、アンタみたいな事を言わない!どんな辛くたって、あいつは絶対に…言わないっ!だってあいつは…何時だって投げ出さずに生きてきた男だっ!」

 人間との混血として蔑まれ、絶望的な戦場に駆り出されても…自分の心を偽り、主君を裏切って見せなくてはならなくても、コンラート・ウェラーという男は常にその状況下における限界の戦いを見せてきたのだ。

 そんな彼だからこそ、死による人生の終末など勧めるわけがない。
 どれ程屈辱にまみれようが…悲しみに胸を潰されようが…幸せを求めて足掻けと言うはずだ。

「あいつが知ったときに恥ずかしいと思われるような人生は、絶対歩むもんかって決めたんだっ!俺は…渋谷有利は…どの瞬間に死んだって、《俺らしく生きたよって》って、コンラッドに言えるような人生を生きるって…決めたんだ!例え一生コンラッドに会えなくたって、俺は絶対にこの誓いだけは守るんだ!」


 霧が…晴れていく。
 あれほど視界を埋めていた濃いミルクのような霧が次第に薄れ…代わりに、風が吹き始めた。

「くそ…要素が反応し始めたのか!?」

 それを恐れるからこそ己のテリトリーに引き込み、幾重にも張り巡らせた結界の中に招き込んだというのに、渋谷有利という名の《魔王》は、精神的、物理的な檻から自ら脱却しようとしている。

 霧の中に存在する微粒子が互いにぶつかり合って熱を発生させ、その熱が対流を起こして風を生み出す。そして霧を構成する水分もまた、明確な意志を持って有利に従い始めた。

 《火》《風》《水》の3要素が主に従い、別要素である《土》の支配を拒絶し始めたのである。

「…!」

 霧が晴れようとするその一瞬…神速の突戟がエルンストに襲いかかった。
 この機会を…唯一瞬の好機を待ち続けた男が逃すはずがない。

 神技の域に達するコンラート・ウェラーの剣は鮮やかな流線を描いて宙を一閃すると、凍鬼の持つ瞬間凍結の力と同調して大気に巡らされていた結界の糸を断ち切った。

 そしてエルンストの姿を捉えると、その眼前を斜斬することで意識を浚い…続けざまに手刀を首元に叩きつけて利き腕に向かう腕神経叢を痺れさせるや、その腕を隠し持っていた紐でくくると身体を大地から引き離すように釣り上げてしまう。

『……自分と同じ容姿の男を宙吊りにするのは妙な気分だな……』

 とは思うが、土の要素を持つ相手である以上、戦いの原則としては大地からは引き離したい。

「やー…こりゃあ隊長、見事なお手並みで!」

 ぱんぱんと手を叩きながら隙のない動作で駆け寄ってきたヨザックが、釣り上げた紐を木の幹に固定するのを手伝う。

「ウェラー卿…まさかとは思うけど、その妙に慣れたその手つきが不安だなぁ…まさか、夜に渋谷を亀甲縛りになんかしてないだろうね?」
「猊下の趣味と一緒にしないで頂きたいですね。俺の捕縛技術はあくまで犯人確保と資源ゴミの梱包のためだけにあるんですよ?大体、ユーリを縛ったりしたら背中を抱いてもらえないではありませんか。肩甲骨あたりに爪を立てた後、泣きそうになりながら謝ってくれるのが楽しいのに…」
「真面目な顔してアンタなに言ってくれてんだよ!?」

 ぽかぽかと胸板を叩いてくる有利に愛おしそうに視線を送ると、コンラートは大きなため息をつきながら、愛しい人の…その細い肢体を抱き込んだ。

「とても立派でしたよユーリ…やはりあなたは強い方だ。でも…嫌な攻撃でしたね…辛かったでしょう?」

 霧の向こうから…おそらくは、敗北感を味合わせるためにわざと聞こえるように流していたのだろうエルンストの声に、コンラートの臓腑は焼け付かんばかりに煮えたぎっていた。

 有利の最も辛い記憶を引きずり出し、抵抗する気力を失わようとするなど…。

 有利が負けてしまうとは思わなかったものの、その心情を思えば我が身を引き裂かれんばかりの憤激が脳神経を焼灼した。

「ん…」

 確かに辛かった。
 辛すぎて、ちょっと暫くは思い出したくもないくらいだ。

 有利は辛そうに眉根を寄せていたが、やがて吊された男に目をやると声を掛けた。

「先生…俺、そういうわけで先生の恋人に身体をあげることは出来ないよ。そんで…結局約束してたお手伝いは出来なかったけど…できれば先生の力を俺に頂戴?」
「お願いをする体勢とも思われないんだが…」
「………そりゃそうなんだけど……」
「駄目ですよ。土の要素を従えているんですから、大地に触れた状態では何をされるか分かりません」

 目線でコンラートに訴えるが、案の定断られてしまう。
 有利はふと視界に端に、朧月の幼態である少女の姿を目にとめた。 

 彼女の身体はこの温室に入ってきたときと変わらず、ずっとそこにあったかのようにベットの上に横たえられている。
 彼女に近づこうとする動きも最初は止められたのだが、これは手と目線で制して近寄ると、最初と同じように手を両手で包み…けれど、今度は明確な意志を持って呼びかけた。

「おいで…こっちだよ?さっきはちゃんと見つけられなくて…ゴメンね……」
「何を…」

 エルンストが不審げに眉を寄せるその先で…少女は淡い光を放ちながら成長して…20歳くらいの妙齢の女性の姿まで成長すると…ふわ…と瞼を開いた。

「…わぁ……っ!」

 朧月の瞳は深く艶やかな漆黒で…純粋な黒曜石を思わせるその色は、コンラートの見るところでは…どこか有利のそれを彷彿とさせた。

 しかし、美しいその姿はゆらりゆらりと境界線が一定せず、蛍火のように明るくなったり…淡くなったりを繰り返している。

「坊や…ありがとう。私を起こしてくれたのは…あなたね?」
「う…うん……」

 こくこくと頷くと、にっこりと…まさに蕾が開くような清楚な華やぎが彼女の周囲を取り巻いた。芳しい薫りが胸一杯に広がり、柔らかな気持ちにほっこりと包み込まれる。

 これは…エルンストが常にいたいと思っても仕方がなかろうと思わせるほど、愛らしい仕草と雰囲気である。

「ずっと…ずっと迷子になっていたのよ…私。どんどん奥の方に押し込められて…とても寂しかった……でも、坊やから出てくる光がとても綺麗で暖かかったから…ここまで来れたのよ……」
「朧月さん…大丈夫?顔色…悪いよ?」
「ええ……もう……私、限界なのよ。私の意識が表に出てきたら…歪んだ強い意識が逆に押し込められて…本体を保つことが出来なくなってきたの……」
「え…?」

 肩を震わす有利に《坊やのせいではないのよ…元々…こういう運命だったの》と、切なげに呟くと…朧月はふわりとその身体を宙に舞わせた。

「エルンスト…最後にあなたに会えて良かったこと…」

 朧月はほわぁ…と宙に舞って吊された男の傍まで達すると…にっこりと実に愛らしく微笑み…


 バチコーンッ!
 バーンッ!!

 
 と、…力強い往復ビンタを喰らわせた。
 ぽかんと呆ける周囲を尻目に、朧月はころころと微笑んで…その姿を薄れさせていった。

「ああ…ずっとこうしてやりたかったのよ、エルンスト…愚かで、でも…誰よりも愛おしかったあなた…!あなたは何時だって…この身が傍に存(あ)ることばかり願ってらしたけど、ごめんなさいね…もう、私の時間は終わろうとしているわ」
「何を言うんだ朧月…まだ…まだだ!此処にいてくれ…っ!私の傍に!せめてその魂だけでも!!」
「本当に馬鹿ねエルンスト…、それで満足できなかったのはあなたでしょう?1年の内でひとときしかあなたと過ごせないことに耐えられなかったのも、変わっていく私を許容できなかったのも、あなたではないの…魂だけになって例え傍にいたって、あなたは決して満足なんか出来ないわ」

 図星を指されて口ごもるエルンストの額に、それでも朧月は愛おしげに…少しだけ悲しそうに…接吻を寄越した。

「さようならエルンスト。私、天に召されて…もしも生まれ変わっても、絶対あなただけは選ばないけれど…どうか、せいぜいこの世で幸せになってね」

 救いようのない捨てぜりふを残して朧月が昇天していく。
 しかし…掠れていくその姿が最期の一瞬に…堪えきれずに零した涙は…ちゃんとエルンストにも見えていた。

 彼女の唇が、何を象ったのかも…。

『愛しているわ…』

 過去形ではなく…現在進行形で語られたその言葉が、紛れもない彼女の本心なのだと…。


 桜の古木が…揺れる。
  

 癌化した細胞が正常に服するとき、そのテロメア(細胞に定められた寿命)に従って死の転帰をたどるように…穢れつつも保たれていた魂が浄化され、天に召された今…本体である古木もまた、自然の摂理に従おうとしていた。

 枝が次々に幹から落ち…樹肌が剥離し…まだなお咲いていた花弁ごと、大地に叩きつけられていく。
 崩壊はやがて幹にまで達し、カン…と、ひときわ大きな乾いた音を立てて…付け根だけを残して崩れ去った。

「…俺、どうしよう……」

 意図したことではないにしても、桜を崩壊に導いた有利は立ちすくみ…顔色を失った。

「ユーリのしたことは、《朧月を目覚めさせる》というあの男の願いには沿っていましたよ。それに…ユーリは少なくとも一人の精霊を救いました。あの男がそれに感謝するとは思いませんが…それでも、救いにはなりませんか?どのみち、あの桜の精霊は限界まで来ていました。ユーリが手を貸さなければ、最後の言葉を交わすこともなく…気がふれたままこの世を去らなくてはならなかったことでしょう」
「そう…かな?」
「そうだよ渋谷。ほら、あの先生もすっかり戦意喪失しちゃってる…そろそろ降ろしてやっても大丈夫じゃないかな?ほれキンニク、さっさとやる!」
「へいへーい」

 キンニクという渾名を襲名した男は、呼称通りの立派な筋肉を見せつけるように活動させると、エルンストを地上に戻してやった。

 虚脱したような男はそのまま無言で蹲ってしまい…とても声を掛けられるような様子ではない。

「困ったねぇ…」
「うん…先生、やっぱさ…可哀相だよな……」

 村田の言葉に有利が頷くが、村田は驚いたように肩を竦めた。

「ナニ言ってるんだい君…僕が心配なのは帰り道だよ。彼に送ってもらえない場合の帰り道をどうしようかって話さ」
「村田…………お前って奴は……」

『思ってた通りの奴だよね』

 とは言わず、黙していたものの…正直、困ってしまったのは確かだ。  

「俺が運転しましょうか?」

 偽造免許証を持つコンラートが言うが、村田は首を振った。

「いや…この館に来る道中は普通の気配じゃなかったからね。多分、どこかで空間が歪んでいるんだと思う。うーん…困ったね。予想はしていたけど、何かこう…渋谷の魅力で先生がメロメロになって、跪いて忠誠を誓う展開になると踏んでたのになぁ…。君の魅力もまだまだだね」

『がっかりだよ』

 とまで言われて、有利は複雑な心境であった。 

「結構です!あんな変態に好かれなくても、ユーリなら他の…もっと性分の良い土の要素と契約を交わせます!」
「そうかなぁ…いままで渋谷に懐いてきた連中の性質を考えると、どうも変態率が高いんだけどねぇ…」

『君を筆頭にね』

 とでも言いたげな瞳に、コンラートも負けじと

『あなたが言いますか』

 と目で語る。

「お前ら…先生があんなに傷ついてんのにさぁ…もっとこう…人として気を遣うとかないの?」
「残念ながら俺は半分魔族なので…」
「魂は魔族だからねぇ…」
「うう…人ってのは構成成分の話じゃなくてさぁ…」
「坊ちゃん…この方々にそういうのを求めるのはそろそろ諦められた方が…」

 気の毒そうにヨザックに肩を叩かれ、有利は嘆息した。

 辺りを見回せばすっかり霧は晴れ…温室の外に広がる景色もすっかり色鮮やかなものに変わっている。ただ…村田の言うとおり、霧のためだけではない要素でその景色の印象は一変していた。本当に、この館は先ほどまで異界の中にあったのだろう。

「霧が…晴れたね」

 村田は外の景色を見やると、妙に嬉しそうに頷いて…珍しくにこやかにコンラートに笑いかけた。

「ウェラー卿…僕は今日の出来事で本当に霧が晴れたような心地だよ。これからは君と渋谷の付き合いをしっかりとバックアップしていくつもりだから、是非心強く思ってくれないか?」
「…………どういう……ことでしょうか?」

 こころなしか頬を引きつらせてコンラートが問いかけると、村田はその漆黒の瞳を細めて愛らしく微笑むと、実にすがすがしい表情で言ったのだった。

「いやね?僕はずっと心配だったんだよ…。渋谷が君を大切に思うあまり、無茶ばかりする君にもしものことがあった時、渋谷が壊れてしまうんじゃないか…最悪の場合、死を選ぶんじゃないかとね。だが、それは杞憂だった!称うべきかな魔王陛下、渋谷有利!彼は僕の予想以上に強い男だった…。君に何があろうと、君に幻滅していない限り、君との約束を守って絶対生き抜いてみせると心に誓っているらしいからね。ああ…本当に安心したよ。これで君に何かあっても、渋谷は大丈夫だ……」

 うっとりと謳うように語る少年に、コンラートの背中には嫌な汗が滝のように流れていった。

『…………まさかとは思いますが、俺を亡き者にしようとまでされているわけではないですよね?猊下……』

 綺麗な思い出のままで有利の人生からフェイドアウトさせられそうになっているのではないか…その疑いの眼差しに気づいたかのように、村田は小首を傾げて上目遣いにコンラートを見やった。

「どうかしたのかい、ウェラー卿?」
「いいえ…猊下の気を煩わせるようなことは何も……」
「そう…」

 村田はもう一度にっこりと微笑むと、擦れ違いざま…コンラートに囁いた。

「ウェラー卿…僕に最後の手段を執らせるような行動は控えてくれよ?僕だって、無駄に渋谷を悲しませたいわけではないんだからね…」

 コンラートは凍り付いた。
 ヨザックは泣きそうな顔をして恐怖に震えている。
 有利は仲間の心冷やまる会話に気づかず、エルンストの心配をしている…。


 結局…有利の知らないところで力関係の再確認を行った一同は、反応のないエルンストを置いて、風の要素である白狼族を召還してそれぞれの自宅に帰還したのであった。






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